少女と依頼と
その場に足を踏み入れた瞬間、アランはその顔を顰めていた。
しかしそれも当然のことだろう。
何せここを留守にしてから、まだ二日である。
だというのに――
「……どうしたらここまで散らかすことが出来るんですかね」
周囲に視線を向けてみれば、そこは文字通りの意味で足の踏み場もないという有様であった。
出かける際、念のために部屋の半分ほどのスペースを作ったというのに、これでは何の意味もないだろう。
と、そんなことを呟いていると、ようやく部屋の主はこちらに気付いたようだ。
「お? なんだアラン、戻ってたのか? 随分と早いじゃねえか」
「早いじゃないですよ……何でこんな散らかってるんですか?」
「ん? おお……確かに、言われてみればすげえ散らかってるな。何でだ?」
「知りませんよ……というか、聞いてるのこっちじゃないですか」
だがそう言ったところで、当の本人は不思議そうに首を傾げているだけである。
これがとぼけているだけならばまだやりようがあるのだが、本気なのだから性質が悪い。
よく人の母親のことを、あいつは昔から自分勝手なやつだった、とか言って顔をしかめているが、正直同属嫌悪なのではないかと疑っている。
まあ、ともあれ。
「とりあえず、このままじゃ移動もろくに出来ないですし、軽く片付けちゃいますね。重要なものは転がってないですよね?」
「ん? あー……多分ないんじゃねえの?」
「それ絶対あるやつじゃないですか……まあ大体どこら辺に転がってるのか予測付くからいいですけど」
「おお、マジかよ。俺は分からねえぞ?」
「自慢にもならないっていうか、はっきりと邪魔なんで黙っててください」
「はっ、言うじゃねえか。……にしても、随分とテメエも慣れてきたもんだな」
床を片付けながら向けられた言葉に、肩をすくめる。
それがどういう意味でのものなのかは、いまいち確証を持てないが――
「そりゃこんな生活をしてたら、嫌でも慣れますよ」
「ちっ、面白くねえ反応だな。昔はもちっと可愛げがあったような気がするんだがな」
「それを言ったら師匠も、もうちょっと遠慮があった気がしますけどね……っと、なんだこれ?」
そんな会話を続けながら掃除を続けていると、不意によく分からないものを発見した。
一見すると本のようにも見えるのだが、中は真っ白であり、何も書かれていない。
当然表紙にも題名のようなものは書かれていないし、そもそも装飾がない時点で本として作られたものではないだろう。
一体何の為に――
「あー、いや、もしかすると……師匠ー、これ見覚えあります?」
「あん? なんだそりゃ? んなもん見覚えあるわけが……あー、いや、もしかしたら、アレか? 魔導書を作ろうとして失敗したやつか?」
「ああ、やっぱそうですか? でも、何でこんなものが今頃?」
「さあな。色々整理してる途中で紛れ込んだんだろ」
「相変わらず大雑把ですね……それにしても、本当に懐かしいな」
考えてみれば、あれをやろうとしたのは、ここに来てすぐのことだ。
即ち、一年前ということである。
「一年、か……随分とあっという間だった気がするなぁ」
「手が止まってるが、どうかしたのか?」
「いえ、これ見てたら、当時のことを思い出しちゃったっていうか。もう一年も経ったんだな、と思ってまして」
「ああ……そういやもうそんなになるんだったか。確かに早えもんだな」
遠い目をするクリストフにならうように、アランも目を細めると、その頃のことを思い出す。
そう、あれからもう、一年も経ったのだ。
一年前、アランはクリストフに誘われ、ここで働くことになった。
それを決めた理由としては、やはり興味というのが大きかっただろう。
当時アランが給水という魔法を作り出したのは、端的に言ってしまえば気に入らなかったからであった。
憧れだった魔法を成り立たせているのが信じられないようなクソコードだという事実が我慢ならず、それを改善したいと思ったのだ。
結果から言ってしまえばそれは成功し、その成果が給水である。
それを母は褒めてくれたし、自分でも出来そのものは会心であったとは思うが、何せかかった期間が半年だ。
どう考えてもかけすぎであるし、世に存在するであろう魔法の数を思えば喜んでなどはいられなかった。
