Love dreamer
聞こえてきたのはなめらかなピアノの音色だった。
蝉の鳴き声がひびく鬱蒼とした森林に溶け込んでしまいそうで、しかしそれでいて耳に残る独特なメロディライン。
地面を見つめていた麦わら帽の少年は虫取り網を携えたまま音の源を探るべく顔をあげた。
木々の隙間から差す日が強い。目をつぶる。
垂れる汗をそのままにして、少年は耳に神経を集中させた。
彼はこの曲を、まだ知らない。
そういえば、噂で聞いたことがあった。あの立入禁止の森の中には立派な洋館があって夏になるとそこからピアノの音が聞こえてくる、と。そこに住んでいるのは有名外国人俳優のお母さんだとか、ザビエルの子孫だとか。
ザビエル。クラスで得意げに噂話を語っていた友達の表情を思い出して少年は笑みをこぼした。
やっぱりあいつの言ってたことはうそだった。ザビエルの子孫がこんな美しいピアノを弾けるわけがない。
少年は自分だけが禁則を犯して事の真相を知ったことに嬉しくなり、おもわず身震いした。
だが、同時に少年は少し残念だった――自分だけ知っているというのはデメリットでもあるのだ。もし自分がみんなの前であいつのうそを堂々と論破しようとしても信じてもらえないではないか。
みんなを信じさせるには証拠となるものが必要だ。よし、それを探そう。
少年は決心し静かに目を開いた。
真っ直ぐな日差しが目に飛び込んでくる。
しかし今度は、ぼんやりと目を開いたまま、しばらく地面に座り込んでいた。すぐに走って音のする方へ駆けるつもりだったのに、自分でもよく理由がわからなかった。
ただ、青々と生い茂る木々の中で、ピアノの音色によって心を青空のように洗われる感覚をずっと味わっていたいと思っていた。
曲が終わり、次に流れてきたのは少年に馴染みのある曲だった。数週間前のピアノコンクールを思い返し、手にじんわりと汗を握った。
数匹のダンゴムシを閉じ込めた虫籠にぽたぽたと汗が落ちる。少年にはこの時間が非常にゆっくり流れているように感じられた。
また曲が終わる。次は友達の課題曲。軽快なリズムが特徴の曲だが、少年はなぜだか胸が少しドキドキした。
気持ちをごまかすように立ち上がり、音のする方へ歩き始める。
リズムに合わせて地面を踏みつけていく。
歩いているうちに少年の胸の内は、どんな格好いい人が弾いているのだろうかという期待でいっぱいになっていた。
金髪で顔立ちの整ったおしとやかな女性だろうか。祖父のようなシワシワの手をした老人だろうか。それとも――
少年は視線の先に木々の切れ目を発見した。光が差していてその奥は見えないが、音の源はそこにある。
まだ見ぬ洋館へ足を急がせる。
鼓動が早まる。
そして森を抜け視界は明転し――
「こうたーーー!起きなさい!」
「ふぇ?」
視界に映っていたのは部屋の天井であった。
「はぁぁぁ」
少年はベッドの中でうなだれた。いいところだったのに。
「はやくしなさい!ピアノ教室間に合わないわよ!」
1階から飛んでくる怒号をよそに少年は胸に手をあて、せめてもの余韻を味わった。
「こうちゃーん?まだー?」
「えっ」
次に窓から飛び込んできたのはかわいらしい物憂げな声だった。反射的に変な声が出た。
急いでベッドを降り窓から見下ろす。
家の前に立っていたのは、大きな八分音符のあしらわれたバッグを両手に提げた幼なじみだった。