表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

牙のない蛇

作者: 澤群キョウ

「人体で、一番きれいな箇所はおっぱいだよね」


 瞳に映っている小さな自分。その周りに、間接照明の光がエフェクトになって浮かんでいる。小さな星の輝きに彩られて、確かに、きれいだと思える。そんな気がすると葉月は思った。

 大きな手、長い指がそっと胸を撫でていく。左の胸の上を、右手がすす、と撫でていき、最後につんと一番敏感な部分を、優しく軽くつついて。


「男が生まれてからずっと、恐らくは死ぬまで。何歳になっても求め続ける唯一のものだよ。素晴らしいよね、おっぱいって。大きさなんて関係ない。とにかく美しいよ。赤ちゃんを育て、疲れた男に癒しを与える。君たちはこのスイッチを押されて、聖母にも娼婦にもなる」


 瞳の中の煌めきが揺れる。それは、溢れはじめた涙のせいだった。


「この曲線の美しさときたらどうだ。どんな美術品もかなわないよ。僕は心から、真剣に、そう思っている」


 そこにあるのはただ、純粋な感動だった。まるで絵画を見る学芸員(キュレーター)のような熱っぽさと、触れることが許されない美に相対した者のような「畏怖」まで浮かべて、彼はこう続ける。


「葉月のおっぱいは、本当に……、他の誰のものよりもきれいだよ」


 今までに見た、どんな女優やモデルのヌード写真集なんかよりも。彼は天を仰ぎ、目を閉じて、葉月の前に頭を垂れる。ベッドの上で、裸の葉月のへそのちょうど上あたりに額をつけて、苦しげに息を切らせて。


「だからね、だから――」


 ☆


「だから、独り占めにしちゃあいけない。みんなに見せて、触れさせてあげるべきだって言われたの」


 事もなげに話す姉、葉月の表情に、弥生は開いた口が塞がらない。言いたいことは山のようにあるのに、その山が一気に崩れすぎたせいか、喉の辺りで詰まってちっとも口から出てこなかった。


「……それが、その、おっ、ぱい……パブで働いてる理由だっていうの?」

「そうだよ」


 まるで幼児のような素直さで、葉月は頷いてみせた。


「そうだよって、なんなの。そんな簡単に、……だって風俗だよ? なに考えてんの?」



 弥生は怒っていた。


 待ち望んでいた第一子が誕生して三ヶ月、朝も夜も慣れない育児に追われフラフラになっていた彼女がある日の朝、玄関で見つけたもの。小さなカードには小さな写真がついていて、女性と店の名前が印刷されている。

 ここのところ赤ちゃんを見に来る客もいなかったので、その名刺を持ち込んだのは夫のノブヒロで間違いない。


 赤ちゃんを寝かしつけて、小さな可愛らしい服を干し終わって訪れた、至福のひととき。

 よせばいいのに、弥生は思わず、コーヒーを片手に名刺に書かれた店の名前を検索していた。

 

 小さなスマートフォンの画面に現れた検索結果は「おっぱいパブ なないろ☆ちぇりー」。名刺と住所が一致したから、間違いないだろう。


 キャバクラかなにかだと思っていたのに。第一のショックは夫の行ったであろう店が「おっぱいパブ」だったことだ。

 途端に激しく暴れ出す心臓にハラハラしながら、それでも弥生は店のホームページを見るのをやめなかった。そして第二のショック。


 所属している「キャスト」たちの一覧を、弥生は見ていた。名刺に映っている女性が一体誰なのか、当然ホームページを見たところでわかるわけもないのだが、そこまで気がまわらずに、ただひたすら不愉快な気分にまかせて画面をタップしていって、そして、とうとう遭遇してしまった。

 大抵の「キャスト」たちは顔を隠している。モザイクが入っていたり、目だけしか映っていなかったり、手で半分見せないようにしていたり。写真を載せていない者までいるのに、堂々と顔を出して映っているツワモノがただ一人。

