11話 羽根が舞う
今回は作者視点から残酷な描写が多いと思っています。
本当なら警告メッセージを出すべきなのでしょうが、とりあえずここで言っておきます。
走っているフィストの目に、一つだけ開きっぱなしの扉が映った。おそらくは車掌の調べている部屋なのだろうが、そこは同時に頭の「声」の指し示す場所でもあった。
そこにユリスがいることは分かっているのだが、それと同時に『あそこ』で感じたどす黒い瘴気がより強くそこから流れ出ていた。
全身でそれを感じ取っているフィストは、銃を持つ手に力を込める。彼はまだそれを使ったことは無い。
恩人の命を奪ったそんな物に、恩人の最後の形見に頼る。彼にしてみればそれは耐えがたいものでもあるのだが、もう迷いは微塵もなかった。
一気に扉との間合いを詰めた。
「車掌さん?」
扉を開けた先にいたのは、一緒に個室を回ったあの車掌だった。まったく動きのない笑顔でこちらを見ている。ユリスもルフィーネも、安心したように溜息をついた。
「ここにいらしたのですか。危ないですから早く食堂車に戻りましょう」
「…ルフィーネ、行こう?」
ルフィーネも笑って返したが、車掌が先ほどから辺りを見回しているのに気づいた。
何かを探している、というよりは何もないのを確認しているといった感じだ。何か聞こうとしたところ、逆に質問が飛んできた。
「ここには二人しかいないのですか?」
「一緒にいた人は…もう食堂車にいます」
ルフィーネが答えた。車掌はそれを聞くと、張り付いていた笑顔より少し深い笑みを浮かべ、唐突に「そうそう、お二人はフクロウの狩りをご存じですか?」と言った。
前触れもなく現れたフクロウの話。追いついていない二人をよそに車掌は続ける。
「フクロウは夜、獲物に気づかれないようにほぼ無音で飛び交うのです。勿論、攻撃の際も同様です。獲物はしばらくの間狩られたことにすら気付かないといいます」
二人にはこの話の真意が掴めなかった。だが、ルフィーネが車掌の右手が激しく震えていることに気づいた。
そして、服の袖に裂け目が入り、そこから見える腕…というより、腕の毛が緑色の羽根に変わり始めているのを確認し、言葉が途絶えた。
毛はすぐに変化をすすめていき、腕全体が濃い緑色になると、そこから長く鋭い爪が姿を現した。
ルフィーネはその光景に見覚えがあった。
車掌が一瞬、不気味に笑った。
「あ…危ない!」
ルフィーネがユリスををベッドに押し倒し、その上に庇うように被さる。倒されたユリスの視界はルフィーネの体に遮られ、一瞬真っ暗になった。
ユリスの耳に裂くような音が入った。ルフィーネの向こうに、腕が鳥のように変貌した車掌の凍りつくような笑みが見えた。
その巨大な爪には、明らかに紅い着色がされていた。
「…!」
ユリスの目に、それははっきりと映った。
自分を庇うルフィーネの背中から噴き出す紅蓮の飛沫が。
自身で支えていたのだろうルフィーネの体重が、ぷつんと切れたようにユリスにかかってきた。
「う……そ……ルフィーネ…!」
ユリスはすぐに起き上がり、その腕でしっかりとルフィーネを支えた。背中に走る裂傷にはその時にようやく気付いた。
ルフィーネは自身の意志による動きを持たず、ただ唖然とした顔でユリスに体重を任せていた。
背中の出血は止まらない。支えているユリスの両手はたちまち赤黒く染まっていった。車掌、いや怪物は、その様子を光悦の表情で見ている。
そこから音が伝わってくる。怪物の声だ。
「さあ、怖がらずに…あなたもすぐに、その子のもとへ送って差し上げますよ…」
次の爪が来る。何もできず、ユリスはただルフィーネを強く抱きしめた。
「…?」
一際大きな銃声だった。
ユリスには誰が撃ったか、そもそも銃声なのかさえ確認出来ないほど心の余裕がなかったが、目の前にいる怪物が胸のあたりを押さえて苦しんでいるのは分かった。
「ぐうっ…」
壁に手をつき、必死に体を支えている。
さらに二発、銃声がした。同時に怪物の左胸に二つの穴が空き、そのまま床に倒れ込んだ。 その姿勢からもう動かない。
「ユリス、大丈夫!?」
部屋に飛び込んできたのはフィストだ。左手にまだ煙を吐く銃を持っている。ユリスの無事を確認すると安堵の息をもらしていた。
「よかった、無事みたいだね…その子は?」
ユリスがルフィーネに視線を戻した。
唖然としていた顔は血色が薄れ、目が閉じかけている。気がつくと、ユリスの足元は完全に血に浸かっていた。支えている手からも、ルフィーネの体がどんどん冷たくなっていくのが分かる。
「フィスト…ねえフィスト!ルフィーネは助かるよね?まだ大丈夫だよね?」
