3 一年前
「ん……ここ、は……?」
眩しさを感じ、ヴァイオレットはゆっくりと目を開けた。深い赤色の天蓋が視界に飛び込んでくる。不思議と見覚えのある色だった。
「私……死んでない。助けられたの?」
声は出る。火事の煙で喉が痛かったはずだが、寝起きのように掠れているだけで変わった様子はない。
ここはどこだろうか。ヴァイオレットは横になったまま、辺りを見回した。
ヴァイオレットは驚愕に目を見開いた。見覚えがあるなんてものではない。ここは間違いなく生まれ育った公爵家の、自室のベッドだった。
広くふかふかしたベッドは、幽閉されていた屋敷の硬くてカビ臭いベッドと大違いだ。室内の調度品も全て以前のままである。
「……お父様やお母様がそのままにしていてくれたのかしら」
着ているのは、かつて着ていた絹のネグリジェ。枕元に置いてあった手鏡をおそるおそる覗くと、軟禁生活で荒れていたはずの肌が何事もなかったようになっている。屋敷が燃えていたはずなのに、火傷の一つもない。全身を確認しようと起き上がり、サラッと揺れた髪に仰天した。
切ったはずの髪が伸びている。手触りも何もかも、以前と同じ手入れが行き届いた肌や髪。
これはどういうことなの?
失ったはずのものが全て元の状態にある。状況が飲み込めず、ヴァイオレットは呆然とするしかなかった。
「──お嬢様、お目覚めですか?」
侍女に声をかけられてヴァイオレットは目を瞬かせた。
その侍女は長くヴァイオレットに仕えてくれていたが、婚約披露パーティーの半年ほど前に、結婚退職していたはずだ。
「えっ……貴方、結婚して辞めたはずじゃ……」
「まあ、私が結婚することを、旦那様からお聞きになったのですか? ですが結婚は半年後なんです。もうしばらくの間はお嬢様のおそばで働かせてくださいましね」
侍女は頬を染めてそう答えた。その返答も食い違っている。
──半年後? もうしばらく? まるで昔に戻ったみたい。
ヴァイオレットは額を押さえた。
──いいえ。みたい、ではなく、本当に昔に戻ったとしたら?
ヴァイオレットの心臓がドクンと音を立てた。
「ね、ねえ、今日って何日だったかしら。いえ、何年の何月何日?」
「どうかなさいましたか? 今日の日付は──」
侍女が答えた日付は、婚約披露パーティーの約一年前だった。
それを聞いてヴァイオレットは意識を失う前、脳裏に言葉が浮かんだことを思い出す。
『やり直しますか?』
確かにその言葉が浮かんだ。
そして、婚約披露パーティーの一年前に時間が戻っている。
つまり、ヴァイオレットはやり直せたのだ。
「本当に……やり直せた……」
ヴァイオレットはそう呟いて口元を押さえた。自然と体に震えが走る。
「お嬢様、どうかなさいました? 体調が悪いのでしょうか」
「う、ううん、なんでもないの。ちょっと寝ぼけたみたい。ちょっと一人になって落ち着きたいから、また後で来てくれる?」
心配そうな侍女に、ヴァイオレットは慌ててそう答え、部屋から出てもらった。
一人になり、綺麗なままの肌や髪に触れ、それから自分の部屋をぐるりと見回した。
ヴァイオレットが失ってしまったはずのものが全て揃っている。
ようやく実感が湧き上がり、心臓がドクンドクンと音を立てた。
──神様が私に加護を授けて、やり直しをさせてくださったのだわ。
加護とは、個人によって異なる特殊な魔術の一種だ。中には奇跡のような加護もあるとは聞いていた。おそらくヴァイオレットの加護もそうだ。
必ずしも有用とは限らず、どんな加護を持っているか明かさない者も多い。どれほど才能がある魔術師だとしても真似出来るものではないし、必ずしも全ての人間に加護が現れるわけではない。しかし魔力量が多ければ多いほど発現しやすく、特に思春期の頃に発現することが多いと言われている。
