手記
国王ヒロトの在位期間は、東暦1926年
から1989年で、元号は長和。
その人生は、東暦1945年に終結した大戦
の前後で大きく変わった。
そして、今年も、もう何度目か、2月26日
がやってきた。その日は晴れ、2月にしては
記録的な暖かさで、20度を超えていた。
毎年いつも、この2月26日という日は
外に出ないことにしていた。そして、長和
という時代について深く考えるのだ。
ここからは、国王ヒロトの手記風にその状況
を書き記していこう。
まず、私はあの戦争のある時点まで、自分は
この国のトップであると思っていた。
若いころから、欧州のナポレオン・ボナパル
トに憧れていたのだ。立憲君主制の、ただの
お飾りにはならないぞ、という気概もあった。
だから、戦争開始後に作戦に関する意見や
指示を出さなかったかというと、それは
出した。
つまり、私にも戦争責任がある、という
ことだ。
しかし私は、戦争裁判からも逃れ、そして
今事実、こうしてのうのうと生きている。
もちろん、これから述べることは、言い訳
だと言われてもしかたがない。
だが、私が何を考え、今後どうしようとして
いるか、そして、後に残る人たちにどうして
ほしいか、それを書き残したい。
もちろん、この手記が公開される確率は
かなり低いだろう。しかし、王位継承者を
含め、何人かに様々なかたちで既に想いを
伝えている。
順を追って書いていこう。
まず最初に大きな違和感を感じたのが、
2・26事件だ。
それは、その事件自体が社会主義革命の未遂
だった、という点もあるが、何より、帝都の
守りがこれほど薄いのか、こうも簡単に大事
な人間たちが危害を受けるのか、という
点だった。
軍がおかしくなれば、私の命を奪うことなど、
非常に簡単だ、という認識が生じたのだ。
そして後になって、これが最初の私に対する
警告だったのでは、とも思う。いや、私が
鈍感過ぎて、もっと前から警告があったの
かもしれないが。
そしてここら辺から、色々なことがあべこべ
になっていく。いや、もう少し前から色々
なことがあべこべになっていっていたのだ、
とこのあたりから気づく。
まずはその社会主義について。
戦後30年も経つと、警戒の目も弱くなる
のか、王室にも様々なタイプの講師を呼べる
ようになった。
そこで学んだことから、社会主義は元来それ
ほど危険なものでもない、ということだ。
本来であれば、革命という手段を取らずに、
民主的な手続きを取る。なぜなら、社会主義
というのは、資本主義経済システムが充分に
行き届いて、
そして行き過ぎた状態になった時に、国民が
移行するかどうかを話し合って決める経済
システム、という解釈もあるからだ。
そうすると、そうやってまだ資本主義が発達
していない状態でやたらと革命を叫ぶのは、
その講師からすると、単に社会主義を貶め
たいだけ、ということになる。
さらにその講師が言うには、民主的な手続き
を経るなら、別に王室が倒されることもない、
という点だ。
別に国民が納得すれば立憲君主制の社会主義
国も成り立つ、ということだ。
ではなぜあの当時、やたらと社会主義者が
危険な活動をあえて行い、そしてそれを過剰
に取り締まるあまり、極度に偏った政治団体
などのマズい部分もこちら側に取り込んで
しまったのか。
それは、これも別の講師からの受け売りも
入っているのだが、大局観で見れば理解
できる。つまり、わがヤマト国と、その
当時強国だったスターリン連邦、そのふたつ
が手を結ばないようにすること。
それで得をするのは、もちろんブリテン王国
だったり、ワシントン連邦なのだ。
だから、当時は相当の、革命を起こす側、
取り締まる側、双方にそうとうの資金が流れ、
工作が行われた、と推測している。
つまり、我々は、ワシントン連邦との戦争
が開始されるまで、世界で起こっているのは
我々資本主義陣営と、社会主義陣営の戦い、
とそう思っていたのだ。
それが、あれよあれよという間に、我々が
悪者にされ、そして戦争が開始され、敗戦
となった。
なぜそうなったのか、これも講師を探して
勉強したのだ。つまり、当時はブリテン王国
にしてもワシントン連邦にしても、かなりの
経済難だったのだ。
経済を復興するための、一番手っ取り早い
公共事業、それがその二国にとって戦争
