10 疑いの目
ヴァイオレットはそのままモニカの屋敷に泊めてもらうことになった。聞けば、この屋敷はモニカの実家であるリングフェロー家所有のものなのだという。王太子妃という立場でさらに初産なため、安定期に入るまで、少しでも安心出来るこの屋敷にしばらく滞在する予定だったそうだ。
ヒューバードがそばにいることで気分が落ち着いたのか、モニカの顔色が徐々によくなってきたのを見て、ヴァイオレットはホッとする。
「ヴァイオレット、疲れたでしょう。部屋を用意させたから、ゆっくり休んでちょうだい」
「モニカ様こそ、どうかお体を休めてくださいね」
「ええ、ありがとう」
「ヴァイオレット様、こちらにどうぞ」
ヴァイオレットは屋敷の侍女に客室へと案内された。やり直しもして疲れたこともあり、泊めてもらえたことはありがたいと思っていたのだが。
──やっぱり帰ればよかったかしら。
ヴァイオレットは明かりのない暗い部屋で虚空を見つめながらそう考えた。
用意された部屋は美しく整えられていたのだが、蝋燭が使いかけのものが一本きりですぐに消えてしまった。
喉の渇きを覚えて、部屋に案内してくれた侍女に水を頼み、ついでに蝋燭の補充もお願いしたのだが、それから随分時間が経っても持ってきてくれないままだった。
部屋にあった使用人を呼ぶためのベルを鳴らしても、反応すらない。
ヴァイオレットは屋敷の使用人に嫌われてしまったようだ。
「……やっぱり私が疑われているからかしらね」
モニカとヒューバードはヴァイオレットを信じると言ってくれた。しかし使用人からすれば、相変わらずヴァイオレットが怪しく見えるのだろう。
「まあ、暗くても、さっさと寝てしまえばいいのよ」
しかしベッドに横たわっても中々寝付けない。真っ暗な部屋は、一度目の世界で幽閉されていた屋敷を思い出す。もちろん広さや清潔さでは比べものにならない。しかし一寸先をも見通せない闇に、不安な気持ちを掻き立てられてしまうのだった。
朝になってもそのまま放置されたので、ヴァイオレットは高位の貴族令嬢でありながら、身支度を一人で済ませた。幽閉されていた時には仕方なくやっていたことだが役に立つ。それに髪が短いので簡単に身支度が終わるのだ。短くして正解だったかもしれない。
朝食の時間にはさすがに案内しに来たが、態度は最悪だった。
屋敷の侍女は、一人で身支度を済ませたヴァイオレットを下賎な者を見るようにフッと鼻で笑う。
「おはようございます。あーらぁ……お呼びくださればよかったですのにぃ」
しかし何度も呼んだのに来なかったのはそっちの方だ。そう怒りたいが、声を荒げでもしたら、きっと被害者ぶってモニカに言い付けるつもりだろう。私は侍女の挑発を無視した。とはいえ気分がいいものではない。モニカに会ったら帰宅する旨を伝えようと決意した。
案内されたダイニングルームでモニカに朝の挨拶をする。
「おはようございますモニカ様。昨晩は泊めていただき、ありがとうございました。体調はいかがでしょうか。あの、私もそろそろお暇しようと思いまして」
「まあ……そうなの? もう少し滞在してはどう? ヒューバードもいないし、心細くて。せめてユリシーズが来るまででもいいからヴァイオレットがいてくれたら心強いのだけれど。……いてくれるだけで構わないのよ」
ヒューバードは外せない用事で朝早くに王宮に戻ったのだという。
そう言われて、不安そうなモニカを突っぱねることは出来なかった。
しかし朝食を出された時点で早くも後悔した。
ヴァイオレットの前には一見するとモニカと同じ料理が並んでいた。しかしそのどれもが冷め切っている。冷たいパンにスープ、オムレツに至っては塩すら入っていない。味気なく、冷たくてボソボソしている。
「……ごちそうさま。もう結構よ」
幸い異物は入っていないようだったが、ヴァイオレットは食欲も失せて半分以上残してしまった。食後のお茶まで冷えている。徹底した冷遇ぶりに、怒りすら湧かない。
「ヴァイオレットって、朝は食欲があまりないの?」
「え、ええ……」
