深層領域 2
踏み込んだ瞬間、背筋を悪寒が走り抜けた。
具体的なことは何も分からず、ただこのままではまずいということだけが分かる。
だがそれでもクラリスが下がることがなかったのは、同時に予感もあったからだ。
多分何とかなるし、何とかしてくれる。
そんな曖昧で漠然とした思いのまま、さらに一歩を踏み込み――
――天の剣・護国の加護・比翼連理・直感(真):一刀両断。
振り抜いた刃は、違うことなく眼前のそれを両断した。
腕に残った感触と共に、僅かな残心を覚え――
「――セット。防げ、アイギス」
その言葉が聞こえたのと、目の前で轟音が響いたのはほぼ同時であった。
さらには火花が散り、軋む音を立て――しかし、それらがクラリスに届くことはない。
その間を遮るように、それが存在していたからだ。
それは向こう側が透けて見える、半透明の壁であった。
非常に薄く、頼りなくも見えるが、その効果の程は今そこで発揮されている通りだ。
不安を覚える音とは裏腹に、それをこちらに通すことはない。
そしてその向こう側に見えているのは、巨大な斧であった。
クラリスの背丈を優に越すだろうそれは、見ただけでも相応の重さがあるのが分かる。
未だに火花を散らし続けていることから、相当の勢いで以って振り下ろされたのだろうことも分かり……だが結局のところ、それらは全て無意味だ。
そこにどれだけの威力が込められ、直撃すればただでは済まなかっただろう一撃なのだとしても、当たらなければどうということはないのだから。
ふと、クラリスは斧を挟んだ向こう側にある、それと目が合った気がした。
或いは気のせいなのかもしれないが……今からそれが辿るだろう結末を思い、何となく哀れみを抱いてしまうのは傲慢だろうか。
『――――――――――!!!』
瞬間、まるでこちらの思考が伝わってしまったかの如く、それは吼えた。
今叩き付けた方ではなく、逆の腕が振り上げられる。
そこにもまた、叩き付けたのと同じような斧が握られており――しかし、それが振り下ろされることはなかった。
それより先に響いたのは、二つの声。
「――爆ぜよ。爆炎陣」
「――凍てつけ。氷結陣」
そして直後に起こったのは、二つの現象だ。
それの顔面が爆ぜ、握られていた斧ごと振り上げられていた腕が凍りつく。
痛みにか衝撃にか、それの身体が仰け反り……一歩、足が後ろに下がったのは、反射的なものだろうか。
だが何にせよ、それ以上の何かが許されることはなかった。
「悪いですが、逃がす気はねえです」
いつの間にかその足元へと忍び寄っていた影が、拳を振り抜きそれの足を穿ったのだ。
果たしてどれほどの威力があったのか、それは思わずといった様子で膝を着くと、まるで差し出すように頭が下がり――
「うむ。そしてこれで、幕引きだ」
――一閃。
後方より勢いよく飛び込んだ刃が、そのままその首を刈り取った。
魔物とはいえ、さすがに首を失っては生きていける道理もない。
当然のようにそれはそのまま倒れ……巻き込まれそうになったクラリスは、少し慌てながらも素早くその場から離脱する。
それから間も空かず、地響きを立てながら、その巨体が地面に沈み込んだ。
「……ふぅ」
その光景を眺め、クラリスはようやく息を吐き出すと、少しだけ身体の力を抜いた。
どれだけ自分が気を張っていたのか、ということがよく分かるが、それも仕方のないことだろう。
さすが第二十階層といったところか、第五階層で出てきた魔物とは、比べ物にならないようなものであったのだ。
おそらくは、ランクに直せばランク五相当といったところか。
本来の自分達であれば、到底まともに戦えるような相手ではなく――
「うーむ……あれほどの魔物を、こうも楽に倒せるようになるとは。上での時も思ったことではあるが、敵が強くなるとより顕著だな。その凄まじさがよく分かる……」