どうにかしなければと、そう思い……その話を聞いたのは、そんな矢先のことだったのだ。
クリストフは魔法の効率化などと言ってはいたが、やっていることそのものはアランがやったこと――やりたいと思っていたことと同じであった。
だからその具体的な方法が気になったと、確か最初は、そんなところだったと思う。
正直に言ってしまえば、何か参考になることはないか、と考えたのは事実だ。
もっとも、クリストフでさえも魔法式が理解出来ているわけではないということは早々に分かったので、割と早い段階でそれに関してはアランが教える段階となっていたわけだが。
だが誰かと一緒に同じ作業をやるというのは、思っていた以上に効果があった。
前世で仕事として同じようなことをしていた時は、これ会社に来る必要ないんじゃないかとか思ったこともあったが、意外とそうではないらしい。
同じ目標を持った者と、同じことを目標にして話す。
それは思った以上に役に立ち、また単純に楽しかったのだ。
今もここで働いているのは、結局のところそれが最も大きな理由だろう。
「にしても、やっぱあれだな」
「はい? 何ですか、あれって?」
「いや、この一年のことをちと思い返してみたんだがな……お前に師匠って呼ばれんのは、やっぱ納得いかねえと思ってよ」
「またその話ですか……それはもう納得したはずですよね? 確かに僕は師匠に教えてることもありますけど、知識って意味なら僕が教わってる方が圧倒的に多いですし、僕の魔導士としての師匠は間違いなくクリストフさんです。それは誰に何を言われようとも、変わることのない事実です」
アランがクリストフのことを師匠と呼んでいるのは、つまりそれが理由だ。
確かに最初の一歩、最初の魔法を教わったのは母だが、ぶっちゃけあれは使って見せたと言った方が正しいだろう。
使い方とかは自分で試すことで覚えていったのだし、改善方法に関しては完全に自己流だ。
魔導士の基礎知識ならば母に教わったと言えるだろうが、さすがにそれだけで師事したというのは厳しい。
というかそもそも、具体的に魔法ってどうやって使うのか、ということを問いかけた際に――
「えっと、そうねえ。こう、ぎゅっ、っとやって、どーん! ってやる感じかなー?」
とかいう相手に一体何を教わればいいのか。
それを聞いた瞬間に、アランはそれ以上のことを母から教わることを諦めたのである。
そのため、アランは魔法に関するほとんどのことをクリストフから教わっており、ならばクリストフを師匠と呼ぶのは当然のことなのであった。
「うーん……だがなあ」
「納得しづらい気持ちは分からなくもないですけど、僕としては納得してくださいとしか言いようはないですね。まあ、とりあえずこの話はここまでです。ちょうどお客さんも来たみたいですし」
そのことはクリストフも分かってるだろうに、それでも歯切れが悪いのは、魔法式に関して教わってることで、若干の引け目のようなものを持っているからだろう。
まあ確かに魔法式は魔法の根幹であり、それを教わっているというのだ。
それを教わっている相手に師匠と呼ばれることで、居心地の悪さを覚えるのも仕方のないことだとは思うが、そこは我慢してもらうしかなかった。
こういう割と強引なところは母から影響を受けたんだろうか、などと思いながらも、意識を入り口の方へと向ける。
誰かが来たと言ったのは、別にクリストフの意識を逸らすために言ったわけではなく、事実だ。
ここは基本的に研究所ではあるのだが、むしろだからというべきか、たまに人が訪れることもある。
まあその最多頻度を誇る相手が自分の母親だという事実は一先ず置いておくとして、ここにはそういう時のために結界を敷いており、ここまで来る前にそれが分かるようになっているのだ。
もっとも、研究に熱中している時には気付かないことも多々あるのだが……閑話休題。
「失礼。仕事の依頼に来たのだけれど、ここでよかったのかしら?」
「ん? ……ほう?」
現れた人物を見て、クリストフが目を細めたのは、おそらくその姿が理由の半分といったところだろう。
その人物は、明らかに幼い少女そのものだったのだ。
年齢としては、アランと同じ程度か。
相応の格好に相応の背丈、相応の相貌。
鮮やかな紅髪が特徴的ではあるが、その外見は何処をどう見ても相応のものだ。
