19 ユリシーズの屋敷
──まさか夢でも見ているのだろうか。
ユリシーズはそう思ってしまった。
この日はユリシーズにとって珍しい休日で、筆頭魔術師としての仕事はない。領地の屋敷にある工房でヒューバードから個人的に頼まれていた魔術具作りでもしようと思っていた。そんな時、敷地内に人が入ったと警報魔術が鳴ったのだった。
この地に住んで数年経つが、見るからに怪しいユリシーズに、近隣の住人は畏れて近付かない。
ユリシーズとしては、怪我をさせたくはないから遠巻きにされることは構わない。だが、しばらくすると恐怖は薄れていく。どうしても度胸試しで侵入を試みる無謀な若者が後を立たないのだ。
そうして入り込んだ者が魔傷痕を作ったり、濃い魔力を吸い込んで呼吸器を悪くする。敷地内に入った程度なら数ヶ月で自然治癒するが、ユリシーズのせいにされてしまうから困りものだった。
警報が知らせたのも、またその類かと思っていた。だから覗き窓から見えた姿に心から驚いたのだ。それこそ、夢かと思うほど。
この屋敷は王都から、転移魔術がないなら馬車で数時間かけてでしか来られない場所にある。シアーズ公爵家の領地と隣接してはいるが、まさかヴァイオレットがこんなところにいるはずがない。
だが慌てて扉を開けてみると、幻でもなんでもない、本物のヴァイオレットが立っていたのだ。
可愛らしい女の子を抱いたヴァイオレットを見て、ついおかしなことを口走ってしまった。しかしヴァイオレットは怒るどころか、招いてほしいと言い出した。話を聞けば、馬車のトラブルで暇を持て余しているようだ。
この辺り一体は畑が多く、近隣には小さな村や家々しかない。
ユリシーズは己の体質ゆえに人の少ない場所にあえて屋敷を構えたのだ。公爵家の令嬢が時間を潰せるような場所は少ないだろう。
それならとヴァイオレットを招待したのだった。
しかし、気が付くとどういうわけか、ヴァイオレットがユリシーズの体の採寸と髪を切るという流れになっていた。どうしてそうなったのか、ユリシーズには理解出来ない。どう考えても髪を切るというのは高位貴族の令嬢が好んでやることではないはずだ。
──やはり、夢なのでは?
そう思って頬をつねってみる。……痛い。
この幸せな夢のような展開は夢ではないらしい。
「あの、どうかしましたか?」
不思議そうなヴァイオレットにそう聞かれ、ユリシーズは黙って首を横に振ったのだった。
まずは採寸をということで、ユリシーズは魔術具の保管部屋からメジャーを取ってきた。
「これで測れるだろうか」
「ええ」
ヴァイオレットは微笑んで頷いた。
咲き誇る大輪の花のようなモニカとも違う、ヴァイオレットの柔らかい微笑み方は、ユリシーズにとって好ましい。まさに可憐なスミレの花ようだ。
さっきも急に触れられて驚いた。間近に感じる体温や息遣いに、体が動かなくなり、石化魔術でもかけられたのかと思ってしまった。
しかし嫌ではないのだ。ただ自分でも、どうしたらいいか、わからなくなってしまうだけなのだ。
「それじゃあ測っていきますね」
ヴァイオレットは慣れた手付きでユリシーズの身幅や腕の長さを調べていく。身長を測る時には、一生懸命に背伸びをしているのが愛らしい。
「測りにくいだろう。無駄に大きいだけのこの体が申し訳なくなる」
「いいえ。ユリシーズは大きいから測りがいがあります。それに肩幅も広いし、手足が長くて腰の位置もうんと高いです。きっと、こういうのをスタイルがいいって言うんですよ」
ヴァイオレットは測りながらメモをしていく。
「随分慣れているようだが、君のような令嬢でも、人の採寸をするものなのだろうか」
「いいえ。でも、採寸される方は飽きるほどやっていますから、コツならわかります」
