8話 青い心
外を流れる茶色い景色がゆっくりと飲み込まれていく頃、僅かな乗客たちは殆どが食堂車に集まっていた。有り余った空間のせいで、ただでさえ暗く寂しかった車内はますます闇色が滑り込んでくる。
窓から射していた僅かな光も、今は地平線の彼方にあった。
他の車両の静寂が嘘のように、食堂車は明るく賑わっていた。乗っている人数がもともと少ないので、通常よりも明るいことはないが。
それでも、食堂車には未だに闇が差し迫ってくる気配はない。
人々はその不気味さを忘れようとするかのように、何ともなく騒いでいるようだった。
テーブルは沢山あるのだが、たった二人でテーブルを占拠するのは気がひけたらしい。
カウンターがあったのでフィストとユリスはそこに並んで席についていた。
二人分の切符で所持金が底をついたわけでもないのだが、それでも二人ともあまり注文はしていない。頼んだのはこの食堂車でもかなり安いうちに入る二品だ。
今しがた目の前に置かれた料理を、二人はただ黙々と食べている。
何も話さないでいるのはどう話し出していいか分からないからなのだが、ユリスはもともと積極的に話をしようとしないだけだし、ルフィーネの言っていた事をフィストに話すつもりも毛頭ない。
フィストは、ユリスには実験の意味は知らされていないだろうと考えているので聞いても仕方がないと思っているようだ。
フィストの横にスーツの男が一人座ったが、二人とも気に留めない。
「兄妹で旅行ですか?」
フィストが自分の皿を空けると、カウンターの向こう側でコップを拭いていた車掌が話しかけてきた。
「いや、兄妹じゃないんですけど…まあ旅行みたいなものですね」
「羨ましい限りです。外の景色はつまらないかもしれませんが、満喫していってくださいね」
まだ若い男のようだ。コップを拭く姿は様になっているが、重ねた年月が醸し出す独特の雰囲気はまだ持ち合わせていない。
どうやら、二人が無言でいる様子を喧嘩か何かと勘違いしているようだ。
「きれいな列車ですね」
「そうでしょう。変な噂こそたっていますが、このブルーイーグルは私たちの誇りですよ」
「変な噂ですか?」
「あ…お客さんは知らなかったんですね」
車掌の顔に一瞬暗雲がかすめたのも合わせて、それはフィストの興味をそそった。
ユリスはまるで他人事のように何の反応も示さず、食べ終わった自分の皿をただ虚ろ気に見ている。車掌とフィストの会話を聞いているかは判断がつかない。
車掌はやや深刻そうな顔になって更に続けた。
「この列車の中で人が怨霊にさらわれるという都市伝説ですが、実は霊などではなくて、乗車した人間が無差別に殺して捨てているのでは、というものです」
「……!」
ユリスが顔をあげた。目が覚めたかのように驚いたような顔をして車掌の顔を見つめてきた。
ユリスが驚いたのは、やはりあの事との関連のせいだろう。先刻からうわの空だったのもそのことがずっと心に残っていたからで、ちらと耳に入った車掌の一言が不安を一気に拡張させてしまった。
急に自分のことを凝視され、車掌も少し戸惑ったような素振りを見せた。それに追い打ちをかけたかったのか、ユリスは何かを言いたそうにしている。
「ユリス?ちょっと落ち着いて」
いつの間にか立ち上がっていたユリスをフィストがなだめた。不満そうな視線がフィスト、そして車掌にまで向けられたが、納得できない面持ちでゆっくり席に着いた。
「どうしたの?」
「…なんでもない」
気遣ったフィストも、ユリスはあっさり一蹴した。
ルフィーネは個室に一人で座り込んでいた。
自分の『監視』であるスーツの男も、先ほど食事を取るためににこの部屋を出た。
一緒についてくるよう言われたのだが、彼女はそれを断固として拒否した。彼はルフィーネへの影響力はそれほどもちあわせていないので、結局あまり出歩かないよう彼女に念を押してから出ていった。
