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後編

「ただいま」


古ぼけた無駄に重たい扉を芹澤は引き開けた。

扉はギイイ、とうらめしい高音を発しながら芹澤の帰りを迎えた。

部屋は暗く、唯一の明かりといえばリビング奥の窓から車の照明が反射してたまに入ってくるぐらいだ。電灯のスイッチを入れてスーツを脱ぎに寝室へ赴く。


 あさひはまだ帰っていなかった。

いつもならキッチンの手前から「おかえり」と笑顔をのぞかせてくれるのだが、この日は珍しく芹澤のほうが早く仕事を終えた。


 リビングにある二人掛けのソファに体を沈める。

座ったまま電灯のリモコンを手に取り、明度を最大にする。それでもいつもの明るさには及ばない。

理由はわかっていた。


 芹澤はテレビをつけるでもなく、正面の壁と電灯の間に視線をぼんやりと漂わせた。

眠気のようなまどろみがゆっくりと脳内をかすめる。


 大学でのあさひとの出会いから、芹澤の住む世界は変わった。

足に執着し続けた芹澤の青春は人並みの幸せへと姿を変え、落ち着いた。

そのことについて、べつに自らを憂いたことはないし、その変化も当然のこととして芹澤は受け入れた。情熱の総量が以前に比べて減ったような気がした。

しかし、それこそが自分が大人になった証拠なのだと芹澤は考えた。

だが、それでも芹澤の優先順位に対する考え方は、それなりの彼特有の特殊さを残していた。


 通常、人が優先順位を組み立てるときは一位二位三位……と優先するものごとを上から順にしてランク付けをしていく。

しかし、芹澤の場合は一位が決まると二位以下はそれに関連したものがランクインしていった。

例えばサッカーが一位になれば、二位を睡眠が占めた。三位は食事となり、四位は筋トレといった具合だ。

このようなところにも、芹澤がかねてから友人たちに論評されていた「ストイックさ」の片鱗が垣間見えた。

というよりも、この思考こそが一位のものへと猪突猛進する芹澤のうちなるチーム体制を整えたといってよかった。


 そして今、栄えある一位の座に輝いているのはもちろんあさひだ。

芹澤のアイデンティティそのものだった足は、この独特の思考に習い二位以下からも姿を消した。

だからといって、はたから見た芹澤の本質になんら変わりはなかったが、着実なパラダイムシフトが彼のなかで起こっていた。

過去の産物は完全に淘汰され、一片の足跡も残しはしなかった。


 大学を卒業してから春はすでに二度訪れた。

二人の薬指にはお揃いのリングがはめられていた。

社会人になってのち二十四歳で、ふたりは結婚生活を始めていたのだ。といっても、社会人生活をともにスタートさせたアパートはお世辞にもきれいとは言えないし、そこにひっそりと暮らす二人にとっては、結婚式だってまだまだ遠い先の話だった。

形式を優先するよりも互いの歩調がそろうことを大切にした、出会って以来の暗黙の了解がそこには少なからず影響していた。


 ひきつった音を立てて重石をまとったような扉が開いた。

聞き覚えのある声が狭い部屋に響き渡る。

笑顔であさひの帰宅を迎える芹澤。

その先にはそれ以上の笑顔が芹澤を待っていた。


 その日は互いに休日だった。もはや何度目かもわからない数え飽きられた、ただ浪費されるだけの一日となるはずだった。


「おはよう」

覇気のない声で朝一番のあいさつを交わす。キッチンに立っていたあさひはいつもと変わらない笑顔で芹澤を迎えた。

 珍しく寝坊した芹澤はソファにかけながら壁掛け時計を眺めた。

午前十時を少し回っていた。

習慣となっている睡眠時間は確保できているはずだが、妙に体は重かった。


 不思議に思っていると、視界のなかに手が伸びてきた。眼前のテーブルには香り立つ適度に焦げ目のついたトーストと小さな皿に盛られたみずみずしい緑色の野菜たちがきれいにお膳立てされ、こちらをみていた。

