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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

届けたい想い【いつか伝わるその時まで】

作者: 白貴由

長い短編という、矛盾を感じるものになってしまいました。

切る場所がわからなくなって、このままでいいじゃないっ

となった次第です。


登場人物の情報は後書きにあります。

誤字報告、ありがとうございます!


あなたの泣いている姿に、心を奪われた。

あなたの澄んだ瞳が湛える涙は、世界中で一番清らかで、何より美しくて。

あなたの泣き顔は、そのすべては、私だけの宝物であるべきだから。









初めて見た時、背筋がゾワリとして、今まで感じた事のない程、高揚したのを今でも覚えている。





その少女が謝罪した顔が、忘れられない。長い睫に覆われている大きな瞳を潤ませて、僕だけを見つめていた。



「私ったら何てこと。…ごめんなさい。償えるのなら、何でもしますわ」



彼女は自分の失態と思い込んでいるけれど、本当は誰の所為でもない…偶々運が悪かっただけ、その程度の出来事だったのに。だけど、そのお陰で僕は世界一を手に入れる事ができる。


可笑しいかな?一目見ただけで、生涯共にするのは君だけなんだと、喜びに震えてしまった。子どもらしくないって?ふふ。でも、そんな事には構ってられるもんか。


…あぁ、待っていて。可憐な君を、創り出すその涙を、全て手に入れるから。だからそれまで誰にも、その表情を見せないでいて。その神々しさに気付くのは僕だけでいいのだから。





◇◇◇





「今日のアントワーヌ様も、お美しいですわね…」



「えぇ、本当に。ご覧になって?あの吸い込まれそうな、宝石の瞳を…」



王家主催の茶会に、華やかに着飾った令嬢や子息達が集う。煌びやかな人々の中でも、一際目立っているのが、フルニエ公爵家子息のアントワーヌだった。頭一つ大きいスラリとした長身に、艶めく漆黒の長髪が覆うのは、白磁のようなツルリとした肌。大粒のアメジストを思わせる菫色の双眸を、守るように長い睫が囲んでいる。彫刻とも見間違う姿に、その場にいた令嬢達は思わずため息を吐く。




「本当に華麗でいらっしゃるのね…、それだというのに…」




アントワーヌに向けられていた好意と打って変わり、語気に不穏さが現れる。




「…なぜアントワーヌ様には、あのような婚約者がいらっしゃるのかしら…」



その一言を皮切りに、あちこちから言葉が漏れる。



「ローラン嬢は人形のようで気味が悪いわ…」



「あら、人形なら聞こえがいい程よ、…そう、まるで幽霊ね」



その場にいた令嬢達は、扇で隠した口から思い思いに、悪意ある言葉を紡ぐ。



「アントワーヌ様が、お可哀そう…。いい加減にローラン嬢は、自ら婚約者としての立場を辞するべきでしてよ」



「そう思いますわ。あぁ、早くアントワーヌ様を解放して差し上げて…」




そこに居合わせた最も高位な令嬢が、その発言に同意し小さく頷いた。それを見た取り巻き達は、挙って声をあげ話題の人物を責め立てた。



非難されているのは、レオノール・ローラン侯爵令嬢。アントワーヌ公爵子息の許嫁である。彼の隣にいる令嬢は、いつも同じ感情が一切無い顔をしている。表情の無い仮面を張り付けた彼女は、何時しか幽霊だの人形だの言われるようになっていた。尤も、そんな呼び方をする者の大半は、アントワーヌに懸想し、レオノールに嫉妬している令嬢達であった。




「漆黒の王のようであるアントワーヌ様の隣には、薔薇姫と名高いロズリーヌ様がお似合いですものね」



「えぇ…えぇ、本当に。アントワーヌ様とロズリーヌ様が並ばれると、まるで美しい絵画の様で…、見惚れてしまいますわ」



周りに持て囃され、まるで自分がアントワーヌの婚約者になったように満足しているのは、モレル公爵家のロズリーヌ嬢。薄紅色の髪に真っ赤な瞳を持つ、花の化身の様に美しい彼女は薔薇姫とも呼ばれ、ヴァランタン王国の社交会においても有名だった。


四大公爵の一つである、モレル公爵家に生まれたロズリーヌは、全て自分が願う通りの人生を歩んでいた。驚くほど貴重で美しい宝飾品、人気が高く数ヶ月も待たされる一流店のオーダードレス、海が一望出来る岬の城、果ては王家とも関りのある崇高な学者を家庭教師にと、何もかも公爵家の持つ財と権力で従わせるのが普通だった。生まれてから、ずっとその様に過ごしてきたロズリーヌ。順風満帆な人生において一つだけ、切望しても叶わない事が起こる。フルニエ公爵家子息、アントワーヌとの婚約ないし婚姻だった。


モレル家には嫡男の兄が居り、ロズリーヌは将来何処かに嫁がなければならないと、幼い頃に知らされた。高慢に育った彼女は侯爵以下を見下しており、嫁ぐ先は公爵家以上でなければと譲らなかった。だが生憎、この国の最高位貴族に、自分と年齢が近い子息は少なかった。その僅かな中から白羽の矢が立ったのが、宰相のいるフルニエ公爵家の嫡男で見た目も合格点のアントワーヌであり、両家の力を強める婚姻は、歓迎されこそすれ何の障害もないと思われた。



だがロズリーヌが思い描く二人の愛は、たった一人に阻まれた。忌々しいレオノール・ローラン、一介の侯爵令嬢の分際で、ロズリーヌの前に立ちはだかり邪魔する少女。侯爵家程度どうとでもなるだろうと、父であるモレル公爵に何度も嘆願した。最初に強請った時は頷いた公爵だったが、少ししてロズリーヌを呼びだすと、諭す様に微笑んだ。



「今回は諦めなさい」



その後も何度か説得を試みたが、公爵は首を縦に振らなかった。だから、自分宛に舞い込む身上書には見向きもせず、その紙束を暖炉に放り投げた。



ここまで屈辱的な思いをさせられたのは初めてであり、ロズリーヌは大いに腹を立てた。だが、そこは公爵令嬢。淑女の笑みを浮かべ、表情一つ変えず、周囲に悟られる事は無かった。けれど活火山が湛える溶岩のように、ドロリとした黒い感情が、灼熱と共に心を焦がしていた。



モレル公爵は、ヴァランタン王国に仕える魔法省大臣として手腕を振るっていた。前ヴァランタン国王は36歳という若さで儚くなり、忘れ形見であるマクシミリアン第一王子が13歳で王位を継いだ。帝王学をはじめとした、王に必要な教養の習得最中だった為、若き王には補佐が付いた。実質、国を動かしていたのは、王子の母親である王太后と宰相の二人だった。モレル公爵は、宰相の右腕として活躍していた為、公爵家と縁を結びたいと願う者は後を絶たず、適齢期を迎え未だ婚約者の居ないロズリーヌには、毎日のように釣書が送られてきた。全て燃やしたていたはずだというのに、徐に父が差し出した書類に目を通し驚いた。魔法省で最年少隊長として活躍する、イヴァン・アンドレ侯爵子息を婚約者として推してきたのだった。




「彼はアンドレ侯爵家の嫡男で、ロズリーヌより二つ年上、年齢もぴったりだ。研究莫迦だが、大変優秀で将来が楽しみな若者だよ」




ロズリーヌは、信じられなかった。自分の希望を何でも聞いてくれた、あの父がロズリーヌの気持ちを蔑ろにしたのだから。ならば、と目の前の鏡を覗けば、赤く光る瞳が弧を描く。



「いいわ、この私が自ら何とかしましょう」




他者を上手く誘導し、動いて貰えばいい…、貴族の社交で培った、人の心を操る交渉術を存分に使った。公爵家に群がる者達は、あっという間にロズリーヌを担ぎ出した。上手くいく確信はあったが、念には念を入れて、更に奥の手も用意した。失敗は許されないのだから。


すると周りの後押しもあり、レオノールを抑え、アントワーヌに近づける機会が増えていく。交流を深めさえすれば、間違いなくアントワーヌが振り向いてくれる自信があった。



アントワーヌの隣から遠ざけられたレオノールは、相変わらず無表情のまま、淑女の礼をし扉の方へと向かう。入れ替わるように、自信に満ち溢れるロズリーヌは満を持して、漆黒王の元へと歩を進めた。





◇◇◇





初めて会った時、あなたは何を見ても、取るに足らないものだと、まるで興味を示さず退屈そうにしていた。幼い頃から貴族としての教育を受け、恋愛という感情も分からないままに、家同士が結んだ婚約に縛られたのだから、仕方のない事だと思わず納得する。



私達は二人とも、被害者だもの。



だから、薄々感づいていたわ。あなたは美しい菫色の瞳で、こちらを見つめていても、感情が一切動いていない事に。恐らく、この婚約に対する憤りを抑えるのに、必死だったに違いない。




けれど、私はあなたを目にした瞬間に恋に落ちた。





―――本当に、運命は残酷なもの。





これは王にも認められた契約と聞いている。だとすると覆る事は、まず無い。いくらあなたが嫌がっても、諦めて受け入れるしかない。私にとって幸せでも、あなたには苦しみが生涯付きまとってしまう。



…そう上の空で思いにふけっていたら、何かに手が当たり、ビリリと小さな音を立てた。




「あっ」「あぁ…」




ほぼ同時に声が出ていた。彼の口から発せられたそれは、とても悲しく無念そうに宙に消えていった。目の前にあったのは、なかなかお目にかかる事さえ無いような、革表紙の魔導書。時間を掛けて一文字ずつ手書きで作られる本は大変貴重で、目の前にある豪華な装丁であれば価値は相当なもの。読書家と有名な、彼の宝物に違いない。初対面でこんな失態、下手をすれば我が弱小侯爵家など、吹き飛んでしまうだろう。このままでは、両家の間に対等な関係など結べるはずもない。元々、家格にも差があるのだ、更に歪んだ上下関係が生まれてしまう。



「私ったら何てことを。…申し訳ございません。償えるのなら、何でもしますわ」



そう慌てて謝罪を口にするレオノールを、顔色一つ変えずにアントワーヌが見つめる。



「あぁ、大した事では無い、気にしなくていいよ。…そうだな、今言った事を守ってくれるのなら、それでいいかな」



思わず胸を撫で下ろしたレオノールだったが、発言の真意が分からず、思わず聞き返した。



「言った事?それは…「何でもするのだろう?」



件の本を侍従に下げるように指示した後、長くて美しい指を組み頬杖をしながら、そう真顔で尋ねてきた。



「え、えぇ…もちろんですわ。私に出来る事であれば何なりと」




「確かに…その言葉を忘れては、いけないよ」





◇◇◇





「レオノール様…、宜しいでしょうか」




不意に声を掛けられて、足を止めたレオノール。声のする方を見やれば、お仕着せ姿の侍女が一人こちらを向いて礼をしている。服装を見れば、かなり高い家柄の貴族に仕えていると分かる。