 それが実の姉の葉月だと気が付いて、弥生は気を失ってそのまま真後ろに倒れてしまった。



 混乱してぐつぐつと煮える心の中をどう整理していこうか。

 混乱しているので、答えは出ない。うまく出せない。出せないまま、弥生は母に息子を預け、姉のマンションへやって来ていた。


 久しぶりに会う姉は相変わらずヘラヘラとした軽薄な笑いを浮かべており、客が来るとわかっているのに部屋の中は散らかり切っている。脱ぎっぱなしの服、ダイレクトメール、コンビニのビニール袋がそこら中に落ちていて、足の踏み場がない。

 それを勝手に、乱暴にどけてどうにか腰を落ち着ける場所を作ると、弥生は姉に問いかけた。


 お姉ちゃんはおっぱいパブで働いているの、と。


 返事はとても簡単、明朗、そして快活な「そうだよ」。


 弥生は目を閉じ、少しだけ泣いた。心の中でほんの少しだけ泣いて、顔には出さずに、何故「そんな店」で働いているのかと更に尋ねた。そして返ってきたのが、ベッドの上で彼氏に囁かれた「綺麗なものはみんなでシェアしなきゃ」という言葉だ。


「私も、なるほどそうかー、って思ったんだよ。お客さんがおっぱいを触りに来るでしょ? 私が触らせてあげる。お客さんは喜ぶ。で、私はお金がもらえる」

 そうしたら彼氏が喜んで、二人の愛は深まるらしい。


 典型的なヒモ野郎じゃないか、と弥生は思う。


 姉の葉月は、馬鹿だった。昔からずっとそう。見た目の良さと愛嬌で他人に甘え、それだけで人生を乗り切ってきた、ズルくてお得な馬鹿だった。それなのに、勉学に励み、言いつけを守り、人生を真摯に他人に迷惑をかけずに生きる弥生よりも、可愛がられるのはいつだって葉月の方だった。


 放っておけないだとか。

 守ってあげなきゃだとか。

 

 到底納得できない理由で、姉は愛される。二十六年間見つめ続けてきた残酷な現実。振り切ったつもりでいたのに、ここにきてまた、弥生の前に立ちはだかっている。


「そんな女がいるから! いつまでも女性は自立できないんじゃない!」

 弥生の口から出てきた言葉の一番手は、まずはこんな台詞(モノ)だった。

「どんなに真面目に働いても、男と同じくらいやれますよってとこ見せても、そんな風に『女』を売り物にする奴がいるから! いつまで経ってもいなくならないから!」

 絶叫に近い言葉に、姉、葉月は眉をひそめてみせる。

「どうしたの弥生。そんな話をしに来たの?」


 あまりにも動じない姉の言葉に心を冷やされて、弥生は再び狭いスペースへ座った。


 対決をする前に考えてきたのに。

 姉のペースに巻き込まれない、無駄に熱くならないと決めてきたのに。

 いきなり暴発させてしまった。


 頭が痛かった。体もだるい。まだ生まれたばかりの新しい命との生活に慣れていない。毎日毎日、昼も夜もあったもんじゃない。ご飯をまともに座って食べる暇もない。ゆっくり眠れない。


 私はこんなにも頑張っているのに、姉は風俗勤め、夫はその店に遊びに行く父親の自覚ゼロ男。


 改めて現実について考えてみたら、体の奥から熱くて混沌とした感情が湧き出してきて弥生を襲った。目頭が熱い。頭の奥、芯の部分を震わせて、心を砕く。膝の上に置いた手は震えだし、そんな風に弱々しい反応をする自分がみじめで、許せなくて辛かった。


「弥生、だいじょうぶ? お茶出すねえ」

 床の上に置いたあれこれを飛び越えて、葉月は台所へと向かう。キッチンに溢れた食器類をガチャガチャとひっくり返し、最終的にはゴミの山の中から紙コップを取り出して、ペットボトルのお茶をジャバジャバと注いで、またぴょこぴょこと散乱した何かをよけながら妹のところへ戻ってきた。

