22 フリージア①
「やっと回復したわ……」
数日後、ようやく熱は下がり、ヴァイオレットは伸びをする。ゆっくり休んだおかげで体が軽い。
「それはようございました。これなら今夜のマイエール侯爵夫人の誕生日会には伺えそうですね」
「ええ」
社交界の重鎮と呼ばれるマイエール侯爵夫人の誕生日には、毎年盛大なパーティーが行われている。個人的に親しいわけではないが、今年は父の名代としてヴァイオレットも出席する予定になっていた。
「うーん……マイエール侯爵夫人ね……何かあった気がするんだけど」
「お嬢様、忘れ物ですか?」
「ううん、なんでもないのよ。何かを忘れている気がして」
なんだったかしら。妙に心に引っかかる。
ヴァイオレットはそんなことを考えながら、マイエール侯爵夫人の誕生日会に向かったのだった。
「お誕生日おめでとうございます。これからも益々のご健勝とご活躍を、心より祈念申し上げます」
ヴァイオレットの母親と同年代のマイエール侯爵夫人は、雛壇にあつらえられた豪奢なソファにゆったりと腰掛けている。
ヴァイオレットは誕生日の祝いの言葉とともに、シアーズ公爵家からのプレゼントをマイエール侯爵夫人の侍従に渡した。
「ヴァイオレットさん、ありがとう存じます。とてもお綺麗になられましたね。もしかして、素敵な恋をしているからかしら」
マイエール侯爵夫人にそう言われ、頭に浮かんだのはユリシーズだった。カアッと頬が熱くなる。
そんなヴァイオレットに、マイエール侯爵夫人は微笑む。
「まあまあ、赤くなって可愛らしいこと。婚約者のエイドリアン様と上手くいってらっしゃるのね。本日はエイドリアン様もいらっしゃるとお返事をいただいていますの。ご一緒ではないのは、エイドリアン様がご多忙だからかしら」
そう言われてヴァイオレットはようやくエイドリアンのことを思い出し、ハッとした。
「──あっ! いえ、なんでもございません。素敵な一日をお過ごしください。では、失礼いたします」
ヴァイオレットは挨拶を終え、人の多い広間に向かった。父の名代としての仕事は果たしたから、知り合いがいたら挨拶だけして帰ろうと思っていた。
ヴァイオレットは広間をキョロキョロ見渡す。さっきから、屋敷内のあちこちになんとなく見覚えがある気がしていたが、それもそのはず。最初のやり直し前の世界でも、ヴァイオレットはマイエール侯爵夫人の誕生日会に行っていたからだ。
「……うん、思い出してきた」
──やり直し前の世界で見たのは、仲睦まじく、揃って参加しているエイドリアンと、フリージアだったのだ。
ヴァイオレットは広間の人混みに紛れて二人を探す。エイドリアンに会うためではない。うっかり顔を合わせるのを避けるために位置を知っておきたかったのだ。
ヴァイオレットの少し後にマイエール侯爵夫人に挨拶を終えたらしい二人が、広間で給仕から飲み物を受け取っているのが見えた。
エイドリアンはフリージアの腰を抱いている。その距離感は婚約者がいる男性が、婚約者以外の女性にするものではない。友人だと言い張ったとしてもあり得ない。現に、婚約者であるヴァイオレットの存在を知っている他の客たちは、エイドリアンとフリージアを見て怪訝な顔をしていた。きっとマイエール侯爵夫人も困惑していることだろう。
そして、フリージアが着ているピンク色のドレスには見覚えがあった。一度目の世界で、ヴァイオレットがフリージアに水を掛けたのはこの日だったのか。
あの二人に見つからないうちに、さっさと帰ってしまおう。
ヴァイオレットはもうフリージアを虐める気などないし、エイドリアンにも近づかないのが賢明だ。
「あの……お嬢様……」
連れてきたシアーズ家の侍従も、エイドリアンたちを見て困惑している。ヴァイオレットは首を横に振った。
「帰りましょう。マイエール侯爵夫人への挨拶は済んだから。出口に馬車を回してちょうだい」
「は、はい。手配したらすぐに戻ります。お待ちください」
しかしパーティーの参加者にヴァイオレットは見つかってしまったようだ。エイドリアンとヴァイオレットを見比べる視線が刺さり嫌になる。ヴァイオレットは侍従が戻るまで、飲み物を飲んでいるふりをしようと人の少ない広間の端に移動した。
給仕から水の入ったグラスを受け取る。
偶然だったが、一度目と同じく水を受け取ってしまったことに気がついて、つい苦笑した。
「──ヴァイオレットさん。髪を切られたのですね。いないかと思って探しちゃいました」
その時、背中にかけられた声に、ヴァイオレットは肩を震わせた。
振り返るとフリージアが手にワイングラスを持ってニッコリと微笑んでいた。さっきまでいたエイドリアンはそばにいない。今は彼女一人のようだった。
「……フリージア」
「まあ、わたしのこと、ご存知でしたのね。あ、そうそう、はじめまして。──いつも貴方のことをよぉく伺ってまーす」
にこやかに微笑む彼女はとても可憐だった。同性のヴァイオレットですら見惚れてしまいそうなほど。大輪の花のようなモニカとも違う、色とりどりの花を集めて作った花束のような美しさと可愛らしさを併せ持っていた。
「……何の用でしょう」
「んー? あれ、おかしいなぁ。えっと、わたし、エイドリアン様の連れでこちらに参りましたの」
「そうですか。もうよろしいですか。私はそろそろ帰りますから」
「えっ? ちょっと待ってください! 話聞いてます? わたし、エイドリアン様にとーっても親しくしていただいて──」
「はい。存じています。ではもう用は済みましたよね」
フリージアはなんだか様子がおかしい。妙に突っかかってくるのだが、ヴァイオレットが相手をしなければ焦りを見せる。まるで、ヴァイオレットが激昂するのを待っているかのようだ。
いや、そのつもりなのだ。
「わ、わたし、エイドリアン様とは──」
「ですから、私の婚約者であるエイドリアン様と仲良くされているフリージア・モース男爵令嬢のことはよく知っていますし、私から用はありません」
「だ、だからっ、何かあるでしょ? わたしに!」
「その件に関して、今は貴方に言うべきことはありません。貴方に一切興味はありませんから」
ヴァイオレットはにこやかに言い捨てた。