9話 夜想曲
信じることはできなかった。
目の前にいた人は、瞬時にこの世から消えた。
目の前から離れたのはほんの十秒足らずであったにもかかわらず。
断末魔のような殺しの音は何一つ聞こえなかったにもかかわらず。
だが確かに、その人はその十秒足らずのうちに命を落としたのだ。
奪われたのだ。
あんなに楽しそうにしていた人々も、今はもう誰一人としてにこりとも笑わない。カウンターに突っ伏している体を遠巻きに見つめて家族同士や夫婦同士でくっつきあって震えている。その惨状が自分たちのすぐ後ろまで迫っていると思い知らされている。
流石にユリスはフィストにくっついてくることはしなかったが、変わり果てた男を睨みつけて少し震えているようだ。
ユリスは勿論、フィストにとってもこんな人の死に様は初めてであることは言うまでもない。
「噂は本当だったんだ!」
乗客の一人が叫んだ。噂とは車掌の話していた物のことだろう。
それに呼応するように、集まっている乗客たちが絶望と悲しみの声を、そして集まっている車掌たちへあらゆる罵倒を口にし始めた。不安に駆られた人間としては当然とも言える行為だ。
それを車掌が何とか治めようと両手をあげてなだめている。
「皆さん、落ち着いてください!平常心を失うとそれこそ犯人の思うつぼです!」
「一人になると危険ですから、この車両から出ないでください!」
怒り、悲しみ、そして車掌たちの必死な叫びが狭い車両の中を交錯する。乗客の混乱がなかなかおさまらず、フィストとユリスは隅でそれを見つめていた。
「ユリス…大丈夫?」
「……」
「怖いの?…そうだよね、誰だって怖いよね、こんなの…」
「…これが…怖い。すごく不快で、嫌な感じ…」
自分でも分かっているのか、声が泣きそうなほど震えて出てきている。それを聞いていると、フィストにも得体の知れない不快感が覆いかぶさってくるように感じられた。
そこへ、一人の車掌が人混みをかき分けて出てきた。
フィストと話をしたあの若い車掌だ。そのまま寝台車の方へ向かっている。
焦っているような顔をしていたので、フィストは彼を呼びとめた。
「どこへ行くんですか?」
「個室に残っているお客様を呼びに行こうと思いまして…」
「……そういえば」
ユリスが食堂車の中を見回す。
人が多くて見通しはあまり利かないのだが、そこにいる人間はあらかた確認することが出来る。
その中に、ルフィーネの姿がない。
「…ルフィーネ…」
ルフィーネが個室にいるのはすぐに予想が立った。そこから導き出されるユリスの行動は一つ。
「…私も行きたい」
いきなり言いだしたものだから、車掌もフィストも驚いてユリスを見た。
「しかし…いや、まあいいでしょう。ただ、ちょっと数が多いので一緒に回っていただけますか?」
「…うん」
「あなたも」
「え?あ…分かりました。急ぎましょう、手遅れにならないうちに」
フィストもやや恐怖は残っているようだったが、力強く答えた。
夜が更け、月が砂漠を妖しく照らし出していた。
細い廊下は人ひとりがやっと通れるほど狭い。そこに個室の扉が等間隔で並んでいる。
外側の壁はガラスの面積を広く取っており、今でこそ夜なので空しか確認できないが、展望としては素晴らしい眺めを約束してくれる。
もっとも、今はそんな状況ではないが。
歩く度に足元の床が無駄に大きな共鳴を生み出す。三人の足音は、列車のリズムに合わせて不気味なまでのディソナンスを創り出していた。
明かりがちらつく。
幾つとも分からない扉を三人は一つ一つ確かめて回っていた。
あの混乱の中では、誰がいて誰がいないのかは確認が取れない。少々危険が伴うが、全ての部屋を見ておけばより確実に人の有無を確認できると思ってのことだった。
実際に、二車両を調べ終わった時点で三、四人を発見して避難させることに成功していた。
それでも終わりはまだまだ見えてこない。この列車はあきれるほどに長く続いていた。
フィストが慎重に扉を開け、僅かな隙間から中の様子を窺ってみた。そしてユリスがそれを心配そうに後ろから見ている。
簡素なテーブルが一つ、折りたたみ式の小さなベッドが一つ。ベッドが付属する壁にある窓からは漆黒の闇が見えた。それらの設備でいっぱいになるほど部屋は狭い。
扉の隙間を少しずつ広げて体を中に滑り込ませる。そのフィストの姿を一瞬でも見失わないようにユリスもすぐに追って入ってくる。それを確認すると、フィストはすぐに部屋の様子を確認した。
あまり人が使っていたような形跡はない。荷物も置いていないし、未使用の部屋とも取れた。ただ、ベッドのシーツだけが人の潜り込んだ後のような乱れ方をしていた。
それも、無数の小さな何かを隠しているように見える。
気になったフィストは、シーツを開いた。
「……!」
「…なんだ、これ…!?」
鳥の物のような羽根が敷き詰めるように散乱していた。それも、そのあたりにいるような平凡な鳥の物ではなく、もっと巨大な、例えば人間が鳥のような翼をもっていた場合のその羽根ほどに大きく、気味が悪い。
鳥がシーツをかぶり、思い切り体を掻き回す情景がフィストの頭に映った。
「うわああぁぁぁぁぁぁ!!」
車掌の声だった。
弾むように二人は部屋を飛び出した。そして、開いた扉の前で腰を抜かしている車掌の姿を確認した。
青ざめた顔をし、涙をにじませて『それ』を見つめている。
最悪の結果が先に見えてしまったように思え、『それ』がそうであるのか早急に確認したくなったフィストは、まず駆け寄って車掌を立たせた。頭を抱えて震える車掌の体重を壁に任せて、部屋の中を見た。
テーブルやベッドは勿論、部屋を形成する壁の下部までもが深紅のシーツで覆われている。
勢いよく、しかも一気に飛散したと思われる。
そしてその真っ赤なベッドのシーツの上、最も赤の濃くなっている場所に、この部屋の客だったのだろう背の低い老夫婦がいた。
並んで横になり、恐怖にひきつった顔をして唖然とするフィストを睨み返している。その腹部に、抉り取ったような大きな切り傷を抱いて。そしてその裂傷の中に、未だにとまらない赤の源泉をフィストに見せつけていた。
部屋に足を踏み入れると、赤いシーツを波紋が伝った。靴が若干くっつくような感触とともに現状の恐ろしさが共鳴するように体に伝わる。
グロテスクな部屋にたまらなくなりフィストはすぐにそこを飛び出した。それでも、鼻を覆いたくなるような強烈な死臭がフィストにまとわりついていた。
この状況を最も深刻に受け入れていたのはユリスだった。死者の数が増えれば増えるほどルフィーネの生存は危ういものになってきている。
「…車掌さん、一度食堂車に戻りましょう。まだ近くに犯人がいるかもしれません」
フィストが向きなおった時には車掌はだいぶ落ち着きを取り戻していたようで、フィストの提案に静かに頷いた。
「……」
フィストと車掌が来た道を急ぎ足で戻り始めたが、ユリスはその場に立ち尽くしていた。フィスト達の背中と通路のさらに奥を交互に確認している。
「ユリス?戻るよ」
「あ……うん…」
頷いたユリスはフィストの背中を追うが、その足はすぐに止まる。それから申し訳なさそうにフィストの背中を見つめ、逆方向に走り出した。
焦りのせいか、フィストも車掌もそれに気づくことは無かった。
列車が泣くように大きく軋んだ。