「なんでしょうか」



無表情のまま答えたレオノールに、恭しい声色が返って来た。




「私はモレル公爵家より遣わされた者でございます。ロズリーヌ様より、ご伝言がございます。他の者には聞かれない様にという事ですので、恐れ入りますが此方まで、お出で頂けますでしょうか?」



周りに居る人をチラチラと見渡し、深々とお辞儀されてしまえば、断る事も出来ない。小さく頷き、案内されるまま付いて行く。会場の喧騒から、やや離れたバルコニーに到着すると、侍女は此方を振り返ったまま俯く。





「それで、話というのは?」



なかなか切り出さない侍女に対して、促す様にレオノールが口を開けば、心を決めたように見開いた眼を向けてきた。




「…ロズリーヌ様にとって、貴女は邪魔なのです。幽霊ならば、それらしくなさって下さいまし!」



素早く懐から取り出した金色の長細い物を、振りかぶってレオノールの左腕へと突き刺した。悲鳴を上げそうになったが、想像していた痛みや感触がなく、なんとか耐えてしまった。だが刺された左腕からジワジワと感覚が無くなり、頭や足元に至るまで身体中に伝わって、崩れるようにしゃがみ込む。薄れていく意識の中で、カランと何かが転がるのが見えた。唇を震わせながら、慌てて立ち去るモレル公爵家の使者を目で追いながら、重い瞼が閉じていく。



幕の様な淡い光が、レオノールを包んでいた。







気が付けばレオノールは、誰も居ないバルコニーに一人取り残されていた。引き留める者おろか、ここには誰もいない。今度こそ邪魔者は退散し侯爵家へ戻りましょうと、心なしか足取りも軽く歩き始めた。



漸く出口だと思ったその時、扉から勢いよく入ってきた一人の子息と鉢合わせてしまった。危ない!と思わず顔を背けた、…が、一向に衝撃が来ない。次の瞬間、後ろから声がする。




「おっ、遅れてすまない、この埋め合わせは必ず…」



額に薄っすらと汗を浮かべながら駆け寄り、話しかけた相手の手を取り唇を当てている。手を取られた女性は頬を少し赤らめ微笑む。



「もう、仕方ないですわね。…先日素敵な髪飾りを見つけたのですが…」



「あぁ、何でも用意しよう。君の望むままに」



目の前の子息と令嬢は、そんなやり取りをしながら会場へと進んでいった。その二人の後ろ姿を、ぼんやりと見つめていたレオノールは、吃驚して言葉を失っていた。衝突を覚悟したすぐ後に、ザッと風が掠める様に、人が自分をすり抜けて行ったのだから。



(なっ、何が起こったというの…。え…!私?)



令嬢にあるまじき声を上げて叫んでしまった…。なかなかに大声だったと思ったのだが、周りの人々は歓談に興じ、こちらを窺う者はいない。誰もレオノールの声に、気付いている様子はなかった。困惑しながら、ふと横の壁に目が行く。絵画や肖像画が所せましと飾られる中、一つだけ楕円形の鏡が掛けてあった。蔦が絡んだ様な細かな意匠の芸術的な鏡には、何故か正面に居るはずの自分を見つけることが出来なかった。角度が悪かったのかと、近づいたり左右に動いたりしてみたが、レオノールが写り込む事は無かった。



此処へ来て流石のレオノールも、認めたくはないが理解した。自分が鏡に映っていない、という事実を。思わず目の前に、両手を翳す。自分では、そこにある手が見えるのだが、明らかに透けていた。まるで水面に映った姿のように、掌越しに向こう側を臨むことが出来た。



レオノールは慌てながらも思考を巡らせ、あぁ、と手を打つ。そうだ、言葉が駄目なら文字で伝えれば!…と近くのテーブルに走り寄り、置いてあるペンを手に取る…はずが何も指に引っかからない。それどころか、テーブルまですり抜けてしまった。人が通り抜けるのだ、物だって当然そうなる事など、少し考えれば分かるだろう。だが、この時のレオノールは冷静に判断できる状況でなかった為、大いに狼狽えた。


此処までの事を纏めるとレオノールは今、人から見えない上に、接触も出来なくなってしまっていた。それどころか、声さえも聞いて貰えない、…恐らく、幻影に近いものになってしまったのだという結論に達する。つまり、どんなに頑張ってもレオノールは、自分の存在を誰にも伝えられないのだ…、そう気づいた途端に震えが込み上げてきた。



(死んで、しまった…のかしら、…私は)



肉体から魂が抜けだす事で死が訪れる…そう何かの本で読んだ事がある。今の自分の状態が、まさにそうなのではないか…。ハッと、思い返してみれば、先ほどバルコニーで、何か刺されたと左腕を摩る。あれに何か毒物のような物が付いていて、致命傷になったのでは…、そうでなくとも、この状況の切欠である事は間違いなさそうだ。成程、これなら合点がいく。ならば、あの場所には今も尚レオノールの肉体があり、魂であるレオノールが中に戻れば万事解決するのでは…という考えに至った。そうと分かれば…と、急いでバルコニーへと取って返した。




結論から言えば、バルコニーにレオノールの身体など転がっていなかった。薄暗がりの中、先ほどすり抜けた子息と、お強請り上手な令嬢が肩を寄せ合っていただけだった。当然、二人には気づかれていないものの、彼等の距離が近づくにつれ何だか気まずさを胸に留め、静かにその場を後にした。

 




◇◇◇





周りに勧められるままに、ロズリーヌはアントワーヌの傍に立った。淑女らしく笑みを湛えて、彼の視線を捉える。そうすれば、アントワーヌの菫色の瞳が少し揺れる。




―――落ちた。




ロズリーヌは確信した。それを後押しするように、近くにいた令嬢達が羨望の眼差しを向けながら、ほぅとため息を吐く。



「大変お似合いですわ、…そう、まるで恋人同士、いえ夫婦のようですわね」



「えぇ本当、お二人のように睦まじく過ごせる方と出会う事が、私達の憧れなのですよ」



そんな中、零れる笑顔のロズリーヌが微かに顔を歪め、アントワーヌの正面で力なく呟いた。




「アントワーヌ様…、その…気分が優れませんの。」



そう言いながら、あぁと、アントワーヌに撓垂れかかる。すると、ロズリーヌの両肩をサッと力強い手が支えた。ロズリーヌは、目の前にある煌びやかな刺繍が施された上着の端を掴み、アントワーヌへ小声で呟いた。




「少し休めば治ると思いますので…」



アントワーヌが返事をする前に、取り巻き達が口を挟む。




「まぁ、大変!これは、いけませんわ。アントワーヌ様、あちらの部屋に医師がおります。ロズリーヌ様をお願い出来ませんか?私達では、お支えする事もままなりませんので…」



他の令嬢達も、皆が一様に懇願する。




「…承知した」




アントワーヌに支えられたロズリーヌは、ゆっくりと脇の通路へと消えていった。





◇◇◇





レオノールは王宮から一人で、邸へと戻った。戻る途中で、ある事に気付いていた。




何と!飛ぶことが出来た。




いや、飛ぶというよりは宙に浮ける…が正しいだろうか。膝の高さほど浮き、中々の速度で移動が出来た。今なら馬車と競争しても勝てるかもしれない…と考えられる程、気持ちに余裕すら出てきた。絶望的な状況で悲観ばかりしていたが、この時だけは気分が高揚してしまった。更に扉だけでなく壁や木々も、そのまま通り抜けられた。お陰で、あっという間に侯爵家へと戻って来られた。当然、家族は誰も気づかず、時間的にも然程遅くは無かったので、心配されてもいなかった。だが、弟のリオネルだけは居間の中を忙しなく歩き回っていた。リオネルの目の前で手を振ってみたが、案の定気付いてはもらえなかった。




「姉様は大丈夫だろうか。誰かに何か言われてないだろうか…。あぁ、あの精霊の様な美しさだ。アントワーヌ以外にも言い寄る莫迦がいないとも限らない…」




(リオネルったら、また(さま)が抜けているわ…。それに本当、心配性なんだから…)



幼い頃からレオノールの後ろを着いて回る弟だったと思わず微笑む。年子で仲の良い二人は、つい数年前まで何をするにも一緒だった。親鳥に従う雛の様に、レオノールの後ろから離れないリオネルを、ローラン侯爵夫妻はニコニコしながら見守っていた。今朝だってリオネルは、出かける前のレオノールに向かって、念を押した。




「姉様、必要であれば何時でも僕を呼んでね。いい?」



レオノールは軽く頷き、くるりと後ろを向いた。



「えぇ、ありがとう。その時はリオネルを呼ぶわ」



それから静かに自室へと入っていった。レオノールの後ろ姿を見つめていたリオネルが、顔を歪めながら小さく呟いた事など気づきもしなかった。




「あいつの所為で…、くそっ」






幼い時のレオノールは、感情豊かな娘だった。良く笑い、時にはポロポロと涙を流し、薄紅色の頬をプクリと膨らませて怒り、小さな肩を落とし項垂れ落ち込む。貴族令嬢として褒められたものでは無いが、淑女教育の時間外くらいはと…侯爵家内に限り容認されていた。くるくると表情が変化する姉を見ていると、思わず自分も同じ顔になる。どんな気持ちも分け合いたい、そう思う程、リオネルは姉が大好きだった。




だがある日を境に、レオノールは笑わなくなった。それどころか、どんな感情も表に出さない。




その日、フルニエ公爵家へ出かけたのは知っていた。王命で公爵家子息のアントワーヌが婚約者に決まり、顔合わせに行ったと聞いた。帰って来たレオノールの様子がおかしいと感じたが、何時ものように傍に行き、他愛のない話をした。



「姉様聞いてよ!今日、母様が笑いながら、僕に姉様のドレスを着せようとしたんだよ。『可愛らしい顔なんだから似合うと思うの。レオノールと双子の姉妹みたいになるわ、きっと』とかいいながらさ!」



今までのレオノールであれば、目を丸くした後、大笑いして母に代わってドレスを着せようと、リオネルを追い回したに違いなかった。だが目の前の姉は、ニコリともしなかった。




