空はこんなにきれいなのに
俺はいつも、幻想――すなわち、ありふれた日常にドラマチックな展開が起きることを追い求めていた。
いつも空想の目を向けてはみるものの、ファンタジーに满ちた世界や人生なんて、ただの一度も見つかりはしなかった。
「退屈な日常の溝を、ただ毎日なぞるだけの生活」
買ったばかりのイチゴのショートケーキを手に、ケーキ屋を出る。
今日は医者から聞かされていた日だ。従妹が退院するはずの日。そう思うと、俺も心の底から彼女のために嬉しさが込み上げてくる。
駅の近くまで来た時、サイレンの音が耳を突いた。見ると、あちこちから野次馬が集まっており、警察官が規制線を張って人混みを整理している。好奇心に駆られ、何事かと少し近づいてみた。だが、人垣が厚く、つま先立ちをしても向こう側はほとんど見えない。
「飛び降り自殺だってよ」
「え?」
驚いて、声をかけてきたおっさんを振り返る。どうやら、ずいぶん前からここにいる様子だった。
「もったいないねぇ、こんな年頃の子が」
「自殺……」
警察が群衆を遠ざけ始め、俺も流れに押されるように外側へと歩き出す。人の隙間から、血の海に横たわる少女の姿がかすかに見えた。ゆっくりと固まりつつある鮮血が、冷たいアスファルトの上で、まるでケシの花のように鮮やかに咲き誇っていた。
これが、俺が最後に病院へ従妹の看病に向かう途中で起きた――多分俺の人生には何の関係もないの出来事だった。
三ヶ月前。
世界中を旅することに熱中している姉が、ひょっこりと何の前触れもなく帰宅した。彼女が「面白いから」と持ち帰ってきた、正体不明の奇妙な土産物を見つめながら、俺は思わずため息を漏らす。
「お気に召さない?」
「好きになる要素がどこにあるんだよ」
俺はキッチンへと背を向け、ぶっきらぼうに返す。
「傷つくわぁ……あ、私の分もサンドイッチ作ってね」
簡単に朝食を済ませ、ソファに腰掛けてテレビをつける。適当にチャンネルを切り替えながら、退屈な長期休暇を潰せそうな面白い番組を探していた。
「夏休みが始まって、もう一週間くらい?」
「ん」
「毎日こんな感じ?」
「ん」
「何もしてないの?」
「んー……」
姉が俺の後ろに回り込み、わしゃわしゃと髪をかき乱した。そして、一枚の写真を俺の目の前に突きつける。見覚えのない誰かの写真だ。俺の視線は一瞬だけそこに留まったが、すぐにテレビの画面へと戻した。
「私たちの従妹」
「知らない」
「そりゃそうよ、最後に会ったのなんて、あんたたちがまだ四、五歳の頃だもん」
ワイドショーでは、世間でまことしやかに囁かれている都市伝説の特集が組まれていた。夜、清掃員がビルの屋上を掃除しようと扉を開けたところ、幽霊が屋上をふわふわと彷徨っているのを目撃したという。
俺自身、オカルトや超自然現象の類には大して興味がない。どうせ集客目的のハッタリか何かに決まっている。ただ、暇つぶしのコンテンツとしては悪くない。
この話はこれで終わりだと思っていると、姉は写真を俺の手元に置き、どこか命令交じりの口調で言った。
「ミッション。病院へ行って、彼女の看病をしてきなさい」
「それ、親の義務だろ」
「叔父さんも叔母さんも、仕事が死ぬほど忙しいのよ……」
「自分の子供より大事なのかよ」
視線はテレビ画面に向けたまま。ちょうど、ネット上で噂されている幽霊のイメージ画像が映し出されているところだった。
「行かないわけじゃないのよ。どうしても手が離せない時があるだけで」
「行きたくない……」
パコン、と乾いた音を立てて、俺の頭に木刀が落ちてきた。
「これから長いお休みがあるんだから、この機会に、あんたの求めてる『ファンタジー』とやらを探しに行ってみたらどう?」
