White whale (1)
仮死状態に陥る薬品のダメージが抜けて、通常の生活と鍛錬に戻れるようになった宅島はブリーフィングに呼ばれた。
寝起きに使用している例の白い部屋から、細く狭い、荷物だらけの廊下を歩いて会議の部屋へ向かう。こつこつと足音が反響するが外の音は聞こえない。南古野の喧騒からは、ちょっと遠い場所だった。
宅島が筧によってかくまわれたセーフハウスは、貧民窟である南古野から少し外れている。
現在は北遮壁・南大壁と呼ばれている、横倒しになった高速道路。それが往きつく先だった灯京の方面へしばし進んだところにある、打ち捨てられた廃墟群のなかにあった。
建物としての使用経歴や用途をかなり誤魔化した、又貸しにつぐ又貸しのせいで所有者と権利が朧気になっている住居。おそらくはシェルターとして四大災害以前につくられたのだろう地下空間に彼は身を潜めていた。
「宅島艮、入ります」
会議室に一礼して入り、ブリーフィングに参加した宅島。ホワイトボードの前に立ち、資料の束片手に自分たちを見る筧に向き合った。
粗末なパイプ椅子に腰かける人数は宅島を含め五名。先日、起きたすぐのときに挨拶はしたがその後出くわしたことはない。任務で出払うことが多いようだ。
全員が水道局の纏う群青の制服に身を包んでいたが、階級章はバラバラだ。出自なども不明だが……ひとりだけ、宅島が顔を見たことのある人物もいる。一九〇を超える宅島と並ぶ長身の彼は局内での研修時代に幾度か組手をしたことのある人物で、名は轟。
一年以上前、任務中に死亡したたはずの男だった。
「この小隊は《伍支》と呼称する。すでに公の立場がない諸君らは作戦中、割り振られた識別コードで互いを呼ぶ。宅島、君の識別コードは《末指》だ」
配られた資料に目を通す。
《末指》宅島艮。
《薬指》海藤鹿苑。
《中指》照岡女郎花。
《示指》新庄大貝。
《拇指》轟片平。
その上に、《担い手》筧堂嶺となっていた。
「我々の作戦目標は南古野の維持と存続にある。私を含め諸君らの名は残らない。ちなみに君たちの呼称も便宜上順位がついているのみで、階級の上下もそれにともなう褒賞の上下もない。目標達成ののちは速やかに解散し、別の戸籍を与えられて他の統治区での生活が保障される。ただそれだけだ」
妥当な処置だ、と宅島は思った。
自分の勧誘の経緯を考えるに、おそらく轟を含めこの場の全員がなにかしらのかたちで南古野の暗部に踏み込んだ。そこで引き返すことを択ばず(あるいは択べず)、筧に提示された条件に乗ってここに居るのだろう。
「中間目標は『最終焉収斂機構の確保と収容』。最終目標は『機構とプライアの併用順化による第二次進化モデルの完成』」
「機構とプライアの……?」
「質問があれば挙手を願おう、末指」
すでに識別コードで呼ぶことが定まっているらしい。
つぶやきに指弾する物言いの筧に、宅島はすいと手を挙げてから問いを連ねた。
「第二次進化モデル研究が、今後訪れるであろう大崩壊にも適応できる人類を生み出す計画であることは知っています。そのため、機構による知覚範囲拡大を『人間の進化の方向性』として定義し、さまざまなアプローチを検討している結果のひとつが拡張現実順応化試作機であることも……ですがそれは機構研究の範疇。いくら《陸衛兵》たちの技がプライアじみた異常を発揮していようとも、機構とプライアの併用とはならないように思うのですが」
宅島が言い終えると、筧はオールバックから数条垂れてきた前髪を後ろに戻してから答えようとした。
が、そのとき宅島の横で轟が手を挙げる。筧はうなずく。
身長こそ大差ないが轟の方が脚が長いのか、横を見れば轟の方がいくぶん低い位置に目線がある。下ろす途中だった分厚い掌をひらひらと振って、剃り込みの入った赤髪を撫でる。翠玉の瞳が細められ、頬骨の少し出た瓜実顔のなか、薄い顎髭の上で薄い唇をゆがませた。
「我々の使ってん《隔併機》を見せる方が早いでしょ、担い手。発動の許可願んます」
「了解した。君の判断を承認しよう、拇指」
「あざっす。じゃあ末指、俺のやってんこと、よーく見てろよ」
こちらに向き直る轟は袖をまくった太い右腕を差し出してきて、血管の浮いた拳と前腕に力を込めた。
青い光が腕に幾筋も通った。
血管の中を走っている……階路ではない。まちがいなく血管を走っていた。宅島は意図するところがわからず、視線を上げる。轟の目には青の光が宿り、機構を起動中であることはあきらかだった。