カップからはコーヒーの湯気がほのかに上がっていた。愛すべき料理人はなにも言わず、笑みをたたえたままキッチンへと下がっていった。

慣れたはずの光景ながら思わず、すごいな、と言葉が口をついて出ていた。


 盛り付け前と変わらないほど美しく食べつくした芹澤は、ソファで一人至福のひとときを迎えていた。食後の幸福感と抜けきれない睡魔が芹澤をどうしようもないまどろみへと誘い込んだ。

ソファをなんとか立ち上がり、ふらふらと寝室へ向かった芹澤は、かろうじてベッドに身をゆだねたところでブレーカーが落ちるように意識を失った。


 その間、あさひの姿は見えなかった。


 芹澤が目を覚ました理由はいくつかの要因が重なっていた。

そのどれもが半ば必然的に彼を惰眠からひきずり起こした。

意識と無意識の狭間を行き来する余裕などなかった。

曖昧な記憶は首を絞められたような強烈な責め苦で唐突に終わりを告げた。

宝箱の中から外を覗くように徐々に視界がはっきりしてくる。

どうやら部屋全体を鼻を衝く薄暗いスモークが覆っている。

体中が必要以上に汗ばんでおり、滴すら流れていた。

部屋はどう考えても許容できないほど異常な室温に達しているはずだった。

芹澤はベッドを這うように降り、ベッドよりも低く身をかがめた。


 瞬間、あさひの横顔が浮かんだ。

ハッとしたように芹澤は立ち上がり寝室を飛び出した。


 リビングのあたり一面が火の海だった。


 ゆらめく炎は映像でしか見たことのない豊かさで部屋のそこかしこに張りついていた。

どの火もがここぞとばかりに自らの勢力の拡大に熱心だった。

芹澤に残された選択肢は命賭けの脱出しかなかった。

火だらけの床を飛び越えるようにして玄関の扉を目指した。

一瞬の着地の間にも、芹澤の体を焼き切ろうと炎たちはすがりついてくる。

破滅的な痛みを忘却しながら玄関の扉に飛びつくと、無意味な防火扉のように重い扉を果てしない力でこじ開け放ち、転がるようにアパート廊下のコンクリートにもんどりうって出た。

芹澤の意識はそこで途絶えた。


 タイマーのような聞きなれない音で芹澤は目を覚ました。

視界の隅にはピッ、ピッと音を立てて四角い箱のような機械らしきものが作動していた。

それは鉄の棒にくっついており、その頂点には液体のようなものが入った袋がぶら下がっていた。

そこから垂れている透明なチューブはベッドの中へと侵入している。

壁や天井は白く、ベッドも清潔感のある白さだった。

芹澤は純白の世界に取り込まれてしまったのかと一瞬、思った。

が、そのベッドを包囲するように天井から垂れている敷居は色あせたベージュをしていた。


 ああ、そうか。じぶんはびょういんにいるのか。

かろうじてそのことだけは把握できた。


 ふと、ベッドに向かい合うように置かれた一脚のパイプ椅子に芹澤は気がついた。誰も座していないそれは、主の帰りを待っているかのようで、ただ空虚だった。


 芹澤はどこの病院かまではさすがに察することができなかったが、入院患者として自宅から最寄りの病院の一室にいた。

芹澤が運ばれたベッドは四人部屋であり、芹澤はそこで入院生活を送ることになった。

芹澤含め四人ほどの患者がそれぞれ部屋の四隅のスペースをベッドで陣取るかたちで部屋は構成された。そのなかで心許ないカーテン一枚が彼らのプライベート空間を形成していた。