だがその雰囲気と、こちらを見る目だけが異様なほどに相応ではなく、そしてそれこそが、クリストフが少女を注視した理由の半分である。
何故ならば――
「魔導士がお使いの真似事をするなんざ、珍しいじゃねえか? なんだ、何か厄介事でも持ってきやがったのか?」
魔導士は、相手が魔導士かを見ただけで判別できる。
つまり、そういうことであった。
ちなみに、クリストフがそんなことを言ったのは、普通魔導士というのは自らの足で誰かの元に訪れることはないからである。
そういった用事がある場合でも、誰かを代わりに行かせるのが基本であり、自分で赴く場合には、そうしなければならないほどの用件がある場合ぐらいだ。
「いえ、別にそういうわけではないわ。用件そのものは、いつもの用事といえば分かる、と言っていたかしら。私が来たのは、単純に手が空いてるのが偶然私だけだったからよ。あとは……いえ、何でもないわ」
「いつもの用事……? ああ、つーことはあそこのか」
「そういえば、そろそろでしたね」
まあとはいえ、そんなこともたまにはあるだろうと思いつつ、クリストフと共に頷きあう。
心当たりがあったのだ。
アラン達は現在魔法の研究を主な仕事としているが、生憎とそれだけをやっていればいいというわけでもない。
魔導士というのは、魔法を用いることで様々なことができるため、本来はもっと色々なことをしなければならないのだ。
それが魔導士としての義務であり、その代わりに様々な権利を用いることが出来るのだが……閑話休題。
ともあれ、魔導士としての義務の大半は研究という題目で相殺出来るが、それでも余った分の仕事が依頼として来る事があり、今回のはその一つだということである。
そしてこれが心当たりの通りであるならば――
「そう、ならば話が早いわね。それじゃあこれ、お願いするわ」
そう言って少女が差し出してきたのは、一つの袋であった。
否、袋にしか見えないもの、と言うべきではあるが、まあ大差はないだろう。
基本的に袋と同じように、中に物を容れるためのものであることに違いはないのだ。
もっとも、肝心の容量に関しては、また別ではあるが。
「おう。んじゃアラン、頼んだぜ」
「流れるようにこっちに渡しますね……いつものことですけど」
「だってお前のが得意だし、その方が早いだろ?」
「まあその通りではあるんですが」
実際のところ、適材適所ではあるし、別にやるのは問題ない。
まあ、じゃれあいのようなものだ。
なので普通に受け取ると、そのまま袋の中へと手を突っ込み――
「――給水」
これで終わりである。
要するに、持ち込まれた仕事というのは、広義の意味での水汲みのようなものなのであった。
とはいえ、水を満たすには当然相応の時間が必要ではあるが、これ以上やることがないという意味では同じだ。
魔法を使い、それを止める気もない以上は、後は放っておくだけで魔力が吸い出されていき、完遂される。
時間にしてみれば、あと五分といったところだろうか。
その間ジッとしている必要は特にないのだが、敢えてアランは動こうとはしなかった。
それは、万が一のことを考えて、である。
別に動いたところで魔法が解除されてしまうことはないし、目の前の少女も関係はない。
……いや、少女は関係があるか。
ただしそれは、少女がこちらのことを胡散臭いものでも見るような目で見ていることとは、あまり関係ない。
それはある意味で、当然のことだからだ。
正直に言ってしまえば、この研究所の世間での評判はあまりよろしくない。
曰く金持ちの道楽、曰く穀潰し、曰く危険人物の隔離施設。
是非とも反論したいところだが、したところで意味はない。
何故ならば、魔法そのものの研究というものは、魔導士の間で基本的には無駄なものだと見られているからだ。
では何故魔導士の間でそう思われているのかと言えば……成果があまり出ていないというのも大きいが、何よりも、その結果生じることを特に重要視していない、というのが大きいのだろう。
魔法の改善、即ち魔法式を最適化することで最も恩恵を受ける部分は、魔力の消費量だ。
だが魔導士は、基本そこに頓着しない。
魔力というのは、魔法を使うのに必要な力ではあるが、魔法を使わなければ勝手に回復していくものだからである。