「それ、脅迫……」
明らかに頭にかかる重みが増した。剣道の全国大会チャンプである姉が獲物を手にしている時の威圧感は、地獄の底から這い出てきた悪鬼のそれと何ら変わりない。
「ん?」
容赦ない重圧に頭を下げざるを得なくなり、視線が手元の写真に落ちる。俺は結局、妥協することにした。
「……分かったよ」
姉は満足げに頷き、頭から木刀をどけた。
「あんた、こういうの信じる?」
テレビに映る、人々が妄想した『白いワンピース姿の少女の幽霊』を見つめ、俺は沈黙を保った。やがて、ゆっくりと首を横に振る。
「信じない。ただ、確かなのは、司会者やゲストのリアクションの方がこの事件そのものより遥かに面白いってことだ。それに今回の再現VTRの役者は本当に演技が迫真だし、まるで本物の幽霊を見たみたいに見える。その仕事に対する真摯な姿勢は評価に値するよ」
こうして、真っ白だった夏休みのスケジュール帳に、一つの予定が書き込まれた――見ず知らずの従妹の看病。
見ず知らず、という表現は語弊があるかもしれないが、俺に言わせればそれが事実だった。もしこの出来事がなければ、俺と彼女は幼少期を過ぎた後、決して交わることのない二本の平行線だったはずだ。
病院は家からさほど遠くなく、手頃な距離にあった。タクシーを使うこともできたが、俺は距離に関わらず電車移動を好んだ。そちらの方が、なんとなく心を落ち着かせることができる気がするからだ。
「四〇四号室……あそこか」
コンコン、と軽くドアをノックし、少し待ってから中に足を踏み入れた。
そこは個室の病室だった。カーテンは半分ほど閉め切られており、ベッドの上の少女は、膝の上に開いた本を乗せたまま窓の外をじっと見つめている。俺が入ってきたことなど、まるで気づいていないかのようだった。
「あの……織?」
織の視線がこちらへ向き、そしてすぐにまた窓の外へと戻った。俺は苦笑いを浮かべ、ベッド脇の椅子に腰を下ろす。
「覚えてないかもしれないけど、小さい頃に会ったことがあるんだ。俺、君の従兄だよ」
手元のページがめくられる。織は俺を見ようともせず、当然、言葉を返すこともなかった。
「これからしばらく、ちょくちょくお見舞いに来るから。もし良ければ、欲しいものとか話したいことがあったら何でも言って」
織からの返答は、やはりなかった。
彼女が興味を持ちそうな話題を振るべきだろうか。俺は彼女の持つ本に目をやった。まだ読み始めたばかりのようで、めくられたページはほんの数ミリと薄い。
「本、好きなの? 今は何を読んでるんだ?」
「お腹、空いてない? 何か食べたいものがあれば買ってくるけど」
言葉が途切れると、病室には医療機器の規則正しい電子音と、時折聞こえる鳥の鸣き声だけが響いた。なぜ織が俺を無視するのかは分からない。ただ、それがかえって俺の好奇心を刺激した。これから先、彼女の口から一言でも返事を聞くことができるだろうか、と。
「変な負けず嫌いが発動しちまったな」
俺は自嘲気味に呟いた。
それからの俺は、まるで中世の夜警のように、その場所でただ静かに座り続けた。いくつか質問を投げかけてみたものの、織は例外なく一言も発さず、ただ黙って窓の外を眺めていた。ただ、何かを肯定する時には小さく頷いてくれる。一応、それが彼女なりの『返答』らしかった。
後で、織の薬を替えに来た看護師に話を訊いてみた。看護師の話によると、織は入院して以来、誰とも一言も口をきいていないのだという。両親に対してすら、滅多に言葉を発さないらしい。言葉に障害があるわけではなく、どうやら単純に「人と話すことを拒んでいる」ようだった。