ヴァイオレットに加護が発現したのがあの火事の最中だとすれば、十九歳になる直前の頃だったはずだ。思春期というには少し遅いとはいえ、絶対にあり得ない年齢ではない。
高貴な血を引く貴族であればたいてい魔力量は多いものだ。ヴァイオレットも公爵令嬢だけあって、魔力量だけは多い。しかし、それを使いこなすための魔術の才能はなかった。そのせいで加護も発現しないのだと思っていた。そもそも家族の中で、唯一ヴァイオレットだけが魔術の才能がなかったのだ。
そのせいでヴァイオレットは家族の中で完全にミソッカスだった。ずっと甘やかされて真実から目を背けていたが、ヴァイオレットも薄々それを感じていた。だからこそ、第二王子であるエイドリアンの婚約者という立場に執着していたのだった。
──でも、今はもう、どうでもいいわ。
こうしてやり直して気が付いたのだが、ヴァイオレットはエイドリアンの婚約者の座に執着していただけで、彼を愛していたわけではなかった。
むしろ、婚約者がいるのに浮気をし、それを棚上げして断罪するような男なのだ。もはや信頼のかけらもないし、完全に愛想が尽きている。とはいえ、フリージアを傷付けてしまったことは良くなかった。悪いことをしてしまったのだと今ならわかる。
ヴァイオレットはどちらかといえば我慢して溜め込むタイプのはずだ。しかしフリージアに対しては感情の抑制がまったく効かないまま愚かな行動を重ねてしまった。
何故そんなことをしたのかといえば自分でもよくわからなかった。当時のことは頭に霧がかかったように思い出せない。それだけエイドリアンの浮気がストレスだったのだろうか。
──せめて、今度は同じ過ちを繰り返さないようにしなきゃ。
せっかく一年前まで戻れたのだが、あの時のことはなんだか悪い夢だったような気がしてしまう。このままでは再び過ちを繰り返してしまう可能性がある。なにか、心に深く刻み込む方法はないだろうか。
考え込むヴァイオレットの頬に、長いままの髪がサラッとかすめていく。その感触にいい案が思いつき、ハッと顔を上げた。
「そうだわ、髪を切りましょう!」
ヴァイオレットはやり直し前に、やむを得ずぼろぼろになった髪を切り落とした。しかし髪を切ったことで、悪いことをした実感が湧き始めた気がするのだ。
前回の反省を込めて、今回も髪を切ることから始めよう。それがあの時の自分へのけじめだろう。
そう思ったヴァイオレットは引き出しから鋏を取り出した。以前髪を切るのに使った錆の浮いた鋏と大違いの切れ味だ。ヴァイオレットは難なく己の髪を切る。肩より上くらいのボブカットになった。勝手に髪を切ってしまい、令嬢らしくないと両親は怒るかもしれない。しかしヴァイオレットの気分は晴々としていた。
さて、これからどうしようか。
せっかく髪を切ったし、昔読んだ小説のように男装して冒険に出るのはどうだろう。もしくは、身分を偽り平民として店を開いて楽しく暮らす──いくつかのアイデアが浮かぶが、どれもしっくりこない。
そもそもヴァイオレットには魔術の才能はないのだ。剣術も出来ないし、人より抜きん出て得意なこともない。どうしてもこれをやりたいという夢もなかった。そして生まれも育ちも公爵家のお嬢様だ。平民として暮らせるかどうかも怪しい。唯一の取り柄といえば、魔力量が多いということくらい。
ヴァイオレットはふと首を傾げた。
「──あら? 魔力が空っぽになってるわ」
ヴァイオレットは、いつも体内にたっぷり貯蔵されていたはずの魔力が無くなっていることに気がついた。ほぼ空に近い。こんなことは今までなかった。
おそらく、加護の力を使い、やり直しをすると相当な魔力を消費するのだ。これまではどれだけ魔力があっても魔術が使えないのだから意味はないと思っていたが、思わぬ発見だ。
