10話 望む未来
更なる犠牲者が出たことは誰にも伝えないことにした。これ以上の不安を増やさない方がいいという気遣いからだった。
食堂車の入り口まで来た二人は大きな溜息をついた。
「十時になりましたね…」
車掌が腕の青い時計盤を見て呟く。
短針が十を指していた。つまり、到着まではまだ七時間以上が確実にかかるということだ。
秒針がそしらぬ様子で時を刻んでいる。
「…あれ?」
フィストが後ろを見、そして辺りを見回してそわそわし始める。
「ユリスがいない」
フィストはてっきり自分たちの後ろをついてきているものだと思っていたのだが、目立つブロンドの髪はフィストの周りに見当たらない。自分のことで精いっぱいでユリスにまで気が回らなかったのだと、先刻の油断を今更ながらに後悔していた。
「まさか、先程の車両ではぐれたのですか?」
一緒にいた車掌が声をかけてきた。年月を重ねた顔ではないが、この状況においても冷静な姿勢を保っている。
「大変だ…早く探しに行かないと…」
焦りで爪を噛んだフィストの肩に車掌が手を置いた。
「それなら私もご一緒します。お客様一人で危険な場所に行かせるわけにはいきませんからね」
勇気づけるような笑みをフィストに見せた。フィストもそれにぎこちない笑顔で返す。
それから、今帰ってきた通路に再び向き合った。
「…?」
振り返る時に、袖から僅かに見える車掌の手首に赤い筋が走っているのが見えたが、駆け出す車掌にそれを聞く暇は無かった。
ユリスが見つけたとき、彼女はベッドに座り込んでいた。小さな部屋の中で、更に体を小さく縮ませている。そしてそのまま何をするでもなく、ただ遠くを見ていた。まるで何時とも分からない死の瞬間を待っているように。
ただ、ユリスが部屋に入ると少し明るくなった顔でユリスを迎えた。それを確認した時、ユリスは心に感じていた焦りが消えていくのが分かった。
「…ルフィーネ」
「あなたは…死ぬ前に会えてよかった…」
しかし、ルフィーネの様子は相変わらずだった。やはりその幼い顔は、いつでも泣き出してしまいそうなほど不安定だ。
そんなルフィーネにかけられるような言葉はユリスの知識の中には存在しない。だが、このままで良い筈がないということは分かっていた。
「大丈夫だって信じて…きっと生きていられるから…」
「ううん、もういいの。みんなに会えただけでも良かった。思い残すことは…ないよ」
そういった時の表情に、ユリスは一瞬哀の感情を見た。
「…本当に?あなたには、きっと何かある…と、思うよ」
そう言ったところで、ユリスは少し考えた。
思えば、自分の場合だったら思い残すことなどあるのだろうか。
今までの殆どの時間はガラス管の中だった。その中に心残りらしいものは何もない。死ぬつもりは無いのだが、仮に死んでも後悔は無いのではないか。
それでも、普通の生活をしてきたであろう彼女にはきっと「生きる理由」があるはずなのだ。
彼女の生きる理由とは一体何なのか。知識をあさって適当なものを探した。
「えっと…将来の夢は何?」
「…将来の、夢…」
ルフィーネの表情が変わった。僅かだが、瞳に生への願望の輝きが宿る。それはまさしく、本来人間の持つべき光だった。
「…恥ずかしいよ…」
ルフィーネの視線がユリスから外れる。それでもユリスは自分の視線をルフィーネから外さない。
「恥ずかしくなんてないよ。大丈夫だから、ね?」
ルフィーネの頭が若干俯く。声がか細くなったが、そこから言葉が紡がれ始めた。
「……私…私ね……幼稚園の保母さんになりたいの」
「保母さん?」
それは、まだ幼い少女の無邪気な夢だった。ルフィーネは俯いたまま続ける。
「小さい子が好きだから…いっぱい一緒に遊びたいって思って…」
「…そう…いい夢だね…」
それから二人は喋るのをやめた。小さな部屋には線路の上を走る揺れと振動音だけが残る。
