心臓
青砂市の外れにある、古びたミッション系高校の理科室は、放課後の静寂に包まれていた。10月9日、秋の夕暮れ。窓の外の木々は風に揺れ、校庭の砂利や遠くの踏切の音がかすかに混ざり合う。
理科室の机の上には、今日の“対象”が置かれていた。神父が飼っていたオウムだが、今はすでに動かない。
フタバはゆっくりと掌でその体を包み込む。まだわずかに残る温度を指先で確かめながら、静かに独り言をつぶやく。
「死んでる……んだな」
机の上には、ナイフ、ピンセット、そして使い古された観察ノート。ノートにはびっしりと記録が書かれ、今日の行為もまたその中に刻まれる運命にある。
「観察 一〇月九日 午後三時半
呼吸なし。体温残る。
羽色:左翼青緑、右翼鮮やか。
死後硬直:まだ完全でない。
心臓:小さく赤く光る。重量不明。」
フタバはナイフを光にかざし、指先で先端を撫でる。皮膚に刃を押し当てると、かすかに裂け、温かい液体が指先に染みる。羽毛が濡れてまとまり、掌の中で重くなる感触。指先で血を押さえ、胸を切り開く感触を確かめる。赤い塊――心臓がそこにあった。
ナイフを脇に置き、ピンセットで心臓を摘み上げる。光に透かすと、薄紅色の塊がガラスのように光を反射する。指先で軽く撫でると、冷たさと温かさが同時に手に残る。フタバは息を止め、しばらくその光景を見つめた。
スマートフォンを取り出し、心臓を画面に置く。画面に映る赤い塊と濡れた羽毛の質感を確認しながら角度を微調整し、シャッターを切る。光の加減、指先の影、スマホの画面に映る濡れた羽毛の反射――すべてが鮮明に写る。
フタバは何度もシャッターを切り、確認し、微細な色合いや光の反射に没頭した。
ふと袖を見ると、赤い血が布に染み込んでいた。
「汚い……」
呟きながら指で血をそっと触れ、匂いと感触を確かめる。布に残る鉄と血の匂いが、今日の行為を現実として手に刻んだ。しかし嫌悪感ではなく、むしろこの汚れが、感覚を確実に証明する物理的な存在として彼を満たした。
窓を開けると、秋の風が教室に流れ込み、カーテンを揺らす。遠くでカラスが鳴き、踏切の音が反響する。夕暮れの光が長く伸び、机の影を斜めに走らせる。フタバはゆっくり立ち上がり、裏庭に足を運ぶ。柔らかい土を指で掘り、オウムをそっと置き、土をかぶせる。爪の間に入る冷たい土の感触が、胸の奥にあった微かな熱と奇妙に重なる。十字架の鎖が光を受け、かすかに音を立てた。
フタバは再び教室に戻り、窓際の机に座った。手についた血を布で拭き取りながら、深く息をつく。風に揺れる木の葉、夕暮れの光、遠くの踏切の音――すべてが今、彼の世界の一部となった。
「ぶぅ……」
小さな独り言。声は風に溶ける。
机の上のオウムの影を見つめながら、フタバは静かにナイフを布で拭き取り、慎重に引き出しにしまった。次にこの行為をする日を、どこかで思い描いているようでもあった。
窓の外、遠くの街灯がともり始める。空は薄暮の青に染まり、星はまだ見えない。
フタバはしばらく机に座り、観察ノートに書き込んだ文字をじっと見つめる。
胸の奥でわずかにざわつく感覚――それは倫理でも道徳でもなく、純粋な興奮だった。
やがて立ち上がり、窓の外の風に顔を向ける。秋の冷たい空気が頬を撫で、遠くの踏切の音が耳に届く。
指先にはまだ血の温かさが残り、十字架が胸で揺れた。
「ねぇ、神様」
小さくつぶやく。声は風に溶けて消える。
「生きるのって、どうしてこんなに静かなんだろう」
答えは返ってこない。ただ、風が一度だけ、オウムの墓の上を撫でていった。
フタバは振り返らず、教室に戻る。指先に残った土と血の感触が、今日の行為を現実として確かに刻んでいた。