勿論蓄積可能な魔力量は個人によって限度があるため、そこまで使い切ったら休憩しなければならない、ということではあるのだが、そこはやはり問題になることはほぼない。
今の魔力を無駄に消費しまくっている状態ですら、魔導士の仕事というのは、他の一般人の何十倍も早いからである。
故に今アラン達がやっていることは無駄と見なされており、アラン達を見る目がそうなってしまうのも仕方ないと言えた。
当然それを今後ずっと受け入れるつもりはないが、今は何を言ったところで言い訳にしかならない。
それは自分達の仕事で以って、認めさせるしかないのだ。
まあつまり、今万が一のことを考えて動かないようにしているのは、これ以上評判を下げるようなことを避けるためである。
ここで失敗してしまえば、やっぱりとなってしまうだろう。
或いは、今回魔導士である少女がここに来たのも、実はそこら辺を探る目的があるのかもしれない。
そんなことを考えていければ、ないだろうとは思っていても、失敗するかもしれない要素はなるべく省いていく必要があるのだった。
と、そうしてぼんやりしている間に、五分が経った。
魔力の放出が終わり、魔法が完了したのを確認すると、腕を引き抜く。
念のために袋を覗き込んでみれば、ちゃんと水が溜まっていたので、そのまま少女へと差し出した。
「はい」
「……え?」
しかし何故か、少女はその袋とアランの顔を交互に見比べると、数度瞬きを繰り返していた。
何かおかしいところがあっただろうかと考えてみるも、特にそんなことはないはずだ。
少なくともいつもは、これで終わりである。
「……? どうかしたの?」
「どうかした、って……まだ魔法を一回使っただけでしょう? それで何故、それをこっちに渡そうとしているのかしら?」
「何故って、勿論終わったからだけど? というか、魔法何回も使う必要あるの?」
「あなた、何を言って……?」
何故か少女は困惑した様子であったが、困惑しているのはこちらもだ。
「んー……? いつもはこれでいいんだけど、もしかして今日は何か他にもすることあった?」
「いつもはこれでいい……? そんなわけ――」
そう言って袋を受け取り、中を覗いた瞬間、少女はその動きを止めた。
顔には驚愕を貼り付けており、有り得ないとでも言いたげだ。
もっともこちらとしては、何をそんな驚いているのかと言いたいところだが。
「嘘っ……まだ一回しか使っていないのに!? 空だったこれが、水球一回だけで満杯になるはずが……」
「ん? ……あー」
なるほどそういうことかと、少女の呟きを耳にして、アランは納得した。
要するに、こっちが使った魔法を、少女は勘違いしたのである。
そういえばと思い出すのは、給水の魔法は未だ普及していないらしいという話だ。
既に発表はしてあるのだが、こっちの怪しいイメージが先行しているらしく、使ってる人はほとんどいないとか。
思い返してみれば、いつもやってくる人も、最初にこれを見た時は随分と驚いていた気がする。
「まあ、僕が使ったのは水球じゃなくて、給水の魔法だからね。聞いたことない? 半年ぐらい前に発表したから、名前ぐらいは聞いたことあるんじゃないかと思うんだけど……」
「給水……? ……そう、これがそうなのね。正直、話半分どころか、九割方嘘だと思っていたのだけれど……」
その呟きは、アランにとって割とショックだった。
信じられてはいないと思っていたが、まさかそれほどとは。
もしかすると、まず自分達がやるべきことなのは、イメージを刷新することなのではないだろうか。
だがそんなことで悩んでいると、ふと視線を感じた。
それは、目の前の少女からで――
「…………ねえ、一つ聞きたいのだけれど」
搾り出したような声は、少女の覚悟の程を表しているようでもあった。
きゅっと唇を噛み締めながら、その瞳はしっかりとこちらの目を見ている。
「あなた達は、魔法の研究をしているのよね?」
「まあ、そうだけど?」
「それがどうかしたのか?」
「……そう」
そこで一度俯いた少女は、だがすぐに顔を上げた。
再び向けられた瞳は、やはりこっちの目を正面から見ており……アランはそれを見て、真っ直ぐな目だなと、何処か場違いな感想を浮かべながら――
「なら、一つ私から依頼したいことがあるのだけれど、話を聞いてもらえないかしら?」
真っ直ぐに向けられたその言葉を、耳にしたのであった。