「そうですね……正直なところ、予想以上です。まさかあれほどの魔物を相手に、互角どころか上回ることが出来るとは思ってもいませんでしたし」
クラリス達の実力は、どれだけ高く見積もっても精々がランク三というところだ。
騎士学院を卒業した身なれども、成り立ての騎士などその程度である。
そもそも、訓練に要した時間ならばともかく、実戦という意味ならば冒険者の方が余程多いのだ。
それを考えれば、妥当どころか、随分とクラリス達に対して甘い判定でさえあるだろう。
それにここが見慣れぬ場所であることを考えれば、実力の半分も力を出せればいい方である。
さらには相手が見知らぬ魔物となれば尚更であり、普通ならば勝てる要素の方が少ない。
だが結果を見れば、クラリス達の圧勝である。
勿論リーズ達の援護あってのことだが、本来ランクが一つ違えば勝つのは不可能に近く、二つ違ったら絶望的だとすら言われているのだ。
そんな常識を覆してみせたのは誰かなど今更言うまでもなく、その相手へと視線を向ければ、苦笑と共に肩をすくめられた。
「上でも言ったけど、それも結局は二人の元があるからだよ。援護も妨害も、限りがあるしね」
「んー……まあ、それに関しては一応同感ですかね。冒険者になったばっかですし、ランクと実力に直接的な関係がないとはいえ、ランク一でそこまで動けるのって他にいねえんじゃねえですかね?」
「騎士になれなかったから冒険者になった、という人は居ても、騎士になれたけど冒険者になった、という人は居ないでしょうからね。そのうちギルドの方で適当に調整するとは思うけれど……」
「それにしても、そのことを考えますと、お二人が他にパーティーを組んでいる方が居ない、というのは少し不思議ですわね。同ランクは勿論のこと、上のランクの方々も放ってはおかないと思うのですけれど」
「ああ、それは僕も疑問に思ってたかな。他の人とパーティー組めば、それこそ受けることの出来る依頼の幅とかも広がったと思うんだけど」
それはある意味、当然の疑問だろう。
そもそも皆がパーティーを組むのは、それだけ数というものが力だからだ。
騎士未満二人のパーティーよりも、それより圧倒的に個々の実力は劣る六人のパーティーの方が冒険者として戦果をあげるというのは、珍しいことでもない。
そしてクラリス達もそれは承知の上なのだが――
「む? いや、無論組もうとしたのだぞ? だが、人が集まってこなかったのだ」
「集まってこなかった、ですの……?」
「うむ。一度朝に皆が依頼書に群がって時に大々的に募集をかけてみたのだがな。まったく人が来ることはなかったのだ。まあ確かに多少条件を付けはしたが……」
「それって……もしかして、そういうことです?」
「……そうね。確かに、考えてみれば有り得るかしら。ギルドは中立を徹しているし、冒険者はあまりそういうことは気にしないと思っていたのだけれど……やっぱりそうもいかないのかしらね」
向けられた視線に、苦笑を浮かべつつ頷く。
おそらくは、二人の考えている通りだ。
幾らギルドの方針が中立で、レティシアが一冒険者だという立場だという建前を貫いたところで、実際にそれを受け入れることの出来る人は少ないのだ。
まあ、当たり前の話である。
とはいえ厳密には、まったく応募がなかったというわけではないのだが……その大半はレティシアを利用しようと思って近付いてきた者達だ。
無論何も言わずにお引取り願い、その際迷宮都市から永久に追放された者も少なくない。
或いは、条件を付けなければ今頃はパーティーを組めていた可能性もあるが、その条件というのはランクの制限だったのだ。
ランク二以下であること。
冒険者として不慣れであることを考慮し、それより上のランクの人達と組んだところで、足手纏いにしかならないと判断したが故のものだった。
だがそれでも、二組ほど声を掛けられる事があったし、彼らは純粋にクラリス達の将来性を見据えてのことだったようではあるものの、客観的に見た場合、それは所謂寄生でしかない。
