日常
「ただいま」
くたびれたスーツを鬱陶しそうにはだけさせて男が帰ってきた。無駄に重たい鉄の扉をガダンとうるさく閉めて、履き慣れた黒の革靴を丁寧に並べてリビングへ入る。1LDKの部屋は二人で暮らすには狭いが、このマンションにはカップルや夫婦と思わしき人々が多数住んでいる。重く冷たいマンションの扉の音や、派手な言い争い、バカ騒ぎする若者の声が薄い壁を通り越えて聞こえるようなこんなマンションでも、市内でも有数の賑わいを見せるビル群が周りに茂る立地のよさから空き部屋は数えるほどしかない。
「あー疲れた…」
ビジネスバッグをリビングの壁へ立て掛け、緩めてあったネクタイをサッと取り、ソファへ上着と一緒に放り出すと、そのままズボンも脱ぎ足早に風呂場へ歩を進めた。脱衣所と言うには狭すぎる洗濯機置き場をそのまま通り抜け浴場へ入ると、シャワーの栓を緩め下着を脱ぎ、洗濯機へ放り込んだ。ちょうどよく温まったシャワーでひとしきり汗を流し、あらかじめ湯を溜めてあった浴槽へゆっくりと、肩まで浸かり幸せな溜め息を漏らした。
「………。」
至福の時間。それは単純に体が休まる事でもあったし、男にとって【考える】という事だけを出来る時間でもあった。
帰宅時の「ただいま」という挨拶に対する返答の無さを考える。
愛し合う二人の仲の良さを、挨拶の有無で測るのは余りにも早計。返事をしない愛だってある。それが熟練の者だと尚更分かる。当たり前に出掛けて当たり前に帰ってくる。それが日常。それを冷めてるだのなんだのごちゃごちゃ抜かす奴はそこら辺の理解が足りてない。愛は二人の間だけに有っていいんだ。
今ごろ彼女はお気に入りのベッドで熟睡しているだろう。恐らくは奮発して買ったに違いないダブルベッド。それは部屋のサイズや雰囲気にそぐわない、シックな、黒を基調とした高級そうな木のベッド。ふわふわとして、それでいて固いマットは寝心地が抜群で
、シーツや枕は天使の羽を思わせる白さ、そして何よりスプリングのほどよい感触。壁の薄いこの部屋で、壁際に設置されたあのベッドで彼女と跳ね回って…いや、跳ねてたのは俺か?…彼女の方か?この場合、俺が彼女を跳ねさせスプリングの音を出させた…まぁどうでもいいか。そのスプリングの音に隣人も頬を赤らめたことだろう。それか耳を塞いだか。
…想像してると興奮してきたな。いかんな。早めにのぼせてしまう。
真っ赤にゆで上がった体を湯船から出し、くらくらとする頭で辿々しく浴場を出る。
「あれ?バスタオルどこかな?」
体から滴る雫を気にする事もなく、リビングへ裸のまま探しに行く。彼女の洋服ダンスを見つけ、上から順に開けていく。下から二番目の引き出しにバスタオルがあった。そこから無造作に一枚を引き抜き、その場で体を拭いた。
立て掛けてあった自分のバッグから女物の下着を取り出し、それを履かず、寝室への扉に手を掛けた。
ピクッと男の顔が一瞬、緊張した。
「…あー、駄目だこりゃ。」
ガラッと扉を開けた男の前には、死体があった。
女の死体の周りには大小様々な虫が飛び、異臭と嫌悪感が寝室を支配していた。
「…一日で腐るのか。」
男は残念そうに俯いた。
「あーあ…。帰ろう。」
寝室の扉は閉めず、急ぐ様子もなく女物のパンツを履き、着て来たスーツを着直し、部屋を後にした。
男の挙動は終始淡々として異の欠片も見せなかった。
男はさも、そのアパートの住人のような素振りで一人暮らしの女性を襲い、その部屋で一夜を過ごし、女性の死体が腐るまで同居人のように振る舞っていた。それが男の日常。
異常な日常を過ごす男の日常。
日が暮れる事に日常を感じるように、日常を過ごす男に気にかける人もいないだろう。
そして、今日もまた日が暮れる。
男もまた、日常を過ごしている。
またもただ思い付いたのを書きました。
ただ指の赴くままに書き進めたので、粗があるかもしれません。
でも伝えたいことがサラッと書けたので満足です。
前回と若干ですが被ってしまったかもしれません。
テーマは「異常は日常」