その子の現状をようやく理解したフィストはすぐにルフィーネの状態を確認した。
フィストは素人だが、その背中の傷が致命傷であるのは誰の目にも明らかだった。俯き、ゆっくりと首を横に振った。
「そんな…ルフィーネ、ダメ…目を閉じちゃダメだよ!」
ユリスが強く揺すった。だがルフィーネの瞼は下がることはあっても、決して上がろうとしない。
揺するのをやめると、細々とした声が彼女の口から流れてきた。
「…これでよかったの…私も、そこの化け物とおなじ…」
「…違うよ、ルフィーネとそいつは違う!」
「同じ、なんだ…そいつも私も、実験台だったの…」
「実験台…?」
「そう…ううん、ユリスは気にしないで…」
声がますます小さく、聞き取りづらくなってきている。
その時が近いのは、誰から見てもおのずと分かる。
「…ユリス…あのね…」
「な、何…?」
「また会おうね、ユリス…」
死に顔は、明るい笑顔だった。
ユリスの涙は滝のように流れ落ち、彼女の頬を濡らした。幾つもの雫がルフィーネを飾り、その死を嘆いた。
「ユリス、この子は一体…」
少女の死体を抱いたまま動かないユリスに、耐えかねたフィストが聞いた。
「ひどいよ…ルフィーネは、将来、保母さんになりたいって…子どもとたくさん遊んであげたいって、あんなに嬉しそうに話してた……なのに…なのに…」
「……」
「うっ…うわあぁぁぁぁぁぁ!!」
ユリスはもう一度、ルフィーネを強く抱きしめた。そして、大声で泣き続けた。
フィストは、泣くユリスを初めて見た。会ってからまだ一度も感情らしい感情を見せていなかったので、泣いているユリスを見るのはより一層心が痛んだ。
何とか励ましたくて仕方がなかったが、彼女にかけるべき言葉が見つからない。フィストはただ立っていることしかできなかった。
窓ガラスが割れた。鋼のような羽根が横殴りの雨のように車内を襲う。あまりに一瞬で、悲鳴が響いたのはいくらかの人間が串刺しになってからだった。溜まっていた恐怖心はこの時ピークを迎えた。
「皆さん、落ち着いて!前の車両へ向かってください!まずはここを出て…!」
集まっていた車掌が指示を出しかけたが、その言葉が切れた。彼の首は緑の腕に切り落とされていた。
血の滴る爪が妖しく笑う。せいぜい三、四体だが、その足元には胴体と分離された首や串刺しの人間が幾つも転がっている。
それから逃げるように、残ったわずかな乗客が我先にと前方車両へ押しかけたが、その足も止まった。
前の車両からも爪の輝きが確認できたからだ。
次々と増殖するそれらに、人々の希望は消えた。
あとはもう、一瞬のことだった。
シックな模様を描く赤いカーペットは、踏むとにじみ出るほど血を吸い上げていた。今はもう、死体の山が血の海に浸っているだけだ。
その上に足が乗った。腕に緑の羽根を生やした男たち。彼らの腕の爪が既に真っ赤に染まっているのは言うまでもない。
男と言っても、顔以外は緑色の羽根が全身を覆っていて、人と言うよりは巨大な鳥だ。そこにいる男たち、その顔はどれもまるで焼き増ししたように同一で違いが見当たらない。
その眼光は、やはり獲物を狙う鳥のような鋭さに満ちていた。
「おい、これで全員か?」
一人が死体を足で転がしながら言った。それの体内に残っていた血液が噴き出す。その左胸には、しっかりと羽根が突き刺さっていた。それを見る男たちの顔は、常に無慈悲な笑顔だ。
他の男が鍵爪のような手で死体を一つ持ちあげた。腕に力を入れると、何かの潰れるような嫌な音がして、液体にまみれた肉片が飛散した。一同がそれを低く下品に笑い飛ばす。
「まあ、たぶん全員じゃないだろう。まだ寝台車は確認してないしな」
「…そういえば、俺らを呼んだやつが見当たらないな…寝台車か?」
そう言い、分かりきったようにあたりを見回した。そして前方車両への扉を見つけ「お、あったあった」とわざとらしくはしゃいで見せた。そして再び一同が向かいあって低く笑う。
「やれやれ…今朝からどうも様子がおかしいと思ったら、こんな事企んでたのか」
低い声だ。全員が笑うのをやめて扉へ向き直ると、一人の男がそこに立っていた。
閉めた扉に体をよりかけ、足元には小さな鞄が一つ置かれている。男がその鞄の中に手を入れ、そして再び出すと、二十センチはあるだろう短剣のようなナイフが握られていた。
「何だテメェは?やっぱり生き残りがいたか」
凄みを利かせて一人が近寄る。右手の爪をちらつかせているが、男はやや下を向いたまま微動だにしない。
「おいみんな、こいつは俺の獲物だ、手ぇ出すなよ!」
冷たい視線が男に向けられる。それだけで人を殺せそうなほど鬼気迫るものがある。
「悪いな、今俺の爪は血を欲してるんだ。悪く思うなよ…死ね!」
