新生活と本
ふと目を覚ますと、アランの視界に広がっていたのは、見慣れた天井――では、なかった。
というか、そもそもそれは天井ですらない。
乱雑に散らばった紙と本、飲みかけの飲み物などが置かれているそこは、テーブルだ。
天井との共通点は同じように木目があるということぐらいだが、当然のように本来寝起き直後に眼前にあるものではない。
だがそこでアランがそれを疑問に思う事がなかったのは、それだけ慣れていることだからだ。
上半身を起こすと、一つ伸びをした後で、息を吐き出す。
それから、苦笑を漏らした。
「あー、またやっちゃったか」
所謂、寝落ちであった。
魔法式についてあーでもないこーでもないと悩んでいるうちに、いつの間に意識が落ちていたらしい。
まあ、よくあることである。
少なくともアランにとってはそうであり、それはそれこそ、前世だろうと今世だろうと関係なく、だ。
「ま、それはさておき、っと……」
窓の外へと視線を向ければ、とうに陽は天に昇りきっている。
差し込む影の角度や長さなどから考えれば、時刻的には昼頃だろうか。
空が白み始めていた頃までは記憶にあるので、睡眠時間的には足りているだろう。
もっとも、無理な体勢で寝ていたこともあってかまだ眠気はあるのだが、ここから二度寝はさすがに寝すぎだ。
まだ身体は若いんだから大丈夫と、自分に言い聞かせながら視線を戻し、立ち上がる。
朝方まで起きてはいたものの、朝食を食べたわけではない。
半分寝ぼけた頭でも分かるぐらいに腹が減っていたので、まずはそれを満たす事が先決であった。
が、椅子を引いた瞬間、その足が何かにぶつかり、止まる。
何だろうと後ろを振り返ってみれば、その正体が目に入り……同時に、その惨状もあらわになった。
「あー……いい加減これは整理すべきかなぁ。いや、やらなけりゃいけないと分かってはいるんだけどなぁ……」
それはテーブルの上と同じ……いや、それ以上に酷いことになっている、紙と本が散らばりまくっている光景であった。
積まれていないだけまだマシかもしれないが、床が足の踏み場もないほどに埋まっていることに違いはない。
「さすがにこれはそろそろ怒られ……いや、今までの成果だって主張すれば……成果出てないし無理かなぁ……?」
それはテーブルの上にあるそれらと同じく、魔法式について書かれたものだ。
ただし魔法式は魔法式でも、普通の魔法のそれではなく、儀式魔法のものである。
今まで調べ、試した結果分かったことを書き溜めたというか、書きなぐったというか、そうして纏めた情報だ。
まあ、今のところそれが役に立つ場面には来ていないため、こうして半ば投げ捨てられているような状況になってしまっているわけではあるが。
だがそれでも、それが今までの成果と呼べるものであることに代わりはない。
ここ一月の間に、アランが自ら足を運んでは集め、それを研究した結果なのだ。
なら尚更整理しておけという話ではあるが、それはそれ、これはこれ、というやつである。
と。
「……それにしても、そっか。もう一月経ったのか」
自らの思考を思い返しながら、アランはふと今更のように呟いた。
一月。
それは、アランが儀式魔法の研究を始めてから経過した時間であり、同時に冒険者になってから経った時間でもある。
そう、アラン達が冒険者になり、あの常識外れの迷宮に潜ってから、既に一月もの時間が経過していた。
端的にあの迷宮に関しての顛末を記すならば、結局のところあれは封印することに決まった。
まあ、誰にとっても異論の出る余地のない、妥当な判断である。
それほど迷宮に関する知識がないアラン達でさえ、おかしいと思うような迷宮であったのだ。
異論など、出るはずもなかった。
その判断に止めを刺したのは、やはりあのエリアボスの件だろう。
何とか無事に倒す事が出来たものの、エリアボスが階層を越えてやってきてしまうなど危険極まりないし、何よりもその際に出現した宝箱から出てきたものがまた問題であった。
それが魔導具であったのは、まだいい。
それまでにも何度か出てきていたことを考えれば、まだ許容範囲内である。
だが問題なのは、それが見たこともなければ、効果すら分からないようなものであったことだ。
以前にも述べたことではあるが、基本迷宮で拾う魔導具というのは、かつて誰かが持っていたものである。
それがどんなものなのか分からない、ということは初めてらしく、ギルドの方では色々と揉めたという話だ。
効果が分からない魔導具など、色々な意味で危険すぎるので、当然のことではあるだろう。
まあ結局のところ、封印するということはほぼ決定していたことなので、それを確定させたということでしかないのだが。
ともあれ、そうしてあの迷宮に関しては、一応ながら無事に決着がつき――
「――アラン? もう昼食の時間なのだけれど、まだ寝ているの? それとも、研究の方かしら?」
と、そんなことを考えていると、扉の向こう側からノックの音と共に、そんな声が聞こえてきた。
誰なのかは考えるまでもないことなので、こちらからも言葉を返す。
「ああ、うん、ごめんリーズ。そろそろ行こうかと思ってたところだったんだけど……」
「そう……ということは、ちょうどよかったのかもしれないわね。ところで、部屋に入ってもいいかしら?」
「え? うん、まあ別にいい――」
そこまで言い掛けたところで、ふと部屋の惨状を思い出す。
慌てて言い直し――
「あ、いや、ごめん、ちょっと待って! 何か用があるんなら、僕が外に――」
だが言い終わるよりも先に、扉が開いた。
姿を現したリーズは、そのまま部屋の中を見渡すと、溜息を吐き出す。
その視線がこちらに向き……アランは反射的に視線を逸らしていた。
「どうせこんなことじゃないかと思ってはいたけれど、やっぱりこうなっていたわね。まったく、師弟そろって」
