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36 絶望

「うそ……」


 ヴァイオレットは一抹の望みを持って煙の方角へ走る。

 しかし、見えたのは無慈悲にも横転し、燃え上がる馬車の姿だった。馬も横倒しになり、馬車は激しい炎に包まれている。

 その光景をヴァイオレットは呆然と見つめた。


「……嘘よ……モニカ様! ヒューバード様!」


 走り寄ろうとしたが、炎の熱でこれ以上は近寄れない。ヴァイオレットはその場にガクリと膝をつく。


「ふふっ。あはははっ! これで、第一王子と第二王子両方とも始末できた。その血を引く赤子も生まれてこない。それじゃあ、第三王子のボクが次の国王だ! ね、わかっただろう。もう一度だけ聞くよ。ヴァイオレット、ボクと共においで」

「……それだけは絶対に嫌!」


 ヴァイオレットはメイナードを睨みつけた。

 恐ろしくてたまらない。この場でヴァイオレットも殺されるのかもしれないと思うと震えが止まらない。それでもヴァイオレットはメイナードに与することだけは絶対にするものかと、強く拳を握りしめた。


「そうか、ざーんねん。じゃあ、無理矢理、キミの体を使うね」


 メイナードはニタッと笑みを浮かべた。

 途端、ヴァイオレットは激しい眩暈と耳鳴りがしてその場に倒れ込んでいた。


「な、に……を……」

「精神魔術は解いてないもの。キミはもう、ボクの操り人形だ」

「いや……やめ……て……」


 体が動かない。ヴァイオレットの意識が遠ざかっていく。完全に意識が落ちる瞬間「そうだ、いいこと思いついた!」と言うメイナードの悪辣な笑い声が聞こえた。




 真っ暗な意識の中、ズキン、ズキンと頭痛だけがしていた。


「う……」


 目を開くと眩しくてクラクラとした。頭痛は相変わらずで、脈打つような痛みがあった。


「ここ、は……?」


 ヴァイオレットは痛む頭を押さえながらキョロキョロと見渡す。


「お、王宮……!? いつの間に戻ってきたの……?」


 そこは見覚えのある謁見の間だった。

 しかしムッとする血の匂いがして、ヴァイオレットの周囲には幾人もの騎士が倒れている。そんな場所にヴァイオレットは座り込んでいた。

 悲鳴を上げかけてヴァイオレットは口元を押さえた。離れた場所に見える国王陛下の玉座が血まみれだったからだ。


「──ヴァイオレット」

「ユ、ユリシーズ!」


 背後から聞こえたのは、愛しいユリシーズの声。ホッとして振り返ったヴァイオレットが見たのは、腹から大量の血を流して膝を突くユリシーズの姿だった。


「いやあああっ!」

「よ、よかった。ヴァイオレット……無事だな」


 ユリシーズの白銀の髪にも血がべっとりとついている。


「ユリシーズ! い、一体……何が……」

「……メイナード、お前がやったのだろう。今更ヴァイオレット嬢のふりをしても無駄だ!」


 そう言ったのは、ユリシーズから少し離れた場所にいるライオネルだった。彼もまた満身創痍で、口から血を流しており、剣を杖代わりにしてようやく立っている有様だ。


「ライオネルさんまで……」

「もう演技はやめろ。ヴァイオレット嬢の体を乗っ取り、ヒューバード様とモニカ様を殺して、国王陛下をも殺し……それどころか血の繋がった娘のフリージアまで、罪を着せるために自殺に見せかけて殺すとは……ッ! フリージアの死体と偽造した遺書はガーゴイル通りの隠れ家で見つかっているんだ!」


 ライオネルのその悲痛な声は、嘘を吐いているようには聞こえない。激しい憎しみのこもった瞳がヴァイオレットに向けられている。


 血に濡れた玉座──ヒューバードとモニカだけでなく、国王陛下の命も失われてしまった。

 ヴァイオレットは唇を噛んだ。意識が乗っ取られている間に事態は最悪になっていた。それも、他ならぬ、ヴァイオレット自身がしたことなのだろう。

 それは私じゃない。そう言っても信じてもらえないのはわかりきっていた。さらにダメ押しのように、子供の泣き声が謁見の間に響く。


「わあああん! 怖いよぉ! ヴァイオレットねえさまがモニカねえさまを……。ボク、全部見たんです!」

「セシル王子! 貴方は我々の最後の希望なのです。さあ、安全なところに!」


 ライオネルや周囲の生き残った騎士はセシルの加護である感情増幅により、いっそうの憎悪をヴァイオレットに向ける。騎士の影に隠れ、ニタッと笑ったセシルの悪魔のような表情はきっとヴァイオレットにしか見えなかったのだろう。


