下界
下山は登る時のだいたい3分の2の
時間で下りてくることができる。
雲も増えてきたが日差しがあり、風が止むと
少し暑いくらいだ。低木地帯をリズムよく
下っていく。
登りはミナ・ヤマダが最後尾だったが、下り
はミナが先頭だ。別に滑落した場合のことを
想定しているわけではなく、気分で順序を
決めている。
登りは踵に適度な石、下りはつま先に適度
な石のある場所を選ぶことで、出来るだけ
足裏をフラットに着地させるのがうまい
歩き方らしい。
五合目の樹林帯に入ると、再びさきほどの
会話が始まった。
「3つ目のパラドックス何だっけ?」
「お答えしよう」
今度はコウ・サナミがバッサリいきたい
ようだ。
「それは、倹約のパラドックス。みなが倹約
してしまうと経済が回らなくなるという」
「ふむふむ」リンゴ・ナナイシが続きを促す。
「しかし、倹約するということは、何も買わ
ないこととは違う、経済というのは無駄な
ものを買うことなのだろうか?」
確かに、いくら倹約していても、生きる上
で必要なものは買わざるを得ない。
「そして、経済は常に成長することが前提で
語られている、本当にそうなのか?」
「2回切ったね」
「あ、でもうちらパラドックス系の話自体は
好きなんだよ。そういう眉に唾する系の
怪しい話とか」リンゴが一応フォローの
つもりのようだ。
休憩をとる。おそらく最後の休憩だろう。
それなりに登山の回数を重ねているだけ
あって、彼らが途中でバテることはもう
ほとんどない。
いや、バテそうな時は登らない判断もうまく
なった、ともいえるのかもしれない。
「確かコウが配属希望しているゼミの教授
って、左寄りなんだよな」
休憩が終わって歩き出すとともにテツヤ・
ミマタが話しかける。
「そう、今どき変わっている人みたいで、
配属の人気もない。だけど、噂を聞いて
いると面白そうなんだ」
「いいねえ、その、将来役立ちそうとかいう
観点じゃなくて、怪しくて面白そうだから
配属されてみたいっていうの」
リンゴは楽しそうだが、
「おれ、いい会社に入るとかどうせ無理そう
だし。ぜんぜんイメージが湧かないんだ」
「学生誰もが抱えている悩みかもなあ」
今度は最後尾にいるテツヤの言葉だ。
正午前に峠のキャンプ場へ帰りついた。
いったん休憩し、テントを畳む。停留所へ
移動し、バスへ乗り込む。そして、終点で
車に乗り込む。
下りのバスで充分寝たためか、車の中で
4人は元気になってきた。
「じゃあ行きますか」
朝の早い時間で登頂を開始した理由のもう
ひとつは、下山後に寄るところがあるからだ。
車で十数分の、大きめの駐車場がある施設へ
入っていく。
最近できた温泉施設だ。
食事をとれる場所もあり、まずは昼食だ。
それぞれ登山後に食べたいものを注文する。
どうしても味の濃いものを食べたくなる。
それぞれ注文したものを半ばまで食べて、
「それで、最近カツラ海岸行ってるの?」
ヤマト国西部、フォーランド島のトサ県に
ある文明開化の像が立つ場所。文明開化好き
にとっていわゆる聖地とされているのだが。
「ああ、あれ以来もう行ってないな」
それは、文明開化で最も人気のある英雄と
いっていいだろう、リュウタロウ・サイタニ
が、当時のブリティッシュ連邦の代理人
だったのではないか、という説をリンゴから
聞かされた件だ。
その説は、純粋な文明開化好きにとって
少なからぬ衝撃を与える。テツヤにとっても
事件だった。
「でもね、実は、熱狂の中にも何か薄ら寒さ
というか、何か作り込まれたものを感じて
はいたんだよ」口にものが入ったまま話す。
「え、後付けじゃなくて?」とリンゴ。
文明開化ブームの火付け役となったのは、
龍が翔ぶ、という名の歴史小説だった。
面白さ、という点では読者を惹きつける
かなり良くできたストーリーだったのだ。
これを読んで興奮しない若者はいない、と
いうよりも、これを読んで興奮しなければ、
何に対しても無感動な人間、という烙印
まで押されかねない勢いだった。
「しかし、おれの青春はいったい何だったんだ」
と落ち込むテツヤに対し、
「別にそこまで落ち込む必要も無くない? 別
にサイタニが代理人とはいえ、全てをわかっ
たうえで敢えて他国の代理人として働いた、
という解釈もできなくは無いし」
とミナがフォローするが、
「どっちにしろ、大人になると色々とそれまで
見えなかった部分が見えてしまうんだよな。
少なくとも、そのために西ヤマトまで行く
情熱は消えてしまった」
「誰だってそう時期はあるさ。まあ落ち込む
なって。さあ飲みな飲みな」
と言って、ミナがコップに水を注ぐ。それを、
テツヤが一気にぐいと飲む。
昼食を終え、男女に分かれて大浴場へ
向かう。こちら男湯では、
「ビッグザマウンテンが6月から山登るのって
珍しいよね。今年は登山サークルとしての
活動がメインになんのかな」
「あれ? リンゴから聞いてないの? 夏に
バンドのほうで新メンバーが加入する話。
ついでに山も登るから、早めに練習してお
こうって話。けっこうなイケメンらしいぜ」
露天風呂もけっこうな種類と広さがあって
快適だ。二人は、寝湯と呼ばれる寝転がって
入るタイプの湯桶に浸かっている。日差し
もあり、山の上と比べて暑い。
「そうなの? ……、なんか不安しかないの
だが……」
「まあ話が合うかどうかだよな。音楽の方向性
だけじゃなくて」
テツヤとコウは、比較的裕福でない男の子
が一通り経験する文化に触れてきた。
そのうえで好きなものの方向性が似ている。
「なんかすごいお金持ちだとも言ってたな。
だけど、貧乏な人たちの文化が好き、
みたいな」
「それ、不純な動機を感じる、というより
ちょっとバカにされてないか?」
コウがかなり心配になってきている。
「もしかして、このままメンバーをお金持ちな
セレブばかりにして、俺たち貧乏人を追い出
すつもりなんじゃないのか……。それで、
あとになってあんなメンバーいたなあ、なん
て笑いものにされるんだよ」
「まあ、さすがにそれはないって」
と言っておいてテツヤは、
「それとなく確認してみるか」
完全に自信があるわけでもないようだ。
一方こちらは女湯。
リンゴとミナがテツヤたちと同じように
寝湯に寝そべっていた。
「最近政治が面白いんだけど」とミナ。
「あ、それわかる。それも、総裁選任期延長で
かつ4選の話とかじゃなくて」とリンゴ。
「そうそう。やっぱワシントン連邦と絡んだ件」
「ジョーカー大統領が再選後の最初にやった、
ハングク戦争終結の話、そこまではまあ特に
気にしてなかったんだ、あ、そうかってだけ」
「それがまさか在ヤマト軍の撤退って話に繋が
るとは。ばあちゃんも言ってたけど、さすが
に若い私でもその凄さはわかるわ」
ばあちゃんとはミナの祖母のことだ。
「どうなるんだろうね」
「何も変わらない、という意見と、ぜんぜん
状況が変わってくる、という意見があるね」
10数年前であれば、女子大生はまずこうい
う会話はしない。しかし、噂レベルであって
も、この時代、状況が大きく変化し過ぎて、
話題を避けるのが難しくなって来ていた。
むしろ変化を望んでいる者ほど、そういった
話題を望んでいるのかもしれない。