ルフィーネは分かっていた。
彼が、もう戻ってこないことを。
そして自分の死期が近いことを。
彼女の頭には昼間にあった少女の顔が浮かんでいた。
決してにこやかとは言えない表情。だが冷たい印象は無く、むしろルフィーネを心から心配しているのがよく分かった。
良い人だったのかもしれない。しかし、慣れ合うことは死の恐怖を増大させる。だからあまり思い出したくない。
しかし、そう思えば思うほど結論は逆方向へ向かっていく。
なぜこんなに彼女に固執するのか…そう考えた時になって、ルフィーネは自分が彼女の前で泣き出してしまったことを思い出した。
「…もし、できるなら…」
もう一度会って話がしたい。
口に出して言うには、それはあまりに贅沢な望みだった。
「…あ」
フィストの視界が闇に閉ざされた。正確には、食堂車にいる全員の視界が一瞬真っ暗になったのだ。車内の賑わいは、不安の混ざるただの喧騒となる。
十秒ほどすると、先ほどと同じ視界が乗客の目に戻ってきた。食堂車の明りは何もなかったかのように平然と輝きを保っている。
消える前と何ら変わりなく、全てがそこにあった。
いや、あった筈だった。
フィストもユリスも、そのほんの十秒のせいで一瞬止まった。だが、それぞれが不思議そうな顔でお互いを見ただけで彼らの中でのその出来事は片付いていた。
「停電でしょうか?」
車掌が首をかしげる。
「今時珍しいですね。意外と誰かが電源を切っただけかもしれませんよ?」
フィストが笑うと、車掌もつられるように笑った。そしてフィストは何の気なしにユリスと逆の方を向いた。
隣にいた男の。
首がなかった。
確かに、消える前にはあった。そこに座って酒を飲んでいた。
そんな筈はない、と言い聞かせるフィストの足に何かが転がってきてぶつかった。
それは、そのことが事実であることをフィストに知らしめていた。
むしろ、たった今、それがそこからずり落ちたという証明になった。
それをはっきりと目で確認した時、思い出したように切り口から赤いシャワーが噴き出した。
死の象徴そのもの。
いま聞けば、ルフィーネの予言を疑う者はいないだろう。むしろ、それ以上今の状況を的確に表している表現は無い。いつ自分の番が来るか、その一点のみである。
ユリスも、車掌に言おうとしていた言葉を口にすることはもう出来ない。
サイは投げられたのだから。
日の沈みきった荒地。悲劇と死は、その中を西へとひた走っていく。
大勢の人間の運命さえも道連れにして、無情なまでに休むことなく。
その道筋の延長線上、はるか西の海の上。これもブルーイーグルとあまり変わらない、運命の集合体。
東の赤いシャワーはおろか、この世のあらゆる地獄を忘れてしまったような馬鹿騒ぎ。
運命…そんなものは、今の彼らに伝わるほどの力を持たない。たった一人、東の水平線の果てを見つめる男を除いて。
彼は、今しがた見え始めた僅かな回る光の筋を見つけて心を躍らせていた。心臓の鼓動の高鳴りを確かに感じている。
彼が最後にそこにいたのは三か月前だ。
毎年のことだが、いきなり前触れもなくこうして旅に出ると皆に迷惑がかかるのは承知しているようではある。それでも彼は、今回ここにいなければならないことが分かっていた。
彼の思いは、いつまでも同じ場所を巡回していた。
冷たい風が彼を巻き込んで突き抜けていったが、彼に伝わるものは無い。
仲間の顔、事の行く末が気になる、それが今の彼の全てだった。
ふとして左の掌を見た。
くっきりとある太い運命線。全ての運命が、その上にのせられている。
手を握りしめると、再び東の果てに視線を戻した。
船のやかましさ、西方の悲劇も、彼にとってはどうでもいいことである。
汽笛が鳴った。
彼は明日の朝にはその足でそこの大地を踏む「運命」にある。
ただそれだけのことだ。