死神列車で笑う君
学校サボりの私を乗せた電車は夕留駅に着こうとしていた。
向かいの席にはクラスメイトの綾部流星君が乗り合わせている。
彼の不思議な服装に私は首をひねる。登校時間なのに、なぜか私服を着ているのだ。私でさえ、目立たないように制服を着ているのに。
「間違って制服をクリーニングに出したから?」
そう思ったけど、それならせめて学校のジャージを着てくる気がする。カーゴパンツにチェック柄のボタンダウンのシャツ。遠足にでも行くようなリュックを神妙な表情で抱え、今日から中間テストが始まるというのに、まるで旅行へでも出掛けるかのよう。
「――夕留駅、夕留駅、降り口右側です」
電車は夕留駅に到着してドアが開く。秋口の冷えた空気がわっと流れ込む。
「今ならただの遅刻……」
でも、私は動かない。
「降りない、降りない、降りない……」
プシューッとコンプレッサーのかん高い音がしてドアは閉まる。ああ、やってしまったんだなぁ……と思った。家出をするのだ。
「寝ぼけるなよ」
いつの間にか私の隣に座っていた綾部君が言った。
「え……?」
「今のが夕留駅だろ。夕留中学の生徒がなにやってんの」
「なにって……」
それは私の台詞だ。私は思うところあって、あえて降りるべき夕留駅をスルーした。降りなきゃいけないのは君の方だろう。
「いや、俺には大切な用事があるから」
私の不審な視線を浴びて綾部君は言った。
「大切な用事……? 今日って、中間テストの日だよ」
「知ってる」
綾部君は何度も小さく頷く。そして彼は車窓を指さし、その方向を見ると次のホームの映像が流れ込んできた。
「いいか、ドアが開いたら走って二番線のホームに行け。次の上りは三分後だから君の足でも間に合うよ。朝の学活は無理だけど、テストは受けられるから」
綾部君はひどく細かく私に教えてくれた。友達というわけじゃないのに、私が運動が苦手なことを知っているようだ。でも、電車のドアは閉まってまた走り出す。これでいい、家出は計画通りなのだから。
「あー! なにやってんの」
「これでいいのよ……。綾部君はどこまで? 病院?」
綾部君は身体が弱い。夏休みのほとんどを市立病院で過ごしていて、だから今日も病院へ行くのかと思った。
「月城さんも一緒に行く?」
綾部君は整った色白の顔を傾げて私を見た。
「私も病院に? ……行かないけど」
「そうか、困ったな」
「困らないでよ」
何を言い出すのかと不思議で、私は綾部君の顔をまじまじと見てしまい、そんな私の勘の鈍さに綾部君は苦笑い。
「いや、遅刻して困ってるんだろ? 君は学級委員で真面目だからさ、何か理由があったらそれを頼りに学校に行けるかなって。俺が電車で苦しんでいて、介抱していたら電車を降りそびれた。そういうふうに先生に言えばいい。その嘘に俺も乗ってやるから」
「私の遅刻の言い訳に?」
「うん」
はにかむように笑う綾部君にドキッとした。いつも青白い顔をしてるけど、こんなに明るい笑顔を持っていたんだ……。
でも、綾部君は世間知らず。私が学校に遅刻したと誤解して、お節介にもその理由を考えてくれたようだけど、綾部君が登校時間に私服で電車に乗っているように、私にも私の事情がある。
電車はまた駅を通りすぎた。それで私がただならぬ決意でこの電車に乗っていることが綾部君にも理解できたようだ。相変わらず私の隣に座ったままで、なにかを考えているように綾部君は黙り込む。
「私、向こうに行くね」
一緒に座っているのも何だかなので席を移ろうとすると、綾部君に制服の袖を掴まれて席に戻された。
「なによ」
「じゃあさ、俺に騙されて一緒に連れていかれたことにすれば?」
「綾部君に?」
「うん」
「なにそれ、ウケる」
思わず笑ってしまった。綾部君が私を誘拐したことにするつもりだろうか。でも綾部君は笑わない。真剣な顔をして私を見つめる。
「あのね……私、家出だよ。私に関わらない方がいいよ」
「あ、そうなんだ」
綾部君は納得したようで、また小さく何度も頷いた。
