【3】
グラシャラボラスは苛立っていた。普段は分厚い布で覆い隠している人間と乖離している鋭い爪で、自室の壁も床も家具も何もかもをボロボロに仕立て上げてしまう程度には。窓も割ったし、カーテンも絨毯も引き裂いた。ベットは叩き折ったし机は完膚なきまでに粉砕した。一応大切なモノを仕舞っている書棚だけは無事だが、燃やし尽くしてしまいたいような衝動もまだ燻っている。
当然である。
北のジョルジャマッカ平定のため、王都を開けて10ヶ月。なんとかギリギリ、一年かけずにーーー婚約者、シャルロットの16歳の誕生日に間に合うように全てを速攻で片付けて帰ってきたら、その肝心のシャルロットとの婚約は知らぬ間に破棄された挙句、他所の男へ輿入れ済みと言う結果が待っていたのだ。
王族として理由は飲める。残された伝言の意味も。実にあのシャルロットらしい言い回しも。王が自分に帰ってくるまで黙っていたその采配も正解だ。
だが不快だ。不愉快だ。約13年、大事に大事に囲ってきた相手を、まだ床に招き入れることすら叶えてなかった宝を、顔も知らない10歳のガキに下賜する形になったのだ。
シャルロットは気軽に婚約破棄を願ってきていたが、理由はどうあれ受諾する気が無かった程度に、グラシャラボラスは4つ下の婚約者を気に入っていたのだから。
割れた窓の破片に映る自分の姿を見て、グラシャラボラスはぎりりと歯噛みした。
グラシャラボラスは悪魔の血を濃く継いでいる。おおよそ人の目とは言い難い配色の瞳、鋭い爪、全身を巡る呪詛の文様。
月の巡りによっては人の形さえまともに取れぬ、極大の魔力を有するバケモノの子ども。王族の証。
力の制御がままならなかった幼少期は、顔を合わせただけで同年代からは恐怖で泣き叫ばれ、大人であっても目を逸らされることが多々あった。幼児でありながらグラシャラボラスの前にあっても泣くどころか笑ったのはシャルロットだけだ。
成長してきてもそれは変わらず。首に手を伸ばしても抵抗せず、逆に生殺与奪権を委ねて笑う、恐怖の表情を見せない娘。
ひとしきり暴れたグラシャラボラスは、破壊を踏みとどまった書棚から鍵付きの日記帳を抜き出した。
シャルロットが描いたスケッチを引っ張り出し、残された楽しげな自分に手を這わす。制作されたのはシャルロットがまだ5歳の時の話だ。鏡に映る自分の姿以上に活き活きとした幼少期の自分がそこに居る。そこらの宮廷画家の何倍も素早く、かつ正確無比なデッサンもまた、グラシャラボラスの興味をそそるものだった。公爵令嬢でさえなければ、女の身であっても宮廷画家として召抱えるに値する才能がシャルロットにはある。本人も絵を描くことを楽しんでおり、それを理由に婚約破棄を願われたことは両手では足らないほどだった。淑女教育が始まった12歳になるまで、毎回会いに行くたび増えたスケッチは、しかし他の誰に見られることもなく全てグラシャラボラスの書棚に仕舞われてここにある。ただし何十枚と及ぶスケッチの全てにグラシャラボラスの姿はあれど、シャルロットの姿だけはない。
最後に顔を合わせたのは10ヶ月前の公爵邸での昼下がり。
絵を描くことを好み、血なまぐさいことを嫌う娘は、グラシャラボラスの殺意のある手は拒まぬくせに、僅かな言葉での糾弾にも耐えられぬ程度に心が弱いことをグラシャラボラスは知っている。
隣に置く彼女の耳にほんの少しの反論も入らぬように、反するものは全てねじ伏せ、地面に降る血の量も最小限で片付けてきた北の戦地。
「では有事の際、隣にいらっしゃることを期待しておきますわね」
この身に宿る悪魔の血が囁いた殺戮衝動を隠さず彼女の細い首に伸ばした手。シャルロットはそれをなんの感慨もなくあっさりと奪い取り、中指の付け根に添わして軽い口付けを返してきた。柔らかな温もりは手袋越しであってもグラシャラボラスを喜ばすには十分であり、戦場で刺激された悪魔としての殺戮衝動ををねじ伏せるに値する多幸感があの茶会にはにあった。
それが最後。それが最後になったのだ。腹を立てずにいる理由がどこにもない。
ベランダへ出て、南のからりと晴れた空を睨む。グラシャラボラスのシャルロットを得たロアエはどれほど保つだろうか。シャルロットは無能では無いが、根本的に気の弱い娘だ。もしもーーー嗚呼、もしも。死よりも痛みを恐れるシャルロットが、有象無象の悪意に心を失うことが起きたなら。その時はもう、グラシャラボラスはロアエの地を赤に染めることを止められないことだろう。どれほど帝国が疲弊しようと、かの地を不毛に変えるまで。グラシャラボラスの我慢の理由を取り上げたのだから。
グラシャラボラスはまだ知らないーーー自分が乙女ゲーム「幻想の白亜城」の最高難易度の攻略キャラクターであり、他の攻略対象トゥルーエンドにおいてラスボスポジションであることを。
そしてその殺意こそが、ゲームのシナリオを回す最重要キーワードであることを。
メインヒロインとの邂逅まであと1月。運命のゲームが始まることを彼はまだ知らない。