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僕と はじめましての聖女さま

作者: 高橋 淳
掲載日:2026/01/11

杯は、いつもと同じ重さだった。


金縁の装飾も、葡萄酒に混ぜられた薬草の香りも、祈祷の順序も。

すべてが、彼女の知る「祝福」の形をしていた。


差し出したのは、年老いた神官だった。

彼女が幼い頃から仕え、祈りの言葉を教え、沈黙の意味を教えた男。


「今日の祈りは、長くなります」


彼はそう言って、視線を伏せた。


「かまいません」


聖女は微笑んだ。

彼女は疑わなかった。

神に捧げられるものを疑うという発想が最初からなかった。


杯を傾けた瞬間、舌にわずかな苦みが触れた。

だがそれは、薬草によくある味だった。


彼女が葡萄酒を飲んでいる間、神官の脳裏に浮かんでいたのは祈りではなかった。


彼女が、恋人の話をするときの声。

奇跡を語るよりもずっと柔らかく、ずっと人間らしい声。


「昨日、あの人がですね」


その声を、彼は何度も聞いてしまった。


聖女がひとりの男のもとに帰る場所を持つこと。

それは、神殿にとってそして彼自身の人生にとってあまりにも危うかった。


聖女は、誰のものでもあってはならない。

希望は、個人の幸福に縛られてはならない。


それが、彼の信仰だった。



聖女は杯を空にした。

数拍遅れて、喉が焼けるように痛み、視界が揺れた。

膝から崩れ落ちる彼女を、神官は抱きとめなかった。


床に伏した彼女の唇が、微かに動いた。


「……今日も、無事で……」


その言葉が誰に向けられたものか、

神官だけが知っていた。



毒を盛られたその日、彼女は生き延びた。

代わりに失ったのは、奇妙なほど限定されたものだった。


目を覚ました白い部屋で、彼女は静かに祈った。

世界の名前も、神への祈りも、聖女としての使命も、すべて覚えている。

けれど、ベッドの傍らで泣いている男だけが、どうしても誰なのかわからなかった。


彼は彼女の手を握り、何度も名を呼んだ。

彼女は、その温もりを「不思議」と感じながら、静かに手を引いた。


「どなたですか?」






医師は慎重に言葉を選んだ。


「毒は、記憶を奪うのではありません。記憶の中でも、魂に最も深く根を張った部分だけを腐食させます」


「……治る可能性は?」


「失われた記憶が再び祝福されることはありません」


彼は、笑った。

泣き顔より、ずっとひどい表情で。


彼女にとって彼は「知らない人」になった。

だが彼にとって、今も彼女がすべてだった。


だから彼は選んだ。


忘れられたなら、また出会えばいい。

愛されたなら、また愛されればいい。



翌日、彼は再び彼女の部屋を訪れた。

名乗り、身分を告げ、許可を取って椅子に座る。

それだけで、胸が張り裂けそうだった。


「あなたに、お礼を言いたくて来ました。命を救っていただいたことがあるんです。」


彼女は微笑んだ。

聖女として、人を拒まぬ微笑み。


「そうですか。私は、人の顔を覚えるのが得意な方なのですが……」


彼は目を伏せた。

そして彼女にそっと告げる。


「あなたを愛しています。結婚を前提に関係を築いていただけませんか」


彼女は驚き、少し困って、そして笑った。


「……はじめて会った方に言われる言葉ではありませんね」


「そうですね」


そのあと彼女は黙り込み、面会時間終了まで2人はとうとう会話することがなかった。




彼は、毎日訪れた。

名乗り、用件を述べ、短い会話を交わし、必ず最後に言う。

「あなたを、愛しています。結婚してください」


聖女は、毎回同じように驚き、同じように困り、同じように断った。


「突然すぎます」


「そうですね」


「お気持ちはありがたいですが……」


「それでも、言わせてください」


彼女は、それを「熱心な人」だと思った。

それ以上でも、それ以下でもなかった。


ただ、不思議なことが一つだけあった。

彼の話は、聞きやすかった。

声も、言葉の選び方も、沈黙の間も。

だから彼女は、彼を遠ざけなかった。



倒れた聖女は1ヶ月の入院ののち、神殿の仕事に復帰した。

神殿は、聖女の回復を祝福した。


毒のことは、誰も知らない。知らないまま、すべては正しく回り続ける。


神官は、聖女の祈りが以前と変わらぬことを確認し、安堵した。


それどころか彼女の祈りはより一層深くなっているように思えた。

それでいい。

聖女は、人々のものであるべきだ。


だが、彼女はある日、告げた。


「最近、あの方が来ない日は……少しだけ、静かすぎる気がします」


神官は、何も言わなかった。

それは記憶ではない。

失われたものが、戻ってきているわけでもない。


ただの偶然。

ただの習慣。


そう信じるしかなかった。




ある日、男はいつもより早く訪れた。


「今日も、言いに来ました」


「……毎日、同じですね」


「はい。変わりません」


「変わらないのは、疲れませんか」


彼は少し考え、答えた。


「変わらないことが好きなのかもしれないです。」


その言葉に、聖女は笑った。


「不思議な人」


「そうでしょうか」


彼女は、少しだけ黙った。

それは、初めての言葉だった。


「結婚について、考えてみてもいいです」


彼女にとって結婚の理由は、愛ではない。

ただ、この人と話す時間を、失いたくないと思っただけだ。


それだけで、彼には十分だった。



結婚の許可を求めたとき、神殿は慎重だった。

形式上の確認、祈りの質、奇跡の安定性。

聖女はすべてに淡々と応じ、何一つ乱さなかった。


年老いた神官が、最後に問いを投げる。


「なぜ、その男を選ぶのですか」


聖女は少し考え、正確な言葉を探すように視線を落とした。


「……問題がないからです」


愛でも、幸福でも、必要でもない。

ただ、排除する理由が見当たらない、というだけの答え。


神官たちは沈黙した。


その言葉は、教義に反しなかった。

聖女は私情を持っていない。

誰かの帰る場所になっていない。


ならば、この結婚は、無害だ。


「許可します」


そう告げた声に、祝福の色はなかった。



結婚式は、簡素だった。


聖女としてではなく、ひとりの女として。

神殿の片隅で、最低限の証人と祈りだけが並ぶ。

彼女は誓いの言葉を、滞りなく口にした。

感情が揺れることも、声が震えることもなかった。





新しい生活が始まる。


彼女は彼の名を覚え、生活の手順を共有し、必要な会話を交わした。


それらはすべて、現在の情報として積み上がる。

だが、そこにかつての恋の記憶は紐づかない。


彼女にとって彼は、


夫であり

同居人であり

信頼できる人だった。


それ以上でも、それ以下でもなかった。


毎朝彼は必ず声をかける。

「おはようございます」

彼女は振り向き、同じ距離感で応じる。

「おはようございます」




ある朝、彼は静かに言った。


「おはようございます。あなたを愛しています」


彼女は一瞬だけ考え、首を傾げる。

「……変わった挨拶ですね」


「僕にとっては、必要な挨拶です」


彼女は、それ以上追及しなかった。

意味を探ることも、記憶を辿ることもない。


ただ、その言葉がある朝とない朝とでは、空気の密度が少し違うことだけは無意識に知っていた。


神殿は満足している。


聖女は聖女のまま。

私情は観測されず、祈りは乱れていない。


誰も、不幸になっていない。


それが、この結末の形だった。


ハッピーエンドって難しいですね


もし、少しでもいいなと思ってくれたら、ぜひ短編まとめも読んでみてください。どこから読んでも大丈夫なのでぜひ!

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