「落ち着いて話そうか」

「いらない」

 そっけなく姉の差し出したコップをつき返し、弥生は口を思い切りひん曲げる。けれど次の瞬間、口元に入れた力はあっという間に緩んだ。

「あ、もしかして。ノブヒロ君がお店に来た話?」

 勝手に一人で核心をついて、葉月はヘラヘラと笑っている。

「大丈夫だよお、私は接客してないから。さすがに義理の弟におっぱい揉ませるほど非常識じゃないもん!」


 人を殴ったのは初めての経験だった。殴ってやるなんて意識もないまま、反射的に体が動いていた。

 叩かれた姉は頬を撫でながら、ぶつぶつと文句を言っている。どうやらたいしたけがは負っていないらしい。それにほんの少しの安堵と更なる苛立ちを感じながら、弥生は姉をまっすぐに睨みつけていた。


「なんで止めてくれなかったの」

「止めるって? なにを?」

「ノブヒロさんが店に来た時、どうして止めてくれなかったかってことだよ」

「あっはっは!」

 赤くなった頬を揺らしながら、葉月はケラケラと笑っている。

「別に入口でお迎えする訳じゃないんだよ。接客中だったし。大体、なんで止めなきゃいけないの?」


 姉はどこまでも軽やかだった。声も、話しながらパタパタと振っている手も、笑顔もなにもかも。


 理解が出来ず、弥生の怒りは向ける方向を見失ってしまう。抱えきれない程の苛立ちと共にここへ来たはずなのに。妹は震えるばかりで、声を出せずにただ拳を強く握るくらいしか出来ない。


「あのねえ弥生、男の人って本当にみんな、おっぱいが好きなんだよ」

「はあ?」

「好きなんだよ。わかるでしょ?」


 わからない、と弥生は答えた。熟考を重ねて出した答えではなく、これもまた反射的に口から飛び出したただの「否定」だ。そんな質問に、「うん、そうだよねえ。男って本当にいくつになっても」なんて返せる場面ではない。


 そして姉は、妹の腹立たしげな「わからない」を気にする様子がカケラもない。


「でもね、弥生。自由にいつでもさわれるおっぱいがない男の人って、世の中にたくさんいるの。だから仕方なく、そういう人はおっぱいパブに来るんだよ。あったかくて、柔らかいおっぱいを触りたいの」

「なにを言ってるの?」

「だってその辺の見知らぬ女のおっぱいなんか触ったら、逮捕されちゃうでしょう」

「馬鹿じゃないの?」

 

 話をそらすな、と妹は怒鳴る。

 そらしてないよ、と姉は頬を膨らませる。


「仕方ないじゃない。奥さんがいても、恋人がいても、いつだって自由にさわれるわけじゃないんだよ? 子供が生まれたら急にそっけなくなっちゃって、セックスだって全然しなくなっちゃったってお客さん、何人もいるもん。別に浮気してるんじゃないんだから、おっぱい触るくらいいいでしょうって話だよ」

「なにそれ」


 そんなのルール違反だと葉月は思う。結婚したのなら、妻以外の女性には出来る限り触れないでいるべきだ。浮気をしたいならちゃんと離婚をしてからにしろ、と思う。

 そして「風俗は浮気ではない」については同感だが、姉とは意見がまったくもって違う。

 「風俗なんかに行くべきではない」のだ。女性を、性的なサービスを金で買うなんて、最低の行為としか思えない。


「売る女がいるから、買いにいく男がいるんだよ!」

「買わなきゃ永遠に女に触れない男だっているんだよ?」


 怒りを爆発させ、息を切らせる妹とは対照的に、姉は冷静だった。微笑みすら浮かべて、いやらしい男の味方をするような言葉を次々と吐き出してくる。

 しょうがないじゃない。恋人がいないんだから。触れたいんだから。合法的に触れる場所があるんだから。


「あんたみたいに簡単に風俗の仕事をする女がいるから! どうして、同じ女なのに! 女の地位を貶めるようなことをするの?」

 