「いやいや、これはあれだよ、あれ……今までの成果ってことで」
「成果なら、尚更ちゃんと整理しておきなさいよ」
「はい、おっしゃる通りです」
先ほど自分でも思ったことなので、その言葉には素直に頷くしかない。
まあそれで整理出来るのならば、苦労はしないのだが。
「ま、言って整理するようならば、私も最初からこんなことは言っていないのだけど。というわけで、近いうちに掃除するわよ?」
「え、いや、それはちょっと……」
「確かにここに住む事が決まった時、各自の部屋の管理は各自で、とは決めたわ。けれどこのままでは、ここが片付く気はしないし……それともあなたは、あの時と同じようなことを私にさせるつもりなのかしら?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
あの時、というは、おそらくクリストフの研究所に居た頃……というよりは、彼女があそこに来るようになって、しばらく経った頃のことだろう。
あそこの散らかりっぷりに、ある時リーズが切れたのだ。
そうして強制的に掃除と整頓が開始されたわけだが……まあ後々のことを考えれば、それがかなり助かったのは事実である。
今も整頓してくれるというのならば、確かに助かるのだが……さすがにそれは幾ら何でもアレだろう。
「えーと……近い内に自分で何とかするからさ、その……」
「……はぁ。まあ、分かったわ。今は引くけれど、次見かけた時もこのままだったら、次はやるわよ」
「はい、それまでには何とかしたいと思います」
そう言って頷いたアランに、リーズは満足そうに頷き……だが再度部屋の中を見回すと、もう一つ息を吐き出した。
ただ今度のそれは、どちらかと言えば呆れを含んだもののように見え、事実その顔に浮かんだのは、間違いなく呆れの表情である。
そして続けて放たれた言葉もまた、呆れのそれであった。
「それにしても、ここまで無造作に紙や本が投げ出されているなんて、見る人が見れば発狂しそうな光景ね。総額では果たして幾らになるんだか」
その言葉に肩をすくめたのは、それの意味するところが分かっているからだ。
何せこの世界では、未だ紙も本も貴重品なのである。
それなのに、そんなものが床一面、大雑把に数えても三桁を超えて粗末に扱われていると知れば、まあそれに関わっている者の顔色は蒼白では済まないだろう。
もっとも、これら自体には、そういった人々は関わっていないのだが。
「ま、元手を考えたらゼロだけどね」
「知ってるわよ。でも、それを知ったところで、その人達の反応は変わらないんじゃないかしら」
「かもね」
元手がゼロな理由は、単純だ。
それらは全て、アランが魔法で作り出したからである。
紙は勿論のこと、本もアランが外観を魔法で整えた後に、内容をそっくりそのまま写したものである。
当然その方法もまた、魔法だ。
「というか、むしろ方法の方で発狂しそうな気がするわね」
「うーん、それは言いすぎじゃないかな? 困りはするだろうけど」
「相変わらず自己認識が甘いわね。アランのしていることは基本的に常識外れなのだということを、いい加減に自覚しなさい」
「そうは言われてもなぁ……」
大したことをしているなどと思っていないのだから、自覚しろと言われても難しい話である。
というのも、紙を作るのはともかく、複写の魔法というのは今までなかったようなのだ。
しかしアランは、以前からそれとほぼ同じ魔法を使えていた。
まあ、以前に作った魔法式を黒板もどきに写すためのものではあるが、それを改良するだけで簡単に出来たのである。
そこにかかった手間を考えると、それに関してどうこう言われたところで、いまいちピンと来ないのだ。
「……ま、それを分からせるのは半ば諦めているから別にいいのだけれど、それを広めようとするのだけは諦めなさいよね」
「それは分かってるって。ミレーヌさんにも散々止められたしね」
何故そこでギルドの受付嬢の名前が出てくるかといえば、床に散らばっている本のほとんどが、元はギルド所有のものだからだ。
だが儀式魔法のことが書かれた本など当然のように貴重品であり、持ち出し禁止などと言われてしまったので、そこで複製することにしたのである。
そうすれば家に帰ってからでもじっくりと読めるし、こうして粗末にしても問題はない。
そしてそこで、ふと思ったのだ。
この魔法が広まれば、遠方の貴重本なども気軽に読めるようになるのではないか、と。
しかしその話をちらりとしてみたところ、何と大反発を食らってしまったのである。
商業ギルドに喧嘩を売るつもりかなどとも言われたので、かなりの大事らしい。
確かに本に関わっている人には少なからず影響があるとは思っていたものの……まさかそこまでとは、というところであった。
当然アランにそんなつもりはないので、諦めたわけだが――
「となると、あとはもう活版印刷を広めるぐらいしかないわけだけど……魔法で作れるかなぁ……いや、というか仮に作れたとしても、それはやっぱり喧嘩を売ることになるのでは……?」
「何を言っているのかは分からないけれど、ろくでもないことを考えているのだけは分かるから、止めておきなさいと言っておくわ」
まあ実際にやるつもりはないので、所詮はただの戯言である。
「まったくあなたは……ま、いいわ。それよりも、そろそろ行きましょう? さっきも言ったけれど、本来は昼食に呼びに来たのだから。あまりのんびりしていたら、ご飯が冷めてしまうわ」
「おっとそれは勿体無い。じゃあ行こうか」
話をするのであれば、移動しながらでも、或いは食べながらでも十分だ。
そうしてアラン達は頷くと、そのまま部屋を後にした。
自分でも驚くほどに話が進んでいない……。
さすがにこれだけではあれなので、明日も更新予定です。