「えぇ…、きっと似合うでしょうね」



リオネルは思わず動きが止まってしまい、まじまじとレオノールを見返した。



「…姉様、具合が悪いの?平気?それとも何かあった?」



「……いえ、なにもないわ。大丈夫よ」



問いかけたリオネルに、くるりと背を向け自室へと入って行った。








昔のその姿と、今のレオノールが重なって見えた。




きっとまた、アントワーヌが何かしたに違いない。レオノールを大切にしない奴に、大事な姉は渡せないっ…、と娘を持つ男親に近い感情を抱きながら、その場を後にした。後に、この日出掛けるのを全力で止めるべきだったと、後悔する事になる。





◇◇◇





自室に戻ったレオノールは寝台に身を委ね、アントワーヌを想い泣きながら昔を思い出していた。



初めての顔合わせで、アントワーヌと一つ約束をした。



レオノールの失態を黙認する代わりに、契約を提示され、形振り構わずそれに縋った。おかしな二人の関係は、傍から見ても歪んで見えたのだろう。アントワーヌへ秋波を送る令嬢達から、レオノールは蔑み罵られた。時にはアントワーヌの目の前で繰り広げられる状況もあったが、彼は此方を見つめるだけだった。それにより、増々嫌がらせは増長していった。その度に、二人の間にあるのは、形だけの関係だと身に染みた。



分かっている…、でも…。



人前では耐えていたが、誰も居なくなると流石に我慢しきれず涙が溢れた。そうして、そのまま気を失うように眠りに落ちていった。





◇◇◇





「疲労でしょう…少し様子を見て、何も無ければ問題ありません。お大事に」



ロズリーヌの健診が終わると、医師は礼をして扉から出ていった。それに合わせて、アントワーヌも退室しようとした。




「それでは失礼する」



だがそれは、ロズリーヌがアントワーヌの胸に飛び込んだ事で阻まれる。



「お慕いしておりますの、アントワーヌ様。ですから…」




およそ病人とは思えない力強さで、縋り付くロズリーヌに、普段より遥かに低い声でアントワーヌが窘めた。



「…どういうつもりだろうか。私に婚約者が居るのは、周知されているはずだが」




冷たく見下ろすアントワーヌに、上目遣いでロズリーヌが微笑む。誰もが蕩けるこの表情で、ロズリーヌは勝ち戦を確信する。



「皆が申しておりますの。アントワーヌ様に相応しいのは、この私だと。生気のない人形のようなレオノール様では力不足と、アントワーヌ様が感じていらっしゃるのも分かっておりますわ。私ならアントワーヌ様の全てを、満足させられましてよ。だから、この手を取って下さいませ…」



菫色の瞳を見つめ、アントワーヌに右手を差し出す。



「さぁ…!」



だが、一向に動く気配が感じられない。痺れを切らし口を開こうとすれば、ギロリと菫色の瞳を向けられ、思わず押し黙る。氷の君とも比喩されていたように、アントワーヌは普段から無表情であったが、よく見れば今の彼に温もりが欠片もないと気づいたかもしれない。


しかし、彼と一緒に進む未来を信じて疑わないロズリーヌは、それを見落としていた。だからこそ、更に火に油を注ぐような、アントワーヌを逆なでする行為に及んでしまう。



「私の身も心も全て、アントワーヌ様のもの。恥じらいは無用でしてよ」



そう言って、両手でアントワーヌの頬を抑え、その唇に己の唇を重ねた。目を見開くアントワーヌから顔を離すと、零れんばかりの笑顔で迎える。



「あんな侯爵令嬢との婚約なんて、我がモレル公爵家に掛かれば消し飛ぶような脆いもの。何の問題もありませんわ。私に任せて下されば全て上手くいきま…「何を勘違いしている?」



気分が高揚し、湧き出る水の様にふつふつと浮かぶ言葉を、舞台俳優宛らに次から次へと発していたロズリーヌを遮り、単調な声が部屋に響く。アントワーヌは左手の甲で、口を拭い、心底嫌そうな表情を目にしていた。ロズリーヌは訳が分からず、戸惑っていた。



「ど、どうしましたの…アントワーヌ様…。聞き間違いかしら」



次の瞬間、ロズリーヌの期待は、あっさりと裏切られる。




「もう一度だけ尋ねる、あなたは何を勘違いしているんだ?」




いかにも氷の君といった冷たい声が耳に木霊して、無意識に身震いしていた。だが、公爵令嬢としての矜持から、後には引けなかった。




「…ですから、ローラン家との婚約を破棄し、我々公爵家同士で新たに縁を結びましょうと申しているのです。かの侯爵家と所縁を持ったとして、フルニエ公爵家の益になると?」




ロズリーヌは気を振り絞り、最後まで言い切った。だが、アントワーヌに変化は無く、それどころか鼻でせせら笑った。




「ふっ…、実に些末な事だな。…あぁ、そんなに(くらい)を気にするのなら、私などではなくマクシミリアン陛下と縁を繋いではどうだ?。公爵令嬢であれば、家格や作法は問題ないだろう。陛下は13歳になられたが、許嫁がいらっしゃらない。私が推薦しておこう」




思わぬ名前が出てきた事で、ロズリーヌは一瞬困惑した。だが王妃になった自分の姿を、容易に想像する事が出来た。悪くない、と頷いた。




「そこまで仰るのなら、紹介して頂いても結構ですわ。ただ、後から後悔なさっても、我がモレル公爵家とフルニエ公爵家の関係は向上しなくてよ」



自分に靡かなかった男に背を向け、関係を断ち切るように吐き捨てる。だが、返って来る言葉は無く、気づけばアントワーヌは部屋から消えており、ロズリーヌは改めて腹を立てた。





更にエスコートもなく会場へ戻るという、屈辱を感じながら歩いていると、ロズリーヌを呼びに一人の侍従がやってきた。ロズリーヌへ向けて、最上位の美しい礼をする。





「モレル嬢、陛下がお呼びです。ご案内致します。どうぞ、こちらへ」




王からの誘いに、少々面食らったが、あぁ、と思いを巡らせる。



(アントワーヌ様が話を付けてくれたのだわ、話が早い事。きっと我がモレル公爵家へ、恩を売ろうという魂胆ね)



「わかりましたわ、参ります」



所作まで美しい侍従に続けば、会場奥に位置する部屋へと通される。人払いされており、ロズリーヌは入り口から一人で壇上前まで進んだ。目の前にある大きな玉座に、マクシミリアン王が佇んでいた。王族に見られる濃色の金髪に、海を思わせる碧い瞳、透明感のある真っ白な肌をした中性的な美しい少年だった。自分より4つ程年下であるが、それ以外は二人の婚姻に障害があると思えなかった。


その横には、宰相であるフルニエ公爵が立っていた。僅かにアントワーヌの面影が過り、心の中で舌打ちをしたが、すぐ気を取り直す。



十分に気を使い、最上級の淑女の礼をすれば、国王が迎えてくれる。




「君がモレル嬢か。あぁ、堅苦しいのは嫌いだよ。で、君を呼んだのは他でもない。友人のアントワーヌに聞いたからさ」




マクシミリアンは横のフルニエ公爵に視線を向け、片目を瞑る。ロズリーヌは、やはりと内心ほくそ笑む。




「モレル公爵家が娘、ロズリーヌでございます。どうぞ、ロズリーヌとお呼び下さい、陛下」




ふわりと赤い瞳を綻ばせてそう言えば、若き王は少年らしくクスッと笑う。



「あぁ。さて今回の件は大事でね、何しろヴァランタン王国の王族と公爵家が絡んでいるものだから。理解してもらえるかい?」




すっと笑顔が消え、真剣な表情で話し始めるマクシミリアン。国王と公爵令嬢の結婚だ、当然だろうとロズリーヌも頷いた。



「もちろんですわ、きちんと理解しております」




ロズリーヌの意思を聞いて、マクシミリアンの顔が僅かに優しくなったので、思わず見惚れて微笑んでしまう。そんなロズリーヌに向かって、傍に居た宰相が事務的に問いかける。




「そうか、それは良かった。ではこちらからの申し入れを、受け入れると考えていいのだろうか」




麗しいマクシミリアンを目で追い、横から問いかけられれば、自ずと答えが出ていた。




「はい、謹んでお受けいたします」



ロズリーヌの中では、この国一番の華やかなドレスに身を包んだ自分がマクシミリアンに抱かれ、見つめ合っている光景が広がっていた。最高の自分に相応しい、その未来を。




すると、宰相の一言が部屋に響く。



「思いの外、殊勝な心掛けだな。最後だけは、公爵令嬢然といったところか。…よし連れて行け」





(つれていけ…?)



背筋に冷たいものが走ったようにゾクリとして、血の気が引いていく。近衛兵が傍に来たと思えば、荒々しく両腕を掴まれ、王の前から引きずられるような形で連れて行かれそうになる。宰相の暴挙に慌て、縋る様に助けを求めた。



「なっ…、これは一体…へっ陛下…!お助け下さいまし!私達の婚約は…どう…した、のですか…?」




未来の夫は当然救ってくれるという期待を込めてマクシミリアンを見つめた…、だが彼から返って来た言葉は、辛辣なもので愕然とした。




「国の意に反する者だ、連れて行け。モレル嬢は追って沙汰を待て。以上だ」





「えっ…、いやぁぁぁ…!何故…わ、私はモレル公爵家のロズリーヌですわ!こっこんな事、許されな…」



叫ぶように声を上げたロズリーヌへ、面白いものを見つけた悪戯っ子のような目を向けるマクシミリアン。くすくすと笑いながら、話し始める。




「モレル嬢、許されないのは君の方さ。王が決めた事は絶対だ、平民の子どもでも知ってる。その年になって、こんなことも理解してないなんて…ね。再三に渡って、君の父君にも注意しといたんだけど、アントワーヌには近づくなと。…聞いてなかった?」



顔を赤くして怒っていたロズリーヌだったが、これを聞き青ざめた様子へと変わっていく。口元を震わせて、何かを呟いていたが、声が小さく誰の耳にも届かなかった。その様子に触れる事なく、マクシミリアンは「あぁ」と続ける。



「そうだ。もう君の事で割く時間はないな、ここで罰を決めてしまおう。…そうだね、整い次第、北の離島にある修道院に行っておいで。…決して、楽な仕事は与えるなと伝えておくから。…そろそろ連れて行け、もう見たくない」



「「「はっ」」」



絶叫しながら連れ去られる、ロズリーヌの後ろ姿を見送りながら、マクシミリアンはポツリと零した。



「アントワーヌに恩を売っておくのも、悪くない…からね」



隣に居た宰相が、フゥと小さいため息を吐く。国政に携わる彼も、その時ばかりは子を持つ親の顔をしていた。





ヴァランタン王都の表舞台から、一人の公爵令嬢が姿を消した。彼女については最初から存在せず、触れてはならない出来事として扱われた。国に仕える者として決して行ってはならない教訓であり、暗黙の了解として貴族社会に浸透した。彼女の取り巻きだった令嬢達も、どこからともなく囁かれた悪い噂が付いて回り、逃げるように領地に引き籠ってしまった。生涯、結婚もせず、ひっそりと過ごしたという。





◇◇◇





レオノールは目を覚ました時、太陽の角度で昼近くだと気付き、慌てて起き上がった。そして更に驚く事となった。荒々しく自室の扉が開かれたと思えば、血相を変えたアントワーヌが入室してきたからだった。その後を、慌ててローラン家の家令と侍女が追って来た。懇願するように侍女が声を出す。



「お、お待ち下さいませ、フルニエ様。本当にレオノール様は、お戻りになられておりません…!」



アントワーヌは、部屋を隅々まで見渡して、誰も居ない事を確認すると俯いた。




「…あぁ、すまない。疑ったわけでは無いんだ。ただ、何となくレオノールが居るような気がして…」



そう言いながら、彼の菫色の瞳がレオノールが居る寝台を見据えていて、視線が交差した気がした。



(まさか、私の事が見えているの…?)



