アラン・クラヴェルと異世界魔法
高熱を出して寝込んだあの日から、一年の月日が流れた。
あの日……即ち、新藤彰――否、アラン・クラヴェルが、前世の記憶を思い出した日から、である。
まあ厳密に言うならば、そのことをはっきりと認識したのは、熱が引いてからということになるが。
記憶の混濁もなく冷静さを取り戻した頭で、自分の今の名前はアランで、前世の記憶もはっきりと思い出していることに気付いたのである。
もっとも、だからといってそれで何がどうなったというわけでもない。
所詮前世の自分は、多少プログラミングが得意と言える程度の一般人でしかなかったのだ。
そんな知識を引き出せるようになったところで、何が変わるはずもない。
だが意味がなかったかというと、それもまた違うだろう。
何せ約三十年分の人生経験だ。
それが明確に存在しているのとないのとでは、様々な場面で違いが出てくるし、この先のやる気みたいなものも違う。
特に、一度目の人生を不本意なままで終わらせてしまったことを考えれば、尚更であった。
おそらくではあるが、アラン――彰は、記憶の途切れたあの瞬間に、死んでしまったのだろう。
死因は過労死の可能性が最も高いが、或いは何か自分の知らない病気があった可能性もある。
だがまあそれは正直に言ってしまえば、どうでもいいことであった。
死んでしまったことに後悔はあるし、両親などに対して申し訳なさもあれば、そこまで働かせたクソ会社に恨みもある。
しかしそれを言ったところでどうしようもない以上は、気にしたところで仕方がないのだ。
それは、どうして生まれ変わることが出来たのかとか、そういったことも同様である。
そんなことを気にするよりも、後悔と反省を糧に今後の人生をよりよいものにしていった方が、遥かに有意義であろう。
アランが今その場に居るのも、ひいてはそれを実現するためなのだから。
と。
「アラン、聞いているのー?」
聞き慣れた声に、意識を現実に引き戻される。
視線をそちらに向ければ、そこに立つ一人の女性が、碧色の眼を僅かに細めアランのことを見つめていた。
「ごめん、母さん。ちょっと考え事してた」
「もう……しょうがないわねえ。まあ確かに、退屈なのは分かるけどー」
そう言って溜息を吐き出した女性の髪が、さらりと流れる。
窓から差し込む光によって輝く金色のそれは、アランと同じものだ。
その目元はアランによく似ており……否、アランの目元が、彼女によく似ていると言うべきだろうか。
女性の名は、ミレイユ・クラヴェル。
同じ姓を持つアランとの関係は、今アランが口にした通りのものであった。
非常に整った美貌を持つミレイユは、その雰囲気と相まって年齢以上に若く見えるが、実際今年二十歳を迎えたばかりなのだから若いことに違いもない。
だがアランは、前世の自分よりも年下のミレイユのことを、自身の母親だと疑ったことはなかった。
前世の記憶があるとはいえ、生まれてから六年もの間、ずっと愛情を受けて育てられてきているのだ。
それを当然のこととして受け入れるのは、難しいことではなかった。
まあ或いは、前世の記憶を最初から、またはもっと早くに認識していたら別だったのかもしれないが、幸いにしてそれが起こったのは物心が付いた後のことである。
今更そのことに違和感など、覚えるはずもない。
後はその理由として、もう一つ付け加えることがあるとすれば――
「でも、魔法がどういうものなのか、ということを理解するのは、とても大事なことなのよー? 魔法が使えるようになれば自然と理解することではあるけど、今のうちに理解出来るのならば、その方がずっといいんだから」
そう、アランが生まれ変わったこの世界には、魔法があった。
魔物なども存在しており、つまりは異世界ということである。
もろもろのことを素直に受け入れることが出来たのは、そのことも大きかっただろう。
まあ、ともあれ、今はその魔法を母から教わろうとしているところであった。
というよりは、教わっている最中だと言うべきだろうか。
ただ。
「うん、それは分かってるんだけど……そろそろ実際に魔法の方を教えて欲しいかな、と」
