【1】
ある穏やかな昼下がり。空には雲が流れ、木々はそよ風にさざめき、花が咲き乱れて蝶が舞う。
庭師が毎日欠かさず手入れしてきた公爵庭は美しく、彼方に連なる山脈の中に聳える白亜の王城は絢爛豪華に太陽光を反射している。
「死にそう……」
そんな美しい庭のガセボの中で、ルアビオン帝国公爵令嬢シャルロット・エヴァンは飢えていた。
衣食住の問題では無い。なにせ公爵令嬢だ。
この世界での最高級の衣類に身を包み、最高級の寝具に身を委ね、腕利きシェフが調理した最高級食材特盛のフルコースを毎日食せる身分である。
では何に飢えるのか?
答えは単純、「娯楽」にである。
「イケメンクロッキーも許されないとかマジ死ぬ……」
「其方は我に会うたびにそればかりだな」
シャルロットの前に座っている、黒髪の美しい男が手にした紅茶を庭に打ち捨てながら相槌を打った。
グラシャラボラス・ドールコフレ・ルアビオン・クーイプスコ、ルアビオン帝国皇太子。
シャルロットの前世、柳瀬真由美が仕事で描いた、乙女ゲームの攻略対象キャラクターデザインそっくりな男。
会社からもらった依頼書の「人文科学の知識を与える・殺戮の達人・過去と未来のことをよく知る・人を透明にする悪魔グラシャラボラスを想起させるデザインにすること」の表記、設定集草案の「クリア条件は定期的に訪れる殺戮衝動を1年間愛の力で抑え切ること」と言う、ぼんやりとした記憶が彼を見るたびにシャルロットの頭をかすめる。
ただの偶然の一致なのか、これまでのシャルロットの人生そのものが柳瀬真由美の明晰夢なのか。
柳瀬真由美はデザインをしただけで結局件のゲームはしなかったため、色々と重要な記憶も残ってない。正直シャルロットは流行りの「乙女ゲームの中に転生!」事件が発生しているのかどうかの判別はついていない。
グラシャラボラスとの婚約は、シャルロットが3つの時に親が決めてしまった。抵抗も何もあったものではない。初対面の感動その他諸々もだ。以降今日までの12年間、シャルロットはグラシャラボラスとこうして定期的にお茶会をしている。
そして一応社会人の記憶持ちのシャルロット、いくら好みと言えど7歳の子どもに懸想を抱く性癖は装備していない。この12年間で、婚約者ではあるがグラシャラボラスが自分を好きか嫌いか、自分はグラシャラボラスが好きか嫌いか、シャルロットはもはやどうでも良くなっていた。だって顔は自分が作ったようなものだし。そして製作者だった前世のおかげで、彼の絶頂期の表情差分と身長と体重とスリーサイズ、足のサイズ、手の甲と腹と背中の模様、隠された真実の姿も知っている。
正直嫁入り前にわかってていい情報ではないのは間違いない。
このシャルロットが暮らすルアビオン帝国は16世紀ヨーロッパ風な剣と魔法なファンタジー世界だ。嫁入り前の生娘公爵令嬢が男性の肉体の形をそんな正確に知っていたら姦通罪を疑われて石打ちの刑に遭う。
平民女子ならワンチャンあるが、箱入り令嬢が異性を長時間凝視するなどもってのほか、デッサンだのクロッキーだのは貴族の趣味と認められていない。イラストレーターだった前世からすれば耐え難い我慢大会とも言える状態だ。
ネットもスマホも音楽プレイヤーも無く、最後の砦のお絵かきも許されぬファンタジー世界。
娯楽に飢えに飢えたシャルロットは、ダメ元で今日も美しい婚約者に管を巻く。
「絵描きは私の生き甲斐でありますれば。ねえねえグラシャラボラス様、わたしと婚約破棄しませんか。そうしたら私は大手を振って平民になって、思う存分に絵が描けます。修道院で宗教画制作とか私にすごく向いていると思いませんか」
「父上が決めたことだからな。我は返答ができぬ」
「うーそーつーきー。グラシャラボラス様に他に好きな方が出来たら破棄する契約になっているって、私のお父様が仰ってましたよ!その美しいご尊顔でしたらば、いくらでも令嬢引っ掛けて来れますでしょう!ほら、この間の夜会とか、何か良い出会いとかありませんでしたの?」
「今の所其方以上に面白そうな娘は知らぬな」
「人間顔が8割ですよ!!私より綺麗な子が山ほどいらっしゃいますのに!!ちゃんと顔見ていらっしゃいますの、グラシャラボラス様!」
「我は顔より臓物の方が気になる性分故、見ておらぬ。……ところであの夜、其方の周りに居た娘たちは本当に其方の友人なのか?ずいぶんと無礼な発言が多かった気がするが」
「親しい仲ですので口調が荒ぶることも多いのですお気になさらず。はあしかし、顔より臓物ですか。昔から仰ってますけれど、臓物の何が面白いんですの?動物なら食べたら美味しい部位は多いですけれど、魚だと不味いからポイ捨てすることが多い部分では無いですか。何より腹を割いた時点で鮮度はどんどん落ちますので、モチーフとしては最悪ですわね。全く観察に向いておりませんわ」
