幻影
シャルロットが経験してきた中で、最悪な状況というものがどういうものかなどは改めて言うまでもないことだが、今繰り広げられているのは、それが更新されてしまいそうなほどの状況であった。
別に魔物に襲い掛かられているというのは問題ではない。
それは迷宮に居る以上は当然とでも言えることであるし、そもそもそれは出現と同時にミレイユによって消し飛ばされているのだ。
問題になるわけがないだろう。
ではもう何時間になるか分からないほど歩き続けているのかが問題なのかと言えば……まあ、確かにそれは間違ってはいない。
間違ってはいないが、それが問題の本質というわけではないのだ。
問題なのは――
「さて、これでまた上の階層へと来たわけですけれど……これで何度目でしたかしら?」
「さてな……俺も二十ぐらいまでは数えてたんだがなぁ……」
そう、つまりは、どれだけ上に向かったところで、一向にこの迷宮から出れる気配がないということであった。
ただ、実のところ、それに関しては割と早い段階で気付いてはいた。
しかも変動直後、階層を移動する前からである。
しばらくそこを歩いていると、周囲を見回していたミレイユが、不意に呟いたのだ。
――多分ここ、第六階層じゃない、と。
変動が生じた以上、元の階層と異なるのはある意味当然なのだが、その意味するところに気付いたのは、しばらく後のことだ。
もしかして、と思ったのは、上へと向かう階段を見つけ、しかしその先の階層で転移装置を見つけられなかった時。
変動が起こった以上、今回も第五階層にそれがあるとは限らない、ということは話していたため、特に落胆はなかったのだが……そこで、ふと思ったのだ。
或いは転移装置ではなく、自分達が移動した可能性もあるのではないか、と。
もっとも確証はないどころか、ただの思いつきでしかなかったので、口にすることはなかったのだが……その思考が再度頭を過ぎったのは、そこから階段を五階上がっても地上に出る事が出来なかった時だ。
転移装置が見つからなかった時点で、自力で地上に出て、そこで救助を待つ、というように方針を転換したわけではあるが……そこでまさかの、地上に辿り着く事が出来ない、という事態である。
……いや、それは嘘か。
それ以前の段階から、何となくそんな予感はしていたのだ。
でなければ、転移装置が見つからなかった時にそんな思考が過ぎるはずもない。
そしてそれを伝えれば、クリストフも同意してくれた。
実はこっちもそんな気はしていた、と。
まあその横で、ミレイユが、だからそう言ったじゃない、とばかりに、不思議そうに首を傾げていたわけだが。
ともあれ、そこからは自分達が今何処にいるのかは分からない、ということを前提として動いたわけだが……それで何が変わったかと言えば、何も変わらなかったとも言える。
ひたすら上を目指すことに、違いはないのだ。
その果てが分からなくなったというだけで。
ただ、次におかしいと思う事があったのは、それからそう時間の経たぬうちのことだ。
それは、踏破した階層の数が十を数えた時のことであり……辿り着いた階層の光景に、何の変化もなかった瞬間のことである。
それは普通の迷宮であれば当然のことではあるが、シャルロットの知るその迷宮であれば有り得ぬことであった。
ただそれは、単純にこの迷宮がおかしいというだけのことではあるし、よく知らぬものであればそれに気付かなくともおかしくはない。
事実クリストフも、それを指摘した時には、言われて初めて気付いた、というような顔をしていたし、むしろ変動前だけがおかしかったのではないか、というようなことも口にしていた。
それはそれで、確かに有り得ることではあったが……しかし結局のところ、結論を出せることではない。
色々と疑念を抱きつつも、ひたすらに先へと進み……だがそれにも、限度というものがある。
足と腕は止まらずとも、現状を分析しようと動き続けていた頭は鈍く、口は重くなっていく。
ここ最近は、階段を上り、そこが地上ではなかったことを確認する時にだけ数度口を開く、といった有様だ。
既にこの迷宮に入ってから、どれだけの時間が経過したのかさえも曖昧になり始めており――
「うーん……」