恐る恐るアントワーヌの方へと近づいて行った。すると、アントワーヌは家令に向かって口を開いた。



「非常識な事だと分かっているのだが、ここで少し一人にして貰えないだろうか」



アントワーヌの思いつめた表情を見た家令が、咄嗟に判断をする。



「承知いたしました。ですが、扉は開けたままで、私が外に待機させて頂きます。それで宜しいでしょうか、フルニエ様」



「あぁ、構わない。感謝する」



二人が礼をして、退室した。カツカツと足音をさせて、レオノールの方へとアントワーヌがやって来た。



(あぁ、アントワーヌ様。やはり…見えて……!)



そうレオノールがが思って、僅かに右手を挙げた時、アントワーヌから小さな声が漏れる。



「何処へ行ってしまったんだ…、あの約束が嫌だったのか?…だがあれが無ければ、君はとっくに私を見限ったろう?」



(見えていらっしゃらないのね…、見限る?どういう意味かしら…)



淡い期待が消え去り、がっくりと項垂れ、これからどうすればいいのか分からないまま、アントワーヌの口から零れる言葉の意味を噛み締める。



(心配して下さっている…?まさか、アントワーヌ様が私を気に掛けるという事は無いはずだけど…)





いかなる時でも、冷めた表情をした婚約者の発言には、裏の意味があるに違いない…と考えたその時、深いため息と共にアントワーヌが自嘲するようにポツリと呟く。



「…レオノールの事は理解しているつもりだったのに…、本当は何も知らなかったのかもしれないな」



悲し気に少し眉尻を下げているように見え、レオノールは目を瞠った。



(私もアントワーヌ様をお慕いするだけで、歩み寄ろうとはしていなかったわ…。何故あの約束を提案下さったのか、そして今も此処へ来てくれた、その理由も)




部屋から何も持ち出された形跡が無いのを確認し、アントワーヌは心を決めたように独り言ちる。



「必ず見つけるから、だからレオノールも私の元へ…」



そう言い残して部屋を後にした。




(婚約者の義務だとしても、私を探して下さるのね。…だとすれば、アントワーヌ様の傍に居た方が良さそうだわ)



ふよふよとアントワーヌの後に続いた。





◇◇◇





アントワーヌが馬車に乗り込んだので、それに続こうとして、ハッと立ち止まる。いくら婚約者とはいえ、未婚の男女が密室に二人きりだなんて、はしたないと一瞬躊躇った。しかし、そもそも触れられないのだから、そのまま一緒に居ても構わないだろうと判断した。



流石は公爵家、とても広く内装も豪華な馬車である。上質な紺色のビロードが張り巡らされた腰掛は、滑らかく淡い光沢を湛えている。きっと乗り心地も良いのだろうが、生憎レオノールに振動は伝わらないので体感出来なかった。


そして今、美しい顔の婚約者を前にして、レオノールはじっと見つめている。最近は、まともに目を見て話す事が無かったから、これはいい機会だと世間一般の恋人を目標に、大胆に行動してみる。一緒に移動する時間すらも有効に使おうと、じっくり彼を観察してみたレオノール。



黒く長い髪は、艶やかでサラリと流れているが、今は少し乱れているようだ。同じ色の長い睫が、瞬きをする度に上下に動いている。その中心には、菫色の瞳が物思いに耽っていた。陶器のようにツルリとした肌は、レオノールすら憧れてしまう程だったが、今日の彼は目元に少し隈がある事に気が付き驚く。一見着痩せする体躯は、しっかりと鍛えられていて、意外と胸板が厚い。剣術や魔法も得意だと聞いていた。背の高い彼の横に並ぶと、頭を思い切り上げないと顔が見られなくて、いつも胸元ばかり見ていたのを思い出す。




ぽたり




気付けば涙が頬を伝い、手の甲にポタポタと落ちていた。こんなに身体が透けてる癖に、自分が流した涙の感触は分かるのねと思わず泣き笑いしてしまう。何故、ちゃんと向き合ってこなかったのだろう、今になって後悔がレオノールを襲った。アントワーヌの小さな変化にすら気付かない自分が、彼の放つ言葉の意味を正確に理解しているとは到底思えない。無意識にアントワーヌの目の前に立ち、彼の頬に右手を添えていた。勿論、触る事は出来なかったけれど。




「…レオノール?」




アントワーヌが顔を上げ、辺りを見回す。レオノールは思わず手を引っ込め、硬直してしまう。



「…気の所為か。八ッ、何を言ってるだろうか、私は」



疲れているのか…と肩を落とすアントワーヌから、目が離せなかった。やはり、彼はレオノールを感じ取ってくれるのではないか…、と。一方でそんな都合の良い事など…、と冷静に見つめる自分も居り、鬩ぎ合う。





目的地に到着し、馬車が止まるまで、アントワーヌとレオノールはピクリとも動かず、それぞれ思いを巡らせていた。





◇◇◇





アントワーヌが降り立ったのは、ヴァランタン王国の王宮だった。また此処に戻って来てしまった…と、昨日の出来事が走馬灯の様に、脳裏を掠めていく。出迎えの者が促すままに、アントワーヌは王宮内へと進んでいく。



一際目を引く豪華な装飾の扉の前で、そこに居た侍従に言伝をする。すぐさま部屋の主に伝わり、さっさと案内されて居なくなってしまった。一人取り残されたレオノールは、遅れを取ったと慌てたものの、すり抜けられる事を思い出し、するりと分厚い扉を通りアントワーヌの後に続いた。



(失礼致します…)



部屋の中にはテーブルが用意されていて、アントワーヌの向かいには、マクシミリアン王が居られたので、思わず淑女の礼をしてしまう。当然、誰からも気付かれず、テーブルでは二人分の給茶が着々と進み、それを終えた侍従はお辞儀をして立ち去った。



マクシミリアンが、紅茶に口を付けて呟いた。



「…大分不機嫌そうだけど…その後、何か分かった?こっちは、まあまあかな」



レオノールが知るマクシミリアン王とは異なり、かなり砕けた物言いであったが、二人の年齢を考えれば兄弟同士でする会話のようだと頷けた。



「邪魔者を始末出来たと喜んでいたのに、レオノールも姿を消すなんて、…聞いてない。ここへ来る前に確認してきたが、ローラン邸にも戻っていなかった」



苛立ったように吐き捨てるアントワーヌをチラリと見て、白地に金色の薔薇が描かれたカップを置きながら、マクシミリアンは続けた。



「それなんだけど、面白い物を見つけたんだ。これ、知ってる?」



マクシミリアンの手元には、畳まれた黒色の絹布があった。中にあった物を周りの生地で包むように、摘まんで差し出す。人差し指程の長さをした金色の細い物だった。どこかで見た気が…と頭を捻ったレオノールの横で、アントワーヌは、思わず眉を顰めた。




黄金蝟(おうごんはりねずみ)の針か…?何でこんな物が、この王都にあるんだ…」



機嫌の悪さも忘れ、食いついて来たアントワーヌに、気を良くしたマクシミリアンが続けて情報を提供していく。




「昨日の会が終わった後に、バルコニーで発見された。あまり良くない魔力が見えるから、直に触れるなと念を押されている。




アントワーヌの言う通り、これは黄金蝟(おうごんはりねずみ)ものだよ。南の国境付近で数年に1匹見つかればいい、大変珍しい魔獣なのは、ご存じの通り。この禍々しい魔力から察するに、恐らく魔法省絡みだろうと、牢のモレル嬢を問い詰めさせた。あの娘は一瞬で話してくれたよ、自分の自由と引き換えにね」



(牢の…、モレル公爵令嬢ってロズリーヌ様…?)



かの公爵令嬢が…と、レオノールは心底驚いた。それとは対照的に、当たり前の事として、二人は話を続けている。だがアントワーヌは、それとは別の部分に引っ掛かり、俯いていた顔を上げ、マクシミリアンを睨みつけていた。若き王は大げさに肩を竦めた。



「あぁ、怖い怖い。私がアレを解放する、間抜けだと思うの?彼女が、北の離島にある修道院送りなのは、決定事項だし手配済みだよ。




そう、それで、これが何なのか()()()聞いてみたのさ。




魔法省のイヴァン・アンドレは知ってるだろう?最年少で魔法省隊長を務めている、天才とも呼ばれている彼。…私に言わせれば天才と呼べるのは唯一アントワーヌ、君だけどね。おぃ…、そんな目で見るなって。それでイヴァンがモレル嬢に、とある薬を提供したそうだよ。モレル公爵家への繋がりを維持しようと必死だったらしいね。その薬というのが、何でも体内に取り込まれると、身体が気化してしまうもののようでね。魂のような状態が凡そ5日程続くと、そのまま消えてしまう…非常に厄介な効果だったんだ」



訝し気に睨むアントワーヌを尻目に、話の確信に迫るマクシミリアン。



「で、その薬を効果的に摂取させる方法というのが、直接血管に流し込む事なんだ。細い針に魔力の込められた薬を塗り、対象に刺せばいい。




そこで、黄金蝟(おうごんはりねずみ)の針が登場する。この針は筒状になっているから、表面に塗るだけでなく、空洞部分にも薬剤を溜められる。これで刺せば、より多くの薬を体内に送り込めるって訳。勿論、効果は抜群さ。