「ふん」
「…!?」
振りかぶる動作は一切なかった。しかし、その爪はナイフにしっかりと受け止められていた。金属のぶつかるような高音と、爆発と思わしき火花が散った。男が呟く。
「こっちこそ悪い。お前らみたいなクズに殺されるほど俺は愚かじゃないんでな」
そう言い切ると、目の前の怪物を軽く押した。怪物はそれに反抗せず、そのあたりの死体のように床に倒れた。
その腹には、バツ印を描いたような裂傷ができていた。他の怪物たちはそれを見て少しひるんだようだ。
「こんなに殺しちまって…仕方ないのかもしれないが、到底許されないだろうな、これは」
「な…何を偉そうに!」
「偉そうも何も…実際偉いぞ、俺は」
「ハァ?何者だテメェ!」
「…そうだな、俺は…」
そこで男の言葉が一度止まった。だるそうに溜息をつき、そして言った。
「通りすがりの、ただの死神さ」
男の姿が消えた。再び現れた時には、怪物の一人の前でナイフを振り下ろしていた。
その怪物から赤い飛沫が噴出する。そして誰も何も言う暇のないまま、また男の姿が消えた。
それからは、それほど時間はかからなかった。
赤いカーペットは、もうどれだけ飲んだのか分からない。ただそこには、大量の人間の死体、そして巨大な鳥の怪物の死骸が転がっていた。
男は小さな溜息をついた。
「…むう、まさかこんなことに巻き込まれるとは…こりゃあ到着が遅れちまうなー。俺が最後の生き残りみたいだし」
独り言を呟いたあと、男は頭を掻きながら前方の接続部分に近寄る。
「こんな惨状、街に持っていけないよなぁ…」
ナイフを振りかざす。
接続部に、その刀身が滑り込んだ。
「う……うえ…ふえ…」
もう大声で泣き叫ぶことはなかったが、泣き止んだわけではない。抑えきれない悲しみの声がいつまでも部屋を暗く染めている。その横でただ成り行きを見守っているだけのフィストに、出来ることは無い。
あえてあると言うならば、そこにいて彼女の傍にいてやることだけだ。
ユリスの涙はとどまるところを知らず、いつまでも流れ落ちていく。まるで、彼女が今まで蓄えてきた悲しみの感情をここで吐き出しているようだ。
ユリスはそれを何かに当てつけることもせず、泣くことでしか感情表現を出来ていない。仕方のないことなのだが、フィストにとっては何よりも辛い。初めはユリスを直視していたフィストも、やりきれない気持ちを紛らわそうと窓に歩み寄った。
外の景色は相変わらず高速で後方に流れていく。地表は闇色に染まりシルエットでしか確認できないが、地面に触れている空に誰かがオレンジ色を流し込んでいる。オレンジは滲むようにそこから薄く広がり、闇色と混ざり合って暁のグラデーションを創り出していた。
「夜明けだ…もうすぐ到着かな」
それはユリスに言ったわけではなく、ただの独り言だった。今なお流し込んでいるように、オレンジ色はその面積を広げている。
その時、フィストは違和感を覚えた。
すぐに原因は分かった。外の景色がスピードを落としているのだ。まだ止まりそうではないが、駅はおろか街にも入りそうにない。
何が起こっているのかフィストには分からなかったが、今のこの急行列車に乗ったまま駅で降りるわけにはいかない。なので、これはむしろ好都合である。窓を開けて外を見た。
やはりスピードは落ちているのだが、更にもうひとつ…後方の車両の様子がおかしい。こちらよりさらに早く減速している。
「車両が…離れていく…」
そう言ってみたが、その車両が戻ってくることは無く、みるみる減速していって見えなくなった。
何故そうなったのかは確認のしようがない。だがフィストは、それによる危機を感じることは無かった。もはや危機は去っているのだ。
今のフィストの不安を仰ぐもの…それは、未だに泣き続けるユリス。
無論これから何をするべきかも不安ではあったが、フィストにとってそれはユリスのそれと比べてもひどく小さいものだった。
男は、かつてのつなぎ目から前方を見ていた。先行車両はとっくに姿が見えなくなっている。つい、溜息が洩れた。
「さて…ケーサツがくるまでここで待機かぁ。朝には着くって言っちゃったのになぁ」
車両を出て、線路から離れて車両に向き直る。外見には全く問題なさそうだが、中は問題どころの騒ぎではない。
「…それまでこの惨劇と一緒に居ろと」
佇む車両を見て、思わず苦渋の意が言葉になる。頭を思いきり掻き、それから今の状況を見回してみた。
あまりにも静かだ。他に生物がいないだけで、ここまで静かになるものなのか。
今あるのは、レールと車両だけだ。そこに立つたった一人の人間…感慨深いの一言だけでは表現しきれない奇妙な感覚があった。