いわゆるよくあるタイプの、もっともポピュラーなタイプの入院部屋だった。

入口入ってすぐ右手が芹澤に与えられた空間であった。


 自分の居場所を認識した芹澤だが、その胸に安心感は生まれなかった。

不安だけがすぐに去来した。

あさひがいないのだ。

朝見かけたのを最後に、あれから彼女の姿を芹澤はまだ一度も見ていない。


 あさひはどこだ。体を起こそうとした矢先、下半身に抗うことのできない電撃が走る。

芹澤は声にならないうめき声をあげながらベッドに沈みこんだ。

のたうち回る動きさえ痛みのもととなる。

痛みに耐え荒い呼吸をなんとか落ち着かせた芹澤は少し冷静になり、ようやくナースコールを押す結論へとたどり着いた。


「大変申し上げにくいのですが……」

 もったいぶった言い方をすると芹澤は思った。

ナースコールで呼び出された看護師は意識のもどった芹澤を確認すると、一言二言なにかしゃべったかと思うとすぐに姿を消し、代わりに白衣をまとった医者らしい男がやって来た。

担当医だと名乗ったその男は前髪を左右になでつけ、いかにもお医者さんだと思わせたいかのような厚い縁なしの眼鏡をかけていた。

男はうつむきがちに、それでも姿勢は正したまま芹澤と向き合っていた。首だけが座っていない赤子人間といった感じだった。


「********」


 医者がまたなにかを口走った。一瞬の間に至極どうでもよいことに飛躍していた芹澤の思考は男の放つ鉛の弾に反応することができなかった。

 ぐわんぐわんと視界がにじんでいく。受け止められなかった言葉の破片が芹澤のすべてを貫いた。

貫かれた部分から芹澤を満たしていた薄い白桃色をした体液が流れ出ていった。

まるではじめから骨などなかったように、人の形をした風船が無数の穴だらけになってしぼむように、芹澤はぐしゃぐしゃに小さくなっていった。


 もう医者も看護師の声も届かない。

ただ芹澤という名のついた、座布団ほどに折りたたまれた小さな生物が、そこには存在するだけだった。



 あさひは死んだ。


 死因は一酸化炭素中毒だった。

二人の自宅が火事によって焼失した際に逃げ遅れたのであろう、という警察からの報告があった。

火災から1週間が経とうとしていたが、いまだその出火原因は判明していないようだった。


 あさひを失った日から芹澤の世界を動かしていた歯車はぴたりと止まった。

芹澤のなかの暦は完全にこの世の法則から逸脱した。

芹澤の心はいつだって宙に浮いていた。

自分の肉体でありながら、芹澤はどこかその操縦方法を忘れてしまったようであった。

もはや彼を制御するコントローラーは彼の手の届く範囲にはなかったのだ。遠い海に流されてしまっていた。


 さらに1週間が経過した。相変わらず芹澤は入院生活を送っていた。

しかし芹澤の症状はまったく改善する様子をみせず、これには芹澤の担当医も首を傾げるだけだった。

 芹澤はただ無関心に、規則的に、人工ロボットのように毎日を過ごしていた。

医師の指示通り与えられた薬を飲み、必要な検査もすべて受けた。

出された食事も残さずに食べていた。

それでもひどい火傷を負った両足が快方へと向かう兆しは見られなかった。

抜け殻となった人間がただ生きながらえている、口には出さないが、芹澤を見た人間はそんな印象を誰しもが抱いた。


 しかし、転機は空から舞い降るように断りもなしにやってきた。

ベッドの上で上半身を起こしたまま、ただ時の流れに身を任せている芹澤は、あさひの訃報を知ってから完璧なまでに同じ毎日を繰り返していた。


 その日も抜け殻同然の存在に成り下がっていた芹澤は、ただ正面を見つめるでもなく虚ろに前方を視野に収めていた。

正面向かいのベッドには白石という名の老人が入院していた(病室のネームプレートにはサインペンで丁寧な字で白石と書かれていた)。

白石は時計を集めるのが趣味で、自慢のコレクションを病院にもしっかり持ち込んでいた。

毎日決まった時間に飽きることなくそれらを磨くことが彼の日課となっていた。


 白石が見ていたテレビが午前九時を告げると、本日二度目の磨きタイムが始まった。

一度目は起床と同時にすでに実施されていた。木製の箱についた錠を外し、箱の中をのぞいた白石は宝石を見るような目で一つ一つを丁重に手に取り、年季の入った白い布で曇りなく磨きあげていった。

