僕と はじめましての聖女さま
杯は、いつもと同じ重さだった。
金縁の装飾も、葡萄酒に混ぜられた薬草の香りも、祈祷の順序も。
すべてが、彼女の知る「祝福」の形をしていた。
差し出したのは、年老いた神官だった。
彼女が幼い頃から仕え、祈りの言葉を教え、沈黙の意味を教えた男。
「今日の祈りは、長くなります」
彼はそう言って、視線を伏せた。
「かまいません」
聖女は微笑んだ。
彼女は疑わなかった。
神に捧げられるものを疑うという発想が最初からなかった。
杯を傾けた瞬間、舌にわずかな苦みが触れた。
だがそれは、薬草によくある味だった。
彼女が葡萄酒を飲んでいる間、神官の脳裏に浮かんでいたのは祈りではなかった。
彼女が、恋人の話をするときの声。
奇跡を語るよりもずっと柔らかく、ずっと人間らしい声。
「昨日、あの人がですね」
その声を、彼は何度も聞いてしまった。
聖女がひとりの男のもとに帰る場所を持つこと。
それは、神殿にとってそして彼自身の人生にとってあまりにも危うかった。
聖女は、誰のものでもあってはならない。
希望は、個人の幸福に縛られてはならない。
それが、彼の信仰だった。
聖女は杯を空にした。
数拍遅れて、喉が焼けるように痛み、視界が揺れた。
膝から崩れ落ちる彼女を、神官は抱きとめなかった。
床に伏した彼女の唇が、微かに動いた。
「……今日も、無事で……」
その言葉が誰に向けられたものか、
神官だけが知っていた。
毒を盛られたその日、彼女は生き延びた。
代わりに失ったのは、奇妙なほど限定されたものだった。
目を覚ました白い部屋で、彼女は静かに祈った。
世界の名前も、神への祈りも、聖女としての使命も、すべて覚えている。
けれど、ベッドの傍らで泣いている男だけが、どうしても誰なのかわからなかった。
彼は彼女の手を握り、何度も名を呼んだ。
彼女は、その温もりを「不思議」と感じながら、静かに手を引いた。
「どなたですか?」
医師は慎重に言葉を選んだ。
「毒は、記憶を奪うのではありません。記憶の中でも、魂に最も深く根を張った部分だけを腐食させます」
「……治る可能性は?」
「失われた記憶が再び祝福されることはありません」
彼は、笑った。
泣き顔より、ずっとひどい表情で。
彼女にとって彼は「知らない人」になった。
だが彼にとって、今も彼女がすべてだった。
だから彼は選んだ。
忘れられたなら、また出会えばいい。
愛されたなら、また愛されればいい。
翌日、彼は再び彼女の部屋を訪れた。
名乗り、身分を告げ、許可を取って椅子に座る。
それだけで、胸が張り裂けそうだった。
「あなたに、お礼を言いたくて来ました。命を救っていただいたことがあるんです。」
彼女は微笑んだ。
聖女として、人を拒まぬ微笑み。
「そうですか。私は、人の顔を覚えるのが得意な方なのですが……」
彼は目を伏せた。
そして彼女にそっと告げる。
「あなたを愛しています。結婚を前提に関係を築いていただけませんか」
彼女は驚き、少し困って、そして笑った。
「……はじめて会った方に言われる言葉ではありませんね」
「そうですね」
そのあと彼女は黙り込み、面会時間終了まで2人はとうとう会話することがなかった。
彼は、毎日訪れた。
名乗り、用件を述べ、短い会話を交わし、必ず最後に言う。
「あなたを、愛しています。結婚してください」
聖女は、毎回同じように驚き、同じように困り、同じように断った。
「突然すぎます」
「そうですね」
「お気持ちはありがたいですが……」
「それでも、言わせてください」
彼女は、それを「熱心な人」だと思った。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
ただ、不思議なことが一つだけあった。
彼の話は、聞きやすかった。
声も、言葉の選び方も、沈黙の間も。
だから彼女は、彼を遠ざけなかった。
倒れた聖女は1ヶ月の入院ののち、神殿の仕事に復帰した。
神殿は、聖女の回復を祝福した。
毒のことは、誰も知らない。知らないまま、すべては正しく回り続ける。
神官は、聖女の祈りが以前と変わらぬことを確認し、安堵した。
それどころか彼女の祈りはより一層深くなっているように思えた。
それでいい。
聖女は、人々のものであるべきだ。
だが、彼女はある日、告げた。
「最近、あの方が来ない日は……少しだけ、静かすぎる気がします」
神官は、何も言わなかった。
それは記憶ではない。
失われたものが、戻ってきているわけでもない。
ただの偶然。
ただの習慣。
そう信じるしかなかった。
ある日、男はいつもより早く訪れた。
「今日も、言いに来ました」
「……毎日、同じですね」
「はい。変わりません」
「変わらないのは、疲れませんか」
彼は少し考え、答えた。
「変わらないことが好きなのかもしれないです。」
その言葉に、聖女は笑った。
「不思議な人」
「そうでしょうか」
彼女は、少しだけ黙った。
それは、初めての言葉だった。
「結婚について、考えてみてもいいです」
彼女にとって結婚の理由は、愛ではない。
ただ、この人と話す時間を、失いたくないと思っただけだ。
それだけで、彼には十分だった。
結婚の許可を求めたとき、神殿は慎重だった。
形式上の確認、祈りの質、奇跡の安定性。
聖女はすべてに淡々と応じ、何一つ乱さなかった。
年老いた神官が、最後に問いを投げる。
「なぜ、その男を選ぶのですか」
聖女は少し考え、正確な言葉を探すように視線を落とした。
「……問題がないからです」
愛でも、幸福でも、必要でもない。
ただ、排除する理由が見当たらない、というだけの答え。
神官たちは沈黙した。
その言葉は、教義に反しなかった。
聖女は私情を持っていない。
誰かの帰る場所になっていない。
ならば、この結婚は、無害だ。
「許可します」
そう告げた声に、祝福の色はなかった。
結婚式は、簡素だった。
聖女としてではなく、ひとりの女として。
神殿の片隅で、最低限の証人と祈りだけが並ぶ。
彼女は誓いの言葉を、滞りなく口にした。
感情が揺れることも、声が震えることもなかった。
新しい生活が始まる。
彼女は彼の名を覚え、生活の手順を共有し、必要な会話を交わした。
それらはすべて、現在の情報として積み上がる。
だが、そこにかつての恋の記憶は紐づかない。
彼女にとって彼は、
夫であり
同居人であり
信頼できる人だった。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
毎朝彼は必ず声をかける。
「おはようございます」
彼女は振り向き、同じ距離感で応じる。
「おはようございます」
ある朝、彼は静かに言った。
「おはようございます。あなたを愛しています」
彼女は一瞬だけ考え、首を傾げる。
「……変わった挨拶ですね」
「僕にとっては、必要な挨拶です」
彼女は、それ以上追及しなかった。
意味を探ることも、記憶を辿ることもない。
ただ、その言葉がある朝とない朝とでは、空気の密度が少し違うことだけは無意識に知っていた。
神殿は満足している。
聖女は聖女のまま。
私情は観測されず、祈りは乱れていない。
誰も、不幸になっていない。
それが、この結末の形だった。
ハッピーエンドって難しいですね
もし、少しでもいいなと思ってくれたら、ぜひ短編まとめも読んでみてください。どこから読んでも大丈夫なのでぜひ!
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