【6】
乙女ゲームヒロイン転生を成し遂げてしまった岡嶋さんとの邂逅より翌朝の早朝。シャルロットは布団を抜け出すより先にグラシャラボラスの魔道具を起動させ、毎朝自分より先に起き出して1時間ほど何処かへと消える夫の尾行を開始した。
今まで鍛錬か何か男子っぽいことをしているのだろう、とさして気にもしていなかったのだが、浮気の一つでもするなら彼のスケジュール上この時間しかないのが尾行理由である。愛も情も薄っすらとしたものしか抱いていない相手であるし、嫁が増えても「左様で」としか返答を持たなかったシャルロットではあるが、彼の浮気のお陰でロアエが滅亡するなら話は別である。
恋愛ごときで国が滅んでたまるかと思うが、乙女ゲームのファンタジー力は超怖いのだ。だってグラシャラボラスが悪魔モチーフなのに、その近衛な忠犬騎士ジャン・バチストは天使がモチーフ。つまり何が起こっても許されるという自由な世界という事だ。
「何を始めるんだ、シャルロット?」
「夫の浮気調査ですよ、グラシャラボラス様。ご一緒してみます?」
「は?」
たぶん使ったら分身が本体か、取り敢えず本人に類するものが出てくるだろう、と確かにシャルロットは踏んでいたが、ドンピシャされると内心ドン引きになった。ただし、一年ちょいぶりに拝謁する彼の筋肉には癒されるが。シャルロットは柳瀬真弓時代から生粋の筋肉党である。イケメンは筋肉だ。乙女ゲーム上演中の彼のプロポーションは柳瀬真由美の最高傑作。腹を立てて冷気を漂わせるグラシャラボラス相手に、ドン引きよりも笑顔が出たのは自分の性癖のお陰であろう。
「なぜ妻である私じゃなくて貴方が怒るんですの、グラシャラボラス様?どうでも良いではありませんか、他所の王が側女を物色しても。英雄色を好むのは普通のことでありましょう」
「は??」
さらにワントーン声を下げたグラシャラボラスを引き連れて、シャルロットは着替えを終えて中庭の方向へ向かうカマル王を追いかける。一応木刀を下げているので、浮気は冤罪かもしれない。
「実際私、カマル王に嫁が増えるのは特に反対する理由も動機も無いんですよね。ただあの子、妙に真実の愛とやらにこだわる節がありまして。恋人の1人もできたら、駆け落ちしかねないとアネッサさんにご忠告を頂いたんですのよ」
「は???」
直進、左、直進、右、階段を降りて左。王族が利用する道から外れ、使用人通路へ。シャルロットにとっては住んでいながら入った事の無い道だ。ああ、そして更に地下へ。下水の匂いが上ってくる。木刀はむしろカモフラではなく実用自衛用品なのか。
「で、駆け落ちするなら是非とも離縁していただきたくて!私の夢は修道院で宗教画描き放題ライフですし。」
「は、……。……其方は相変わらずだな」
限界ギリギリまで冷え込んだ声が、ここに来て急浮上したので背後霊状態のグラシャラボラスを振り返ってみた。相変わらず不機嫌は不機嫌だが、好感度の高い時の不機嫌顔なので、とりあえず受け答えは間違わずにすんだようだ。
にこりと笑って、またカマル王の尾行に戻る。
「ええ、目指せ円満離婚!目指せ修道女!待ってて私の幸せお絵かきライフ!……ま、私の静かなる野望は置いておいても、実際ロアエの国民はロアエ王家の血をそこまで重要視していないようですし、現在のルアビオン帝国との同化政策に協力的です。王家の血でなくても、適当な代打でなんとか回りそうなんですよね」
「……ほう?」
さらりと国家機密を密告しつつ、足を止めたカマル王に合わせてシャルロットも物陰に隠れた。グラシャラボラスの魔道具は優秀で、姿も音も風も全て透明になる。別にそこまで気を払わなくても平気なのだが、流石に逢い引きを至近距離で観察するのは気が引けたのだ。第一デバガメはあまり褒められた趣味でも無い。
大きな荷物を持って向かいの階段を降りてきた赤髪の少女が、カマル王の気配に顔を上げた。あどけなさが残る顔には満面の笑顔が咲いている。カマル王自身も、シャルロットの前で見せる澄まし顔では無い、年相応の少年のようにくしゃりと頬をほころばせて応じた。流れるような動作で少女の頭を撫で、手に飴玉を一つ握らせている。
「あ、予想的中ですね。アネッサさんなかなかの慧眼です。……あれは……洗濯娘、ですか……カマル王よりも年下に見えますし、側女に上げては他の豪族の娘たちから暗殺されてしまいそうですね。飴玉一つであの笑顔……どうしましょう、私もあの娘に餌付けしたくなって参りました。カマル王が駆け落ちを検討するのも頷けます」