 昔から、弥生は姉が嫌いだった。

 愛想が良くて、可愛くて、ちょっと抜けてて、天然なところもあって、ついつい守ってあげたい、助けてあげたいと思わせる「女の子らしい」魅力に溢れた葉月。弥生は顔も地味で、曲がったことが許せなくていつでも正論を吐き、他人の怠慢や悪事を許さない少女だった。

 どう考えても弥生の方が正しいのに。堅苦しいとか、可愛げがないとか。周囲はそんな反応ばかりする。

 この世はまったく不平等だと弥生は思った。

 けれど、彼女は決して腐らなかった。

 実績を積み重ねていくのだと、まだ十代の前半だった弥生は決めた。真面目に、誠実に、常に正しく、努力する人間であろうと。決して悪事を働かず、公正で公平な人間でいるのだと。そしていつか、だらしなくていい加減で何の努力もしない姉が人々から見放され、真っ当に生きている妹こそが素晴らしいと言われる日が来るのだと信じてきた。

 高校に入り、大学に通い、手堅い会社に就職をして、誠実な男性と出会って結婚、そして出産。もちろん育児休暇をとって、こどもが一歳になったら復職をする。キャリアも重ね、家庭も築き、母親としても妻としても社会人としても、充実した日々を送る。


 そういう予定だったのに。


「私はこんなに真面目にやってるのに! ちゃんと結婚して、子ども産んで、仕事も続けて幸せにやっていくつもりだったのに。なんでこんなつまんない邪魔されなきゃいけないんだよ!」

「邪魔なんかしてないよ」

「邪魔してるじゃない!」


 叫んだ声が余りにも大きくて、その響きに弥生はクラクラとしていた。甲高い自らの叫び(シャウト)が心をビリビリに引き裂いていくかのようで、腹立たしくて、情けなくて、涙は大粒の雨のようにボタボタと床の上へ落ちていく。


「子供産んで育てて、保育園探して! 頑張ってるのに! おっぱいパブって! みんなで私を馬鹿にして、なんなのよ!」

「仕方ないよ、弥生」


 手渡されたティッシュ箱を思い切り払い飛ばして、弥生はしばらく怒りと涙で震えた。

 ぐしゃぐしゃになった顔を袖で拭いて、なんとかクールダウンして、改めて姉へ問う。

「なにが仕方ないの?」

「お母さんが働いていたら、こどもは保育園とかに預けられるでしょ? 面倒みてくれる人がいないとダメだから。それと同じで、男の人だって世話してくれる女がいなかったらしょうがないよ。想像だけじゃまかなえない日だってあるわけだし」

「なんで赤ちゃんと大人の男を同列で考えるの?」

「男の人はほら、定期的に出さなきゃダメじゃない。造りが女とは違うんだから許してあげなきゃ」

「でも、風俗に行く必要なんかないでしょ!」

「触りたかったんだよ。ちゃんとあったかい『相手』に触れたかったんだよ」

「だから……」


 今度はみるみる脱力して、弥生はすっかり肩を落としていた。涙は突然止まり、かわりに乾いた笑いが口の端から漏れだしていく。

 価値観、考え方が違い過ぎる。これまでの人生で何度も覚えてきた「諦め」が心を覆って、深い深い溜息が床の上を撫でていく。


「確かに、風俗なんか絶対行かない人もいるよ。でも、ノブヒロさんは溜まった場合、行っちゃうタイプの人だったんだから。そういう人を選んだのは弥生だから、仕方ないでしょう」

