プロローグ
真っ暗闇だった。街灯こそ光っていたかもしれないが、記憶にない。
人の気配もない、街の華やかさもない、自分の声だけが反射する夜の大通りを、何も考えずに僕は走っていた。
荒れた僕の呼吸、石畳を蹴る軽音が、脇に犇めく家々の間を飛び交い、かろうじて耳に届く。自分のもの、そしてすぐ後ろからも別の音が迫ってきている。走りながら振り返るが、永遠とも思える夜が映るだけだった。
向きなおり、額の汗をぬぐい取ると、足が石畳にとられた。手が思うように動かず、腹から倒れこむ。頭も打ちつけ、いくらか血が出た。立ち上がろうにも、腕に力が入らない。
一つになった音が、すぐ後ろまで来ているようだった。目を堅くつぶって、右手の封筒を握りしめた。こんなことになった原因の封筒だった。
諦めかけていた僕の体が勝手に持ち上がり、半ば強制的に立ち上がった姿勢になった。
二、三歩ほどふらついて歩き、それからまた地面に倒れた。どうやらその二、三歩で家と家の間に滑り込んだようだ。
体を起こして振り返ると、かろうじてわかる家の壁の隙間から、うっすらと影が横切るのが見えた。近づいていた音が、それを境に小さくなっていく。響く音が完全に聞こえなくなると、溜息を一つつき、仰向けにバッタリ倒れた。何が起こったのかよく分からないが、どうも助かったらしい。
「何をしていた」
頭上で声がした。倒れたまま上を向くと、まっ黒い中に顔の影が見えた。
「……」
何かを言おうとしたが、過呼吸で喉が潰れていて音にならない。唇だけが、何かを求めるように震えた。いくらか頑張ってみたが、当面の間声帯が音を発することはなさそうだ。
「何かに追われてるようだったが…その様子じゃ、ずいぶん追い回されたみたいだな」
「……」
僕の声帯は何も言わない。
「話は俺の家で聞こう。ほら、立ちな」
彼は僕の腕を掴んでひっぱりあげた。言われるがまま膝を立て、なんとか体重を支えてみたが、腕を離されるなりふらついてレンガにもたれた。逃げるのに必死で、もうまともに立つ体力も残っていないらしい。彼に体重を任せ、ゆっくりではあるがようやく歩きだした。
明かりがほとんど役に立っていない。ライトは十分な光量を持っているのだが、山のように積まれた段ボールがその光を阻んでいる。
目の前にカップが差し出された。茶色い液体が盛んに湯気を立てている。ホットココアのようだ。
「まあ、飲みな」
それを僕に持ってきていたのはさっきの男だ。年は三十に少し足りないくらいだろうか、あまり年取った様子は見受けられない。僕への態度もあまり棘はなく、優しい印象を受ける。
「お前…何て名前だ?何で追われてたんだ?」
思わず手が止まる。
この人がやつらの仲間でないのはこの一言で分かったが、かといって本当のことを話すのも怖い。
とっさに頭の中でテキトウな理由を考えた。それを口にしようとしたが、まだ声が出る状態ではないようだ。彼もそれが分かったようで、横を向いて溜息をついた。
「…まあ、今無理に話そうとしなくてもいい、今日はもう休んでおきな。いずれ聞くこともあるかもしれない」
僕を残し、彼は物の影に隠れて見えなくなってしまった。
静かになった見ず知らずの部屋で、そっとココアを口に運んだ。
一週間が過ぎた。
流れ落ちるように、街路樹のつきものが覆いかぶさってくる。紅葉、というよりは、枯葉というべきだろう。樹の下を少し歩いただけで髪や肩は覆われてしまう。
風は枯葉と冷気を運び、人々は厚い防寒服を着込み、身をちぢ込ませながらせかせかとすれ違って行く。
肩がすれ違った人とぶつかった。つきものが数枚、力なく舞い落ちた。吐いた息が白くなって広がる。それは僕をかき消すことなく、幻のようにかき消えた。
僕とすれ違う人、反対側を歩く人、隅で小さくなっている人。その誰も僕を襲ってこないという保障はない。
…僕は怖かった。
今、僕は彼のもとでお世話になっている。僕は家をこの街に持っているし、そのことは彼にも話した。それでも彼は、しばらく一人にならないほうがいいと言って僕の世話をしてくれることになった。
彼を巻き込みたくないのであまり甘えているわけにもいかないのだが、その機会を見つけられないままずるずると今日までやってきてしまった。今もまた、彼の後ろをついて歩くことしかできない。
彼は、バスティールと名乗った。
昼の雑踏は冬が近いことを忘れられるほど賑やかだ。夜の恐ろしさは、ここにいる誰一人想像もできないだろう。一週間前とはいえ、あの閉塞感と緊迫感は体が覚えている。
いや、みんな夜の恐ろしさを知っているからこそ……なのかもしれない。悪い考えは持ちたくないが、どうしても疑心暗鬼になってしまう。