そんな唸り声が聞こえてきたのは、それでも諦めるわけにはいかないと、動きを再開させようとした、その時のことであった。
声に振り返れば、視線の先にいたのはミレイユだ。
完全に足を止め、何やら不思議そうに首を傾げている。
「……ミレイユさん? どうかしましたの?」
「ええ、そうね……その、実はさっきから気になっていたのだけど……」
そこでごくりとシャルロットが喉を鳴らしたのは、何か分かったことでもあるのかと、そう思ったからだ。
というのも、先ほどからずっとミレイユは黙っており、何事かを考えていた風だったのである。
もしかして、現状を打破するようなことを思いついたのではないかと期待してしまうのは、仕方のないことであろうし――
「ここ、ちょっと変じゃないかしら?」
だから、違う意味で予想外だったその言葉に、思わずクリストフと顔を見合わせると、ほぼ同時に溜息を吐き出していた。
「あのなぁ……テメエは今更何言ってやがんだ? んなことずっと俺とシャルロットが言ってたことだろうが」
「んー、そういうことじゃないんだけどねー」
「……どういうことですの?」
やはり何か分かった事があるのかと見つめてみても、その態度はいまいちはっきりとしない。
どういうことなのかとやきもきしていると、ふと良いことを思いついたとばかりに、ミレイユはそれを口にした。
「あ、そうだわ。ちょっと天井を撃ち抜いてみてもいいかしら?」
「……あ? 何言ってんだテメエは?」
「え、駄目?」
「駄目と言いますか……何が起こるか分からないのでやめて欲しい、というのが本音ですわね」
そもそも迷宮の構造物というのはそう簡単に破壊出来るものではないのだが、ミレイユに常識は通用しない。
ここで頷けば、おそらくはそれが当たり前であるかのように天井を破壊してしまうだろう。
まるで何処かの誰かさんのように。
だがどちらにせよ、それは悪手だ。
迷宮に存在している階段が、物理的に階層を繋げているわけではない、というのは今更過ぎる話だが、つまりは上を破壊したところで、それが本当に上層なのかは分からないのである。
いや、もっとはっきりと言ってしまえば――
「上にあるからといって、それが本当に地上に近くなってるかは別の話だ。階段と同じように、迷宮ってのは何処でどう空間が捻じれてるか分かったもんじゃねえからな」
「天井の先の空間が歪んで、別の場所に直結してるかもしれない、っていうことかしら? でもそれは……」
「ええ、普通であれば、だからどうしたという話なのですけれど……ミレイユさんの魔法は通常では有り得ないほどの高出力ですもの。そこに干渉した結果、どんな影響があるか分かったものではありませんわ」
勿論、何も起こらない可能性もあるし……むしろその可能性の方が高い。
しかし、何かがあってからでは遅いのだ。
特に現状が現状である。
これ以上の悪化は、何としても防ぐ方法があった。
「うーん……それが最も分かりやすいと思ったのだけど、そう言われたら止めるしかないわねー」
「そもそも、何がおかしいと思ったっつーんだ? さっきも言った通り、ここがおかしいのなんざ、色々な意味で今更だろう?」
「んー、そうなんだけど、そうじゃないというかー……?」
そう言って首を傾げているミレイユを見て、シャルロットとクリストフは顔を見合わせる。
ようやく、何か言いたい事があるのだということを理解したからだ。
ただ、どうやら本人もいまいち上手く言葉に出来ないようであるし、おそらくそれは問い詰めたところで分かるようなものでもないのだろう。
少し考えた後で、クリストフが口を開いた。
「……まあ、何かがおかしいと思ってるってのは分かったが、具体的には何がおかしいと思ったんだ? おかしいと思った場面や、状況でもいい」
「そうね……やっぱり一番おかしいと思ったのは魔物かしらねー」
「魔物、ですの……?」
その言葉に、今度は首を傾げるのはこちらの番だった。
魔物がおかしいと言われても、そもそもシャルロット達は魔物とまともに戦っていない。
その全てを、ミレイユが一撃で消し飛ばしてしまうからだ。
それがおかしいのだろうか、と一瞬思ったが、確かにそれはそれでおかしいものの、それは単にミレイユがおかしいというだけである。
