18話 『その日』 本屋
二人の初仕事。それは、本を買ってくることだった。『オーニア神話』という本を探してほしいとのことだ。他にミルクや紅茶葉なども一度に頼まれて少し困惑したが、とにかく地図と代金をもらって事務所を出た。まるで子供のお遣いのような仕事だが、フィストは自分が子供に扱われる歳であるのは理解しているし、仕事をもらえるだけでありがたくもあったのであまり気にしていない。
ユリスに大した変化はなかったが、初仕事というだけあってフィストの気持ちはやや高ぶっていた。まだよく分からないことは多いが、目の前のすべてのものが明るく映っていた。かつてのように行きかう人々すべてに疑念を抱くような心の闇は、フィストにはもう残っていない。
「…フィスト」
大通りから外れたところで、隣を歩くユリスがフィストに話しかけてきた。
「ん?」
短く返事をしただけだったのだが、ユリスは何かに慌てたように黙ってしまった。
「…なに?」
「…なんでもない」
ユリスは顔を真っ赤にして前を向いている。それは少し怒っているようにも見受けられた。
「いや、呼んでおいてなんでもないってことは…」
「なんでもないっ!」
ユリスがはっきりと拒絶を表明したのでフィストもそれ以上の言及はできなかった。
一見するとただの家だが、地図ではそこがその本屋で間違いはないようだ。経済発展時代の忘れもののような建物で、シックな色合いが本屋らしい落ち着いた雰囲気を感じさせる。そこの空気だけ周りの時代とは明らかに違い、まずは入ることを躊躇させた。
ドアの数メートル手前で一旦足が止まった。歩調が遅くなり、それでも少しずつ近づく。
神話をモデルにしたらしい模様つきガラスがはめ込まれた木製のドア。恐る恐る開くと、ドアについていた鐘がカラカラと鳴ってその空間を裂いた。
鐘の音に驚いたフィストは極力音をたてないように入り、ユリスもそれに続く。中は思いのほか広いようだ。本棚がドアと垂直に無数に並び、左右の壁まではなかなか遠い。明かりがほとんど消えかかっていて薄暗い上に何の音もせず、不気味だ。濃い埃の匂いが二人の鼻を刺した。
「…いらっしゃい」
奥からしわがれた声がした。背筋が固まりそちらを凝視すると、レジに座る老人の姿が本棚の間から確認できた。髪は決して薄くはないがその色は白く、顔のしわは深く、かつ数が多い。老眼鏡をかけ、大きく開いた眼で古ぼけた本を読んでいる。まるで音のしない空間に一人でそうやって座っていられると声をかけづらい。
「…じゃあ、探そうか」
「うん」
老人を避けるように右側の壁の方へ歩き出し、ユリスもそれに続く。本棚の側面にそこの蔵書の種類が記されているが、埃を深くかぶっていてよく読み取れない。そしてどの棚も同じような本ばかりが並んでいて見分けがつかないのだ。
フィストは一通りその様子を見ていたが、奥の壁に行きつくと大まかな場所の特定をあきらめ端から一つずつ背表紙をなぞり始めた。
上から下まで、一つの本棚の間を何度も往復する。一列見終わると下の列に移り、一面を見終わるとその反対側に映る。その繰り返しが延々続いた。
本棚の端にきて次の本棚に移ろうとしたフィストを壁が妨げた。店の中を一通り見終わっていしまったらしい。
「やっぱり…あの人に聞かないといけないね」
ユリスがそう言うのを聞くまでもなく、フィストは老人の方へ向き直った。老人は時が止まっているかのように変化がない。
ゆっくり近づいた。本を読むその姿勢から全く動かない。時折右手を起こしてページをめくるだけだ。
レジのすぐ手前で止まる。老人の反応は無い。声を出すのも恐ろしいが、とにかく本のことを聞こうとした。
「見ない顔だね」
ぎょろりとした目が初めてフィストを捉えた。老人の口からそんな一言が洩れる。そして本に視線を戻しながら「今時新顔とは珍しい。まあ、気にいるものなんか一つもないだろうがな」と言った。フィストは少しムッとしたが、渡されたメモを開いて本の名前を確認した。
「あの…オーニア神話という本を探しているんですけど…」
