37 たった一つの希望
ユリシーズがかけてくれた隠密魔術のおかげで、ヴァイオレットは無事に王宮の外に出ることが出来た。
しかしユリシーズの言っていた通り、王宮を出たタイミングで隠密魔術がフッと消えてしまった。もしかするとユリシーズの命が──張り裂けそうな胸の痛みに、ヴァイオレットは拳を握りしめて耐えた。
太陽はまだ空の高い位置にある。メイナードに操られてから間もないというより、既に一日経ってしまっているのかもしれない。その一日の間に操られた自分が何をしたのか、考えるだけで悍ましい。必死で吐き気を堪え、手で胸を押さえた。
しかし今は弱音を吐いている場合ではない。なんとか馬車か、せめて馬を手に入れてユリシーズの屋敷に行かなければ。
そう思った時、突然背後からヴァイオレットの肩を掴む手があった。
驚きに声を上げそうになり、背後の人物に口を押さえられた。
「──ヴァイオレット! 私よ!」
それはコーネリアの声だった。茂みに潜んでいたらしく、服と髪に葉っぱをくっ付けている。
「コーネリア!? どうしてここに……」
「しっ、静かに! 王宮で何か騒ぎがあったって聞いたの。貴方、指名手配されているわ」
「……ッ!」
ライオネルの方が早かったのか。
コーネリアはヴァイオレットをじっと見てから言った。
「ヴァイオレット、何があったのか、私には全然わからないの。でも、貴方が恐ろしいことをしたとは思えない。……これが罪になるとしても、貴方に逃げてほしいの。ヴァイオレットの兄弟も同じ意見で、別の場所でわざと騒ぎを起こして騎士や兵士を足止めしてくれているわ。ここから少し離れた場所に、同じく貴方の味方をしたいって馭者が待ってる。馬車は私の家のものだから、それを使えば王都から出られるはずよ」
「……コーネリア……ありがとう!」
「それからこれ、隣国との国境で見せれば通してもらえるから、持っていって」
渡されたのはデネット家の紋章が記された封書だった。デネット家は外交に強い一族なのを思い出す。コーネリアはこれを持って隣国へ亡命しろと言っているのだ。
しかし、ヴァイオレットは首を横に振った。封書の代わりに大切な友人の手をしっかり握り締めた。
「これは必要ないわ。私、逃げるんじゃないの。戦うために、必要な場所に行くのよ」
「うん、わかった。ヴァイオレットならきっと出来るわ。もう行って!」
コーネリアは力強く頷く。ヴァイオレットも頷き返してコーネリアの言った場所に走ると、馬車が一台停まっていた。馬車にはコーネリアの実家、デネット侯爵家の紋章がある。
「ヴァイオレットお嬢様。お待ちしていました!」
そう声をかけてきたのは、以前、馬車の事故にあったのをやり直した時のあの馭者だった。
「味方って、貴方だったのね……」
「ええ、お嬢様の危機ですから、どこにでも馳せ参じますとも。お乗りください。さあさあ逃げましょう。国境でもどこでも、この馬車をぶっ飛ばしますから!」
「いえ、行ってほしい場所があるの。以前、脱輪した場所を覚えているわよね? その近くにあるパロウ筆頭魔術師の屋敷よ」
「はい、かしこまりました!」
「それから、スピードは出しつつ、安全第一で!」
「はい、もちろん!」
馭者は震えていた。恐ろしいに決まっている。しかし果敢にもニッと笑みを浮かべたのだった。
ここまで、やり直したおかげで生じた絆にたくさん助けられている。全て偶然だが、ヴァイオレットを信じてくれる人がいるのは心強かった。
コーネリアのおかげで王都から無事脱出した。馬車はスピードを出しつつも、以前のように激しく揺れない安全運転でぐんぐん走っていく。
しかし、追手に勘付かれて先回りされている可能性がある。馬車で直接屋敷に向かうのは目立つ。隠れて行こうと、少し手前で馬車を止めてもらった。
「貴方はこのまま真っ直ぐ走って、シアーズ公爵家所有の古い屋敷に向かって。何も知らないふりをして、管理人の老夫婦の手伝いでもして、クッキーをご馳走になっていたらいいわ」
「わ、わかりました」
ヴァイオレットは勇敢な馭者と別れ、一人でユリシーズの屋敷に向かった。
以前、子供を追いかけたおかげで馬車道からユリシーズの屋敷への行き方がわかるのは幸いだった。木々で身を隠しながら近付くと屋敷が見えてくる。ホッとしながらも周囲の様子を窺った。騎士や兵士の姿はない。先回りはされていないようだ。
ヴァイオレットは急いで門を開け、屋敷に入って鍵をかける。
「探さなきゃ……ユリシーズの髪を」