…恐ろしいことに、モレル嬢は使用人に指示して、つい最近使ったと自供した」




「おい…っ!」





ガタッと音を立てて、アントワーヌが椅子から立ち上がり、叫ぶように声を絞り出す。




「まさ、か…!」




マクシミリアンが小さく頷いた。




「あぁ、幽霊嬢をあるべき姿に戻しただけだと息巻いていたな。…おい、今にも射殺しそうな顔してるぞ。かの令嬢に手を出すな、自重しろ。それより、ローラン嬢を戻す方法を探す事が先決だろう?」




焼き菓子を齧りながら続けた、マクシミリアンの言葉に、アントワーヌは目を見開き力強く頷いた。



「モレル嬢が捕縛された事を、イヴァン・アンドレは知っているのか?」



「まだ…だ。王宮に滞在している…とだけは伝わっているかもしれないが」




椅子に腰を落としながら、アントワーヌはポツリと呟いた。



「…ならば勘付かれる前に、奴も取り押えねばな。…そして知っている事を全て吐かせてやる…ふっ…。話は終わりだな?じゃぁ、私は行くぞ」



冷めた紅茶を一気に流し込み、さっさと扉に向かい歩み始めた。




「イヴァンの事はアントワーヌに委任する。…だが程々にしろよ。常人では、お前の持つ力に耐えられないからな」



二つ目の焼き菓子を食べ終えたマクシミリアンが、アントワーヌの後ろ姿を見ながら、呆れたように零したが、返事は無く足音は退室していった。





◇◇◇





マクシミリアンとアントワーヌの会談の最中、レオノールは理解が追い付かず、おろおろするばかりだった。ただ、何とか理解した事を、アントワーヌを追いながら内容を整理してみる。



一つ、モレル公爵令嬢が牢に入れられている

二つ、自分は今、魂の様な存在になっている、原因は昨日刺されたアレ

三つ、この状態で5日ほど過ぎると、元には戻れない

四つ、解決の鍵を握っているのは、魔法省のイヴァン・アンドレ侯爵子息

五つ、そのアンドレ侯爵子息を捕まえに、今現在アントワーヌが移動中




人に戻れなかったら、どうなるかと脳裏を過る。消えるというのは肉体の事なのか、だとすれば現状と変わらない。それとも今あるこの意識が途切れ、死んだ後に行くとされている天に昇っていくのだろうか。時間に制限があるにも関わらず、妙に冷静に思考する自分に苦笑いした。ただ一つ気がかりなのは、日頃から家族や慕う人に、気持ちを伝えていなかった事。こんなことになるなら、毎日の様に口に出していれば良かった。




そうこうしているうちに、辺りの様子から、アントワーヌが向かっているのが王宮内にある魔法省だと気が付いた。





◇◇◇





魔法省に到着すると、アントワーヌは言葉巧みにイヴァンを誘導、最年少の魔法省隊長が持つ膨大な魔力を拘束し、あっという間に彼を捕えてしまった。王座のある、あの部屋に連れてこられたイヴァンは、勿忘草のような淡い青色の髪を乱し、美しいサファイアの瞳で睨みつけていた。しかし、チラリと入口付近を見た途端、あっさりと抵抗を止めたかと思えば、交渉を持ちかけてきた。



「分かりました、何でも知ってる事を話します。…ただ、少しの間だけ、この部屋で一人にさせては貰えないでしょうか?ほんの数分で結構です。…これだけ拘束されているので、逃げる事が出来ないのはフルニエ様が一番ご存じかと。あぁ、もし仮に逃げ出した場合、見つけ次第、即殺して貰っても構いません。ですから、お願いします」



降参したとばかりに両手を上げるイヴァンを一瞥すると、アントワーヌは顔色一つ変えずに了承し、数人の部下と共に部屋を後にした。





「…そこの、お嬢さん。少しお話しませんか」



アントワーヌの方へ付いて行こうとしていたレオノールは、ぴたりと動きを止めた。ここには男性しか居なかったはずだと首を傾げながら、イヴァンの方を見やった。



すると二人の視線が交差し、イヴァンがニコリと微笑んだ。レオノールは左右を見渡し、改めて部屋には自分だけなのを確認すると声を上げた。



(わ…っわわたしの事、見えてるのですか!)



「そう、あなたです」




返事をしながら、にこりと微笑むアンドレ侯爵子息を見ながら、約一日ぶりに自分を認識してくれる人と、出会えたレオノールは歓喜に震えていた。



(アンドレ様、あなたがいらして下さって、本当に感謝いたします)



「…イヴァン…でいいよ。我々しかいないんだ、そう呼んで欲しい」



神に祈るように指を組み、イヴァンへ頭を下げるレオノールへ話しかける。彼女の目には、薄っすら涙まで浮かばせ、華奢な身体を僅かに震わせていた。



(分かりましたわ、イヴァン様。私の事もレオノールと、お呼び下さい。




もう誰にも気付かれないまま、過ごさなければいけないのかと怯えておりましたの。この悦びは生涯忘れないと思いますわ。今一度、イヴァン様に謝意を)



「レオノール嬢を見て話しをする事が出来るのは、この指輪の効果で、私だけの力ではないんだけどね…」



そう言いながら、右手を少し持ち上げ、人差し指を眺めた。植物が絡まるような意匠の中心に、柔らかな光を湛える大粒の月長石の付いた指輪が嵌められていた。アンドレ侯爵家に伝わる物で、血族の者だけが霊体や精霊などを感じ取る効果を得る事が出来た。



「…それから、礼は止めて欲しい。…何故怒らないんだ?レオノール嬢がそんな状態なのは、私の所為でもあると知らないのか…?」



些か呆れたように呟くイヴァンに、あっけらかんとレオノールが答える。



(もし私が、イヴァン様の立場であったなら、同じようにしたはずです。家を、愛するものを守る為に、自分が出来る事をするのは当然ですわ。その行為自体は恥ずべきものでは無いのです。問題はその方法、かく言う私も今までやり方を間違えておりましたが、今回の件で気づいたのです。ですから、私達は似た者同士なのです)



優しく笑いかけながら、そう言い切ったレオノールを、眩しそうにイヴァンが見つめていた。



「…その、戻りたくはないのか?」



脇に目を逸らしながら、イヴァンが尋ねた。




(戻りたくないと言えば嘘になりますけれど…、戻った後、私の我儘で迷惑を掛けてしまった方に対し、どう償えばいいのか分からなくて…。ならばいっそ、このままでもいいのかもしれないなと…)



そう答えたレオノールが、悲しそうに笑っていたのをイヴァンは見逃さなかった。




「…その呪いは、あなたを強く思っている人に、気づいてもらえれば元に戻る事が出来る。…レオノール嬢なら何とかなるはずだ」



その一言を聞いたレオノールは、目を見開いた後、曇った表情になり小さく呟いた。



(…そう、ですか…)



「だから諦めないで欲しい…それから、許してくれとは言わない。だが、謝罪だけさせて欲しい。すまなかった」




頭を垂れるイヴァンに、そっと手を差し伸べ、顔を上げるように促す。



(…もし戻る事が出来たなら、魔術の講師をして下さいます?加減をするのが苦手で、いつも上手くいきませんの)



それを聞いたイヴァンは、口をぽかんと開けて呆けていた。



「え…」



レオノールは、構わず続けた。



(これでも魔力自体は多い方ですのよ。優秀な生徒になれる自信があります。…それで無かった事にして差し上げますわ)



右手を口元に当て、くすくすと笑いながらイヴァンを見つめていた。



「…そうか、わかった。引き受けよう」




憑き物が落ちたように、軽やかに笑うイヴァンにレオノールは頷いた。






アントワーヌ達が戻って来ると、イヴァンは全ての質問に素直に応じた。


魔法省で研究を続けたければ、言う事を聞くようにモレル嬢に強要されたと話す。そうでなければ、公爵家の力を駆使して、全力で叩き潰すと恫喝紛いな事を言われたそうだ。そして、自分が作った霊感薬によってローラン嬢は、霊体に近い状態で彷徨っており、消えかけている魂を強く思う者が存在を感じ取る事で解除出来るが、五日前後で元に戻れなくなる時間制限付きだと説明する。



そして最後に、アントワーヌの目を、静かに見つめた。



「あなたが鍵になるだろう。ローラン嬢は常に近くに居る、あなた自身を信じて欲しい」



顔はそのままに、目だけを動かしイヴァンを菫色の瞳に映す。



「あぁ、それと」



踵を返し、退室しようとしていたアントワーヌに呼びかける。



「ローラン嬢は何時も傍にいるが、最終的にあなたが彼女の存在を感じ取らないといけない。彼女の好みの物や風景なんかを二人で見れば、感情が高ぶり見つけやすくなると思う。そう、特に想い出の場所に行くといいだろう」



「…感謝する」




その一言を残して、アントワーヌは部屋を後にした。あれなら大丈夫だろうと、イヴァンは確信した。





◇◇◇





気まずい。




レオノーレは今まで生きてきた中で、最大に心を乱していると言っても過言では無かった。アントワーヌに付いて来てみれば、そこは王宮内にある彼専用の部屋だった。若き国王に仕え、側近に近い役割を果たしているアントワーヌには、急な依頼も多い。その為、王都からやや離れたフルニエ邸に戻らずともいいようにと、用意された私室のようなものである。過度な絢爛さや無駄が一切無い、アントワーヌ好みの作りになっていた。だがここは王宮内、調度品全てが一流の品で揃えられており、ため息が出た。湯浴みと軽い夜食の準備を終えた召使いが、退室して行った。




それを確認するなり、無造作に上着を椅子の上に放り、シャツを脱ぎ捨てた。着痩せするその身体は、鍛えられ引き締まっていた。初めて見るアントワーヌの上半身に、思わず両手で目を隠す。




…なのに、まだ見える。そんなこととは露知らず、アントワーヌはベルトを外し、下穿きに手を掛ける。




(ちょっと待って…、あっ!)