「つまり、魔力が多いのも、完全な無意味ではなかったってことよね」
せっかく戻ったのだ。大事に過ごさなければ。
ヴァイオレットは強く頷いた。次は後悔せずに幸せになりたい。ヴァイオレットの大切なものを失わない未来。
やり直し前の世界とは、違う未来を手に入れるために。
「よし、頑張ろう!」
ヴァイオレットは両の拳を握る。ちょうどそのタイミングで侍女が戻ってきた。
「お嬢様、どうかしま──きゃああああお嬢様のお髪が!」
「騒がないでちょうだい! 自分で切ったのよ。似合うでしょう?」
「た、確かにお似合いですが……でもあんなに大事にしていた長いお髪が……」
「いいのよ。少し気分を変えてみたかったの。髪が重い時の私、気分も性格も全体的に重苦しかった気がして」
ヴァイオレットは微笑んだ。本当にスッキリした気分だったのだ。
「お嬢様がそうおっしゃるのであれば。それに短いのも素敵かもしれません。世間ではそういう短い髪がモダンだって流行っていますもの」
侍女はモジモジとする。羨ましそうな視線がヴァイオレットの短い髪に向けられていた。
「じ、実は私もそういう髪に憧れていまして」
「……私でよければ切りましょうか?」
「お嬢様に切っていただくなど……で、でもお願いしてもよろしいですかね?」
「構わないわよ」
侍女の髪をヴァイオレットより少し長く、結べるくらいの髪に切り揃えた。
「わあ、軽くていい感じです! 長いと手入れが大変ですし」
「その気持ちわかるわ。短いと楽でいいわよね! 貴方の結婚式の時には、髪を細かく編み込んで、そこに小さな花をたくさん挿したら可愛いと思うの」
「それ、いいかもしれません! 髪に飾る宝石はまず買えませんし、大きな花より小花の方が安く済みますから」
侍女は目を輝かせた。
その後、ヴァイオレットは侍女と言い訳を考え、二人とも髪を焦がしたので仕方なく切ったということにしたのだった。
それからヴァイオレットは屋敷内を見て回り、間違いなく一年前に戻ったことを確信した。再び自室に戻り、ソファに座って考え込む。
「さて、これからどうしようかしら」
まず疑問に思ったのは、もう一度やり直すことは出来るのだろうかということだ。
ヴァイオレットは目を閉じて、一度目のように念じてみた。
『やり直しますか?』と白く輝く文字が脳裏に浮かんだが、蝋燭に息を吹きかけたように、すぐに光がかき消えてしまった。
魔力が空っぽのせいかもしれない。それでも自分の意思で起動は可能なのだ。それなら魔力が溜まりさえすれば再びやり直すことも出来るはずだ。それどころか、何度でも──
しかしながら、ヴァイオレットが約十八年間溜め込んだ魔力のほとんどを使って、戻った時間はやっと一年。同じくらい溜めるには、また十数年かかるのかもしれない。それを考えると、再度この時代に戻るのは、実質不可能ということになる。
しばらくは魔力を貯めるにしても、一度空っぽになったから、ある程度貯まるまで時間がかかる。
どれくらい魔力があればいいのだろうか。次からは出来てもせいぜい数秒から数分といったところになるのかもしれない。とはいえ、数秒でも使いこなせば何かの役には立つだろう。
「じゃあ、まずやることは、情報収集よね」
一年前がどんな状況だったか、事細かに覚えているわけではない。特にエイドリアン絡みのことは頭に霧がかかっている。
そこでヴァイオレットは買い物に出かける口実で友人を誘った。
前回は嫉妬でおかしくなり、フリージアの陰口をしつこく聞かせたり、忠告を無視したりで疎遠になってしまった友人だ。それは後にうんと後悔したのだ。せっかくやり直す機会を得たのだ。もう大切な友人を失いたくなかった。