Water war (2)
「……いまの、ハッキングしたっていうのか」
「そぅいう言い方は、無粋です」
つんとそっぽ向いて彼女は腕組みする。
「暴力的な、改変ではぁりません。穏便にぉ願いしての懐柔、です」
こともなげに言うが、失伝技術である電子系統に疎い理逸でも、水道局管理下にある電子制御系統は現代最高峰の厳重なロックがかけられていることは知っている。
それをやすやすとくぐり抜けながらおこなう『懐柔』とは、字義通りの穏やかなものではあるまい。
「お前……何者だよ。どうしてこんなとこにいるんだ」
わずかに足を引き、理逸は戦闘に入るときの構えに近づく。
今日の水泥棒は理逸が所属する《南古野安全組合》の扱いで、極道者の《笹倉組》も華僑たちの《沟》も関与していない。
まったくイレギュラーな少女の存在の正体がつかめず、理逸は警戒していた。
すると彼女は顔をしかめた。
「ですから、水泥棒をしに来てぃたのです。二度も言ゎないと伝ゎりませんか?」
「そういう意味での『どうして』じゃねぇよ。こんなレベルのこと出来る奴がなんでこれまで表に出ることなく生きてこれて、今日に限ってここにいる?」
「……ぇと、それは……」
口ごもった少女は縮こまり、片手で髪を撫でつける。
……この街での隠しごとは大抵、おおいなる厄介ごとだ。理逸はどんどん増していくいやな予感に頭痛を感じはじめている。
居心地の悪い沈黙が二者間を満たした。
ややあって、少女がなにか提案しようとしたのか。
もごもごと口ごもりながら、ちらちらと視線を上げ、
目を大きく見開く。
「――ぅしろっ!」
警告の声より早く、理逸は飛びのいていた。
身を崩して左へ転がるように回避。瞬間、頭上を風が横切ったのを、感じた。
膝立ちで向き直り、襲い来る者を確認する。
大男だった。
たったいま横薙ぎに振り抜いた警棒を右片手正眼に構え直しながら、理逸を見下ろし笑う。身を包む群青の制服は先の三人の警備兵と同じものだった。
しかし、いかつい顔が見えている。
坊主頭で下顎の発達した、強面が見えている。
メットをしていない。感覚器を阻害する装備を極力外すためだ。
「……第一種装備」
「正解だ、コソ泥」
低い胴間声で言う大男は、薄闇の中にもかかわらず瞳に光を揺らめかせた。
青い残光。
目の中を泳ぐそれを見て、理逸は歯噛みし吐き捨てた。
「機構運用者か」
第一種装備。
それは《末端子拡張機構》と呼ばれる現実情報拡張機能を持つ特殊機構を含む、警備兵のトップクラスに与えられる装備だ。
四大災害で文明が衰退したあとの現代、旧時代の遺産である機構は非常に貴重なものである。銃弾にしたって一発の金額が理逸たち貧民の三日分の食事に相当するが、機構に至っては貧民基準の物差しではどうにもならない。最低でも上級市民の年収が相場だ。
その機構は――名の通り人間の機能を『拡張』して、能力を引き上げる。
「ハハハハ!」
笑い声と共に振るわれる警棒が理逸の逃げ場を奪う。
縦に振り下ろし――いや左から迫る薙ぎに途中で軌道が変化した。
屈む。避ける。
衝撃。
右から回し蹴りが襲ってきていた。
右前腕でガードしたものの頭部が揺らされる。横にじりりと身体がズレる。警備兵が足を引いた。前に出――ようとしたところを斜め上からの蹴り下ろし。また前腕で防ぐ。
一旦地面に左手をつき、低い姿勢から突進を――と思ったときには地面に置いた手が相手の足刀で踏み躙られている。激痛に身もだえし、地面を横に転がって引き抜いた。
「ぐぅぅっ」
「どうした若いの。遅すぎるぞ」
小ばかにしながら、警備兵は警棒を油断なく掲げた。視界の端で少女のことも捉えつづけており、だれも逃がさないという圧迫感を覚えさせる。その圧が高まったところで、警棒の風切る音が連続する。
動こうとした先に、回り込まれるような打撃だった。
達人じみた予測を可能とするのは、視覚の機能拡張。
動体視力と動画像処理能力を底上げし、わずかな身じろぎすら見逃さず理逸の動きの虚と実を選り分け、的確な軌道を選択したのだ。
「普通に動いてちゃ、かわせねぇな……」
座り込んだ理逸は横合いに素早く左掌を向ける。
『能力』の次なる対象として狙うはホームに整然と並ぶ柱のひとつ。
拳を握り込み、固定された柱に向けて自身を『引き寄せ』。床を蹴りつつ間合いから離脱した。
が。
「――っ!」
「遅いと言っている」
影に貼り付くような速さで追いつかれた。
動きを見て、瞬時に移動先を読んだのだろう。明らかに速すぎる挙動は脚力を強化したものだ。加えて他害への忌避を薄めるため共感機能を封印したか、容赦のない警棒の一撃が理逸のこめかみを襲う。
ガンっと頭蓋の中で鈍い音が響き一瞬意識が飛ぶ。
飛んだ意識に追いつくように、身体が転がる。
とっくに理逸を追い越していた警備兵が、蹴りでその身を受け弾く。
弾かれた先でも、また追い越されて蹴られる。
蹴りが積み重なる。
身体が固まりつづける。
まるで子どもに蹴られる石ころの気分だ。
角が削れていき、
丸められていく。
この身が止まるのは飽きられたときか。
あるいは砕けた、そのときか。
(くそったれ。運が……なかった)