くるりと後ろを向き、事なきを得た。すっかり忘れていたが、今の自分は透けている。手で隠そうが、手も透けている。そんな事をしたところで、ガラス越しの景色と同じく、見えるものは見えてしまう。この状況をどうしたら…と頭を悩ませていると、後ろからガチャリと音がして、思わず振り返ってしまった。隣の浴室へ続く扉が、閉まるのが見え、ほっと胸を撫で下ろした。今の内に…と窓をするりと抜け、バルコニーへと向かう。空一面に星が輝き、青白い月が浮かんでいた。そのあまりの美しさに、自分が消えるなんて、ちっぽけな事だと思えてしまう。



気付けば、部屋の明かりは消えており、虫の声だけが辺りに響く。しんとした中で、ただ空を見つめていた。





◇◇◇





翌日アントワーヌは、昨日得た情報を報告する為に、王の元へと赴いた。マクシミリアンは頬杖を付ながら、眉を顰めて考える。



「とすると…二人の想い出の場所に行けばいいのだろう?逢瀬はどこだったの?」



直接的な表現に、その場にいたレオノールは、一人顔を赤くする。




マクシミリアンはニヤニヤという表現がぴったりな嗤い方で、アントワーヌを見つめた。眉間に皺を寄せて、少々苛立つようにアントワーヌが睨み返す。



「レオノールと行った場所ならば、すべて覚えている。王宮内の庭園と王都にある図書館、フルニエ邸、それにローラン邸では彼女の私室と弟君の私室と庭園の東屋だろうか」



(そうそう、横に立てるだけで幸せな時間だったわ…)



アントワーヌの話を聞きながら、レオノールは感傷に浸り、マクシミリアンは目を丸くした。



「え?長い婚約期間で、たったそれだけなの?信じられないな」



驚いて声を上げた直後に、プッと噴き出し笑いだす。肩を震わせながら、マクシミリアンは目の前にあるサブレを手に取り、サクっと齧る。レオノールにとって、あの時間は充実していたから、そんな事を言う国王が理解できなかった。その横で、アントワーヌは我関せずといった具合に、紅茶を飲んでいた。



「色々な場所に行く必要が、どこにある?余計な心配事が、増えるだけだろう」



(心配事?あぁ、私が粗相するかもしれないものね)



カップを置きながらアントワーヌが答えれば、マクシミリアンは笑いながらも呆れたように肩を竦める。




「世の令嬢達も漆黒王が欲望に忠実過ぎる、こんな男だと知ったら悲鳴を上げて卒倒するだろうね。それじゃぁ、贈り物とかは?思い入れのある物があれば、それを用意するのも手だろう」



「………てない…」



「え?聞こえないよ、アントワーヌ」



若き王は甘いミルク入りの紅茶を飲みながら、どれにしようかと焼き菓子を選び手に取る。食べ終えそうになっても返事がない為、催促するようにアントワーヌを見る。菫色の瞳は少し遠くの窓の方を見ているが、焦点が合わず虚ろに揺れている。



「渡してない、何も」




「はぁ?嘘だろ…、んー、じゃぁ二人が共通で思い入れがある物とか…」



マクシミリアンは呆れを通り越し、ため息交じりの声しか出なかった。未だ窓を見つめたまま、彫刻の様に固い表情をしたアントワーヌが身じろぐ。



「切欠の本くらいしか…思いつかない」




「…(くだん)の破れた本か?いやいやいや、それを見ても後ろめたさや負の思いはあっても、豊かになる感情は湧かないはずだ。 ローラン嬢に代わって、私が断言する」


(破れた本…、殿下もご存じとは思わなかったわ…。確かにあの本には、申し訳ない気持ちでいっぱいね)




「…そう、か…。では、どうすれば…いい?」




隣から聞こえてきた弱々しい声に、心配したレオノールは、アントワーヌの顔を覗き込む。眉尻を僅かに下げ、ほんの少しだけ悲しそうに見えた気がして、胸がチクリと痛む。菫色の瞳に心を奪われて、無意識に彼の肩へ手を添えていた。途端にアントワーヌの肩が跳ね、辺りをキョロキョロと見渡す。不審な動きをするアントワーヌに、気付かないマクシミリアンは、額に手を当て暫し悩む。




「いつもの強気なアントワーヌは何処いった…、しっかりしてくれ。無いものは仕方ない。とすると、訪れた事のある場所に、行ってみるしか道は無いだろうな。そこが想い出になっているかどうかは、この際別にして、ね」




「…あぁ、そうだな」




力のないアントワーヌに代わって、マクシミリアンが提案したのは、二人で訪れた場所を満遍なく巡ろうと言うものだった。茶会から既に二日経っており、時間を無駄にすることは極力避けたい。だからこそ、効率的にと考え、まずは今いる王宮の庭園と王都の図書館、次はローラン侯爵家、最後に王都から一番離れたフルニエ公爵家という順になった。王宮と王都で一日、ローラン侯爵家への往復で一日、フルニエ公爵家で一日程掛かる。そうと分かれば、早速取り掛からねばと、マクシミリアンに背中を押され、アントワーヌは王宮の庭園へと向かった。





◇◇◇





芸術的に剪定された木々が通路を模り、薄紅色の小ぶりな薔薇がアーチを描く。脇には白色のアイリス、色とりどりのチューリップが咲き誇り、遠くのライラックは薄紫の霞の様に満開となっていた。王宮の庭園は一部の隙もなく、手入れされていて、いつでも訪れた者を楽しませてくれた。



(相変わらず素敵な庭園ですこと…)


これまでは、ゆっくり歩きながら鑑賞するだけだったが、今回は思い切り楽しむと決めたレオノール。屈んで地面に近い所で咲く花を見たり、顔を近づけて瑞々しい香りを吸い込む。



(嗅覚が残っている事に、感謝しなければ)



その横で、思い悩んだ表情のアントワーヌが、仁王立ちのまま腕を組み考え込んで動かない。たまたま通りかかった何処かの御夫人が、無言のまま驚き、音を立てない様に静かに遠のいて行った。



花の好きなレオノールを、何度かここへ連れてきた事があった。輝く瞳を必死に抑えながら、季節の花を見ていた。確かそう、大輪の真っ赤な薔薇を見たはずだ。そこへ厄介な奴が登場する、当時はまだ王子だったマクシミリアンである。笑顔を湛えて二人の傍まで来た王子は、気さくに声を掛けてきた。



「これはこれは、アントワーヌとローラン嬢じゃないか。いい庭だろう?その大きさの薔薇を咲かせるのに、とても苦労したんだ。次は紫色に挑戦しているとこさ。丁度、今日試作が咲いたと報告があったので、今から見に行くけど一緒にどう?」



王族の誘いを断れるはずもなく、それより今のレオノールの抑えきれず僅かに浮かぶ嬉しそうな表情を見れば、行くしかなかった。折角の二人きりの時間だったのに…と恨み言の一つも湧いてくる。後日、マクシミリアンに文句を言えば、信じられない答えが返って来た。



「あの時のローラン嬢、全然興味なさそうだったけどな。アントワーヌなら私の誘いだろうと、断れただろう?」



毎日見ていれば、無表情の中からでも気持ちが読み取れた。間違いなくレオノールは珍種の薔薇を見たかったはずだ。あの時、彼女は心から楽しめていただろうか。



(淡い紫色をした美しい薔薇を、アントワーヌ様と一緒に見られて、とても幸せだったわ)




それぞれが想う中、二人の間を涼やかな風が通り抜けた。





◇◇◇





次に訪れたのは、王宮から少し行った所にある王都図書館だった。ドーム型の高い天井は、一部ガラス張りで外からの光が取り込める造りになっている。側面には本棚がぎっしりと嵌り、階段を逆さにしたような棚になっていて、本の日焼けを防止している。


(ここの天井は相変わらず素敵。そうそう、あの時読んだ冒険譚は、まさかの展開でハラハラし通しだったのよね)



二人とも、あの日を思い出す。アントワーヌは、前から気になっていた魔法の専門書を探し当てると、手身近な閲覧席に腰を掛けた。その様子を見ていたレオノールも本を手に取り、すぐ隣の席で読み始めた。アントワーヌは、必要な部分だけ確認をすると、さっさと本を片付ける。レオノールを見れば、熱心に読み耽っていた。表題から察するに、最近流行りの物語のようだ。集中していて、アントワーヌの様子に気付かない。



自分が誘っておいてなんだが、放っておかれる事に少し苛立つ。図書館だから、静かに本を読むのが正しい。分かっているが、気づいて欲しかった。そんな事を考えていると、向こうから手を振り、足早に近づいて来る者がいる。見ると何処ぞの令嬢だ、確かトマ男爵の庶子だったか。最近、市井から男爵家に引き取られた為、貴族らしくない言動が目立っていたと記憶している。



「アントワーヌ様じゃない、偶然ね。一人なの?」


こんなに馴れ馴れしく話しかけられるような仲でもないのに、思わず眉を顰める。が、次の瞬間、暗い感情が沸き上がる。こうすれば、きっとレオノールも気が付き、嫉妬してくれるに違いない。



「ここは閲覧所だ、話があるなら向こうで聞こう」



まさか返事を貰えると思っていなかった男爵令嬢は、これ幸いとアントワーヌの腕に絡みつく。



「お誘い頂けて嬉しいわ、じゃああっちに行きましょ」



そうしてアントワーヌが地獄のような時間を過ごす中、レオノールの心は物語の主人公と共に、ドラゴンを退治し国に平和を齎していた。やっとの思いで戻って来たアントワーヌを、ふぅーと満足の吐息を漏らし、本を読み終わったレオノールが見つける。




「アントワーヌ様、お誘い頂けて感謝しております。今日は、楽しかったですね」



その真っすぐな視線を直視出来ず、スタスタと歩き出す。レオノールは妬くどころか、アントワーヌが居ない事すら気付いていない。その事実に、大人げなく拗ねてしまった自分を思い出し、頭を抱える。そんなアントワーヌの異変にレオノールが気付いた。



(アントワーヌ様、どうなさったのかしら)




ここでは絶対に、感情が高ぶるはずもないと、アントワーヌは確信した。気持ちを切り替え、明日に訪問を予定している、ローラン侯爵家に焦点を合わせることにした。





◇◇◇





昨日のマクシミリアンとの会合の後すぐに、ローラン侯爵家へ早馬を飛ばし、先触れをしておいた。アントワーヌが到着すると、すぐに庭園の東屋に通された。そこにはローラン侯爵夫妻が居り、アントワーヌに深々と礼をした。



「この度は我が家の愚女がご迷惑をお掛けしまして、申し訳ありません。このような立場と承知の上でお願いがございます。どうか、どうか娘を…レオノールをお助け下さい」



侯爵の隣に並ぶ夫人は、肩を震わせながらも、必死に泣くのを我慢していた。レオノールは夫人の近くに行き、そっと抱き着く。



(ごめんなさい、お父様。お母様を泣かせてしまうだなんて…だめな娘ね)



「顔をお上げ下さい。勿論、命をかけて最善を尽くします」



アントワーヌの返事を聞き、僅かに安堵した夫妻は邸内へと戻っていった。それを見送ると、アントワーヌは迷わず一つの椅子に腰かける。そこはレオノールの特等席だった。



(ここで、アントワーヌ様とお茶をすると、必ずリオネルがやって来てたわ。可愛く笑って隣に腰かけて。そんなリオネルを何も言わず迎え入れて下さる、アントワーヌ様は本当に優しくて…)



