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1 最悪な婚約破棄①

「この泥棒猫っ!」


 こんな陳腐で情けないセリフを言う日が来るなんて、ヴァイオレットは思ってもみなかった。しかしどうしても言わずにはいられなかったのだ。

 ヴァイオレットは目の前の憎い女──フリージア・モース男爵令嬢に向かってグラスの中の水をぶちまける。

 ピンク色のドレスが水を吸って濃い色になったのを見て、少しだけ溜飲を下げた。


 フリージアは、今にも涙が零れ落ちそうな大きな瞳をヴァイオレットに向けた。

 整った顔立ち、けぶるような長いまつ毛、澄んだ空色の瞳。そして髪の色は甘そうに感じるストロベリーブロンド。フリージアは誰もが振り返るような美しさを持っていた。

 今の泣きそうな表情には誰もが庇護欲を掻き立てるのだろう。他でもない、ヴァイオレットの婚約者、エイドリアンさえも。

 ヴァイオレットは胸苦しいほどの怒りと嫉妬に、フリージアを睨みつけた。


「ひどい……どうしてこんなことをするんですか? ヴァイオレットさん」


 ──どうして? そんなこと決まっているじゃない。

 このフリージアは、美しく清純そうな顔をしてヴァイオレットの婚約者であるエイドリアンを誘惑し、ただならぬ関係になっているのを知っていた。

 白々しいことを言うフリージアに、再び激しい怒りが湧き上がる。荒れ狂う感情に内側から焦げてしまいそうだった。


「何故お前がそんなことを言うの? 私がどうして怒っているのか、分からないとでも言うのかしら?」

「それは……わたしがエイドリアン様と仲良くしたから、ですか」

「そうに決まっているでしょう。エイドリアン様は私の婚約者なの! しかもこの国の第二王子。貴方のような男爵家の令嬢ごときが、気安く話しかけていい存在ではないのよ!」


 ヴァイオレットはシアーズ公爵家の長女。王家に連なる高貴な血を引いている。魔力量もずば抜けて多く、エイドリアンとは同い年で生まれた時から結婚することが決まっていた。そして、長じてから正式に婚約をした。一年後には婚約披露パーティーが予定されている。

 他の女が、それも美しいだけで身分が低い女が擦り寄っていい存在ではないのだ。


「でも、わたしは自分の気持ちを偽ることなんて、出来ません!」

 

 しかし、フリージアはヴァイオレットに怯えながらも、キッパリとそう言った。

 

「な、なんですって──」


 フリージアの返答にヴァイオレットの目の前が真っ赤になる。

 気持ちが何だというのだ。自分さえよければ、他人を踏み付けて、婚約者を奪い取っても構わないというのだろうか。


「エイドリアン様に近寄ったり、色目を使ったりしたら、ただじゃおかないんだから! お前の実家のような男爵家なんて、公爵家が何かすれば吹けば飛ぶようなものなのよ! 身の程を弁えなさい!」

「そんな……ひどいわ……」

 

 ──ひどいのはどっちよ。


 フリージアはとうとう涙を零し、それを皮切りに手で顔を覆ってシクシク泣き出した。ヴァイオレットはフリージアを泣かせたことに気を良くする。

 

「いいこと、エイドリアン様に二度と近寄らないで!」

 

 一部始終を見ていた周囲が、ヒソヒソとヴァイオレットの噂話を始めたことには気付かずに、その場から去ったのだった。


 しかしヴァイオレットが忠告をしたというのに、フリージアはエイドリアンとの交際を止めるつもりはないようだった。恋路は障害があればあるほど燃え上がるのか、二人の仲はますます深まっていく噂が漏れ聞こえてくる。

 嫉妬でイライラしてばかりのヴァイオレットは、ますますエイドリアンから遠ざけられる一方だった。それをヴァイオレットがどうにか挽回しようとすればするほど悪循環になり、関係は悪化していった。

 だとしてもエイドリアンの一存では、互いの父親である国王と公爵の間に結ばれた結婚の約束をどうにかすることは出来ない。だから大丈夫。ヴァイオレットは頑なにそう信じ続けた。


 ──あと少しの辛抱よ。婚約披露パーティーの日さえくれば。


 エイドリアンとフリージアの仲は皆に知れ渡ってしまった。しかし、結婚をするのはヴァイオレットだと決まっているのだ。

 そう信じて自分の行動を改めようとはしなかった。

 

 ヴァイオレットは憎きフリージアに嫌がらせをするようになった。それは水をかけるのと同程度の些細な行動だったが、ヴァイオレットのストレス解消には役立った。友人から止めるよう忠告されても無視し、嫌がらせを続けた。

 

 次第にヴァイオレットから人は離れていき、ヴァイオレットはますます孤独に陥っていく。

 そうして一年が経過し、ヴァイオレットは待望のエイドリアンとの婚約披露パーティーの日を迎えたのだった。




 キラキラと絢爛豪華に飾り付けられた婚約披露パーティーの会場。同じくキラキラと磨かれたヴァイオレットは、派手な宝石をたっぷり身に纏い、会場中の視線を集めていた。ヴァイオレットは美しい。フリージアほどではないにしろ、整った容貌と、豊かな長い金髪、そして名前の通り菫色の美しい瞳の持ち主である。