織とのそんな距離感にも次第に慣れ、毎日決まったルートで病院へ通うことが、いつしか俺の日常の一部になっていった。彼女の「無視」から、悪意のようなものは微塵も感じられなかった。おそらく、極端な人見知りか何かなのだろう。
それからしばらくして、駅のすぐ近くに新しいケーキ屋がオープンした。お洒落なショーウィンドウと店内の柔らかな照明に惹かれ、思わず立ち止まる。ここでゆっくりイートインできないのが少し惜しいくらいだ。俺はイチゴのショートケーキを一つ購入した。織が甘いものを好むかどうかは分からなかったが、ちょっとした手土産のつもりだった。
ケーキの箱を手に駅へ向かい、いつもの時間の電車に乗り込む。ケーキを潰さないよう、できるだけ人の少ないスペースを選んで立った。駅を降り、箱を持ち上げてぐるりと確認すると、無事に守り抜いたという謎の達成感とプライドが胸に湧き上がってきた。
いつも通り、軽くノックをして一呼吸置いてからドアを開ける。織はやはりベッドの上で本を読んでいた。今日はカーテンが完全に閉め切られているせいか、彼女は窓の外を眺めてはいなかった。
「今日はイチゴのショートケーキ買ってきたんだけど、食べる?」
織の視線が、一瞬で本から俺へと移った。そして、コクコクと勢いよく何度も頷く。これまでの態度からは想像もつかないほどの積極的な反応に、俺は一瞬、呆気に取られてしまった。
「……これ、好きなんだな」
織はもう一度、力強く頷いた。
箱を開け、ショートケーキを織に手渡す。彼女の隣に腰掛けると、そこにあったのは、この一ヶ月以上一度も見ることのなかった表情だった。他人から見れば何てことのない普通の表情かもしれないが、織にとっては、これが紛れもない『嬉しい』という感情の表れなのだと確信できた。
「服に落さないように気をつけてな。好きなら、また買ってきてやるから」
ケーキを食べ終えると、織はまた例の本を開いて読み進め始めた。すでに全体の三分の二ほどまで進んでいる。俺だったらとっくにストーリーだけを追いかけて読み終えているところだ。行間に隠された深遠なメッセージを熟考するなんて芸当は、俺の専門外だった。
俺もバックパックから文庫本を取り出し、読書を始める。病室の明かりは点いているものの、閉ざされたカーテンのせいでどこか薄暗く感じられた。夕暮れ時とはいえ、夏のこの時間はまだ十分に明るい。そう思い立ち、俺は立ち上がってカーテンを勢いよく引き開けた。外の陽光がどっと病室に流れ込んでくる。
織は手元の本を置き、窓の外に目を向けた。俺も彼女の視線を追うように外を眺めてみる。だが、近くにある大きな木と、遠くに林立するビル群が見えるだけで、何度見つめ直しても特別な何かがあるようには思えなかった。俺も時折、どこか一点を見つめてぼーっとすることがある。きっと彼女も同じ性質のものなのだろう。ただ、織のその時間が少しばかり長いというだけで。
帰宅する前、担当医に織の退院時期について尋ねてみた。医師が言うには、経過はすこぶる順調で、一ヶ月もしないうちに退院できるだろうとのことだった。
その知らせを聞いて、織に対する心配や張り詰めていた気持ちがすっと軽くなった。それからの見舞いでは、テレビで見かけた幽霊の噂話など、他愛のない面白いトピックをよく話して聞かせるようになった。初日に胸に抱いた「彼女の声を一度でいいから聞いてみたい」という奇妙な勝負欲は、決して消え去ってはいなかったからだ。
織が返事をすることはなかったし、俺が身振り手振りを交えて熱弁する話を、彼女が本当に聞いてくれているのかさえ定かではなかった。だが、どういうわけか俺自身がその時間を楽しんでいるようで、これまでの人生のどんなことよりも積極的な一面を見せていた。
そうして、俺は来る日も来る日も見舞いを繰り返し、織は来る日も来る日も静寂を保ち続けた。