少し勿体無い気はしたが、それもそうして断り……現在に至っている、ということであった。
「そういうわけですから、私達をパーティーに加えようとか、そんなことは考えなくても大丈夫ですよ?」
「うむ、アラン達のランクは本来、三以上だからな。妾達が加わってしまえば、それはやはり寄生となってしまうであろう」
「うーん……冒険者になった日はほぼ同時なんだから、気にする必要はないと思うけどなぁ」
「……そうですね。正直なところ、まったくそういうことを考えなかったと言えば、嘘になってしまうと思います。ですが、こんなことを経験してしまった以上は、もうそれは有り得ません。下手な寄生よりも、余程性質が悪いですから」
「ああ……確かに、あなた達からしてみれば、そうかもしれないわね。私達からすればあまり関係はないし、ある程度経験を積んだ冒険者であれば歓迎してくれるでしょうけれど、あなた達からしてみれば毒と変わらない、か」
「まあ、そういうことだな。このような環境で居続けてしまえば、腕を上げるどころか、逆に鈍りかねん」
まあ、クラリス……というよりは、レティシアがここに居る本来の目的からすれば、その方が都合はいいのだろうが、幸いにもレティシアにはそのつもりはない。
正直かなり心惹かれるのだが、互いのことを思えば止めておくべきなのである。
「ふーむ……それは褒め言葉なのか、僕は誇っていいのかどうか、なんか微妙な感じだなぁ……」
「一応誇っていいんじゃねえですかね? 幾らほぼ騎士とはいえ、冒険者になったばかりの人間が、深層領域の魔物と普通に戦って勝つことが出来てるんですから、補助役としては十分どころの話じゃねえと思うです」
「ですわね。もっとも、だからこそ問題でもあるのですけれど」
深層領域とは、危険な迷宮の中でも、特に危険な場所のことを指す言葉だ。
主に文字通りの意味で深層――大体五十階層以降であることが多いが、厳密にはその定義の中に階層数は含まれていない。
その階層の大部分が未踏破であること。
出現する魔物がランク五以上であり、既存の魔物と比べ未知な部分が多いこと。
転じて、初見で探索を続けるには危険すぎる場所に用いられるものであり、この場所は見事なまでにその条件に合致していた。
そもそもの話、二十階層時点でランク五相当の魔物が出現するという時点でかなりおかしくはあるのだが……まあ、それは今更だろう。
ともあれ、本来であればここはそう呼ばれるほどに危険な場所のはずなのだが、現実にはこうして悠々と探索を続けることが出来ている。
例え上級冒険者であれども、そんなことは不可能に近いのに、だ。
それを考えれば、そのことがどれだけ常識外れで有り得ないことなのかが分かるというものである。
そしてそれを可能とするアランが十分でないわけがないし、だがだからこそ問題なのだ。
そんな環境に居続けてしまえば、そのうちそれに慣れてしまうだろう。
自分の実力が分からなくなり、あまつさえ勘違いするようになりかねない。
誰にとっても幸せになれないような、そんな結末が待っている可能性があるのだ。
「考えすぎっていうか、二人なら大丈夫な気がするけどなぁ」
「かもしれぬし、妾もそう思ってはいる。が、何せ人は楽な方に流されやすいからな。確信出来ぬ以上、危険な橋は渡りたくないのだ」
「大げさだなぁ……」
苦笑を浮かべつつも、アランがそれ以上何も言わなかったのは、本気だということを理解したからだろう。
実際それ以上言葉を重ねたならば、レティシアはそれは自分にとっては死んだも同然などと言ったに違いない。
さすがにクラリスはそこまで思うことは出来ないが、それでも基本的には同意だ。
そんな腑抜けたことにはなりたくないし、見せたくもない。
「まあ、そういうことですから、私達のことは気にしないでください。ひ……レティさんはこういう人ですし、大抵の状況なら楽しむことが出来ますから」