「レオノールの隣に座れるリオネルを、何度羨ましく思った事か」




小さな声だが、はっきりと聞こえたレオノールは、思わず瞬きをする。




「弟という特権を使い、二人きりにしてなるものかと、必ず間に入って来て…中々手強かった。この場所ではリオネルの念という名の邪魔が入るだろうな…」



フッと小さく笑い、軽やかに立ち上がり、颯爽と邸内へと歩みだす。レオノールは、ただ付いて行く事しか出来なかった。





◇◇◇





コツコツコツと足音をさせ、アントワーヌはリオネルの部屋へと向かう。扉の前に到着すると、ノックする前にガチャリと半分だけ戸が開き、リオネルが隙間から顔を出す。




「何の用?愛する者を守れもしない癖に、よく顔が出せたね」



レオノールに見せる愛らしい顔とは似ても似つかない、苦々し表情のリオネルが、そこには居た。



(リオネル、目上の方への態度ではないわ。いつものあなたに戻って頂戴、お願い)



「申し訳ない。だが姉君を助けるために、ぜひ力を貸して欲しい」



自分の為に我が弟へ頭を下げるアントワーヌに、思わず駆け寄る。



(顔をお上げ下さい。そんな簡単に下の者に頭を下げてはなりませんわ)




「…ふ、ふざけるなよ!お前の所為で姉様は…。あんなに表情豊かだった姉様が、僕の前でも笑わなくなったんだ。お前が絡むと、本当に碌な事が無い。あんな茶会、全力で引き留めればよかった…ごめんよ姉様…僕が気付いていれば…」



(リオネル、あなたまで気にかけてくれていたのね。私が至らないばっかりに、許してね)



大声で叫んだ後も、両手を強く握りしめたままのリオネルに寄り添い、爪が刺さりそうな程に力強く握る拳を、両手で包み込む。もうそんなに怒らないでと諭すように。



「…姉様…?」



(そうよ、私よ。もう怒らないで、あなたには笑顔が似合うもの)



リオネルの呼びかけに、アントワーヌが食いつき、咄嗟にリオネルの肩を掴んでいた。



「見えた…のか?」



その手を振り払うようにし、リオネルが睨みつける。



「…ここに姉様が居た様な気がしただけだ。お前を許した訳じゃない」




「そう、か。あぁ、分かってる、許さなくていい。ただ、レオノールが帰って来たくなるように、彼女を思っていて欲しい」



(あぁ、みんな…)



アントワーヌの言葉に少し面食らったリオネルが、少しの間を置いて声を上げる。



「お前じゃないんだから、うちは父上も母上も僕も、いつだって姉様を待ってるに決まってるだろ!」



そう言いながら、慌てたようにアントワーヌを部屋から叩き出す。その後、閉まった扉越しに声が聞こえた。



「姉様を見つけなかったら、ただじゃおかないからな」



アントワーヌは扉に背を向け、歩き出しながら答える。




「あぁ、言われるまでもない」





◇◇◇


  



アントワーヌは、少し緊張していた。レオノールの自室に来るのは三回目、最初に訪れたのは5年も前の話だ。一昨日は勢いで入室したが、気が高ぶっていた為、正直あまり覚えていない。家令に扉を開けてもらい、高鳴る心臓を抑え、部屋の中へと進む。淡い緑色に統一された天井と壁紙、針葉樹のような深い色味の絨毯にカーテンや寝台の白が良く映える。華やかというよりは、落ち着きのある空間がそこに広がっていた。



ふと窓辺のテーブルに載っている、籠に目を留める。色とりどりの刺繍糸に、針が刺さった針山、完成間近の刺繍が入っていた。針山を見れば、その形がハリネズミを模していて、何の因果かとため息を吐く。籠の持ち手に結ばれた、深緑色をしたリボンに視線が移る。どこかで見たようだなと、少し悩めば、あぁと閃く。三つ年下の弟に、王都で流行っている菓子店を教えてもらい、レオノールの元へ訪れる際に、ローラン侯爵家の皆へと渡した事があった。そのサブレの包みにリボンが掛かっていた。


自分宛ではないが、アントワーヌから初めての贈り物に舞い上がり、菓子店の名前の入った美しいリボンが捨てられなかった。そこで、自分がいつも使っている刺繍道具を入れている籠に結んでおいたのだった。



(…っ!リボン!見窄らしいと思われてしまったらどうしましょう…)



思わず隠す位置に立ちふさがってみたが、アントワーヌは構わず籠に手を伸ばし、親指でリボンを撫でた。それを阻止ようと出したレオノールの手とアントワーヌの手が交差する。




「飾ってくれているとは嬉し…、っ!レオノール?」



僅かにレオノールを感じ、逸る気持ちのアントワーヌとは裏腹に、一瞬で跡形もなく気配が消えてしまう。目の前では、レオノールが右手を一生懸命に振っていたが、一度途切れた繋がりはアントワーヌには届かなかった。



後少し…そんな気がする歯がゆい思いを胸に、ローラン侯爵家を後にした。レオノールが居なくなってから、三日が過ぎようとしていた。





◇◇◇





次の日、マクシミリアンがアントワーヌを王宮に呼びつけた。部屋には、ご機嫌なマクシミリアンが、マカロンを齧っていた。



「来たな、アントワーヌ。まぁ、座って。あのモレル嬢は、最高だね。待て、説明するから睨むな。




若き国王である私を良く思わない貴族の、あぶり出しに成功した。彼女が用意させた霊感薬を完成させるに当たり、貴重な素材が沢山必要でね。あの効果だ、当然だろう?それで、その素材や資金を用立てた者の多くが国家の反乱分子であり、軒並み魔法省大臣に取り入るべく、挙ってモレル嬢に恩を売っていたんだ。



彼女は自分可愛さに、それはそれは丁寧に教えてくれた。お陰で王国に巣食う膿を、粗方出し切ったよ。そうそう、モレル公爵は、この件に関して一切関与してなかったんだ。吃驚だけど、責任は取って貰う。奪爵も迷ったけど、彼は優秀だから伯爵への降格に留め、魔法省大臣も後継が見つかるまでは続けさせる事にした」



マクシミリアンは、朗らかに笑う。その後、真顔になりアントワーヌに顔を寄せる。



「で、そっちはどうなの?期日は明日の昼過ぎ頃だ」



そう、気づけばもう四日近く経っている。あと凡そ一日で彼女と二度と会えなくなるかもしれない。レオノールが姿を消してから、彼女を身近に感じたのは極僅か。そもそも本当にアントワーヌの近くに、居るのかすら分からない。夕闇と不安が迫る中、焦り王宮を後にした。





◇◇◇





翌朝早く、フルニエ公爵家へと到着するなり、アントワーヌは自室を目指した。レオノールは、未だかつて招かれた事が無い場所だった。躊躇いはあったが、レオノールはアントワーヌの後に続いた。けれど私的な空間に長居するのは憚られた為、あまりジロジロ見ることはせずに、入室した際に居た侍従が下がる時に、自分も退室しようと振り返った時だった。アントワーヌの寝台の脇にある、小さな机に額が飾られているのが見えた。それは公爵家の家紋とアントワーヌの頭文字の入ったハンカチであり、嘗てレオノールが刺繍して、彼の誕生日に渡したものだった。幼い時の手仕事に、レオノールは顔を赤らめ照れた。今ならもう少しましな物が作れるのに、と考えたその瞬間だった。




「レオノール、まさかここに?…そうか、貰った物があった」



(…はっ!)




こちらへアントワーヌが慌てて駆け寄ってくる。あまりの勢いに驚き、気付けば窓から外に逃げ出していた。2階から決死の飛び降り…!と思いきや、想像以上にゆっくりと地上に足を付いた。と同時に後悔が押し寄せ、レオノールは自分の愚かさに、酷く落ち込んだ。さっきが元に戻れる最後の機会で、自ら手放してしまったのでは、と。




レオノールの名前を叫ぶ、アントワーヌの声だけが、屋敷中に木霊していた。





◇◇◇





アントワーヌは落ち着きを取り戻すと、ふらふらとした足取りで客間に向かっていた。ここは二人が、最初に出会った場所。二人で見たあの本を、徐にテーブルに載せる。破れたあの頁を開き、修理のあとを人差し指でなぞる。



「これがレオノールとの始まり。あの時から、この本は私の宝物になったんだ」



当時を思い出したアントワーヌは、ふにゃりと笑みを浮かべる。レオノールは初めて見る表情に愕く。



「二人だけの秘密、二人だけの内緒の約束だから…とても大切なんだ。だけどレオノールにとっては、枷でしかなかったんだな。すまなかった…」




(枷だなんて…それは私を守る、おまじないみたいなもので…でも、アントワーヌ様の宝物を壊し…取り返しのつかない事をしてしまったのは私で…ごめんなさい)



二人が同時に、互いを想い合った瞬間。



ブワリと大気が揺れ、アントワーヌの髪が頬を掠める。ゆらゆらとした陽炎のようなものが、目の前に立ち込めてた。温かく穏やかな感じがして、アントワーヌの菫色の瞳から、涙が流れていた。揺らいでいる場所は僅かに、翡翠色を纏っていた。ゆっくりと近づき、両手を広げ、包み込むように抱きかかえた。




「見つけた…レオノール、そこに居たんだね」




水中で手を動かすと感じるような、ほんの少し抵抗のある薄緑の大気を、力いっぱい抱きしめた。その瞬間、空間が見る見るうちに色づいていく。次の瞬間、アントワーヌの腕の中には、レオノールが閉じ込められていた。




「レオノール、レオノール!」



実体に戻った彼女は、安心したように、抱きかかえられたまま深い眠りについていた。





◇◇◇





レオノールは夢の中で、ふわふわと揺れ、空を飛んでいるような気分で微睡んでいた。朧げな記憶の中に菫色の瞳を見た気がしたが、また夢の中へと沈んでいった。









「えっ…、わたし…?」




深い緑色を基調とした室内は、美しい意匠が施された品の良い調度品、上質な布地をたっぷり惜しげもなく使った寝具やカーテンに囲まれていた。窓辺には、その日の朝に摘み取られたばかりの花が見事に飾られ、瑞々しい香りを湛えている。レオノール好みに整えられた、素晴らしく行き届いた部屋である。