はっとした時には、バスティールと数メートルの間ができていた。人が壁になり、これ以上離されると見失う可能性もある。僕は頭のつきものを払い落し、身を前に押し出した。人と人の間に体をねじ込み、見失わないよう注意しながらじっくりとバスティールの後を追った。
通りから広場に出たらしい、人の量はさほど変わっていないが、密度が減り、ある程度は自由に行動できる。が、それでも人の多さは相当なもので、二人して広場のベンチに腰かけていた。今まで邪魔だった壁が、目の前で流れていくだけの、いわゆる『他人事』になっていた。
「悪いな、今丁度ラッシュの時間帯みたいだ。ここの駅は通勤に使う人も多いからだいぶ混むな」
後方の赤レンガ造りの建物を見ながらバスティールが笑った。
セントヘイム駅。建物の入り口上にそう刻んである。周辺の街から線路が集結して、ちょっとしたターミナルになっている。
普通列車だけでなく、レンバルト砂漠を挟んだ先の州都と繋がる線もあり、ラッシュ時以外でもなかなか人の量は減らない。もっとも、最近は妙な噂が立っていてその線を使う人は少なくなっているそうだが。
バスティールは新聞を読んでいる。僕はそれには興味がないので、なんとなくびくびくしながら辺りを気にしている。
「…ベルトニアとの和平交渉決裂、だとさ」
ベルトニア…確か、僕らのいる国、オルディアと隣接してる軍事国家の名前。
数年前、今のオルディア国王がベルトニアとの同盟を解除して、それ以来ずっと再締結を求めては却下されているとうのはこの国では知られた話だ。
つまりは、今に始まったことじゃないということ。
「またか、って感じがするけど」
「ははは、違いない」
それから、しばらく黙った。
「平和だな」
唐突な一言に、すぐに反応できなかった。
「え?…うん」
バスティールは僕の状況を分かってそんなことを言っているのだろうか。
「……あのさ、バスティール」
「ん?どうかしたか?」
「僕、そろそろ……戻ろうと思うんだ」
「……」
切り出すのが急だったかもしれないが、もう限界だと思った。
「もう一週間になるし、そろそろ大丈夫だと思うんだ」
「……そうか」
新聞で顔を隠していたバスティールが、それをたたんで横に置いた。
「そういえば、まだお前の名前を聞いてなかったな」
「あ」
思わず声が出た。結局まだ名乗れていないのを思い出す。散々お世話になって名前も教えずに去るのはさすがに失礼に思えた。
教えておこう…何故だかはわからないが、ようやく人を信じることができる気がした。
「…フィスト」
バスティールは黙った。
驚いた顔をしている理由はよく分からない。
「…!?」
その直後にバスティールに抱きしめられたのはもっと意味が分からない。
「…バスティール?」
「いや…なんでもない。そうか、フィストか…」
「僕、そんな趣味無いよ」
「そういう意味じゃない」
僕を抱きしめたまま、頭を軽く小突いてきた。
しばらくそのまま固まっていた。
空の灰色は見ているうちにもどんどん濃くなり、あたりも薄暗くなって、見通しが利かなくなってきた。光が減り、地上も空とさして変わらない灰色に染まってきた。
僕もバスティールも何も言わない。
音がさっと耳から離れた。バスティールが目をはっと見開き、僕を突き飛ばした。僕はそれによってベンチから落ち、尻もちをついた。
乾いた銃声が聞こえたのは、そのすぐ後のことだった。
同時に、バスティールの腹部に穴があいた。
「殺しだあああああああ!!」
叫び声がした。
静寂は瞬時に破られ、悲鳴が広場を包む。雑踏が波紋のように広がり、バスティール、そして銃を構えた男が浮かび上がる。
何が起きたのか。
頭がくらくらして考えることができない。
銃を構えた男は、少し顔をゆがませた後、雑踏の影に消えていった。
「く…」
「…ちょっと、大丈夫!?」
バスティールが痛々しく腹を押さえながら倒れている。
起き上がって駆け寄ると、弾の貫通したらしい跡が左胸部に確認できた。さっき座っていた部分まで赤く浸っている。
「おい…ちょっといいか…?」
今にも琴切れそうな声だった。
「これを…お前に…」
「…これって…」
思わず出した手に、黒い鉄の塊…人殺しの道具が乗せられた。
「何、これ…」
「もう、おまえひとりでも…大丈夫なんだろ…?」
頷けない。バスティールの意識の薄くなるのが、痛いほど伝わってくる。
「…最期に…ひとつ言っておくが…」
そこで言葉が詰まる。激痛に耐えるような顔をした後、再び口を開いた。
「お前の思う、正義に生きな…」
しずかに、しんだ。
もう、ここにいるすべてのにんげんさえ、おそろしかった。
読んでくださった方、ありがとうございます!
連載小説は初めて書くので、ぎこちない出来になっているかもしれません。文字がぎっしりで読みにくいのも自覚しております。
それでも、温かい目で見守っていただけるとありがたいです。