理逸は自身の不運を、その一言で受け入れた。
――『機構運用者と戦ってはならない』。
この街に生きる鉄則である。
装着された人体を微機動胎に作り替え、体内に流すマシンによる作用で機能を拡張・強化する《末端子拡張機構》。
作用による拡張済みには、生身の人間ではほぼ絶対に勝てない。
例外があるとすれば、既存の物理法則から離れた領域にある『能力』か、あるいは相手の機構を無力化できるような何かだが……。そんな都合の良いものはまずお目にかかれない。
「少しばかり移動の補助ができる程度の能力では、大した足しにもならないぞ」
警備兵のせせら笑う声が聴こえる。
身を丸めて打撃に耐えながら、理逸は「わかってんだよ」と声に出さず心中でぼやく。
ここから自身が無事に帰れる可能性は、ほとんど絶無といっていいだろう。
で、あるならば。
自分にできることは、あとひとつだけ。
「おい。おま、え」
降り注ぐ重い打撃に声の芯も揺らされながら、理逸は呼びかける。
ゴーグル越しの視界の端、まだ制御パネルの近くにいた少女がびくつく。
理逸はその反応を無視して、言う。
「階段、上がれ」
「……ぇ」
「まっすぐ、十字路三番目を、左折……ぐっ!」
「馬鹿か。逃がすわけがないだろう」
重い。脇腹に中段回し蹴りが深々と入った。
元より貧民窟で暮らす、体格に恵まれない理逸だ。体格の良い警備兵との戦闘で、一度傾いた天秤はその均衡をどんどん失っていく。
が、深く入ったということは『利かせる』時間が長いということ。
理逸は相手の足が離れる前に両手で触れ、つかむ所作をおこない――『足を引き寄せ』つづけるように能力を発動した。
「? 足が離れん。プライアか……が、それでなにになる」
警備兵は即座に切り替えた。
軸足で飛び上がり、足を能力で保持する理逸の胴を両脚で挟み込んで仰向けに押し倒す。
どさりと背中から着地し、理逸の肺腑は潰れ息が漏れる。
両手はこの動きで脚の間に巻き込まれ、無防備を晒した。
警備兵が、警棒の柄頭をかざす。
「これで力の逃げ場はない。この前は十一発目で死んだ」
死刑宣告をしながら、警備兵は嗜虐心に満ちた顔をしてみせた。
「お前は何発耐えられるかな? 最後に言いたいことはあるか」
早鐘を打つ心臓の音が耳に痛い。
理逸はすう、はあ、と息を整えた。
言うべき言葉を間違えないための、最期の呼吸のつもりだった。
身元も正体も目的も不明な少女だが──自分より若い命が、ここで死んでいいはずはない。
だから言う。能力を発動しつづけ、警備兵をわが手に引き寄せながら言う。
「――逃げろ、ガキ」
「ご立派なことだ」
柄頭が振り下ろされる。
首を横に振って逃げようにも、向こうは見てから後出しで動きを修正できる。回避しようがない。地面に押さえつけられているから力を逃がすこともできない。
完全なる、詰みだった。
ならばせめて、目を閉じずいよう。ゴーグルを割られてすぐに潰れるかもわからないが。
そんなことを考えていると、
理逸の眼前が、
――――――青の奔流に塗りつぶされた。
「なっ、うぁっ?!」
奔流を食らった警備兵がうめく。
細くたなびく青のほとばしり。
幾千、幾万の蜘蛛の糸のような光が、警備兵に当たっては弾けていく。
同じ方向に流れていくそれは、かつて一度だけ夏の夜に見た『流星群』を思わせた。
はじまりと同じように唐突にそれは終わり、
あとに静寂だけが残る。
理逸は身体を警備兵の下から引き抜いていた。突然の事態に重心が甘くなっていた隙をついてのことであり、自身の技巧によるところではない。
警備兵から距離を取り、青の奔流のやってきた方向を見る。
そこには制御パネルの横にいた、少女が。
指先に茨状模様を這い回らせ、右手を高く掲げていた。
紫紺の瞳には、青の残光。
警備兵と同じ。微機を動かした際、軌道上に生じる熱の無い光。
つまり、《機構運用者》の証。
警備兵の男はそれを見てたじろいだ。
「機構を!? 馬鹿な。外に放出して余りある生産量など、なぜ市井の運用者ごときが!」
「……使ぃたく、なかったけど」
ぼやき、少女は掲げた手首を返す。
指先の茨状模様が刺青のごとく、一層黒さを増す。
「身を挺して庇ゎれて、ソレを放置するとぃうのも。できなぃので」
途端に、警備兵が足から力を失ったかのようにがくりと膝を折る。
状況がつかめていない、という顔で。
目の前に己の掌をかざしている。
青の残光が――ない。
「なぜ……俺の、機構が。微機が、反応しない……? クソ、口述コード! [Detect available contact routes]――っ、全経路、停止中だと!?」
「無駄です。ゎたしの権限で、機構を停めました」
静かに告げて、少女は自分の首に巻く黒のチョーカーに触れた。
「……ねぇ、ぁなた」
少女は理逸を流し目で見る。
先ほどまで尊大な態度で警備兵に接していたとは、思えない。そんな弱弱しさで。
こわごわとこちらを見る目は、ひとに寄りつけない動物を思わせる。
「少しだけ……頼らせてもらっても、いぃですか」
震える指先を見て。
理逸は、こくりとうなずきを返した。そうすべきだと、思った。