だった、というわけだ。
もちろん、その話はひとつの学説に過ぎない。
しかし、事件は動機から起きる。そういう
ように理由付けすると、色々なことが簡単に
説明できてしまう、というだけだ。
従って、真珠湾攻撃があれほどうまくいった
のも、その後にワシントン連邦の世論が
いとも簡単に戦争賛成に変わったのも、全て
仕組まれていたこと、という解釈だ。
その証左に、当の、当時のワシントン連邦
大統領がそういうことを言っている。
歴史に偶然は無い、全て前もって仕組まれて
いる、と。
なぜその大統領が思わずそんなことを言って
しまったのかわからない。しかし、人はいつ
か、自分のやってきたことを、誇るためなの
か何かの理由で、つい言ってしまうのだろう。
その諸々の結果どうなるか。
一番わかり易いのが、能力の低い者が国の
トップに就いてしまう、という現象だ。
もちろん、サイジョウなるアイドルあがりの
人間が首相となったことには、私と側近の
キネの責任もある。敵戦闘機は歌で落と
せる、と信じていたあのサイジョウだ。
しかし、あの時点で既に詰んでいたのだ。
最悪の状況の中での最良の選択をした、
と思っている。
そうでなければ、もっと国が滅茶苦茶に
なっていた。
つくづく思うのだが、国のトップにその国
の最も優秀な人間を就けることができない、
というのはかなり危険な状況だ。
そして、孫子の兵法で言う通り、戦争と
いうのは国家存亡の時だ。それにあたって
優秀でない人間がトップに居れば、必ず
失敗する。
つまり、そうなる前にそういうことになら
ないように体制を作っておく必要がある
のだ。途中で慌てても、もう遅い。
私の祖父の時代、明善には才能を持った
人物がたくさんいた。しかし、その後
そういった人物が寿命で去ってしまうと、
後に優れた人物が残らなかった。
そして王室は、ただただ、利用された。
途中までは間接的に、圧力を受けた。
大事な場面で私が会議などで意見すると、
なぜか王居内で問題が起きるのだ。
満足に飯も食えない時期が何度かあった。
あれは本当につらい。
最初のうちは気づいていなかったが、その
うちそれが圧力だと気づき出した。そして、
けっきょくのところ、側近を通して直接
脅迫が始まったのだ。
簡単に言えば、私が言うことを聞けば
そのまま、聞かなければ、精神病院へ
幽閉すると。
そこに至って、最初に書いたとおり、
私は生き続けることを選んだ。キネも協力
してくれた。彼も戦争裁判に生き残った。
そして、その対策を検討した。
それが、家族だ。
何かと戦ううえで、最小単位の戦力、それ
がまず必要だ、と思った。王居内には、
まず味方が誰もいなかった。
買収されてしまえば、全て敵となる。
ならば、そうはならない戦力が欲しい。
家族と、そして仲間。それらを得ることで、
外から王室がコントロールされることを
防げるのではないか、という期待、希望だ。
従って、私はそこに賭けることにした。
王統系の王妃を迎えると、家事や料理が
できず、戦力になりえない。従って、息子
の、次期国王であるアキトには、民間から
王妃を募った。
アキトは、私の考えを理解してくれた。
そう、戦後すぐ、通常であれば皇太子の
教育は他のものが行うが、キネにも協力して
もらい、週に一回アキトを私が教育できる
ようにしたのだ。
そこで、私はアキトに、過去に何が起き、
そしてどう対策するかを教えた。いや、一緒
に考えた。
私の寿命はおそらくもうそれほど長くはない。
しかし、アキトや、その子どもたちは必ず
やってくれる。信じている。
リュウキュウを訪問することも進めた。
民間の知己を増やすことも、各国の王族と、
同じような境遇の人間と繋がることも
勧めた。
飾りが飾りのまま、何もしなければ他人に
利用され、そしてとてつもなく大きな重荷を、
国民の命の無駄遣いという重荷を背負う
ことになる。
脅迫してくる者たちは、けして自分で責任や
良心の呵責を負うことはない。それは、
表に立つ我々が負う、国王と国民が負う。
そんな理不尽さから、ぜひ解放されたい。
そう、解放のための戦いなのだ。
そして、私は最近妄想する。
何かもっと、世界の人々を、平和や文化、
戦争ではなく何かもっと他の素晴らしいこと
に目を向けさせることが出来ないか……。