 時計磨きが終盤に差し掛かったころ、一際輝きを放つシルバーの時計を磨いていたときだった。

天井の明かりを白石の無駄な努力によってより強くなった時計の光沢が反射させ、その光の矛先が芹澤の手の周辺を突いた。

ちょうど、へそあたりで折り曲げられた布団の上に手を重ねて置いていた芹澤、その左手薬指の指輪に反射された光が差した。

その光をさらに結婚指輪が反射させる。

真っ黒なサングラスをかけたように色を失った芹澤の視界に、ふいに不自然な光が現れた。

一瞬意識を取り戻したように芹澤は光の方を一瞥した。薬指にはめられた指輪はなにかを訴えるように光を灯し続けた。


あの日以来ようやく、芹澤は宙のさまよいから脱し、なにかに思考の焦点を合わせることに成功した。

発光するはずのない指輪が光をたたえていることは気になったが、その光源はどうでもよかった。

芹澤の視線を集めた指輪は、自らの役目を終えたことを悟ったように、瞬く間に光を失った。

 

 白石は一仕事を終えた。

文字通り意識を取り戻した芹澤。芹澤は思い返した。

朦朧とする意識のなかで断片的に耳が拾い集めた情報を整理すると、二人が住んでいたアパートの一室は全焼。

さいわいアパート全体に燃え広がることはなく、被害は最小限にとどまったそうだ。

ただし、部屋にあった私物を含め二人のすべての痕跡は跡形もなく灰になった。


 なにが最小限だ。

奥深くでぎりと歯がきしむ音がする。

強く握られた掌のなかで伸び放題の爪が肌にくっきりと跡を残す。行く当てのない力が全身を駆け巡り芹澤の体は膨張しそうになった。

火災後に唯一残ったのは、最愛を失った脱皮後の脱げ柄同然の生き物だけだった。

手を広げ、大げさに指輪を宙へとかざす。芹澤は再び指輪へと視線を注いだ。虚ろな瞳はもうそこにはなかった。


 芹澤の右手側、病室の入り口正面の壁一面はその上半分ほどがガラス窓になっていた。

窓ガラスからはその日一日の始まりを告げる陽射しが、あふれんばかりにこんこんと病室に降り注いでいた。

芹澤は天井の照明に指輪を重ね、まるで指輪から放たれた光を愉しむかのようにただただ不敵な笑みを浮かべていた。

そこには指輪と芹澤だけの暗い世界が広がっていた。


 指輪に気づいたその日から、文字通り意識を取り戻してからの芹澤は早かった。

早かったというのは、火災を区切りに前と後で大地が裂けたように激変した人生の前半部分に戻ることのスピードを指す。

淡々としながらも、一心不乱に、脇目も振らず、寸分違わずにリハビリをこなしていく芹澤は、まるで火災などなかったかのように、すべてが悪いドッキリだったかのように以前の平静を取り戻していた。

正確には、あさひと出会う以前の芹澤に退化したようだった。


 芹澤がある種鬼気迫る取り組みをみせたのはなにもリハビリに限ったことではない。

身体の回復をもっぱらの最優先事項に据えた芹澤が、睡眠や食事といったあらゆる再生行為に異常なまでの没頭ぶりを発揮したのは、芹澤の過去を知る者からすれば至極当然であり、ともすればそれは、芹澤においての真っ当だった。