電車は小気味いいモーター音を響かせて走っている。車内は人もまばらとなり、私たちは別々の目的があるのに一緒に座っていた。
「綾部君は病院じゃないの?」
「さあ……」
「言いたくないならいいけど」
「君はどこまで?」
私のことを心配しているのか、綾部君は眉尻を下げて不安げな顔をする。
「私を心配して電車を降りられない? それなら大丈夫。私は九州のおばさんの家に行くつもりだから。私って結構計画家だからさ、全部計画通りなの。ほとんど秒刻みで動いてるのよ」
「秒刻みで九州か」
「……そう」
しまった……。九州は遠すぎたかも。口から出まかせで、本当はあてなんてない。九州におばさんが居るのは本当だけど、小田原からだから九州は遠すぎで、せめて浜松くらいにしておけばよかった。綾部君は心配そうに私の顔を覗き込み、私は慌てて弁解した。
「九州っていうのはあれ、おばさんの名前。九州おばさんの家は浜松だから」
「浜松ね……。ちょうど俺もそっちに向かってる」
「ほんとう? そこの病院に行くの?」
「さあね、君だって本当はあてなんてないんだろ。発作的な家出と見たね」
ドキッとして、席を移ろうとして少し腰を浮かせ、また綾部君に腕を引かれて私は臀部を座席に沈ませた。
「なによ。なにも知らないのに」
私は怒ったふりをして横を向いた。家出は発作的ではない。両親が不仲でいつもお金の問題でお互いを罵りあっている。あんな家なんかに、いつまでも耐えられるわけがない。
「こんな家なんか出ていく……」
昨日の夜にそう決心して、一晩寝てもその決意が少しも薄れなかったので、この気持ちは本物だと自分で気付いた。そして、こんなふうにテストの始まっている時間に、電車に揺られている。
「私、学校には風邪で休みますって自分で連絡したから、少なくとも今日は自由人なんだよ」
「ふーん、そんなふうによくサボるの?」
「まあね。わりと計画的に」
嘘だけど……。
それよりも、綾部君のことが気になった。相変わらず白い顔をして元気には見えない。二学期が始まってから以前のように登校はしていたけど、たまに休むことがあって彼の体調がよくないのを心配していた。
「ねえ、大丈夫なの? 今日は病院へ行くわけじゃないのね」
「ちがうよ」
「ならどこに? 学校サボってるわけじゃないでしょ。テストの日にわざわざ学校サボらないよね」
「普通はね」
綾部君はそう言って私を指先で小突いた。
「私はいいんだよ……」
たまたまテストの日と家出の日が重なっただけだから……。
「綾部君も、今日は普通の日じゃないんだね」
私は指先で小突き返した。一瞬、体のどこを触れていいか迷い、結局、小突かれた場所と同じ肩にした。綾部君もそんなふうに迷って無難な場所を選んだのかもしれない。ぷにゅっと指先に肩の柔らかい感触がする。綾部君の服装はオシャレというわけじゃないけど外出用で、大きなリュックと相俟って、彼にもそれなりの計画があるようだ。
「ねえ、体調はあれから大丈夫なの?」
綾部君は七月の最初から夏休みの終わりまで入院していて、八月の最初の頃、女子の学級委員だった私は男子の学級委員と先生と一緒に、クラスを代表してお見舞いに行った。
「あれからもう二ヵ月もたつんだね」
「体はもう大丈夫。今日はある人に逢いに行くんだよ」
「テストの日に?」
「それは偶然だよ。いや、偶然ってこともないかな、すべてのことには意味があるっていうし。君と俺が電車で逢ったのも偶然じゃないかもしれないし」
「それは偶然だと思うけど……」
学校を休んで逢いにいく人とは誰だろう。ふと私は思い当たった。
「学校サボってドラマの撮影を見に行くとか……? 逢いたい芸能人さんが居たり」
「ちょっと違うけどだいたいそんなところ」
「当たってるかぜんぜんわからないんですけど」
「月城さんも一緒に行く?」
「私も!?」
おもわず私は素っ頓狂な声を出してしまった。どこに行くあてもないけど、計画的に行動してると言った手前、簡単に彼に付いていくわけにはいかない。