「なるほど」
ヴァイオレットは、別の紙に測ったサイズのメモを丁寧に書き写してユリシーズに渡した。
「このサイズ表を渡せば服を作ってもらえます。ユリシーズの着ているローブって、普通の服とは違うのですよね?」
「ああ。魔術師のローブには色々と素材が織り込まれていたり、特殊な糸を使っていたりする。私のこのローブも十年以上着ているが、濃すぎる魔力が外に漏れるのを防ぐ効果があるものだ。ただ、古いから効果が切れていたのかもしれない。早速、サイズの合うものを作ってもらうことにするよ」
「よかった。少し過ごしやすくなりますね!」
ニコッと微笑むヴァイオレットが眩しい。ユリシーズは髪に隠された目を細めた。
ユリシーズの今着ているのは、育ててくれた当時の王妃が仕立ててくれたローブだ。特殊な糸を使っており、当時は効果が高かった。
その頃に比べ、身長が伸びすぎてサイズが合わなくなってしまったのだ。しかも幾度かの戦闘を経て端が破けてしまっている。
同じ素材を使って体に合うものを仕立ててもらえば、この呪いのような体質も少しはマシになるだろうか。
「では、お次は髪の毛ですね! ユリシーズ、櫛と鋏はありますか?」
「普通の鋏であればここに。……櫛はないな」
そういえば髪を梳かしたことはない。なので屋敷にも櫛の類はなかった。いつも洗浄魔術をかけて清潔にしているので、髪を梳かすことに関して考えたこともなかった。
「うーん、それで上手く切れるでしょうか……あっ!」
ヴァイオレットはどこからか櫛を取り出した。
「私のものでよければあります! 普段持ち歩いている携帯用の櫛ですが、これを使って構いませんか?」
「構わないが……ヴァイオレットこそ、いいのだろうか。君の櫛をこんな汚い髪に使ってしまって……」
「え? 洗浄魔術を使っているのなら汚くはないでしょう。それに、とても柔らかい髪ですもの。梳かしがいがありそうです!」
ヴァイオレットの明るい声は嘘をついているようには聞こえない。
ユリシーズはためらいながらも頷いた。
「で、では、頼む」
「はい。でももし、嫌だったらすぐに言ってくださいね。こんなに長いのですから、今は切りたいと思っていても、切っている途中に惜しくなることがあるかもしれません」
「ヴァイオレットこそ、切る際に痛みがあったらすぐにやめて手を見せると約束してほしい」
ユリシーズがそう言うと、ヴァイオレットはまたふわっと微笑む。
「はい、任せてくださいね!」
決して髪を切るのが嫌なわけではない。
十年以上着ているローブはもうボロボロだ。
事情を知っている伯父である国王、ヒューバードやモニカなどは何も言わないが、式典でもこれを着ているユリシーズに思うところはあるだろう。髪に至ってはもうどうしようもない。洗浄魔法を使っているとはいえ、己の姿を鏡で見てもまさに化け物としか言いようがないのだから。
以前、第三王子のセシルがユリシーズを見て、引き付けを起こすほど大泣きしたことがある。そのため本来なら筆頭魔術師が出席する式典などでも、少し離れた場所に待機を命じられるほどだ。これでは筆頭魔術師としての仕事にも差し障りがある。
ずっとどうにかしたいと思っていた。だから、髪を切ろうと言ってもらえた時は嬉しかった。
育ててくれた前の王妃ですら切ることが出来なかったユリシーズの髪。彼女は、いつか時が来れば、ユリシーズの髪を切ることが出来る運命の相手が現れると予言した。それが彼女の加護だった。
そしてユリシーズは──それがヴァイオレットであればいいと思うようになっていた。
ユリシーズはヴァイオレットに惹かれている。もしも、彼女にこの呪いのような髪を断ち切ってもらえたならば。
──新しい何かが始まる気がしたのだ。