一ヶ月は瞬く間に過ぎ去った。
物語はここで冒頭へと繋がる――織の入院最後の日だ。
「織ちゃん、今日退院でしょ?」
「あぁ」
「今日も行くの?」
「行くよ」
「へえ――随分と積極的じゃない。どうやらお望みの『ファンタジー』とやらが見つかったみたいね」
姉のからかいを無視する。およそ三ヶ月に及ぶお見舞いの日々は、確かに俺の空白だった日常に一筋の波紋を広げ、自分が追い求めていたファンタジーの破片を、ほんの少しだけ感じさせてくれていた。
イチゴのショートケーキを手に、電車の窓から瞬く間に流れ去る景色を眺める。
先ほどビルの前で目撃した飛び降り自殺は、おそらく間もなく世間を騒がせる大ニュースになるのだろう。自殺――辞書的な定義では『自ら生命を絶つこと』だが、それは俺が生涯において絶対に選択しない行為だ。
あのビルも、これで一躍有名になるに違いない。最初は屋上で幽霊を見たという噂が立ち、今度はこの事故だ。テレビ局の人間がこのネタを放っておくはずがない。すぐにまた、さらに尾ひれがついた奇妙なオカルト話が量産されるのだろう。
電車が駅に滑り込み、俺はいつもの通りルートで病院へと向かう。エレベーターの扉が開き、いつものように軽くノックをしたが――ドアは開かなかった。
「鍵がかかってる……? もう帰っちゃったのか」
ドアの前でぽつんと立ち尽くした後、俺は踵を返した。騒がしい人混みを通り抜ける最中、どういうわけか、目の前の世界がまだらなフィルター越しに見えているかのように、ぼやけ、狂い始めていくのを感じた。
いつも通りの日常が、ほんの少し狂ってしまったからだろうか。客観的に見れば些細なはずのこの出来事が、なぜこれほどまでの喪失感を連れてくるのだろう。
ピッ、ピッ……
「何の……音だ……?」
ピッ、ピッ……
奇妙な電子音が四方八方から鳴り響く。それは俺を取り囲み、ほぼ毎日通い詰めていたはずの病院の廊下で、俺の方向感覚を狂わせていく。
ピーーーー――。
万物が、静寂に包まれた。
あの日、織が退院するはずだったあの日、俺は彼女に会えなかった。
そして同じ日のこと。家に帰って間もなく、姉からの電話で、俺は織の訃報を知らされた。
通話を終え、受話器を下ろしたまま、俺はその場に呆然と立ち尽くした。
そうか、そういうことだったのか。部屋に誰もいなかったのは退院したからじゃない。おそらくあの時、彼女は集中治療室で懸命な蘇生措置を受けていたのだ。あるいは、最悪のケースを想定するなら、すでに……。
なぜだ。
経過は順調だと、医者はそう言っていたじゃないか。
俺は次第に両拳を固く握りしめた。目頭が熱くなり、涙が視界を滲ませる。それがどんな感情なのか、自分でも分からなかった。涙を堪えようとしているのか、それとも無理にでも泣き叫ぼうとしているのか。
結局、最後の最後まで、俺は織の声を聞くことができなかった。
机の上に置かれた箱を開けると、中のイチゴのショートケーキは無惨に形を崩していた。フォークで小さく一口、口に運ぶ。味覚なんて麻痺しているはずなのに、気がついた時には声が漏れていた。
「……甘いな」
そうだ。俺と織の最後のやり取りは、前日に俺が病室を去る時だった。
「明日の退院祝いに、イチゴのショートケーキを買ってくるから」と、俺は彼女に約束したんだ。
数日後、叔父さんと叔母さんの手によって、織の簡素な葬儀が営まれた。遺影の中の彼女を見つめても、そこに笑みが浮かんでいるのかどうか、俺には判別がつかなかった。笑っていないと思えば、微笑んでいるようにも見える。逆に笑っていると思えば、それは完全に感情を失った冷淡な仮面のようにも思えた。
叔母さんは俺に一冊の本を手渡した。織が俺に遺したものだという。中身を確かめる気にもなれず、そのままバックパックに放り込んだ。
