1話 ノイズ
広い草原があった。深い森の中の、まるでくり抜いたかのような、丈の短い草の生い茂る草原だった。
街中のような喧噪も空気もなく、静かな自然だけが優雅にその時間を過ごしている。
ただ、不可解な点があるとすれば…静か、すぎることだ。
喧騒はおろか、虫の声も鳥の囀りも、風のせせらぎさえも、この空間にはない。…そしてもう一つ。
この自然ともつかぬ自然の中に、たった一点、入道雲を落としたような冷たい建物がひっそりと佇んでいた。その環境の中では不自然とも、その静寂の中では自然ともいえる。とにかく、景観は著しく損なっていたが、静けさを一切かき消してはいなかった。
殆どの人は、この存在を知らない。
細長い通路には突き当りの窓からの光が入っている。床にはその光沢があり、蛍光灯を必要としない。
特徴のない幾つもの扉の中には、どこも大量の精密機械、もしくは怪しげな実験器具が溢れていた。また、それらとは到底釣り合わない、無表情の白い研究服たちがいた。
外と比べてあまりにも時間が時間が早く流れているようで、どの研究服も時間を惜しむようにせかせかと何かをしていた。
地上の階はまだ明るく人もそれなりにいたが、それとそこの地下は全てにおいて対照的だった。日の光が入らないのは当然だが、それを補うべき蛍光灯さえ、廊下の光沢を作り出すのにやっとというほど少なく暗い。
ただ一人の研究服も姿を見せず、その代わり、扉のない一筋の廊下には、立ち入りを拒絶する黄色いテープがびっしりと張り巡らされ、ある種のフェンスを作っていた。
そのテープを超えたさらに奥に、その廊下の唯一の扉があった。
そこも、他の扉とは違う…人を寄せ付けない、別の静けさがあった。
部屋の中には何もない、出入り口であろう扉が一つだけ…ガラス越しに見る狭い景色は、今までと何も変わってはいない。耳に入ってくるのは、足下から湧き上がる泡の音、それと機械の起動音。
無限に繰り返される「今日」がそこにあるだけだが、それが無限でなかったということを、今の彼女は分かっていた。
それというのもここ数日、彼女の思考に奇妙なノイズが入るようになっていた。それは優しげな、穏やかな女性の声のようで、何か誘っているような、今まで忘れていた感覚を思い起こさせるものだった。
そのノイズについて処理を行い続けた結果、彼女は今しがた、一つの結論に行き着いたところだ。
右手をゆっくりとガラスに押し付けた。彼女を三百六十度覆うそのガラスは相当な強度を持っているようで、長年このガラス管の中で生きてきた彼女がいくら衝撃を与えたところで、ヒビ一つ入らないだろう。
彼女が脱走することのないように、慎重に作られているのだろう。
だが、手を押し付けていると、彼女の頭にあのノイズが走った。
それは一瞬で、内容も記憶に残らなかったが、次の瞬間には、押し付けている手を中心にガラスに大きなヒビが入った。一瞬の間を置いて、もろくなったガラスは水圧に耐えられなくなり、水がガラスを破壊し外に流れ出た。
流れる水に押し出され、彼女の体もガラス片の上に横になっていた。その体は実際以上に重く感じられていた。
彼女はしばらく横になったまま動かなかったが、やがて震える手を下に付け、ゆっくりと立ち上がった。足が地に着くのは十年ぶりだった。
着ているシャツは勿論、頭から足先まで水が滴るほど濡れているが、温度はそれなりにあるのであまり気になっていない。
しかし、足がまだ震えている。長い間立つことすらなかったのだからそれは仕方のないことだった。
ゆっくりと部屋を見回す。
明かりがなく、自身のいた機械から発する僅かな光が部屋を七色に色付けしている。
部屋自体はあまり大きくなく、出口の扉までは二、三歩でたどり着ける。
割れたガラス管からは、まだ少しずつ水が流れ出ている。溜まると濃い緑に見える水も、広がると色が全く分からない。
じっと見つめる。
滴る水がなくなるほどまで見ていた時、足の震えが止まっていた。前に出しても、体重をかけてみても、足はもうたじろがなかった。
曖昧な意思が、彼女をつき動かす。
読んでくださった方、ありがとうございます。
中途半端に終わってすみません。あまり長くなると読みにくいと思ったので…。
更新は急がず、ゆっくり書こうと思っています。どうか飽きずに読んでやってください。