「月城さんは家出だろ? 浜松とかどうせ嘘だし、俺と一緒に行動して、頭が冷えた頃に勝手に帰れよ。学校でも家でも心配してるから」
「さっき言ったでしょ、学校には風邪で休むって連絡したから。家は私のことなんて心配しないし」
「家出なんてくだらないね。言いたいことがあったら家の人にストレートに言えばいい。心配させて自分の想いを伝えるなんて捻くれてるよ」
「わかったふうなことを」
「家庭の問題なんてものは案外、他人の意見の方が的確なのさ」
綾部君は私にもっと説教をしたそうだったけど、それ以上は言わなかった。私も綾部君の説教なんて聞きたくない。事情なんてぜんぜんわからないのに、理解者のような顔をされたくない。
次の駅に着いて、すでに乗り込む人も降りる人もいない。車両の中は私と綾部君だけになっていた。
私が家出なのにわざわざ学校に風邪だと言ったのは騒ぎになるのを遅らせるためもあるけど、気が変わって暗くなる前に家に帰れば、なにごともなく次の日が送れるかもしれない。そういう意味もある。まるで馬鹿で、自分の決意を疑ってしまう。もう二度と家には帰らない。そう思いつめて飛び出していながら、一方でいつでも戻れるような体制を作っている。
あんな家なんて……。と私は溜息。
私の両親は私が小さい頃から喧嘩がちで、私には優しい二人なのに二人でいるときは、まるで般若のお面を被ったような恐ろしい声と顔で罵り合う。私は子供だから家から逃げるわけにはいかない。ひたすら船が揺れないことを願い、小さな船倉の隅で耳を塞いで耐えているような、そんな毎日を今まで送ってきた。船はなるべく揺れない方がいい……。
中学に入り、いつでも家出ができるのだ。そう思うと繋がれていた紐が切れて自由になって、それは想像だけのことだったのに、ついに今日、現実に家を出てきてしまった。まるで無計画というわけではない。いつか来るはずの日が今日だった。行こうと思いさえすれば、もう地球の裏側だって私は行けるのだ。
次の駅に電車は止まった。
「――急行通過のため、二十分ほど停車します。次の停車駅は吉岡」
そういうアナウンスがして車内はしんと静まり返る。ホームの花壇には白い花が光りを浴びて揺れていた。
「奇麗な花だね」
白い花が光を反射して輝く。私はその姿に見とれた。
「もう降りろよ。戻れなくなるぞ」
怖い顔をして綾部君は言った。
「え……。さっきは一緒に居ろって言ったじゃない。そうしようと思ったのに」
「でもよくないよ。帰れよ」
「気が向いたら帰るから、私のことはほうっておいて。そうだ、綾部君の妹さんは元気?」
夏休みに綾部君の病院にお見舞いに行ったとき、綾部君のベッドにまとわりついて愛嬌を振りまいていた少女のことが忘れられない。
「あの子、妹じゃないし」
「ちがうの?」
「パジャマを着ていただろ。同じ病院に入院していた女の子だよ。あの子と同じ年頃の子が病院にいなくてさ、俺に懐いてよく遊びに来ていたんだよ」
「そうなんだ。私、あの子にクッキーの作り方を教わったんだよ」
「ああ、あれね……」
綾部君は目を細めて遠い顔をした。ひどく寂しそうで悪い予感がした。
「あの子、小鳥ちゃんって名前だっけ? 元気じゃないの?」
「元気だったら入院なんてしてないだろ。夏休みが終わって俺が退院しても、小鳥と約束したからよく会いに行ってるんだよ。あの子、いつ退院できるかわからないんだって。なんの病気かは看護師の人に聞いても教えてくれなかったけど、小鳥は自分で白血病だって言ってたよ。調べたら、血液の癌らしい」
「血液の癌……」
胸が締め付けられるような気がした。私が綾部君のお見舞いに行ったとき、男子の綾部君と何て話していいかわからなかったので、私は小鳥ちゃんと病室の隅で遊んでいた。小鳥ちゃんは元気そうに見えたけど、病院に入院するということは大変なことなんだ。良くなればいいけど……。
「あの子の中でも流行りがあってさ」
綾部君は舌で唇を舐めて少し嬉しそうに言った。
