04:そして、いつか始まりとなる物語へ
「堕天使……」
「あくまで呼ぶとしたら、だがね。そう呼ぶ意味も、意義も、人の魔導が統べるこの世界では意味のないものさ。神の愛は失われ、人の世は自己への愛だけで成り立っているのだからね」
「どうして……私はこんな才能を持って生まれてきてしまったんでしょうか……?」
「知らんね。それこそ、神にでも聞かなければ解答なんて得られない問答だろう。最初から天の理を身につけて生まれるなんて、かつての時代では祝福だろうけど、この時代では呪いにも等しいだろうねぇ」
ケタケタと笑うメルティナさんに少しだけイラッとしてしまった。
でも、知れて良かったとは思う。まさか、今までずっと謎だった魔導を使えない原因を、こんな経緯で知ることになるだなんて夢にも思わなかったけど。
「……その、ありがとうございます。メルティナさん、こんな大事なことを教えて貰って」
「いいさ。あと、その本はお前さんが持っていきな。それが私からの餞別だよ。その後、どう生きるかはお前さんが自由に決めると良い」
「……自由、ですか。あの、でも、私、お金もそんなになくて……」
「あの書を読めば、お前さんは自分がどういうものか理解出来る。金? そんなもの、最悪なくても生きていけるさ。あれを読める時点で人の理に倣う必要なんてないんだよ。私を見ればわかるだろう?」
「……確かに、その、真面目に商売しているようには見えませんけれど……」
「それに、お前さんと会うのはこれが最後かもしれんしね」
「え?」
「次の商売をするところに移るのさ。売りたいものを、売りたい奴に売った。なら、次の客がいそうな場所を目指すさ」
メルティナさんの言葉を聞いて、私は彼女と離れたくないと思ってしまった。
だって、ようやく出会えた私のことを理解してくれるかもしれない人だ。これで最後なんて、そんなの納得しきれない。
「あのっ、なら、私も」
「一緒には連れてはいかないよ」
「まだ聞いてないのに!?」
「聞かれなくてもわかるさ。そういう顔をしてたからね。だからお断りだよ、お前さんと私じゃ立ち位置が違う。向いてる方向もね」
「そんな……」
「言っただろう? 私は要らなくなった過去と共にある女なのさ。誰もが忘れ去るだろう過去に浸りながら茶を飲むのが老後の、歩みを止めた女さね」
そう言ってから、メルティナさんはお茶を飲み干して席を立った。
「もし会えるとしたら、お前さんが同じ道を選んだ時だ」
「……今、同じ道を行くと言ってもダメなんですか?」
「ダメだね。アンタには懐かしむ過去がない。かつての私と同じスタート地点にいるだけの、それだけの存在だ。商品棚に並べる価値も、茶飲み仲間としても価値がない」
私の縋るような思いを、彼女はバッサリと切り捨てた。
それからメルティナさんは、私の頭を軽く撫でた。その手付きは私を労るようで、とても優しいものだった。
「お前さんはまだ目を開いたばかりだ。世界も知らぬ雛にも等しい。お前さんが私と同じ鳥になるのか、それとも見知らぬ鳥になるのか。想像したら楽しいだろう? ほら、殻も脱ぎきれてない雛のくせに世界に絶望するんじゃないよ。絶望するなら、世界を味わい尽くしてからさ。お前さんの中身はまだ何も詰まっていないんだ」
「……でも、不安です。一人になるのは……」
「その不安がお前さんを殺すなら、お前さんは死んだ方が良い。この世に生まれるべきじゃなかった。そう思っていいんだ。お前さんには自死を選んでも許される価値がある。それ程の存在なのに、良いのかい? 死んだ方が良かったなんて、それがお前さんの望みかい? 何をするのも許されず、何の夢も望みも持つことも許されない。死こそが全てであると、それが心の底からお前さんが納得する終わりかい?」
……メルティナさんの心が、私の心の深い部分を抉っていく。
涙が出そうだ。歯を食い縛ってしまう。そんなの――理不尽じゃないか! そんなものを望んだ終わりになんて出来ない!
「そうだ。お前さんは知っている。その絶望を、どこにも行けない苦しみを、ままならない虚しさも。でも、絶望を覆すことが出来れば希望になるのさ。まずは自分自身を育ててみると良い。お前さんがどう在るべきかは、その書が全て教えてくれる。世界が広がれば、見える世界も変わる。見つからないものだって見つかる。その時――お前さんは希望の味を知るだろうさ」
「……まだ、間に合うでしょうか?」
「齢百にも満たない小娘が、一体何に間に合わないって言うんだい?」
「いや、メルティナさんって幾つなんですか……?」
「それは美女の秘密さね」
ウィンクまで決められたら、もう何も言えなくなってしまった。
そして、なんだか笑えてきてしまった。自信満々に告げる彼女の姿があまりにも堂々としていて、胸を張るものがなにもない私が情けなかった。
でも、そんな情けない私に確信したかのように激励してくれたメルティナさん。そんな彼女に恥ずかしくない自分でいたいと、私はそう思えた。
「まずは知ってみようと思います。自分のこと、何が出来るのか、何がしたいのか」
「えぇ」
「……また、会えるかわかりませんけれど。私は、また会えたら嬉しいと思います」
「なら、長生きするんだね。誰かがお前さんを望んで、ずっと忘れずに覚えていられるような存在になれたのなら可能性はあるだろうさ。だから、お前さんの名前は覚えておくよ。次のご来店の機会があれば、お前さんの名前を呼ぼう。その時は、私にとって価値あるものになったお前さんの思い出話しながら茶を飲もう」
「……はい。ありがとうございました、メルティナさん。この本、大事にしますね」
「私に言わずとも、お前さんはその本を大事にするだろうさ。必要とされたものしか売らないからね、この店は。本のお代は結構、ツケにしておくよ。楽しい思い出話を期待して待ってるさ」
「……はい!」
私は名残惜しむようにお茶を飲み干した。次にこのお茶を飲む機会が訪れるか、それはわからないけれど。でも、もうここにいる理由もない。
席を立って、古めかしいものに囲まれた店の扉に手をかける。酷く重い扉を、音を立てながら開いていく。
「メルティナさん。また、いつか」
「――またのご来店を」
その声を最後に、扉は閉じた。もう店の中は見えない。そして、私ももう振り返らなかった。
振り返るべき過去は、まだ私にはない。さぁ、目を開こう。前を向いて世界を知ろう。
「――行こう! 明日へ、私の知らない明日を知るために!」
一歩、強く前へ。胸に抱えた本を強く抱き締めたまま、私は勢い良く駆け出した。
* * *
イルゼ・ティール。彼女の名はこの年を境に記録が途切れることとなる。
彼女の名前が再び歴史に刻まれるのは、この年から三年後の事である。
そんな彼女の物語にタイトルをつけるのならば、こう付けたいと思う。
――『最も新しき古の魔女』、と。