 諦めた、と思った途端こんな台詞だ。乾いた弥生の心には再び火がついて、メラメラと闘志が湧き上がっていく。

「偉そうに! 風俗なんかで働いてるくせに!」

 恥ずかしい女、と感情のままに吐き捨てる。

 しかし、葉月の表情は変わらなかった。

「風俗は慈善事業だよ、弥生。温もりを求めている男性に、ほんのひとときだけ安らいでもらう為にあるんだよ」

 姉はそっと視線を妹から外し、カーテンの閉め切られた窓へ向けて続ける。

「働いて、子ども預けてまで働く女の代わりにね。子供が生まれたら夫は用無し、忙しいから、疲れているからってさっさと寝ちゃう奥様のサポートも、私たちはやっているんだよ」


 戯言だ、と弥生は思う。けれど何故か、胸のうちに燃え上がっている怒りは色を変えていた。

 負け犬の遠吠えのはずなのに、頭を強く打ち付けられたかのような衝撃が走っている。

 正論なんかじゃないのに、何故か手ひどいダメージを負っている。


「子供産んだら、偉いの? 普通の会社で働き続けていたら偉いの? 夫や子供に寂しい思いさせてまで自分のやりたいことやったら、それで満足なの?」

「うるさい、うるさい!」


 寂しくなんかない。だって、大人なんだから。女が、妻が働くのなんて当たり前だ。二人で働いて、子どもを育てながら、豊かに暮らしていくんだ。保育園には育てるプロがいて、いつだってお友達がいる。たくましい子供に育つはずだし、最初のうちは熱が出たのなんだの、振り回されることになると聞いている。母親として努力をして、父親の自覚を育てて、なんだって一緒にやっていく予定だった。


 二人で話し合って、準備して、結婚して、新しい命も授かった。予定通りだ。こうしていこうと決めた理想の通りなのに。なぜ、今、自分が、目の前にいる世界で一番だらしなく能のない女に説教めいた話をされているのか、弥生にはわからなかった。


彼氏(ヒモ)に褒められたからって、それで騙されて風俗嬢になったんでしょ! 下衆男に騙されて、世の中の真面目に生きてる女のパートナーを誑かして、あんたは最低最悪のクソビッチじゃん!」

「騙されてないよ」

 姉の視線が、まっすぐ前へと戻される。

「弥生はどうして、私個人の幸せを無視するの?」


 私には、私の幸せがある。確かに彼に貢いでいるけれど、それは愛しているからだよ、と葉月は続ける。

 彼の笑顔を見たいし、助けになれたら嬉しいから、と。


 反吐が出そうだった。今までに何度、同じように男に弄ばれてきたか。姉の歴史をそばで見守ってきた妹は知っている。それでもまだ騙されて、それでもまだ幸せを感じるなんて。最低最悪の馬鹿の極みだ。


 もっと最悪なのは、そんな姉だとわかっているのに両親がかばうことだった。お姉ちゃんにはお姉ちゃんの人生があるから。いつかわかるはずだから、許してあげなさい。とんでもない。許せるわけがない。


「どうしていつもそうなの? 私が、私が馬鹿みたいじゃない! 真面目にやってきたのに。そうやってお姉ちゃんが同じ調子でフラフラ人生をいいように歩んでて、自分がやってることが全部無駄に思えてくるよ」

 

 これまで、ずっと胸に留めてきた思いをとうとう吐き出して、弥生はがっくりとうなだれた。

「そんなことないよ」

 頭のてっぺんに、葉月の声が降り注いでくる。

「弥生は偉い。何の問題もない人生で、すごく偉い。普通は偉い。トラブルがないのは偉い。ちゃんと結婚して偉いし、仕事続けて偉いし、子ども産んで育てて偉い」


 大真面目な声がいくつもいくつも、弥生の「普通」を褒め称えていく。


 やりきれない思いを胸にいっぱい溜めて、弥生は無言のまま、姉の部屋を出た。




 実家へ戻り一息ついて、息子を抱いて自宅へ戻り、弥生はじっとソファに座って目を閉じていた。

 考えることがいっぱいで、いっぱい過ぎて、辛かった。

 けれど、怒りと不安で破裂しそうな心を抱えていた昨日の夜よりも、今日の夜は穏やかな気持ちだった。それに気が付いて、弥生はコーヒーを淹れて、いつもよりスティックシュガーを一本多く使って、それを飲んだ。