それ以外には別に何も――
「だってあの魔物達、まるで影みたいだったじゃない? 倒した感触があまりないっていうのもそうだけど、もう見た目からしてそんな感じだったし?」
「……はい?」
瞬間、つい間抜けな声が漏れてしまったが、それも仕方のないことだろう。
魔物の姿が影みたい。
なるほどそれは、確かにその通りであった。
少なくともシャルロットには、魔物の姿はそのようにも見えていた。
だがそれはてっきり、魔物が遠すぎるからだと思っていたのだ。
視界に入った瞬間にミレイユによって消し飛ばされてしまうため、まともに姿を見る事が出来ないのだろうと。
しかしあれがそのまま魔物の姿だということならば、話は別だ。
それは明らかな異常であり――
「おい……何でテメエはそういうことをもっと早く言わねえ!?」
「え? だって、皆分かってたことでしょう?」
「あの一瞬で正確に敵の姿を捉えられるほど、わたくし達は戦闘が得意ではありませんのよ?」
そもそもシャルロットは後衛であるため、そんな瞬間の動体視力などは必要としないのだ。
戦闘を得意としないクリストフなどは尚更だろう。
ともあれ。
「……そうなってくると、色々と前提が崩れてくんぞ? ってことは――」
「ええ……この異常すぎる状況は――」
鈍っていた頭が、急速に動き出す。
今までの異常なことが、こうなってくると途端に意味を持つようになる。
つまり……そう、つまりは――
「――ええ。ふふ、そう……それは奇遇ね? 私もそう思ってたところなのよ?」
不意に思考が途切れたのは、何故か悪寒に襲われたからであった。
同時に、まるで誰かと会話をしているような、弾んだ声を上げているミレイユへと、不審げな視線を向け――目を、見開く。
その足元には魔法陣が展開しており、明らかに魔法を放つ直前であったからだ。
「二人とも、凄いのいくから、伏せてた方がいいわよー?」
「馬鹿、まさか本当に撃つつもりか……!? そんなことをしても……いや、間違ってはいねえ、か……?」
「そう、ですわね……確かに、それが一番手っ取り早いですわ。ただ、如何なミレイユさんと言えども……」
現状をほぼ正確に把握できたシャルロット達には、それが最適解の一つだということをすぐに察する事が出来た。
ミレイユがそこに至った理由は、おそらくいつも通りの勘なのだろうが……それでも、問題が一つだけである。
ミレイユでさえ、明らかに火力が足りていないのだ。
ミレイユほどとは言わずとも、せめてそれに等しい火力を誰かが放つ事が出来れば話はまた別だが――
「さあ、それじゃあ行くわよー――合わせなさい、アラン!」
「――へ?」
この場に居ない者の名を呼ばれ、再びシャルロットの口から間抜けな声が漏れた。
だがそれがどういう意味なのかを理解するよりも先に、ミレイユの足元が眩く光りだす。
そしてそれと共に、その周囲が赤く染まりだし――
「――焼き尽くせ、レヴァインテイン!」
「――消し飛ばせ、ケラウノス!」
瞬間、シャルロットの視界を、赤と白の光が埋め尽くした。
二つの方向より溢れ出たそれに、手をかざしつつ……ふとシャルロットが耳にしたのは一つの舌打ちだ。
それはすぐ近くから聞こえたものであり、間違いなくクリストフが漏らしたものだろう。
「隔離空間を、双方からの攻撃で強引にぶっ壊しやがったのか……ったく、相変わらずでたらめなやつらめ」
「……まったくですわね」
シャルロット達が今まで居た場所は、おそらくは迷宮そのものではなかったのだ。
それは迷宮の中に作られた、さらに別の場所……隔離空間である。
そこを延々と、彷徨い続けていたのだ。
それはいつまで経っても脱出できないわけである。
何故そんなところに閉じ込められてしまったのかは分からないが……まあそれは、この後でゆっくりと考えていけばいいことだろう。
安堵するように溜息を吐き出せば、やがて光が消え、視界が晴れてくる。
そしてその先に見えたのは、見慣れた顔だ。
瞬間目が合い……安堵にその口元が緩むのが見えた。
だから、というわけでもないのだが……シャルロットも口元を緩めると、彼――アランに向かって、笑みを浮かべて見せたのであった。