「うむ、その通りだ!」
「……今のって胸張るようなところですかね?」
「本人が納得しているのだから、いいんじゃないかしら?」
「何と言いますか、随分と彼女への対応がこなれてきましたわね……まあ、わたくしも含めて、ですが」
ともあれ、そんなことを話しながら、周囲を見回し、一つ息を吐き出した。
ちょうど魔物が消えていく時であったのだが、未だにその光景には慣れそうもない。
まあ、それに慣れているのなど、アラン達ぐらいではあろうが。
しかしそこでレティシアも溜息を吐き出したのは、クラリスと同じ理由からではないだろう。
その顔に浮かんでいたのは、明らかに不満であったからだ。
「むぅ……宝箱は出ず、か」
「まあ、宝箱が出るかどうかは運っぽいからね。それでも大体戦闘二回に一回は出てるから、次は出るんじゃないかな?」
「だが見たことがないような魔導具が出るかは、やはり運なのだろう?」
「まあね。一応魔法で仕舞っておいてあるから、見せるだけなら今すぐでも出来るけど、どうせなら宝箱から出るのが見たいでしょ?」
「うむ、当然だ!」
「ならその時まで待ってもらうしかないかな」
「ぬぅ……」
唸りつつも渋々頷いたのは、レティシアの目的は単に見知らぬものを見たい、というわけではないからだろう。
見知らぬものを自分の手で見つけたい。
多分、そんなことを思っているのだ。
「じゃ、そのためにもさっさと先行くですよ。ここはまだ来たばっかでよく分かってねえとこが多いですし……それに、多分厄介なもんもいるですしね」
「エリアボス、ですか……」
この迷宮が、こんな樹木だらけの場所になったのは、十一階層からだという。
十階層の階段を下りてみたら突然こんな場所に来て、さすがにアラン達もかなり驚いたとのことだが、そこには簡単に来れたわけでもない。
十階層のその階段の前に、エリアボスが居たというのだ。
「まあここにも居るとは限らないけれど……居ると考えていた方が安全でしょうね」
「うむ……エリアボスが居る階層は基本一定だと聞くしな」
「これまでの戦闘を考えますと問題なくいけそうな気もしますけれど、油断は禁物ですものね」
だがそうは言いつつも、何処となく暢気そうな空気が漂っているのは、言葉の通り油断をしているからではないだろう。
常に緊張していては身体も心も持たない故、最低限のそれしか持たないようにしているのだ。
そんなことが可能なのも、アランの魔法のおかげだが――
「それにしても、クラリスはすげえですね」
「え、何がですか?」
「油断しちゃ駄目だってことは分かってるですが、サラ達はどうしてもアランの魔法があるせいで緊張感をずっと持ってはいられねえです。さっきの話じゃねえですが、楽なほうに流れてるってことですね。ですが、クラリスはそれでもずっと緊張感を保ってるですから」
「いえ、それは……」
それは別に、褒められることではなかった。
レティシアによく言われているように、単に頭が固いだけだ。
必要がないとは頭では分かってはいても、つい警戒を続けてしまうだけ。
それを癖ということが出来ればよかったが、実際には何ということもない。
ただ、臆病で自信がないという、それだけのことであった。
だから。
「凄いのは、皆さんの方――」
――天の剣・護国の加護・比翼連理・直感(真):常在戦場。
――瞬間さとったのは、間に合わないという、それだけであった。
判断したのは刹那。
迷う暇などはなく、故に身体は勝手に動いていた。
サラを後方に、レティシアを真横に突き飛ばし――直後に覚えたのは、浮遊感。
音は遅れて聞こえ、衝撃は、地面に叩きつけられたのとほぼ同時に襲ってきた。
それによって意識が薄れていくのを、クラリスは何処か他人事のように感じながら――
「――クラリス!?」
叫ばれた声に、無事だったかと安堵を覚え、自分の仕事を果たせたことに満足しながら、そのまま意識を手放した。