 何もかも、一度目の世界と同じ──いやそれ以上の最悪な状態になっていた。

 もうヴァイオレットがどれだけ潔白を叫ぼうと、セシルこそがメイナードなのだと言っても、きっと誰も信じてくれない──


「──いや、違う。ヴァイオレットは操られていただけだ。精神魔術の兆候があった。今それを完全に解除した。犯人……本物のメイナードは他にいるはずだ」


 静かな声が謁見の間に響く。ユリシーズの声だった。


「ヴァイオレット、逃げなさい」

「ユリシーズ……でもっ!」

「おそらく、君は別人になりすましたメイナードの正体を知っているはずだ。今のこの空気は異様だ。なんらかの魔術干渉を感じる。ここで明かしても誰も信じない。捕まれば処刑されるだけだ。だから、今は逃げるんだ」

「……逃すと思っているのかよ! よくもっ……ヒューバード様をっ!」


 満身創痍のライオネルが剣を振り上げ、ヴァイオレットに迫る。騎士たちも次々に剣を抜いた。何の心得もないヴァイオレットに逃げられるはずがない。しかし、ライオネルたちの剣を弾いたのはユリシーズの魔法陣だった。


「裏切るのかパロウ筆頭魔術師っ! そいつはヒューバード様の仇なんだぞ!」


 ライオネルは血走った目で二人を睨んだ。彼らはユリシーズの魔法陣に阻まれている。その隙に、ユリシーズに背中を押されてヴァイオレットは走り出した。


 謁見の間から出て、廊下を走る。しばらく走ったところでユリシーズが再び膝をついた。


「すまない……俺はここまでのようだ」


 見ればこれまで走ってきた廊下におびただしい血の跡がある。ユリシーズは腹の傷から出血し続けていたのだ。


「ユリシーズ……傷が……」

「ああ。もうとっくに致命傷だ。治癒魔術も効かない。だから、置いていってくれ」

「いやっ! ユリシーズが……!」

「ヴァイオレット、逃げて、同盟を結んでいる隣国に助けを求めるんだ。……いや、それよりもただ君に生きていてほしい。愛する……ヴァイオレット……」


 ユリシーズは血の付いた手でヴァイオレットの手首を握る。いや、そこにあったのはユリシーズがくれた魔石の腕輪だった。


「さ、最後の力で……隠密魔術をかけた。おそらく……王宮から出るくらいまでなら保つだろう。ヴァイオレット……俺の屋敷に向かえ。あそこに入れる人間は、もう君しかいない。工房に、転移の魔術具がある。ぐっ……」


 ユリシーズはゴホッと血を吐き出した。


「ユリシーズ……! しっかりして!」

「いいんだ。聞いてくれ。転移の魔術を発動させるには……大量の魔力が必要だ。魔石があればよかったが、代わりに魔術触媒になるものがある。──君が切ってくれた俺の髪だ。それを探し出して……逃げてくれ……その、腕輪を使えば……」

「……魔力? 腕輪を使えばユリシーズの髪が魔力になるのね……!?」


 ヴァイオレットはユリシーズの手を握る。その手はひどく冷たい。大好きなユリシーズの月のような瞳もうつろだった。


「ユリシーズ。わかった。私、行くわ。でも……でもね、私は逃げるんじゃない! 絶対に貴方を助けに戻るから!」

「いい、ヴァイオレット、生きて……幸せに、なれ……」

「いいえ、ユリシーズ。私だけが全てを救えるわ。貴方も、モニカ様やヒューバード様、それから国王陛下や、みんなみんな、私が助けてみせるから!」


 ヴァイオレットは冷たいユリシーズの頬に触れ、命を失いつつある青ざめた唇にそっと口付けた。


「愛しているわ、ユリシーズ!」


 愛しい人との初めての口付けは血の味がした。

 ヴァイオレットは立ち上がり、走り出した。

 ヴァイオレットが幸せになるために。こんな味のキスを変えるために。


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