 まさしく人が変わったように、人間に戻ったように活動を始めた芹澤に医療従事者はもちろん相部屋の住人たちも色めき立った。

彼らからすれば危篤患者が突如歩き出したような驚きがあった。

とはいえ、それは例えるなら陰から陽への移行だったので、数日の間に芹澤に向けられる好奇の目線は落ち着き、老人たちの世間話、もといゴシップ回覧板の見出しはすぐさま芹澤から別のものへと刷新された。


 芹澤の変化は心から身体へとすぐに伝導していった。

まるで身体の治癒を妨げていたのは芹澤本人であったかのように、その身体はみるみるうちに本来の身体機能を取り戻していった。

なかでも担当医をもっとも困惑させたのは、一番深刻だと思われた足の症状がどの損傷箇所よりも圧倒的に速く改善していったことだった。

入院当時、医者目線から芹澤の足はお世辞にも優れた箇所が見て取れるわけでもなく、一般的な同年代の成人男性と比べて大差がない、といってよかった。

が、他人が芹澤の皮をすっぽりかぶって成りすまし始めたような、数日前の文字通りの覚醒から、彼の足もまた別のものへと様変わりを始めた。

獣は長い冬眠から完全に目覚めた。


 いつ退院できるか検討もつかないと担当医もお手上げだった芹澤の退院予定日は、当初の予定から巻き倒してその日を迎えた。


 出立の朝。芹澤が病室をあとにする準備をしていると「出ていくのか?」と、ふいに宙へと声が舞った。

声のしたほう、芹澤は背を向けていた右隣のベッドを見る。

部屋の窓沿いに位置する本間という名の老人が、こちらを見据えながらなにか言いたげに口をぱくぱくさせていた。

手を止め、そちらに向き直ると本間老人は「もっとも遅く入院したおまえさんがもっともはやく病室を出ていくのか」と皮肉そうに発した。

芹澤はすこしの間のあと、口もとに笑みをたたえ、摂理ですから、とだけ目は笑わずに答えた。


 芹澤は焼失したアパートの一室から目と鼻の先の、以前住んでいた部屋が窓から一望できる3階建ての小ぶりなアパートに住み始めた。

二人が住んでいたアパートは八階建てでワンフロアに8部屋があった。

その六十四室のうち一室だけが、いまは漆黒に塗りつぶされたように暗く黒かった。

芹澤は新居の窓を常に開け放ち、いつでもその闇をのぞきこんだ。

なにかそこからエネルギーでも取り込んでいるかのように、芹澤は雨の日も風の強い日もリビングの窓を開け続け、そこは芹澤にとって「閉まらずの間」となった。


 新居に住むとほぼ同時に芹澤は仕事を辞めた。

上司や同僚は芹澤の心身を心配したが、芹澤はそれをまったく意に介さず、すっぱりと連絡を断った。

芹澤は家族を含めすべての連絡先を携帯電話から消去し、電源を落とした。

芹澤はだれからも音信不通な存在となった。

そうして芹澤は忽然と社会から姿を消した。


 はたして幸いというべきなのか、結婚資金として貯めていた百万円と少しほどの金額が口座に入っていたため、芹澤が当面の生活に困ることはないはずだった。


 仕事を辞めた芹澤はただひたすら足の鍛錬に努めた。

朝は五時に起床し、夜は十時には床に就いた。

筋力を作りだす栄養素もあくまで生ある動植物から摂取し、プロテインなどの人工的な臭いを感じるものは一切使わなかった。

芹澤のなかにおいて本質的なものとそうでないものの区別がはっきりとなされていたためだ。


 芹澤は片足ずつ、時間と負荷をかけて足を構成する細かな筋肉を一つ一つ丹念に刺激していった。

全身にくまなく汗をかきながら自己と、自らの足と、忍耐強く向き合いつづけた。

それは常人には苦行以外のなにものでもないように思われた。

ゆうに千段は越す石階段を三歩上っては二歩下がるような、そんな果てしない行為のようでもあった。