「傷の修復時以外で微機を血管に宿すのは、あまり効率が良くない戦い方のはずだが」
同じ研修を受けた身なら知らぬはずがない、と思って宅島が口にすると、轟は笑った。
「そりゃ機構を機構として扱う場合だな、お前さんよ。俺のこれは機構として使ってねんだよ。俺は、能力としてこれを使ってんだ」
「どういう意味だ」
「手ぇ出しな」
言われるままに左手を出すと、轟はその上で拳を開く。
ぽつ、と、青い液体がひとしずく垂れた。
宅島の手の上に落ちる。
液体に、手が重く弾き飛ばされるのを感じた。支えようとしてしまい、身体が左に傾ぐ。上体が前かがみになる。それでも支えきれず、手の上から、そのたった一滴の青く光る液がこぼれ落ちる。床に落ちてドムっ、と重さを感じさせる音がする。
《陸衛兵》の技と同じ、超常じみたものを感じた。
「拡張現実順応化試作機のプロト……という話は聞いたが、これが『そう』なのか?」
「改良はしてんけどな。そもそも、機構と能力が別物って認識が間違ってんだよ。まぁ間違うように仕向けられてんだがさ」
説明をつづけながら、轟は手の内にある液体を見せた。数滴の青い液体。それは彼の身体にしみこんで、消えていった。
これを見届けてから、轟はつぶやく。
「口述コード [After Catastorophe/Disease of Cerebral] 」
「なんのコードだ?」
「お前さんにかかってんまじないを解く呪文さ――能力も機構も、発動時は脳の松果体が活性化する。だから併用できん。理屈としちゃ筋が通ってんな。なら、『同質のモンだから同時使用不可』とは考えられんか?」
その言葉に、宅島は奇妙な感覚を覚えた。
思い出そうとしても思い出せなかったことがふいに脳裏に浮かんできたときのような、つかえの取れた気持ち。答えを知っていたはずなのに、いままで思い出せなかったかのような感覚。
たしかに考えてみれば至極単純な帰結だ。
これまで思いつかなかったことが、あまりに不自然と思えるほどに。
「……いや。ちがうな。『不自然なまでに思いつかないよう』仕向けられていたのか」
「正解」
轟は笑い、指折りしてその『仕向け』について語る。
「認知機能、思考の組み立て、連想範囲、言語音韻認識、識閾下。人類はこれらのごく一部にロックをかけられてんのさ。旧時代の教化型の技術の応用だな……それを外してやんのがさっきの呪文だ。あのワードを聴覚神経から認識して十五秒以内に『松果体』『活性化』『併用』『理屈』『同質』『使用不可』という単語をこの順に連ねて聞いたとき、ロックを外したままにできんだよ」
「この事実に思い至っては困る、ということか。おそらくその、教化による思考ロックの原因となっているのは代謝促進微機だな」
「頭の回転が速ぇんだなぁ。もう説明せんでもわかっとんじゃないのか、お前さん」
「共通の認識を持てているかは気になる。つづけてくれるか、拇指」
「OK。じゃあつづけよう」
その先の説明は、宅島が想定したものとほとんど変わらなかった。
「プライアとは、代謝促進微機による『宿主の保全機能』のバグが引き起こす現実改変だ。宿主が辛いとき、その苦境を克服させ宿主を保全せんがため、辛い現実を改変するに足る力を与える」
つまり、微機とは。
プライアの発生原因であり、すなわち微機を生み出し操る機構とは系統を同じくする。
機構による知覚の拡張とは、プライアを扱う前段階。改変したい現実に触れて・味わい、そのディテールと改変範囲を知るためのもの。
こうした『知覚する』ことにより変化を及ぼしてしまった改変範囲をまた『知覚する』ことを繰り返し、知覚範囲を感覚のフィードバックで歪める技を成立させていたのが拡張現実順応化試作機だ。あれは、移植した肉体に自分の感覚意識を載せる鍛錬によって知覚範囲を延長する技法がベースになっている。
「プライアを生むために微機が、機構があった……それが、秘匿されていたのだな」
轟は正解、と言ったときと同じ笑みを浮かべた。
では……第二次進化モデルとは。
「望むように現実を知覚し、望んだように現実を改変する人類。私の所属する求生総研が目指しているのは、それだ」
筧が話を閉じ、長くなったが、と前置きしながら宅島に言う。
「それにあたって必要となる、最終焉収斂機構。この奪取に際しての戦闘対象・《七ツ道具》の排除に向けてこれより行動を開始する」