「月城さんたちが俺の見舞いに来てくれた頃、小鳥はお菓子作りに夢中で……。と言ってもまだ小学二年生だし、病院だからなにもできないから本を読むだけなんだけどさ、作ったことなんてないのに、まるでパティシエみたいに凝ったことを言っていただろ?」
綾部君は思い出し笑いをして、つられて私も笑った。明るい、ぱっと光るような笑顔に引き込まれる。
「私、正直に言うと、小鳥ちゃんに聞いたクッキーのレシピを全部は覚えてないの。『――バターと砂糖は多めくらいがちょうどいい』それだけははっきり覚えてるけど」
「絵本とかテレビを見て覚えたやつだから正確じゃないさ。小鳥の言う通りに作っても、別に美味しいものができるわけじゃないよ」
「そうかな? でも私、今日も作って……」
そこまで言って私は口をつぐんだ。
綾部君と小鳥ちゃんの病院から帰り、私は小鳥ちゃんのレシピでクッキーを作ってみた。全部は覚えてないから上手くは作れなかったけど、お菓子作りのサイトでわからない部分を補ってクッキーを作ってみた。昨日の日曜日も、テスト勉強の気晴らしに作ったから今もそれが鞄に入っている。綾部君に、あれから何度かクッキーを作って、実は今も持っている……と言おうとしたけど、形が変だし味にも自信がないから言えなかった。
「綾部君って、もしかしたら小鳥ちゃんのお見舞いに行くの? 今は遠くの病院に移ってるとかで」
それなら合点がいく。学校をサボらなくてもお見舞いなら休みの日に行けるかもしれないけど、私はだんぜん綾部君を応援したくなった。学校なんてたまにはサボったっていいんだ。小鳥ちゃんのお見舞いなら私も行きたい。
「違うよ。小鳥は元の病院にいるから」
しかし、綾部君はそう言った。
「そうなんだ……」
「次の駅に着いたら君は降りろ。本当に帰れなくなるかもしれないから」
「地獄の一丁目にでも向かうみたいな言い方ね」
ところが、なんの偶然か次の駅は「一丁目」という駅だった。こんな駅があったなんて……。私は苦笑い。
さっきまで晴れていた空は急に曇り、ついに雨が降りだした。それが大粒となって車窓を叩く。
「やだ……。私、傘持ってない」
「なんだよ、天気予報見なかったのか? どこが計画的だよ。俺なんか傘どころかカッパだって持ってる」
「飯盒も入ってるよね」
私は彼の大きなリュックを見て呆れた。
「飯盒は持ってない」
綾部君は大真面目にそう言って、「知ってる」と私は笑い、冗談がわからないのかと思って彼の顔を見たら、やはり冗談だったのか口を歪めて照れ臭そうに笑っていた。
「――地獄が原、地獄が原、次の停車駅は地獄が原」
車内にアナウンスが流れ、なんの冗談かと思ったら、車窓から見える景色がトンネルの中のように真っ暗になった。車内の照明が接触不良のように点いたり消えたりしている。怖くて、私は綾部君に寄り添うようにして肩をすぼめた。
「なにこの電車……。どこに向かってるの? 地獄が原なんて駅があるの?」
駅らしきところに停車してもドアは開かない。しばらくして電車はガタタン……! という音をだして走りだし、私の身体は進行方向の逆に傾いて綾部君と接触した。綾部君の肩は柔らかくて温かい。私の身体を支えてくれようとしたのか綾部君は手を出し、私に触れるのを遠慮して手を引っ込めた。
「ありがとう。ごめんね」
「……うん」
――次の停車駅は血の池地獄。
次の停車駅のアナウンスが流れる。
「……死神の家に向かってるんだよ。このまま乗っていけば、もう少しで死神の家に行けるはずだ」
綾部君が悲しそうな声音で言った。
「死神の家?」
「だから早く降りろと言ったんだ。俺も本当にこうなるなんて思わなかったんだけど……」
「どういうこと?」
「俺はね、お腹の病気で入院していたんだよ。過敏性大腸炎。もうよくなったんだけど、一時は下痢と嘔吐が続いて死ぬかと思ってさ。あれは……」
と、綾部君は驚くべきことを語った。
入院して二日目の夜中に腹痛で苦しみ、そこで、
「――死神を見た」
という……。
