渡りの中心
霧が重い。
美咲は立っている。
怖い。
足が動かない。
鳥居は近い。
赤い線が、じわじわと太くなっている。
前方。
霧が割れる。
丸い巨体。
一本角。
三メートルを超える影。
鬼。
目が開く。
濁った琥珀色。
じっと、美咲を見る。
「小さな秤」
声は低い。
だが先ほどより柔らかい。
美咲はしゃくりあげる。
「帰りたい……」
鬼はすぐ答えない。
一歩も近づかない。
代わりに言う。
「帰れる」
美咲の呼吸が止まる。
背後。
烏天狗。
動かない。
監視位置。
赤い目が、状況を記録するように見ている。
鬼は続ける。
「門が開けば」
霧がゆっくり渦を巻く。
「お前も、兄も、恐れずに済む」
美咲の瞳が揺れる。
「……ほんと?」
鬼は頷かない。
否定もしない。
「封じられているのは、我だ」
声がわずかに低くなる。
「閉じ込められ、忘れられ、
役目だけを押し付けられた」
角の根元に走る亀裂が、かすかに光る。
「恐れを生むのは我ではない」
美咲は震えながら聞いている。
鬼は囁く。
「人が、恐れを必要とした」
静かに。
ゆっくり。
「だが今は違う」
霧が少し晴れる。
鳥居の向こうが、わずかに見える。
森。
朝の光のような気配。
「門を押せばいい」
鬼の声が甘くなる。
「ほんの少しでいい」
美咲の足元に、赤い線が伸びる。
触れれば届きそう。
背後。
烏天狗がわずかに動く。
だが止めない。
命令はただ一つ。
封印維持。
秤への干渉は規定外。
鬼がさらに言う。
「お前は特別ではない」
優しい声。
「ただ、立っているだけでいい」
美咲は泣きながら首を振る。
鬼の目が細くなる。
「怖いのは閉じ込められることだ」
鼓動。
ドン。
現実側に音が漏れる。
鬼は言葉を重ねる。
「門が開けば、恐れは終わる」
美咲は小さく言う。
「でも、みんなが……」
鬼の声がわずかに鋭くなる。
鬼は続ける。
「お前だけが、選べる」
鳥居が軋む。
赤い線が足元まで届く。
烏天狗の羽がわずかに広がる。
管理反応。
封印値が下がっている。
鬼は囁く。
「押せ」
その声は命令ではない。
誘惑。
美咲は震えながら、手を伸ばしかける。
その瞬間。
烏天狗の目が強く光る。
封印に歪みが発生。
地面が割れる。
鬼の巨体が揺れる。
怒りが混じる。
「管理者……」
烏天狗は答えない。
ただ、封印強度を引き上げる。
鬼が唸る。
「縛られた鳥よ」
初めて、鬼が烏天狗を嘲る。
「名を奪われた者が、我を縛るか」
烏天狗は反応しない。
ただ立つ。
命令の鎖のまま。
美咲はその二体を見ている。
どちらも自由じゃない。
でも。
鬼は出ようとしている。
甘い言葉で。
「……押さない」
小さな声。
震えている。
でも、手を引っ込める。
鬼の目が冷える。
甘さが消える。
「ならば、恐れを増やす」
鼓動が強くなる。
ドン。
ドン。
現実側の森で、地面が裂ける。
門はまだ開かない。
だが。
圧は増す。