 怒りの矛先をどこに向けるべきなのか。それすらわからなかった。

 姉に向けたのは、もちろん本人がいやらしい怪しい店で働いていたからだ。しかも、ホームページに写真の掲載までして。


 けれど本当なら、まずは夫に怒るべきだった。

 ただ、店の名刺をすっと、黙って差し出すだけで済んだのに。


 姉に対してだって、あんな店に勤めるのはやめてほしいと訴えるだけで良かったはずだ。夫が店に行ったことまで含めて責めたのは、どう考えたって筋が違う。


 夫に嫌われるのが怖かったから。


 弥生は自分の心を認め、小さく息を吐き出していく。葉月の指摘の通り、妊娠して以来夜の生活はない。妊娠中の性交渉は怖い、と夫は言った。弥生もそんな気分にはなれなかった。今もそうだ。おっぱいなんて揉まれたら、母乳が出てしまう。それは赤ちゃんのもので、夫のものではない。いやらしい行為の中にその神聖なものを混ぜたくなくて、そわそわした様子の夫をずっと避け続けてきた。


 小さく生まれた罪悪感に気が付いて、弥生はまた息を吐く。


 だって仕方がない。妊娠して、子どもを生んで、一日中世話に追われるのだから。夫の世話なんてしていられない。じゃあいつ、元通りになるのか? 一年経ったら復職する。朝はバタバタ、昼は働き、夕方子供を迎えに行って夕食の支度をしたら、きっと今よりヘトヘトだ。職場のお局の嫌味が炸裂した日にはきっと、イライラして眠れなくなるだろう。第二子のことだって考えなくてはいけない。復職して、また育児休暇をとるとしたら何年くらい空けるのが正解だろう? じゃあ、一日中バタバタする生活を妊娠中もしなければいけないんだ。ため息。いや、夫婦の営みはちゃんと合間に復活する。第二子が出来るんだから。ちゃんと狙いすまして、最低限でやっていけば負担も軽い。


 こんなシミュレーションをして、弥生は思わず額をおさえた。


 「一番幸せな充実した生活」のはずなのに、どうして息苦しさを感じているのか。

 幸せなはずだ。いや、幸せにはもうヒビが入っている。だって夫は実際におっぱいパブに行ってるんだから。


 どうして?


 自分が拒否しているからだ。触れたいのに、逃げるから。我慢できないから。

 こんな今の生活に夫の幸福はあるのか? 


 聞いて確かめたいけれど、怖い。夫の口からなにが飛び出してくるか、想像がつかなかった。

 理想の人生の為に結婚した人だから。好きだとは思ったけれど、心の底から愛しているかはわからない。堅実な人生の設計をして、それに「ちょうどいい」ピースだったから、ハメたんだ。両親、兄弟みんないい人で、次男だったのも良かった。ギャンブルはやらない、タバコも吸わない、酒はたまに少し飲む程度。顔はそこそこ、体格もごく普通、健康診断でも引っ掛からない。


 ちょうどいいから付き合って、ちょうどいいから結婚した。

 もしも、夫もそうだったら?

