1章中
望遠鏡を覗き込むと、影の人物はゆっくりと地面に何かを置いた。抱えられたものの輪郭がかすかに揺れ、夕陽の光に反射して微かに光る。その動きの一つ一つに、沙也加の胸はぎゅっと締め付けられ、息を止めるしかなかった。手のひらの汗が鏡筒に伝わり、指先を握る力が自然に強くなる。
「……フタバ……」
小さく、思わず心の中で名前を呼ぶ。しかし、声に出してしまえばこの緊張は途端に破れてしまいそうで、沙也加は唇を噛んで押し留めた。校則では茶髪は禁止されているが、目の前の髪の色や姿を見れば、彼がフタバだと確信できた。丸みを帯びた肩、細身の背中、背筋の伸びた立ち姿――すべてが間違いない。
抱えていたものをゆっくり地面に置くと、影の人物は周囲を見渡す。わずかに光を受けて髪が揺れ、夕陽の赤みがほんのり反射する。その背中に、沙也加の恐怖は頂点に達した。息が浅くなり、心臓が胸の中で暴れるように打つ。望遠鏡を握る手も、わずかに震える。
遠くで、イヤホンからボンベイの明るい声が流れる。
「ここ、こうしたら簡単にクリアやでー!」
無邪気なゲーム実況の声が、恐怖で揺れる沙也加の胸に妙な響きを与える。現実の恐ろしさと、画面越しの無邪気な声との落差に、頭の中がぐるぐると混乱した。恐怖に押しつぶされそうな心の奥で、かすかに安心感が芽生えていることにも、彼女は気づいてしまう。
影の人物は、置いたものの周囲を丁寧に整える。土をならし、少しずつ手を動かすその姿勢は、まるで儀式のようで、一挙手一投足が沙也加の視線を捉え離さない。羽毛や毛がわずかに光に反射し、揺れるたびに恐怖が胸を刺す。
「どうしよう、逃げたい……でも、目を離せない……」
沙也加は望遠鏡の接眼部を握る手に力を入れ、呼吸を整えようとする。心臓の鼓動は早鐘のように響き、胸は息苦しく、視界の端の揺れる影に思わず身震いした。秋風が頬を撫で、芝生と土の匂いが混ざった空気が深く鼻腔に入り込むたび、恐怖はさらに膨らむ。
影の人物は立ち上がり、周囲を見渡す。肩越しに光を受けて揺れる髪。足元の小さな影。すべてが沙也加の記憶の中のフタバと重なった。動揺のあまり視線をそらそうとするが、望遠鏡を手放すことはできない。恐怖と確認欲求が、彼女の身体を凍らせていた。
遠くでボンベイの声が続く。
「ここ、ちょっと注意せなあかんで~、ほら、こうやって……」
明るい実況が、現実の恐怖をいくらか和らげるかと思えば、逆に、目の前の光景とのギャップに心を乱す。沙也加は息を整えようとするが、手の震えは止まらず、心臓の鼓動は耳まで響く。
影の人物は、置いたものの周囲を確認し、少し腰をかがめて手を伸ばす。その動作に、沙也加は息を飲む。彼が、夕暮れの光に染まりながら無言で作業を進める姿は、あまりにも現実的で、あまりにも不可解だった。
時間が緩やかに流れ、影の人物はゆっくりと立ち上がった。その背中に差し込む夕陽は、薄紫の空と芝生の緑の間に淡く光を落とす。沙也加は望遠鏡を握る手に全神経を集中させ、視界から彼の姿を一瞬も逃すまいとした。
胸の奥が締め付けられ、息苦しさで視界がわずかに歪む。目をそらせば恐怖から逃れられるかもしれない。しかし目を離せば、フタバの姿を確認できず、何かを見落とすのではないかという強迫的な感覚に襲われる。
遠くの空はまだノクターン流星群の光を帯びていないが、沙也加の胸には、恐怖と緊張が夜の空気のように重くのしかかっていた。手元の望遠鏡を通して、影の人物の一挙手一投足を追う。土の匂い、芝生の香り、秋風の冷たさ、遠くの鳥の声――すべてが現実として、沙也加の恐怖心を増幅する。
ボンベイの声は背景音のように響く。無邪気な関西弁の声が、恐怖の渦中にある沙也加の胸に、奇妙な安心感を混ぜる。だがその安心感は脆く、すぐに影の人物――フタバ――の存在によって押し流される。
沙也加は決心する――今すぐここを離れるべきだ、と。しかし、視線は望遠鏡を通してフタバを捉え続け、身体は恐怖と好奇心の狭間で動けずにいた。
夕陽が徐々に校庭を覆い、影が長く伸びる。風が芝生を撫で、枯葉を舞い上げるたびに、恐怖は沙也加の胸に深く刻まれる。息を整えようと肩を震わせても、心臓の鼓動は止まらず、視界に映るフタバの背中はますます鮮明に、そして現実的に、沙也加の脳裏に焼き付いた。
その場に立ち尽くす沙也加の視線の先で、フタバはゆっくりと歩き、抱えていたものを整え、静かに校庭の奥へと姿を消した。砂利の上を踏む足音はわずかで、夕暮れの空気に溶けるように消えた。
望遠鏡を握る手がようやく少し緩む。胸の奥の恐怖はまだ消えない。秋風が冷たく頬を撫で、芝生と土の匂いが鼻腔に残る。沙也加は視線を空に戻すことなく、ただその場に立ち尽くしたまま、フタバが去った校庭の残像を心に刻みつけた。
うーん短いかな? あともっと良い表現とかもありそうだったりするかも…まぁ感想から少しずつ変えてってもいいかも