「命のともし火が小さくなった者だけが死神に面会できるそうだ。それ以来、夜中になるたびに俺の前に死神が現れて、『命を差し出せば楽にしてやる』そう言うんだ」
「死神が……?」
ぞくっと背筋に寒気が走った。私は死神の存在など信じてはいない。それでも真剣に話す綾部君を見て、今、その存在を信じる側にまわった。綾部君が言うには、病気の治療が進むと死神には逢えなくなって、しかし逢える方法を死神が教えてくれていて、その方法がこの電車に乗ることだったという。特別な電車ならまだわかるけど、私たちが乗ったこの電車は、いつもの東海道線の下り各駅停車で特別なものではない。特別なホームから出発する特別な電車という訳ではないのだ。
「でも、特別な場所に向かっているのがわかるだろ?」
「そうだけど……」
「死神に逢いたいと強く願って乗れば、乗り物の種類は関係ないそうだ」
「ふーん……」
納得できないながらも私は頷いた。
窓の外は夜ともトンネルともつかない暗闇で、車内の照明も気づくと薄暗くなっている。夢の中にいるような気分だった。
「……私、死んだのかな?」
窓に反射する私の顔は、眉尻が下がって口をへの字に曲げていた。綾部君はそんな私の情けない顔を見て鼻から息を吹き出す。
「ひどい……。笑うとこじゃないでしょ」
でも、綾部君の笑顔を見て私も吹き出してしまった。
これからどうなるのだろう……。もしかして、私は死のうとしていたのかな? そんなふうにも思った。
「どうなってもかまわない」
と自暴自棄になっていたのは事実で、発作的な家出とは自分としては違う。はたから見たら単なる家出かもしれないけど、普通の中学二年生の私が行くはずの時間に学校に行かず、乗るはずのない電車に乗っているのは、崖から飛び降りるような決意のいる行為だった。そう思えば、やっぱり死のうとしていたのかも……。と、自分のことが思えてくる。それならば、死神列車にも乗り込める気がした。恐ろしい世界と自分の心が繋がってしまったのかもしれない。
電車が停車してドアが開いた。
ドアの外は暗闇が展開しているだけで風が車内に流れ込むわけでもなく音もしない。電車のモーター音が小さくなってやがて止まり、全くの静寂の世界となった。電車の薄暗い照明だけが頼りなげに灯っている。
「終点のようだな……」
綾部君は立ち上がった。
ふらふらとドアの外に出ていこうとする綾部君を私は追った。
「待って。私も行く」
「そこに座ってろ。そのまま座っていれば帰れるかもしれないから」
「綾部君はどこに行くの?」
「逢わなければならない人がいる」
「死神に……?」
綾部君は車外へ出て行った。私は綾部君のシャツの裾を握りしめて付いて行く。こんなに寂しい電車の中に残されるのも恐ろしく、綾部君と一緒に行くことしか私は選べない。
外は暗闇で、遠くに赤色灯が灯っていてる。その小さな明かりを目指して私と綾部君は歩く。暗闇に赤い光というのは不気味で、血の色のように見えた。
「あそこに行くとどうなるの?」
「しらない」
「無責任なこと言わないでよ。こうなったのは綾部君の責任でしょ」
「そうかもしれないけど、君を巻き込むつもりはなかった」
「いいえ、一緒に来いって言いましたから」
「そうだっけ」
「無責任……」
赤い明かりの下にきて、その明かりを見つめていると、赤色が一瞬点滅したかに見えた。よく見ると明かりは眼球のように見え、点滅は瞬きのようだ。生暖かい風が頬をすり抜け、その次の瞬間に黒いコートのようなものを纏った人が、今、天から舞い降りた。そういうかたちで佇んでいた。ただし天使には見えない。死神だろうか……。
「し……死神?」
小さい声で綾部君に聞くと、
「そうかもね」
と綾部君は言った。笑ってくれたら安心できたけど、綾部君は眉根を寄せて泣きそうな顔をしている。
「逢いに来た。願いを叶えてもらおう」
綾部君は、目の前の不気味な影に向かって言った。
「なに? 願いって……?」
「だまって」