 こんな疑問に、弥生は震える。

 ちょうどいい女がいたから、結婚した。そこに、心の底からの愛があるかどうか? 自信は、ない。心の底からの愛なんて、どういうものなのかわからない。


 立ち上がって、眠る我が子のそばに駆け寄り、弥生は震えた。

 夫によく似たひらべったい顔。小さくて可愛い。


 自分の人生に必要だった「かわいいこども」だ。


 急に恐ろしくなってきて、弥生はベビーベッドの中に手を伸ばした。

 小さな小さな柔らかい手が、ひたすらに暖かかった。




 ☆



 次の日の朝。

 気分はすぐれない。

 夫を送り出し、洗濯や掃除を済ませていく。息子が泣いたらあやし、その忙しさに夢中になっていく。


 心の中で渦巻くモヤモヤのすべてに対して、まっすぐに立ち向かう勇気がない。


 信じてきた自分の信念や人生が壊れてしまったらと思うと、恐ろしかった。

 見たくなくて、普段よりもわざと、日常を慌ただしいものに変えていく。




「もしもし、弥生?」


 夕方、ソファでうつらうつらとしていた弥生の耳に聞こえてきたのは、留守番電話のメッセージだった。メッセージをどうぞ、という機械音の次に聞こえてきたのは姉の声で、いつもとは違う神妙な響きを孕んでいる。


「昨日はごめんね。弥生が帰った後、色々考えたんだ。昨日の夜あのお店は辞めたし、彼とも別れたよ。お店辞めたって言ったら怒っちゃって、もう二度と来ないってさ。あはは」


 あっけらかんと話す姉の声に、弥生は体を起こしたものの、立ち上がれずにいる。体がだるいし、心も重い。


「あのねえ、上手く言えないけど、弥生はさ……。いつも、正しいから。私と違ってすごくマトモで、頭が良くて、立派だからね。だから、弥生の言う通りにしようと思って。お姉ちゃんが風俗で働いてるなんて、バレたら迷惑だよなって。弥生だけじゃなくて、ノブヒロさんにも、ヒロト君にも」


 葉月はいつでも馬鹿な姉だったけれど、一つ誰よりもいいところがあった。


 葉月は嘘をつかない。

 男がおっぱいを求めているのも、そんな男たちを救っていると思うのも、騙されていたとしても好きな男の為に尽くすのも、風俗を否定してキャリアに生きる女性を立派だと言うのも、すべて本心なのだろう。


 それはそれ、これはこれ。一つ一つを見つめ、認める。

 たくさんの矛盾を生みながら、葉月はほとんどすべてのことを許していた。


「ごめんね、弥生。もしもノブヒロさんに言いづらいなら、私が可愛い奥さんがいるんだからおっぱいパブなんて行ったら駄目だよって言ってあげるから。もちろん、他の人には誰にも言わないよ。内緒だよ。二人っきりの姉妹なんだからね、安心していいよ」


 そんな適当な姉が嫌いだった。


 けれど、愛にあふれている人だとも、今は思う。

 あれだけ酷い言葉を投げつけた妹を、憎んでいない。憎むなんて選択肢をきっと、そもそも、持っていないんだろう。


 その純粋さがうらやましい、と弥生は思った。

 何故姉が愛され、守られるのか。ようやくわかって目を閉じる。


「ちゃんとお店辞めたし、今度遊びに行ってもいい? ヒロト君、オミヤマイリだったっけ? あの時見て以来だから、大きくなってるんでしょう。ちゃんと手は消毒していくから。いいかな?」


 立ち上がり、受話器を取り上げて弥生は答えた。


「爪も短くしてきてくれるならいいよ」

「ホント? じゃあ切っておく! また連絡するね!」


 弥生が出たことに気が付いたのか、気が付いていないのか。電話はこれで切れて、弥生は苦笑いを浮かべながら受話器を置いた。



 そして心の底からの笑みを浮かべて、ほんの少しだけ計画通りじゃなくなった自分の人生を、許した。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点]  読んでいてなにか、救われた気がした。 [気になる点] すっげぇ好きなのに感想書いてなかった! 何やってんねんオレ! [一言]  私は男なので、おっパブで働くお姉ちゃんの意見に「そうだそう…
[一言] 今、ちょうど二人目生んですぐなので、色々考えさせられました。 最後少しほっこりしました。 うちの姉がおっパブに勤めてたらまじで泣いちゃう(´-ω-`)
[一言] 弥生の心情が事細かく描写されており、感情移入しまくりました。同じように怒りを感じ、ハラハラもしました。読み手にそのように思わせるのはさすがだと思います。 最後は二人の姉妹の絆を感じ、ほろりと…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