その一言を口にした途端老人の態度が変わった。片眉をぴくりと動かし、それを問うようにフィストを睨みつけた。
「オーニア神話…と言ったか?」
「は?…はい」
「そんなものを…そうか、アーミルの使いか」
老人は一人分かったような顔をして本を閉じると、レジから出てきてのろのろと歩きだした。
床に立つことでその身長の低さが露見している。それに加えて、背中が丸まった猫のように曲がっているせいで実際よりも更に小さく見えた。
頭を掻きながら本棚の間に隠れていく。そしてその姿が完全に見えなくなってからフィストは小さくため息をついた。彼の目の前にいるだけで、得も言われぬ緊張を二人は体感していた。
「なんだか…やりにくい人だね」
声をひそめてユリスに言った。ユリスも小さい声で返す。
「でも、これでその本も見つかりそう」
それ以降の会話は控え、老人の消えた辺りを見つめていた。時折本を動かす音が聞こえるだけの静かな時間が続く。
鐘の音がした。外の音がほんのわずかだけ入ってくる。二秒ほどで今度は乱暴に鐘の音が響く。
一体どんな人が入ってきたのか確認するように二人の視線は入り口に向けられた。
二人が見たもの。
それは、きらめく銃口。
両側に分かれると同時にレジのカウンターに無数の穴があいた。絶え間のない射撃音が耳を裂く。
カウンターが硝煙で見えなくなったところで一旦音が止まった。本棚の影から辺りの様子を窺うと、反対側でユリスが足を震わせて本棚に寄りかかっていた。音は抑えているが、荒くなった呼吸はフィストに直接かかっているのではと疑うほどよく伝わった。
一歩、踏み出す音がした。お互いに呼吸を止める。少し間をおき、また一歩。
更に一歩。音の間隔がだんだん短くなる。この近距離でフィストが銃を使ってもおそらく間に合わない。横の本棚に手を掛け、体重をかけて大丈夫か確かめる。本棚を軸に蹴り上げる体制に入った。
頭が見えた。その瞬間手に体重を思い切り移し、足をその頭めがけて振り上げた。体は完全に宙にあった。
足が止まる。あとわずかで当たるというところでそれの手にしっかりと掴まれていた。空中では振り払うこともできず、そのまま床に叩きつられる。すぐに起き上がろうとしたが、上げた顔の目の前に銃口が向けられており行動を許していない。おまけに足がそれに掴まれたままになっていて、動こうにもそれが出来ない。
薄い灰色のコートで全身を隠し、同じ色の中折れ帽を深く被りこんでいるので顔も分からない。一切の素肌を見せていないのでその中身があるのかも不明に等しい。息遣いも全く伝わってこず、足を掴む手からもひと肌の温度が伝わってこない。
少なくともまともな人間ではない、と直感がそう伝えた。
「お前は誰だ!」
大声で言ったが、それに対する反応は無い。一発で仕留めるために、その銃口でフィストを捉えているだけだ。
「フィスト…!」
向こう側からユリスの怯える声が聞こえたが、足の震えのせいで体重を本棚に任せなければ立っていることもできないらしい。コートにとって、今のユリスはまるで眼中にないようだ。
顔は見えないが、その眼はしっかりとフィストに標準を合わせていた。
引き金にかかる指に力が入った。
覚悟を決め、目をつぶる。
鐘の音、それに続く銃声のあと、銃弾がフィストの頬をかすめた。フィストがその小さな痛みで目を開くと、今さっきまで自分に銃口を向けていたコートがカウンターの向こうまで吹き飛んでいるのが見えた。大量の煙がカウンターもろともコートを覆い隠す。
足を掴まれていたためフィストもいくらか引っ張られていたが、その手も既に離れていた。
数秒、唖然とした。足にきちんと力が入らないが、ゆっくりと立ち上がる。
煙は晴れてきているが轟音の余波がまだ十分に感じられる。細かい振動が体中をいつまでも廻っていく。
何が起こったのか、二人には想像もつかない。
「よかった…間に合ったみたいですね」
「…少しばかりやりすぎちまったようだが」
聞き慣れた声、と聞き慣れない声。それにより破裂しそうだった恐怖がゆっくりと終息に向かっていくのがフィストにはよく分かった。