夜の呼吸
その夜。
迅は眠れなかった。
布団の中で、天井を見つめる。
森の円形の地面。
雪のない場所。
あの感触。
(温かかった)
理屈が通らない。
ストーブの音がやけに大きい。
窓の外では、札幌の夜が白く静まっている。
ふと。
スマホが震えた。
翔太からだ。
「森、変」
短い。
迅は飛び起きる。
すぐにグループ通話をつなぐ。
圭が出る。
「外見て」
迅はカーテンを開ける。
住宅街の向こう。
遠くに見える森の方向。
薄く、霧がかかっている。
夜なのに。
雪は降っていないのに。
「気温、下がってない」
圭が言う。
「なのに地表だけ霧」
翔太の声が低い。
「昼間の場所、地図で見ると」
「見ると?」
「ちょうど立ち入り禁止区域の中心」
迅の喉が鳴る。
「行くか?」
沈黙。
数秒。
圭が言う。
「行く」
美咲は出ていない。
呼んでいない。
危険だからだ。
四人ではなく、三人。
迅はクマ撃退スプレーをリュックに入れる。
ヘッドライト。
軍手。
ロープ。
翔太は折りたたみナイフ(木を切るための小型)、圭は温度計と方位磁針。
夜の札幌は静かだ。
三人は裏道を使い、森へ向かう。
警察の巡回は正面入口のみ。
西側は暗い。
ロープはそのまま。
三人は迷わず侵入する。
夜の森は、昼と違う。
音がある。
だがそれは、方向が分からない音。
枝が鳴る。
雪が落ちる。
だが距離感が狂う。
圭が温度計を見る。
「外マイナス七度」
円形の場所に近づく。
霧が濃くなる。
白い。
足元が霞む。
翔太が止まる。
「……あった」
円形。
昼よりもはっきりしている。
雪はさらに避けている。
半径が、わずかに広がっている。
迅の胸が冷える。
「広がってないか?」
圭が静かに頷く。
「三十センチは」
中心部。
昼はただ土だった。
今は。
薄く、白い息のようなものが地面から立ち上っている。
熱ではない。
霧。
だが下から出ている。
迅は息を呑む。
「これ……地面、呼吸してないか」
霧が一定間隔で揺れる。
吸う。
吐く。
ゆっくり。
翔太が低く言う。
「記録する」
スマホで動画を撮る。
圭が磁針を見る。
針が、わずかに震える。
「狂ってる」
完全ではない。
だが一定方向に引かれている。
森の奥。
円の中心からさらに奥へ。
迅は決める。
「行くぞ」
霧の向こうへ進む。
昼間よりも奥へ。
立ち入り禁止区域のさらに深部。
地形は急に落ちる。
小さな沢跡。
水は凍っている。
その向こう。
木々の並びが、規則的になる。
自然ではない。
圭が言う。
「これ……昔、人が手を入れてる」
小さな石が並んでいる。
円を描くように。
半分は雪に埋もれている。
迅は心臓の鼓動を感じる。
翔太が囁く。
「祭祀跡?」
圭が答える。
「可能性ある」
その瞬間。
森の奥で。
パキッ。
枝が折れる音。
三人は凍る。
音は遠い。
だが確実に、“何かの重み”があった。
迅はスプレーを握る。
翔太はライトを向ける。
何もいない。
霧だけ。
だが。
雪の上に、跡がある。
昼間にはなかった。
三本の線。
深い。
人ではない。
だが動物でもない。
圭が息を詰める。
「これ……」
迅が止める。
「今は触るな」
跡は石の円の内側で止まっている。
外へは続いていない。
まるで。
そこに“立っていた”かのように。
風が止む。
完全な静寂。
迅は決断する。
「戻る」
無理はしない。
今日は観察だ。
三人は後退する。
背を向けないように。
霧の円を抜け。
ロープを越え。
森を出る。
街灯が見えた瞬間、全員が大きく息を吐いた。
同時刻 白石隆司
書斎。
机の上には文献が広がっている。
隆司は目をこすり、ページをめくる。
古い記録。
「境界は三夜、息づく」
その一文で手が止まる。
三夜。
今日が一夜目。
「……広がる」
彼は森の地図を開く。
立ち入り禁止区域。
中心。
そこに小さな印をつける。
昼間、先生に止められた。
だが確信は強まっている。
息子は“ここを通った”。
森の奥から、かすかな風が窓を鳴らす。
隆司は知らない。
今まさに、その場所が呼吸を始めていることを。