「臓物と言うより臓物を暴かれる直前の相手の顔が堪らぬ。最高に美しいと思う」
「思うのは自由ですが実行は私を殺してからにして下さいましね。貴方様をお止め出来なかった件で貴族会糾弾の上市中引き回しの断頭台セットだけはご勘弁を。そして殺す時は痛みの無いように願います」
「……我ながら其方にそう言われると、衝動が削がれるのだけがいつも不思議である」
「グラシャラボラス様、ペンを貸していただけましたら名工ボランの”臓物を暴かれる寸前のダビデ”の完全模写を描いて差し上げましてよ」
「其方の腕は知っているしその申し出は魅力的に思う。だがしかし断ろう……その紙、婚約破棄の同意書だな?」
「ご明察〜。婚約破棄しましょうよ〜グラシャラボラス様〜。私、絵が描けない毎日に暇で死にそうです」
「暇で人が死んだとは我は聞いたことが無い故、却下だ」
「どーケーチー!!」
ぷくっと頬を膨らませ、お行儀悪くシャルロットは脚をばたつかせた。いくら綺麗で好みを盛りに持ったキャラクターデザインであろうと、設定が設定すぎる。臓物を暴かれる直前の顔が最高に美しいと思う婚約者とか、普通にドン引き案件だ。これを愛で1年間乗り越えたらハッピーエンド?企画者の頭どうなってんの?と言うかもっとちゃんとシナリオ読み込んでおきなさいよ柳瀬真由美。
とりあえず、柳瀬真由美が描いたグラシャラボラスは20歳。目の前のグラシャラボラスが20歳になるまであと1年。ネット小説では悪役令嬢なる婚約破棄される当て馬が居るのが乙女ゲームらしいのだが、どれだけ記憶をさらっても、婚約破棄シーンなんぞ柳瀬真由美は描いた覚えが無い。そしてゲームヒロインはシャルロットのような銀髪では無くピンクブロンドだ。担当は別のイラストレーターだったから、いまいち実物に出会ってもわかる自信は無いが。
今持っている手持ちの情報からわかるゲームの中のシャルロットの配役は、「ゲームが始まる前に死んでるか約束を破棄された元婚約者」説が一番可能性が高い。何せグラシャラボラスは「殺戮の達人」だ。むしろ死んでる説のが濃厚である。柳瀬真由美の死因を思い出せないけれど、生きている限り生きていたいと思う程度には、シャルロットも人生を謳歌したいと言う欲はある。どうしたら楽しく長生きできるのか。
「まあそう急くな。結婚すれば其方の趣味も見咎められまい。ただまあ、モチーフは我に限らせて貰うが。あと宮殿内の絵画の模写も許そう」
シャルロットは脚をばたつかせるのをやめ、長々とため息をついた。
顔を上げればミステリアスに見えるよう悩み抜いて選んだ、金銀混合の右目と深い闇と朝焼け色のグラデがかかった玉虫色な左目がこちらを冷淡に見つめている。角度によっては緑も入る、とっておきのオッドアイ配色。
多くのプレイヤーを虜にするために作り上げた柳瀬真由美の最高傑作。性格は企画者によるものだけれど、柳瀬真由美もシャルロットも、男でも女でも美しければそれが全てで正義である。美しさは正義であり癒しであり金になるのだ。そう、美しさは愛とか恋とかあやふやな存在では無い。金になるのだ。最強である。
「……お優しい采配ありがとうございます〜……」
「其方は本当に本音を隠さぬな」
「隠すだけの能もありませんので、ぜひ婚約破棄をしていただきたく存じますわ。私に国母は荷が重すぎます」
「なに、そんな些細な欠点ゆえに他の誰かに殺されそうになった時には、我が先に其方の首を落としてやるので安心せよ。其方の望み通り痛みの無いよう、一瞬で」
「……はあ。では有事の際、隣にいらっしゃることを期待しておきますわね」
シャルロットの首を捉えたグラシャラボラスの殺意の残る手をとり、軽く口付けて膝に戻させた。
うっそりと笑うグラシャラボラスからシャルロットは目をそらし、ゲームの会場となる白亜の城を眺める。
もし無事に生き延びれたなら来年、シャルロットは16歳になり、デビュタントを経て王城へ毎日にように上がるようになるだろう。
ゲームなのでヒロインが誰を選ぶのか分からない。
ただ、うっかり間違われると柳瀬真由美が描いたキャラクターその2のヒロインの呪われた義兄が死んだり、その3の忠犬騎士が戦死したり、忠犬騎士が呪われ死んだり、隣国と戦争したり、国を焦土にしたりする可能性がある。他の人が担当したキャラクターに至っては設定すら記憶にないが、柳瀬真由美が描いたカットを思い出す限り、かなり悲惨な状況が起こりうるのがあのゲームである。描かせるだけだけ描かせておいて却下になっている可能性もあるが。というかちゃんと発売されたんだろうかあのゲーム。
空は高く、春うららか。
ゲームの始まりはすぐそこまで迫っている。