居間や普段使っていない客室は綺麗なものだった。しかし屋敷の一番奥にある工房の扉を開けて眉を寄せた。以前、ユリシーズが言っていた通り、随分物が多く、散らかっていたからだ。
なんだかよくわからない道具が多い。そして魔術師が素材を何処に仕舞うのかもヴァイオレットにはちんぷんかんぷんだ。手当たり次第に引き出しを開ける。
それらしいものは見つからない。それに、ユリシーズの髪が魔術触媒として使えて魔力になるとしても、本当にヴァイオレットに扱えるのか、だんだん不安な気持ちになっていた。
出来なかったら全てが終わる。
しかし諦めるわけにはいかない。ヴァイオレットには助けたい人がいるのだから。
ユリシーズを信じなきゃ。そして、ヴァイオレットを信じてくれた人たちに報いるのだ。全てを取り戻すために。
そう思いながら探していると腕輪がキラッと光った。どこかの光を反射しているようだった。その光の差す方を窺うと、絹布の包みを見つけた。
「もしかして!」
包みを手に取り、絹布を開く。中に入っていたのは真珠のような白銀。──ユリシーズの髪だった。
「見つけた!」
安堵したのも束の間。ふと、嗅いだことのある匂いが鼻をかすめる。間違いなく煙の匂いだった。モニカたちの乗った馬車が燃えていたときにも嗅ぎ──そして一度目の世界で最初のやり直しをした時にも嗅いだあの匂い。
小さな覗き窓からそっと覗くと、外は既に兵士に囲まれていた。ヴァイオレットが到着してすぐに彼らも屋敷を包囲したのだろう。
彼らはユリシーズの魔力に満ちているこの屋敷に入ることは出来ない。だから、屋敷を焼くために火矢を放ったのだ。
あっという間に屋敷の内側の壁が焦げていく。チリチリとした熱を感じ始めた。
屋敷の外周全てに火矢が放たれているせいか、どこに逃げても大差はない。ヴァイオレットは、一番奥にある工房に戻り、ユリシーズの髪を抱きしめた。
──魔力よ、どうか私の中に入って! 私の力になって。お願い!
そう強く願うと、ユリシーズの髪がキラキラと光りを放ち始めた。髪だけでなく、ヴァイオレットの腕輪も光っている。
ユリシーズの髪から出た光の粒子が腕輪に流れ込んでいく。途端、腕輪がカアッと熱くなった。焼けるような痛みと共に、ヴァイオレットの腕輪に触れている肌が赤黒く変色していく。
「……ッ、痛ッ!」
火傷よりもずっと痛い。それは以前も見た魔傷痕に間違いなかった。今まで一度もヴァイオレットを傷付けたことがなかったユリシーズの魔力だが、ヴァイオレットの魔力として使うには強過ぎるのかもしれない。ヴァイオレットの腕がジリジリと焼かれていく。しかし、激しい痛みと同時に、魔力が流れ込むのも感じていた。
「これなら……!」
痛みに歯を食いしばり、ヴァイオレットは腕輪を経由して魔力を体内に貯めていく。
しばらくしてユリシーズの髪から光が失せた。おそらく魔力を全て失ったのだ。同時に腕輪にひび割れが入った。魔石の中のゆらめきも消え、魔石としての力も失ったのだろう。ピシッという音とともに、割れて地面に落ちた。あの綺麗な紫色の魔石の面影はなく、不透明にくすんでしまっていた。
「……ここまで私を助けてくれてありがとう」
ヴァイオレットは割れた腕輪をそっと撫でた。
目を閉じて確認すると、体内にしばらくぶりの大量の魔力が渦巻いているのを感じる。それでもかつてほどの量ではない。
「これでどれくらい戻れるのかしら……?」
急に不安になる。ヴァイオレットは最初の一回を除いて長時間のやり直しをしていない。今までは多くてせいぜい数分だった。この魔力の量から換算して数時間以上は戻れると思いたい。
別の部屋で窓ガラスが割れる音がして、首をすくめた。兵士らしき声も聞こえる。ヴァイオレットを口汚く罵る声だった。
煙はますます濃くなり、息が苦しくなってきた。きっとすぐそこまで炎がせまっているのだろう。もし失敗すれば、ヴァイオレットは確実に死ぬ。
このやり直しに全てがかかっているのだ。
「でも、やらなきゃ。全てを救うために──」
ヴァイオレットは煙に巻かれ、最初の世界とまったく同じ状況だった。
しかし、あの時と何もかも違う。
ヴァイオレットを信じてくれた人たちがいる。ヴァイオレットが心から愛する人もいる。決して心は折れていない。
ヴァイオレットはもう何も出来ずに泣くだけの存在ではない。大切な人たちと、幸せな日々を取り戻す。そのためにやり直すのだ。
ヴァイオレットは固く目を閉じて、浮かび上がる『やり直しますか』の文字に頷く。
「ええ、やり直すわ!」
煙よりも白く、そして眩しい光がヴァイオレットの意識を飲み込んでいった──