……だが一体ここは、どこだろうか。初めて見る天井に、少し戸惑う。





レオノールが途方に暮れかけたその時、気づけば右手を誰かが掴んでいた。ゆっくりとそちらに顔を向ければ、黒地に金の刺繍が入ったジャケットを着た、アントワーヌが椅子に腰かけて座っていた。目覚めたレオノールに気が付くと、ガタっと音をさせて立ち上がり、さっきより力の籠った両手で彼女の手を握りしめた。



「…眠っていたというのに、すまない。…どうしても離れたくなかった…、また消えてしまいそうで…」



包み込む様に握られた手は、いつしか指を絡めるように繋がれ、話し方も普段より柔らかい。触れられている感触はあるものの、これは現実なのかと不安が過り、レオノールは空いていた左手で頬をつねってみる。じんわりと痛みを感じ、思わず上ずった声をあげる。



「…アントワーヌ様…、わたくし…」




「あぁ、もう大丈夫だ」



アントワーヌはレオノールの横に、腰を下ろした。僅かに軋む音と、アントワーヌから体温を感じ取れるほどの距離感に、思わず心が跳ね、耳の先まで熱を帯びていく。




「早速だがレオノール、今日から此処で生活してもらう。君は何も心配しなくていい。それから、本日をもって婚約は終了、あの約束も果たされたとして終わりにする」



菫色の瞳で見つめながら、アントワーヌは淡々と説明した。レオノールにとって、青天の霹靂とも言える一言だった。



「こんや、く…やくそく……お、わり…」



一言一言繰り返しながら、じわりと内容を噛み占める。縋りついていた関係が、あっさりと幕を閉じた。悲しみもあったが、間違いを漸く正せると思えば、自責の念に駆られていた心が、僅かに軽くなったように感じた。







「そうだ、長かった…」



感情の籠った一言を、アントワーヌが零した。途端に、この関係が終焉を迎えたのだと思い知らされる。レオノールの大きな翡翠の瞳に涙が浮かび、見る見るうちに大粒になる。今まで抑えられていた反動もあって、とめどなく溢れる。それを見たアントワーヌは、フッとため息を吐き囁くように言う。



「っ、君はそうやって…。本当に困った人だな…」



アントワーヌがレオノールの頬を触れようとした時、彼女が制するように口を開く。




「あの約束で、私の立場を守って下さって、ありがとうございました。私達の婚約が白紙に戻ったという事は、もうアントワーヌさ…ま…いえフルニエ様を拘束するものは無いのですね。長きに渡り、私に婚約者役という温情を御与え下さった事、感謝しきれません」




伸ばしかけた手を止めて、アントワーヌが息を呑んだ。彼から途切れそうな、声が漏れ出る。




「何を…言っている…?レオノール」




「フルニエ様、我々はもう許嫁ではないのですから名前を呼ぶのは、お終いにして下さいませ。…ただ、最後に一つ…一つだけお伝えししたい事があります。…初めてお会いした時から、…お慕いしておりました。あなたを想う毎日は、とても幸せでしたの。…ですから、最後は捨て置いて下さいませ。情けは逆に辛く、この身に沁みますわ。これからフルニエ様の人生が、実り多きものになりますよう、陰ながらお祈り申し上げております」



涙は依然止まらなかったが、最後に長年の秘めた想いを伝えられたレオノールに、思い残す事はなかった。



眼前のアントワーヌは俯き、ふるふると小刻みに震えていた。恐らく肩の荷が下り、安堵しているのだろう。彼はレオノールの失態を、優しさによって肩代わりしてくれていたのだから。その約束は一風変わったものだったが、当時幼かったレオノールでも、これまで何とか違える事無く、守れるようなものであった。



だがそれも、もう終わりだ。



頬を伝う涙を拭うのも忘れ、レオノールはアントワーヌに向かって、最後に笑顔を贈る。




「愛しいフルニエ様。…さようなら」





次の瞬間、レオノールはアントワーヌの腕の中に抱き留められていた。




「…レオノール、今言ったことは本当?」




相変わらず名前で呼ぶアントワーヌに対して、再度窘めるのも憚られ、聞いていない振りをした。しかし、こんな風に力強く抱きしめられた事など、婚約者であった期間ですら一度もなかった。だからこそ、この状況は大いにレオノールを慌てさせた。冷静を装い、彼の質問の回答を考えてみたが、何を指しているのか分からなかったので、逆に質問し返した。




「言ったこと…?」




「私の事を……慕っている、…愛しい、と…」



繰り返されれば、恥ずかしさで一杯になり、レオノールは顔を真っ赤にして微かに頷いた。




「はい…、本当ですわ…。けれど…、ご安心ください、忘れるように努力します。すぐには無理かもしれませんが、フルニエ様に迷惑をお掛けするような事は致しませんので」




「だめだ、そのままでいてくれっ」



間髪入れずアントワーヌが声を張り上げた。そして両手でレオノールの頬を押さえ、瞳を合わせた。




「レオノール、よく聞いて。婚約が解消されたわけではない、婚姻を結ぶ運びと…書類上は既に夫婦だ。それで今日から、我が家で一緒に生活してもらう事になった」



はくはくと口籠りながら、レオノールはアントワーヌを見つめた。



「では、約束が終わりというのは…」



普段の様子からは想像もつかない、頬を赤く染め照れたアントワーヌがそこに居た。



「あれは、レオノールと結婚するまでのつもりだった。もし他の男が、レオノールの生き生きとした表情を見てしまったら…、そう考えると不安で堪らなかった。真珠の様な涙を湛える泣き顔も、弾ける美しい笑顔も、頬を紅潮させて怒る姿も…レオノールは私だけのものなんだ。君と夫婦になるまでは、誰にも見せたくなくて…、長い間すまない、単なる私の我儘だ…」



そう絞り出したアントワーヌの声は、少し掠れていて。熱を帯びた双眸を、こちらに向けていた。アントワーヌの瞳の中に、レオノールは淀んだ愛情が溢れているのを感じた。その上で、全てを受け入れる覚悟をした。





「アントワーヌ様、お慕いし続けて良いのでしょうか」



「勿論だよ、レオノール。おいで」



強く抱き締めながら、アントワーヌはレオノールの髪を指で梳いた。淡く輝く白金色の髪が、キラキラと落ちていく。頭を撫でるような、その仕草を気に入ったのか、レオノールがふわりと、綻ぶ様に微笑む。それを間近で見たアントワーヌは、蕩けるような目を向ける。




「あぁ、やはりこんなに美しいレオノールを、そのままにしていたら危険だな。公爵家の敷地から出る時だけ、あの約束は継続してはくれないか。君は私だけの宝物であって欲しい」




「えぇ。アントワーヌ様の為なら、喜んで」




アントワーヌは彼が思い描く理想の返答に、思わず目を見開いて愉悦の笑みを浮かべる。




「そうだ、ローラン家内は除外しよう。リオネルが拗ねるし、何よりご両親を安心させるといい」



「…いいのですか、となると外では今まで以上に抑えて見せますわ」




「…それは頼もしいな」




ふふっと笑うレオノールの顎に手を添え、顔を上げさせる。先程より更に身体を引き寄せて、そっと唇を重ねた。それは徐々に深くなり角度を変え、呼吸を忘れるほど続いた。夫婦となった二人に、障害は何もなく、結局、レオノールが解放された頃には、日付けが変わってから大分経っていた。




アントワーヌがレオノールに守らせた約束がどんなものだったのか、もう分かるはず。


そう、"人前で顔色を変えてはいけない"。つまり、泣くな・笑うな・怒るな・喜ぶなという、酷く捻じれたもの。幼い少女と交わすには、やや不穏なものだったが、彼女は喜んで受け入れたというから驚きだ。




執心を持つ嫉妬深いアントワーヌと、彼の歪んだ愛情を全力で受け入れるレオノールは、訝しい口約束と変わった体験をしたにも関わらず、想いが通じ合ったというから驚きだ。旦那様に溺愛される奥様が、本当は表情豊かだという事を、家族以外は相変わらず誰も知らないんだとか。



時折、二人の住まいに3通りの客が訪れた。



一つ目は王宮からの伝令で、国王直々にアントワーヌへ下される無理難題や厄介事、そのすべてを彼は軽く完遂した。



二つ目は魔法の家庭教師、国預かりになった最年少の魔法省隊長が償いとして奥様に魔法を教えに来た。魔力操作が苦手なだけで、一度コツを掴んでしまえば、レオノールは優秀な使い手となっていた。



三つ目は奥様の身内である、弟君リオネルが、それはもう頻繁に訪れた。公爵家内では姉様が昔の様に笑ってくれると、大変喜んでいた。弟君を見るアントワーヌが浮かべる鬼のような形相と、それを分かっていながら態と姉様に甘えるリオネル、そんな二人の関係に気付かずコロコロと笑い声をあげるレオノールの三者三様の表情が印象的だったと、給仕をした召使は声を揃えて言った。



その三通りの来客を、後にアントワーヌは『邪魔者』と呼ぶ様になっていた。そんな人々に囲まれながら、二人は仲睦まじく暮らしたというお話。







おわり









【登場人物&設定紹介】



☆☆☆ヴァランタン王国☆☆☆

ヴァランタン王を掲げた王立国家。現王は齢13歳のマクシミリアン。王太后と宰相であるフルニエ公爵が、補佐をしていると言われている。



【ヴァランタン王家】

・王太后

・マクシミリアン・ヴァランタン…現王で齢13歳。濃い金髪、碧眼、白肌。


挿絵(By みてみん)







【ローラン侯爵家】

・レオノール・ローラン…主人公、15歳。白金髪、翡翠の瞳、白皙の肌。


挿絵(By みてみん)




・ルイ・ローラン…ローラン侯爵。茶髪、灰翠の眼、白肌。

・ロランス・ローラン…ローラン侯爵夫人。金髪、碧眼、白肌。

・リオネル・ローラン…14歳、年子の弟。茶髪、碧眼、白肌。




【フルニエ公爵家】

・アントワーヌ・フルニエ…17歳、フルニエ公爵家嫡男。父は宰相。弟(14歳と12歳)が二人いる。黒髪、紫眼、白肌。


挿絵(By みてみん)






【モレル公爵家】

・ロズリーヌ・モレル…17歳、公爵家令嬢。父は魔法省大臣。兄(23歳)と弟(14歳)がいる。別名、薔薇姫。桃髪、赤眼、白肌。


挿絵(By みてみん)






【アンドレ侯爵家】

・イヴァン・アンドレ…19歳、侯爵家子息。最年少で魔法省隊長を務めている。一人息子、嫡男。勿忘草色の髪、碧眼、白肌。


挿絵(By みてみん)






【トマ男爵家】

・令嬢…男爵の庶子。名前すら明かされていない脇役。

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