モニカは気が付いていないようだ。心労の大きい彼女をこれ以上悩ませたくないので黙っていた。
朝食の後、モニカは医師に診察を受けることになり、ヴァイオレットは暇になってしまった。
帰ってもよかったが、モニカの不安そうな顔を思い出して踏み留まる。
ユリシーズが来るまで部屋で大人しくしていよう。そう思って席を立ち、廊下を歩く。そんなヴァイオレットを追いかけて、侍女が駆け寄ってくるのが見えた。手には水差しを持っている。
「ヴァイオレット様、お水をお持ちしました」
「え?」
「先程、お水が欲しいと言われましたよね」
先程も何も、それは昨晩の話だ。そう思ったところで、侍女はヴァイオレット目掛けて水差しの中身を頭からぶちまけてきた。
バシャッと冷たい水が全身に掛かり、髪や服に染み込む。
「きゃーすみません! うっかり躓いてしまいましてぇ。あーん、あたしは何てことをー!」
わざとらしい物言いがなくとも、それがわざとでないとは思わない。
水差し一本分の水が染み込み、ポタポタと滴り落ちる。冷たく濡れたブラウスが肌に張り付いて不快だ。恥ずかしさと怒りが混ざり合い──かえって落ち着いた。
一度目の世界で、いきなり水を掛けられたフリージアもこんな気分だったのかしら。
ヴァイオレットが何も言わないので、侍女はニヤニヤした笑いを引っ込める。
「何よ……こいつ……気持ち悪い女ねっ!」
顔を引き攣らせて侍女は走り去っていった。
ヴァイオレットは濡れたまま放置だ。部屋にタオルはあるだろうか。着替えもないので困る。
やり直して、水を掛けられないよう立ち回ろうか。そう思ったヴァイオレットの背中に声がかけられた。
「ヴァイオレット」
ヴァイオレットが振り返るとユリシーズが立っていた。今しがた到着したのだろう。昨日と同じ白もじゃ頭にボロボロのローブ姿である。
嫌そうな顔でユリシーズを案内していた従僕は、服が濡れたヴァイオレットを見てギョッとした。気遣うどころか慌てて逃げていく。この屋敷の使用人は大なり小なり不真面目な様子だ。使用人の質の低さに、ヴァイオレットは濡れていることを忘れて呆れ返った。
ユリシーズは白モジャの髪を揺らしてヴァイオレットの方に歩み寄る。
「どうした? 濡れているじゃないか」
「あ、これはなんでも……ないようには見えませんよね」
ヴァイオレットは苦笑する。
「お見苦しいものを見せてしまってすみません、部屋に戻って乾かしてきますので」
「待ちなさい。魔術で乾かすくらいさせて欲しい。君が構わなければだが……」
「そんな、私はありがたいですけど」
ヴァイオレットがそう言うと、ユリシーズは頷いた。
人差し指を軽く振る。それだけで濡れた髪や服から染み込んだ水が玉のような形になって外に出ていく。ユリシーズの人差し指に水が集まり水球を成した。
もう一度指を振れば、水球はパッと弾け、水蒸気になって消えた。もうすっかり服も髪も乾いている。
ついでに洗浄魔法もかけてくれたらしく、すっかり綺麗な状態に戻っていた。
何度見ても鮮やかな手腕に、ヴァイオレットは感動した。
「ありがとうございます。助かりました」
「いや……出来ることをしただけだ」
「ユリシーズは詠唱をほとんどしないようですが、すごい実力をお持ちなのですね。昨日もそう思いましたが、さすが筆頭魔術師だと感動しています」
「俺には魔術しかないだけだ。ある意味呪いのようなものさ。……それよりも、誰かに水を掛けられたのか」
ヴァイオレットはなんでもないように笑ってみせた。
「私がモニカ様にあのハーブティーを贈ったと、まだ信じている人がいるみたいです。怪しく見えるのは理解していますから、平気です」
一度はヴァイオレットとて、フリージア相手に同じことをしたのだ。天罰だと思ってこれくらいは受け入れよう。それにユリシーズに乾かしてもらったから、もう何ともない。
「……向けられる悪意に慣れてしまう必要はない」
「ユリシーズ……」
だと言うのに、ユリシーズの優しさに、つい涙腺が緩みそうになってしまった。