しっ! という感じで綾部君は人差指を口に当てた。綾部君はここに来た訳を小声で私に教えてくれた。
「死神は犠牲を払えば命を救ってくれる。俺の命と小鳥の命を引き換えて貰うんだよ。君は関係ないからすぐに帰れ」
「そんなことをしたら……」
綾部君が死んでしまうのでは……。
そう私は思ったが、同時に別のことも思った。綾部君の言う通り、偶然なんて世の中にはない。今、ここに自分がいる意味が私にはわかった気がした。生まれてから今までの人生の疑問すらも刹那の間に心に溶けた。身代わりは、私がなるべきではないのか……。小鳥ちゃんに一度逢ったのも偶然ではないかもしれない。電車がレールの上を進むように、私の運命はこの場所に来ることが決まっていたのかも。
「私があの電車に乗ったのは偶然じゃなかったかも……。身代わりになるのは私の気がする」
「いや、偶然だから。君が考えてることは発作的で合理的なことじゃない。冷静になれよ」
「まあ! 偶然なんて世の中にないって言ったのは綾部君でしょ。ちょっと、そこの死神さん、私の命と引き換えに小鳥ちゃんを助けて!」
「お、おい!」
息苦しい闇が覆うように眼前に広がり、目の前の黒い人影が少し首を傾げるような仕種をした。そして、掠れた重い声が響く。
「――……願いは高梁小鳥の命を救うことだな。了解した。差し出すのは月城果穂の命だな」
死神は私の名前を言った。私の命を持っていくようだ。やはり、これが私の運命の結末だったのだ。
綾部君が一歩前に出て大きな声を出す。
「違う! 勘違いをするな。差し出すのは俺の命だ。俺の命と小鳥の命を交換する!」
「…………あいわかった。…………しかし、それは遅かったようだ。高梁小鳥の姿が見えなくなった。お前たちの願いは無効になった」
死神は怪鳥が羽ばたくようにマントを翻して奥の闇に消えて行った。
「待て!」
綾部君は死神を追った。でも、あたりはだんだん明るくなり、やがてただの草原となった。ここにくる途中のホームで咲いていたものと同じ花が咲いている。その花の周りで、小さな白い蝶が羽ばたいていた。
振り返ると、駅のホームらしきものが紅の淡い夕もやの中に棚引いて見え、そこに綾部君と行ってみると、田京駅という私の地元の駅から十六駅離れた場所だった。私と綾部君はホームのベンチに放心したように座り込んだ。
「私たち……生きてるよね。今のは夢……?」
綾部君は頭を抱えて座っている。私が声をかけても彼からは返事がない。綾部君の顔を覗こうとしたら顔を逸らして鼻をすすった。
「泣いてるの?」
願いを聞いて貰えなかったから……? しかし、どういう意味の涙か私にはわからなかった。
「……間に合わなかったんだ。小鳥は旅立ったんだろう」
そう言われて、やっと私にも死神が消えた訳と綾部君の落胆が理解できた。小鳥ちゃんが今、死んでしまったのか……。
東海道線の上り電車がやってきた。日が傾きだしているけど、今から帰れば、また今までと同じ日常に戻れるだろう。私はなんのためにここまで来て、なんのために死神に逢ったのだろうか。
私たちは帰りの電車に乗った。一時間半ほどで自分の駅に着くだろう。
綾部君は泣き疲れて座席にもたれて寝息を立てている。ふと思い出し、私は鞄からクッキーを取り出し、そのひとつを口中に運んだ。バターの香りと砂糖の甘味が広がる。涙が止めどもなく溢れた。小鳥ちゃんは生きたかったはずで、生きられる私が恥ずかしい真似はできない。
「綾部君も食べる?」
しかし彼からは返事がない。
目を瞑ったままの綾部君に、起きているかもしれないと口にクッキーを当てると、綾部君は寝たふりをしながらクッキーを少しだけ食べてくれた。
「小鳥ちゃんのクッキーだよ」
そう言おうとしたけどやめた。あの子の名前はもう心の奥に大切に仕舞っておくものに変わった。軽々しくその名前を呼んでいいものではない。綾部君の上に向けたままの顔から涙が溢れ、その雫がキラリと光って座席に落ちた。
私は死神に逢った。そして天使の心を持つ少年にも逢った。