境界の奥
ロープを越えた瞬間から、森の質が変わった。
音が減った、ではない。
音が“吸われる”。
迅は無意識に喉を鳴らした。
「……静かすぎない?」
返事がやけに近く聞こえる。
翔太は雪を踏みながら言う。
「斜面が始まる。滑るなよ」
立ち入り禁止区域は、なだらかに下る谷状の地形だった。
上からは見えない。
だから封鎖されているのかもしれない。
圭はしゃがみ込み、雪を払う。
「動物の足跡がない」
「冬だからじゃね?」
迅が言うと、圭は首を振る。
「狐とかウサギは普通にいる。外側にはあった」
確かに、ロープの手前までは小さな足跡が点在していた。
だがこちら側は、白い。
まっさらだ。
美咲が息を白く吐く。
「……ここ、寒くない?」
迅は首をかしげる。
「え?」
「さっきより、冷たい」
温度計は持っていない。
だが確かに、肌に刺さる冷えが増している。
翔太が周囲を見渡す。
「地形のせいかもな。風が溜まるとか」
理屈は通る。
だが、迅の胸の奥に残る違和感は消えない。
四人は慎重に斜面を下る。
足場を確かめながら。
圭が前を行き、拓海がルートを決め、迅が全体を見る。
美咲は最後尾。
突然、圭が止まった。
「……これ」
雪面に、線。
真っ直ぐな、二本の跡。
「スキー?」
迅が言う。
「違う」
圭は指でなぞる。
平行。
一定間隔。
途切れていない。
「何かを引きずった跡」
空気が重くなる。
「人?」
翔太が低く言う。
圭は首を振る。
「幅が狭い。でも軽い。深く沈んでない」
迅はしゃがみ込む。
確かに、重たいものならもっと雪が沈むはずだ。
これは――
軽いものを、滑らせたような跡。
「いつのだ?」
「今日じゃない。昨夜くらい」
雪はうっすらと新雪がかぶっているが、完全には埋まっていない。
つまり最近。
迅は息を整える。
「行くか」
翔太が頷く。
四人は跡を追う。
森はさらに深くなる。
木々の間隔が狭くなり、光が減る。
時折、雪が枝から落ちる。
その小さな音にさえ、心臓が跳ねる。
やがて斜面が終わり、小さな平地に出た。
そこには――
何もない。
だが。
圭がゆっくり言う。
「ここ、踏まれてる」
雪がわずかに硬い。
広範囲に。
まるで何かが、何度も行き来したように。
迅は周囲を見る。
木の幹。
枝。
根元。
「健太の持ち物、落ちてないか探そう」
四人は散開する。
声は出さない。
雪を払う。
枝を持ち上げる。
美咲が何かを見つけた。
「……これ」
小さな消しゴム。
側面に、黒いマジックで書かれた文字。
“KENTA”
迅の喉が凍る。
「間違いない」
教室で使っていたやつだ。
圭が言う。
「教室で消えた。でも物は森にある」
翔太が静かに言う。
「つまり、向こうから運ばれた」
迅は拳を握る。
「健太はここを通った」
正確には、“通らされた”。
だがそれを今は言わない。
美咲が消しゴムを握りしめる。
「お兄ちゃん、生きてるよね」
迅は即答しない。
代わりに言う。
「探す」
そのとき。
翔太が森の奥を見た。
「……あれ」
全員が視線を向ける。
木々の間。
わずかに、地面の色が違う。
雪が薄い。
いや――
雪がない。
円形に。
半径二メートルほど。
まるでそこだけ、溶けたように。
四人は近づく。
中心部は土が露出している。
凍っていない。
圭がしゃがむ。
「温かい……」
「は?」
迅も触れる。
確かに、周囲より冷たくない。
体温のような温もり。
翔太が低く言う。
「火じゃない」
焦げ跡はない。
煙もない。
ただ、雪だけが避けている。
美咲が震える。
「……ここ、変」
迅の胸の奥で、何かが音を立てる。
ここだ。
中心。
消しゴムが落ちていた場所。
引きずり跡が途切れた場所。
雪が溶けた場所。
だがまだ、何も起きない。
風もない。
音もない。
ただ、森が見ている。
迅は深く息を吸う。
「今日はここまで調べる」
翔太が頷く。
「位置、覚えた」
圭が周囲を目に焼き付ける。
「目印はあの曲がった白樺」
美咲は消しゴムをポケットに入れた。
四人はゆっくりと、来た道を戻り始める。
背を向けた瞬間。
迅は一度だけ振り返った。
円の中心。
土の上に、細い線が一本。
さっきはなかった。
気のせいかもしれない。
だがその線は――
まるで、爪で引いたようだった。
迅は何も言わない。
まだ確信がない。
だが確実に。
森の奥には“何か”がある。
健太は、ここを通った。
そして――
まだ終わっていない。