 高校時代、異常なまでにサッカーに打ち込んだ芹澤がそれ以上の猪突猛進さを秘めて、いま両足へと向き合っていた。

親の制止や学校への束縛もない。

ただすべての時間をそこへ注ぎ込んでいた。


 例の修行はまるで芹澤の生きている時間を加速させたように日々は淡々と過ぎていった。

あさひの命日が初めて訪れたその日、芹澤はかねてより決めていたそれを実行に移した。

前日まで続いた晴天が嘘のように、轟々と地面を叩きつけながら雨は明朝から降り注いだ。あたり一面はねずみ色に塗りたくられたように暗く、正午をまわっても一向に変化する兆しをみせなかった。

張り巡らされた電線をいつもは奪い合うように占拠する野鳥もこの日は姿をみせない。

どのアパートからもひっそりと音は消えうせ、だれひとりとして外を歩く者はいないように思われた。


 芹澤はテーブル一台と椅子一脚のみがあるリビングに座っていた。

リビングの窓はいつもどおり全開で、降りしきる雨により窓際の床には室内にもかかわらず小さな水たまりができていた。

蛍光灯はついておらず、部屋は地中に沈められたように暗かった。


 さて。こんなものか。

必要以上に漏れ出さないように二つを強く縛った。

シミュレーションは何度も十分に繰り返していた。

テーブルに置かれた裁断機は、その鋭利な刃にないはずの光をたたえていた。

しっかりと裁断機に固定する。

ふん!口を閉じたまま勢いよく刃をおろす。

鋭角に鈍くかがやいた刃は大量の液体を吸った。

あたりにしぶきが飛散した。

芹澤は身体中に汗をかきながらも何食わぬ顔で次の獲物を再び裁断機に固定した。

また一閃。

鮮やかに液体が飛び散り、二本目も満足のいくできで切断に成功した。

あっけなく切り落とされた二つのそれ。

一つはかすかにふるえたまま床に放り投げられ、もう一つは力ない様子でテーブルからだらりとぶら下がっていた。

芹澤は足の指で器用に携帯電話の電源を入れ、消防機関へ緊急の連絡を入れた。

5分後、到着した救急車に搬送された芹澤は一年前に退院した病院に再び入院することとなった。


 芹澤を見た病院関係者は誰しもが色をうしなった。

ちょうど肩口から下。

腕に当たる部分がまったく存在しないのだ。

肩だけが不自然に残され、二本の腕はそっくりなくなっていた。

その事実よりも皆を怖がらせたのは、苦痛に耐えながらもどこか晴れやかな表情をした芹澤その人だった。


 病院に着くとすぐに緊急手術が行われた。しかし、できることといえば止血と輸血がせいいっぱいで、それも最低限の処置に終わった。


 芹澤が麻酔から目覚めたのは朝だった。

あさひの命日の翌日だった。


 以前の病室とは違う部屋に置かれているらしい。

見知った患者はいなかった。

今度は窓側にベッドがある。


 窓からは美しい木漏れ日がさまざまな太さの線となって純白の毛布の上に降り注いでいた。

ときおり小鳥が短くさえずるのが聴こえてくる。

目をつむってしばし耳を傾ける。


 芹澤はベッドから起き立ち窓から外を見下ろした。

ふたつの黄色い丸が動いている。

並んで登校している小学生だった。

赤いランドセルと黒いランドセルを背負い黄色い帽子をかぶった二人は、足取り軽く通学路を登校しているのだろう。

ふと、かすかに空いた窓から新緑の透き通るような匂いが鼻腔を駆け抜けていく。

満たされたように芹澤はベッドの上に寝転ぶ。

天井をじっと見つめ、それから視線を足もとへと向ける。

左足の薬指には陽光を受けて輝きを放つ、結婚指輪がはめられていた。

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