 ヴァイオレットはまさに主役として輝いている。そう自分で思い込んでいた。


 ──ああ、ようやくこの日が来たわ。エイドリアン様は私のもの。

 エイドリアンに向き合ったヴァイオレットは勝ち誇っていた。


 彼と正式に婚約したと国中に知らしめ、ゆくゆくは結婚するのは自分なのだ。エイドリアンとフリージアの仲が続いていたとしても、妃という名称はヴァイオレットだけのもの。ヴァイオレットが妃である限り、フリージアは妾妃にしかなれない。例え子供が生まれたとしても、妃との間の正当な子供に比べ、妾妃の産んだ子供は王位継承権がずっと低くなるのだ。

 ヴァイオレットは満足して笑みを浮かべる。

 

「ヴァイオレット……」

「はい、エイドリアン様」


 エイドリアンに名前を呼ばれて差し出した手は、他でもないエイドリアン本人に弾かれた。

 バシッと高い音が会場に響く。


 ヴァイオレットは何が起こったのか、突然のことに理解が及ばす、ポカンと口を開けてエイドリアンを見上げた。

 エイドリアンはヴァイオレットを憎々しく睨みつけた後、高らかに声を上げた。


「ヴァイオレット、冷酷な貴様にはほとほと愛想が尽きた。僕はヴァイオレット・シアーズとの婚約を破棄する!」


 途端、会場中がワッと湧き上がった。


「え……?」


 ヴァイオレットはざわめきの中、呆然と立ちすくんだ。


 気がつけばエイドリアンの隣にフリージアが並んでいる。

 二人の腕は恋人のように絡められていた。いや、間違いなく恋人同士なのだ。フリージアの着ているドレスはとても男爵家で用意出来るような代物ではない。

 今ヴァイオレットが着ている豪奢なドレスと差がない美しいドレスはエイドリアンから贈られたもの──愛された結果なのだと周囲に示していた。


「ヴァイオレット……貴様はくだらない嫉妬で、彼女を傷つけた。本来なら父上が決めた婚約を破棄するなど出来るはずはない。だが、我が国の王室には、前科あるものは入れない決まりがあるのを覚えているか? ヴァイオレットが今までしてきたことは犯罪だ。全ての証拠があるし、公訴すれば起訴処分は間違いない! つまり、貴様の有責で婚約破棄だ!」

「う、嘘よ……婚約破棄……だなんて……」


 ヴァイオレットはフラフラとあとずさる。


「どうして……私……エイドリアン様のために色々尽くしてきました!」

 

 シアーズ公爵家は第二王子エイドリアンの後ろ盾となり、金銭的にも援助をしてきた。ヴァイオレットも、陰日向に支えてきたはずだ。

 

「そんなこと、僕は一度も望んじゃいない。勝手にやっておいて見返りを得ようだなんて、卑しい女め!」

「シアーズ公爵家も貴方の後ろ盾となるために、どれだけ──」


 言いかけた時、わぁんと泣き声がした。


「ボク、あのお姉さん怖い! お化けみたいな顔をしてるよぉ!」

「まあ、セシル。そんなこと言ってはいけません!」


 それはエイドリアンの腹違いの弟、第三王子セシルの泣き声だった。母親が止めても泣き止まず、わんわんと泣き喚く。たった六歳の無垢な王子の言葉に、周囲の視線はヴァイオレットに寄せられた。


「まあ、ひどい顔……」

「嫉妬って、あれほど人を醜くするのね」

「完全な負け組だよな」

「負け組令嬢だ!」


 漏れ聞こえてくる声に、ヴァイオレットは思わず両手で顔を覆った。負け組──その言葉が頭の中を駆け巡る。クラクラして、世界が遠ざかった気がしていた。

 俯いたヴァイオレットにエイドリアンが耳打ちする。


「本当に醜いなぁ、ヴァイオレット。貴様の生意気なところ、恩着せがましいところも昔から嫌いだった。公爵令嬢で見た目が少しいいだけ。なんの取り柄もない。魔力量が多いからなんだ。貴様には魔術の才能もないではないか。加護すら発現していない貴様など、何の役にも立たない」

「そ……そんな……」

 

 それは全て事実だった。由緒正しい公爵家令嬢らしく魔力量は多いが、魔術の才能がないため、どれほどの魔力量があっても無用の長物。同様に加護と呼ばれる特殊な魔術も発現していないため、ヴァイオレットに課せられた役割はエイドリアンとの間に魔力量が多い子供を産むことだけだった。

 だからこそ、エイドリアンの婚約者の立場に縋っていた。それすら、エイドリアン本人から切り捨てられるのだ。

 エイドリアンは周囲に聞こえるよう、高らかに声を上げた。

 

「ヴァイオレット、家柄を鼻にかけ、高慢な態度でフリージアを傷付けた貴様を許さない!」

「いや……誰か……助けて……」


 周囲を見回しても、この場にはヴァイオレットを庇うどころか、同情的な視線すらない。かつての友人たちも、ヴァイオレットから顔を背けている。

 この広い会場に、ヴァイオレットの味方は誰一人いなかった。


 そこから先は、ヴァイオレットの耳に入ってはこなかった。激しい頭痛と耳鳴りでその場にへたり込む。

 エイドリアンが手配した司法の人間が、長ったらしくヴァイオレットへ口上を捲し立てるのも、何もかも遠ざかっていくように感じる。やがて意識を手放し、ヴァイオレットは暗闇に落ちていった。


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