帰り道、車内は重苦しい沈黙に支配されていた。窓を叩く雨音に紛れ込ませるように、俺は姉に問いかけた。
「小さい頃、俺たち本当に一緒に遊んだことあるのか? なんで俺、何一つ覚えてないんだろ」
「一緒に遊ぶたびに、織はいつもすぐに叔母さんに呼び戻されてたからね。それにその後、あの子の将来のためって、あの一家はあちこちを転々としてたの。当時のあんたはまだほんの子供だったんだから、記憶にないのも無理ないわよ」
俺はバックパックからあの本を取り出し、車内の薄暗い灯りに透かすようにして、ゆっくりとページをめくった。本の隙間から、一枚の便箋がハラリと落ちる。きっと、織が書いたものだろう。
『夢を見たの』
『……』
『本当に信じられない。私にも、こんなに遠くの景色が見渡せるなんて』
『……』
『……』
これは――。
その瞬間、俺の脳内で、これまで全く無関係だと思っていたいくつもの出来事が、一本の目に見えない糸によって急速に結びついていくのを感じた。震える手で便箋を折り畳み、顔を上げる。バックミラーに映った俺の瞳は、みるみるうちに涙で潤んでいた。
「姉貴、車を止めてくれ! 降りたい!」
「どうしたのよ?」
「用事があるんだ。一人で戻る」
ドアを乱暴に閉め、傘を開く間も惜しんで、俺は激しい雨の中を目的地へと走り出した。目指すは、あのビルだ。
テレビが報じていたのは、オカルトの幽霊なんかじゃない。いや、もしかしたら、ここから始まるのが――。
通行人の奇異の視線を浴びながら、俺はあのビルの麓まで全力で駆け抜け、そのままエレベーターへと飛び込んだ。最上階のボタンを押し、手すりにすがりつく。激しい呼吸による熱気と、降り注いだ雨の滴がメガネのレンズを完全に曇らせ、視界はただ真っ白に染まって何も見えなくなった。
俺が追い求めていたファンタジー、俺が焦がれていたドラマチックな展開……こんなのじゃない!
服の裾で無造作にレンズを拭い、俺は屋上へと続く重い扉を力任せに押し開けた。
俺の瞳に飛び込んできたのは、白いワンピースを身にまとった少女の背中だった。
彼女はそこに立ち、眼下に広がる世界のすべてを見下ろしている。
まるで時間が氷結したかのようなその光景に、俺は自分が雨に打たれていることすら忘却していた。
彼女に向けて一歩を踏み出す。だが、どれだけ歩みを進めても、二人の距離は一向に縮まらない気がした。あの日、病院の廊下で耳にしたあの奇妙な電子音が、今、記憶の底から鮮明に蘇ってくる――それは、心臓の鼓動がゆっくりと、確実に停止していく音だった。
俺は足を止め、掠れた声で静かに問いかけた。
「――織、そこにいるのか?」
少女がゆっくりと振り返り、俺を見て微笑んだ。次の瞬間、どこか現実離れした透明な声が、耳元で優しく響く。
「いるよ、兄さん」
――あぁ、そうか。
自殺だなんて、とんだお門違いのデタラメだ。
彼女はただ、今日は上手く飛べなかっただけなのだ。
目の前にいる、翼の折れた小鳥。それを見つめる俺の唇には、どういうわけか、彼女と全く同じ形をした微笑が浮かんでいた。少女は再び視線を前方へと戻し、その唇から優しく軽快なメロディを口ずさみ始める。
あの病室にいた時と同じように、俺も彼女の視線の先を追った。どんよりとした雨雲はそこにあり、雨は降り続き、薄暗く灰色に濁った世界はあの頃と何一つ変わっていない。
それでも、俺の目に映っていたのは――彼女が抱いていた、あの果てしない青空だった。
天使から翼を授けられた彼女にこそ相応しい、どこまでも広がる無垢な自由。
たとえ今、その翼を失ってしまっていたとしても、小鳥は今も、明日を歌い続けている。