何事かを囁きあい、カマル王が少女にデコチューをかましたあたりでシャルロットは踵を返した。目的だった浮気相手の存在確認と所属が判明したので、長居の理由も無い。
「其方、……いや、……」
「あら、グラシャラボラス様がお言葉を濁すとは珍しい」
苛立ちと安堵、そして困惑を含んだグラシャラボラスの声にシャルロットは首を傾げた。婚約者期間であった12年間、彼は黙して語らぬことはあれど、考えがまとまらないことを表明したことはほとんどない。王者として、為政者として、トップの言葉に翻弄される配下を惑わさないように、悩みを口にしないようずっと自らを律してきたことをシャルロットは知っている。
「そう、だな。……其方、我があのまま夫となっても同じ反応であったか?他の娘を側女に迎えると伝えたのなら」
少し気になりグラシャラボラスを見上げてみれば、彼は七色に変化する瞳を瞬かせ、怯えるようにシャルロットを見返していた。言われた内容が吟味するような質問でも無く、シャルロットはますます困惑してしまった。
「何ですかその意味のない質問は?私がそれで痛むと判じたなら、グラシャラボラス様は私の首を刎ねてくださるお約束ではないですか。私痛いのは嫌ですの。お殺しになる場合は一瞬で、痛みの無いようお願い申し上げますわ。いつも申し上げていますでしょうに」
グラシャラボラスは設定から悪魔であり、殺戮の達人である。気にくわないものは殺してしまいたくなるような性分であり、そしてそれを許された権力者でもある。グラシャラボラスがやりたいように世界は回る。シャルロットは無駄な抵抗はしない主義だ。
考えるのも面倒になったシャルロットは、何故か目を見開いたグラシャラボラスから視線を外し、カマル王失踪対策に頭を切り替えた。使用人通路から王族用通路に戻って来れば、王妃付きの侍女たちが忙しなく行き交っている。早く戻らないと筆頭侍女が王妃不在に気がついてしまうかも知れない。
「色恋ごときで流血沙汰は絶対避けたいですが……。さて、ここからどう手を打ちましょうかね。グラシャラボラス様、何か良い案ありませんか?」
「……其方が我の妻になれば良い」
「は?」
唐突なプロポーズに流石のシャルロットも目が点になった。振り返る間も無く背中かから抱き込まれる。伸びてきた大きな手がシャルロットの顎を掴み、覗きこむグラシャラボラスに視線を合わさせられた。
「其方、人死が出るのが嫌なのであろう?」
「は、……ええ、それは絶対に。私の結婚離婚が理由になるならば誰かの糾弾を受ける前に自害いたしましょう。流石に婚約者でもない多忙なグラシャラボラス様に、そんな下らない理由で私の首を刎ねに来てもらうわけにも行きませんし」
グラシャラボラスとの幼少期以来の高密着度に内心焦りつつ(だって現在人妻ですもの、バレたら即座に石打の刑である)、シャルロットは前世より培われた究極逃げ腰平和主義を口にする。妄想と紙とペンで食いつないできた柳瀬真由美は、現実の人間からもたらされる精神的な痛みも肉体的な痛みも耐えられないし、それに相対する勇気も無い。その気質を継いだシャルロットもまた、痛みと向き合うくらいなら死を望む。ここには人生を捧げるだけの萌えも仕事も無い。
「ははっ……!我は其方が望もうと望むまいと、斯様な事があれば其方の隣に来よう。我は、其方の首だけは刎ねられぬ。刎ねさせぬ。……此度の一年は、堪えた」
シャルロットの答えは彼の何らかの琴線に触れたらしい。背中に響くほど上機嫌に笑ったグラシャラボラスは、コツン、とシャルロットの額と己のそれを擦り合わせた。
「グラシャラボラス様?」
「其方が我をどう思っているかは分かっておる。これが我の一方的な欲だとも」
点目になっているシャルロットにグラシャラボラスは慈しむような眼を向ける。
彼は寝起きのまま結びあげてもいない、肩に流れたままにしていたシャルロットの銀髪をすくい取り指に絡ませ遊びながら宣言した。
「覚悟せよ、シャルロット。我は我が継いだ悪魔の名に於いて、其方を我の手中に納めよう」
手にした髪に口付けを落とされる。
言いたいことを言いたいだけ言ったグラシャラボラスは、シャルロットを置き去りにしてしゅるり、と煙が空に溶けるように消えた。
「……ドユコト……?」
思わずカタコトがエクストプラズマの様に廊下に取り残されたシャルロットの口から漏れ出る。
窓から差し込む早朝の朝日が目に痛い。いったい自分は今どういう幻覚を見たのだろうか。
グラシャラボラスの中身を設定した企画とシナリオライターは、此処に居ない。