ずいぶんと間をおき、ユリスが口を開いた。ユリス自身も不思議に思うほど、その口は生き生きと言葉を発した。
「その夢、叶えよう。こんなところで死んじゃ駄目だから。あなたは生きるべきなんだよ」
ルフィーネは下を向いて動かない。また泣き出している可能性もある。
ユリスはそれから何も言わず、ルフィーネの返事を待った。
「でも私、もうすぐ…もうすぐ…」
「まずは自分から、生きようって思おう。その気持ちがあれば、未来はきっとかえられるから。あなたにはその力があるんだから」
ユリスはいつになく饒舌になっていた。ルフィーネを救おうと必死なのだと、その理由は本人が一番理解している。
「……」
ルフィーネの言葉が消える。ユリスはそれをじっと見守った。
「…ねえ、あなたのこと…もっと聞かせて」
それが、ユリスの次の一言だった。
「私の、事?」
「うん。ゆっくり話そうよ」
それからの時間は、とても長いものになった。
彼女の夢に始まり、好きなもの、嫌いなもの、今までの思い出…彼女の人生全てを彼女自身に思い出させようとするかの如く、ユリスはずっと話を聞いていた。
邪魔するものは、何もなかった。
「…あなたの人生って、すごく充実してるね。私、うらやましいよ…」
「そ、そうかな」
一通りの話が終わると、ユリスがそう言った。
「私やっぱり、あなたには生きてほしい」
「……」
ルフィーネはまた黙り込んだ。だが、その瞳にはもう死の色は無い。
代わりに輝くのは、その強い心。
「ありがとう」
「えっ……うん」
ルフィーネのお礼の言葉にユリスは若干たじろぎ、先程の饒舌が無くなっていることに気づいた。
「エヘヘ…本当によかった、あなたに会えて…」
しどろもどろになったユリスに、ルフィーネは明るい笑顔を見せた。今まで一度も見せなかった、可愛らしい顔だった。瞳からは雫が零れていた。
それを聞き、ユリスも嬉しそうににっこり笑った。
「…一緒に行こうか」
「…うん」
小さく頷き、ルフィーネが立ち上がる。
「…そうだ、まだあなたの名前を聞いてなかった」
名前を聞かれるのは二回目だったが、一回目のように嫌悪感を感じることは無かった。
彼女に教えられる名前がある。たったそれだけのことに、ユリスは深く感謝していた。
「ユリス」
優しい声だ。ユリスが生まれて初めて感じた感情が、自然と声をそうさせた。
「…ホントにありがとう、ユリス」
「うん」
軽いノックの音が二回。
「…?」
二人は顔を見合わせた。
フィストは車掌と別れ、手分けしてユリスを探していた。
丹念に調べて回っているが、今のところ入る部屋はどれも空き部屋ばかりだった。今しがた入った部屋も、ベッドのシーツがきれいに整えてあったので空室と思われる。
できればユリスのそれは見たくない。そう思っていると、見つからなかった時も焦りばかりではなかった。
部屋を一通り見まわす。ユリスの姿は無い。すぐに部屋を出ようとしたが、振り返った途端頭に雑音が混じった。雑音はやがてまとまり、封筒を持ち出させたものと同一の『あの声』になって落ち着いた。
一瞬でフィストの頭には焦りが満ち溢れた。行くべき場所もはっきりと掲示された。
すぐに飛び出すと、一気に加速して全力で走り出す。
途中の扉はもう気にならない。まっすぐ、ただそこを目指す。
走りながら、懐に手を入れた。
汚れのない、真っ黒な銃口。
美しかった青い車体も、今はもう見る影もない。ただそこには、醜い赤に染まった運命が積み込まれているだけだ。あるものは散り、あるものは未来を捻じ曲げられ、またあるものは散っていったそれに涙する。そこに命の輝きは、むしろ強く存在している。
運命は変えられる。だがこの車両に、自らの運命を変える強い覚悟を持つ者は存在しなかった。
たった一人を除いて。