今母から教わっているのは、厳密には魔法の事前知識であったのだ。
例えば、魔法は先天的才能によってしか使えないとか。
魔法というものが現れてから、まだ百年ちょっとしか経ってないとか。
他には、魔法を使う人達のことを魔導士と呼ぶなどの、そういった、魔法を使うのに直接は関係しないようなことである。
あとは、魔法は使い方次第では危険なものにもなるから、注意が必要だとか、そういったことも含まれてはいるのだが――
「確かに実際に試してみるのが一番わかりやすいのは確かなんだけど……そういうせっかちなところは、あの人から影響受けたのかしらねえ」
「それはあんま関係ないかな……? いや僕も、この話が初めて聞くものなら、まだ我慢して聞くんだけど……」
そう、その話を聞くのは、アランにとって初めてではないのだ。
しかも二度目どころではなく、確か五度目ぐらいだった気がする。
勿論中には三度目ぐらいだったものもあるが、そこは重要ではない。
今話されていたことは、全て復習に過ぎなかったということだ。
魔法の勉強をするのが一般的にいつからなのか、ということをアランは知らないが、少なくともアランに限って言えば、五歳を迎えてすぐの頃からそれは始められていた。
具体的には前世の記憶を思い出してからすぐのことなのだが、まあそれはどうでもいいだろう。
要するに、一年もの間、座学だけをずっとさせられていたのである。
そして今日、ようやく魔法を実際に教えてもらえることになったのだが、その前にと、今までの復習を三時間も行なわれていたのだ。
そりゃあちょっと回想に入ってしまってもおかしくないという話だろう。
「うーん……まあ、いいわー。大体おさらいは終わったところだったし、それじゃあそろそろ、実際に魔法を教えるとしましょうかね」
「やったー!」
全身で喜びを表すアランに、母から微笑ましいものを見えるような笑みを向けられるが、そんなことはどうでもよかった。
何せようやく魔法を覚えることが出来るのである。
それに比べれば、多少の恥などどうでもいいものだ。
まあ、そうは言っても、さすがにすぐに魔法が使えるとはアランも思ってはいないが、それはそれである。
それに、実のところアランは、今まで魔法を見たことがない。
魔法をようやく見ることが出来るというのも、興奮の理由の一つであった。
が、そこでふと、冷静だった自分の一部が、首を傾げた。
それが当たり前だったから今まで疑問に思ったことはなかったが――
「そういえば、今まで母さんが魔法を使ってこなかったのも、何か理由があるの?」
「ええ、勿論よー。というよりも、今までもずっと魔法は使っていたわよ? ただ、あなたの目の届く範囲では、使わないようにしていただけで」
それは納得出来る話であった。
今まで聞いた話からすれば、魔法というのは非常に便利なものだ。
使えるのであれば、使わない理由がない。
「なんでわざわざそんなことを?」
「それは、わたしが教える前に、あなたが魔法を使ってしまうことがないように、よ。稀ではあるけれど、魔導士の中には他人の魔法を見ただけで簡単に再現出来てしまう人もいるの。アランがどうなのかは分からないけれど、もしそんな才能があった場合、魔法のことをよく知らないで魔法を使ってしまったら大変でしょうー?」
「……なるほど」
それもまた、納得出来る話であった。
一年の座学でどれだけそれを正確に認識出来るかはまた別の話だろうが、それでも何も知らないよりは遥かにマシだろう。
或いは、その期間は、それを見極める期間でもあるのかもしれないが……まあ、どうでもいいことである。
「さて、それじゃあ、早速使ってみましょうか。よく見てるのよー?」
言われるまでもないとばかりに、アランはこれから起こる現象を見逃さないよう、ジッと目を凝らす。
その様子に、母は苦笑を浮かべたようであったが、その後でおもむろに右手を前に突き出した。
掌を天井へと向け――
「水よ、数多の結晶よ、集いその身を現し、我が意思に従え――水球」
言葉の直後、その先に現れたのは、その言葉の通り水の球体であった。
空気中から水が出現して集まり、その形となってその場に留まっている現象は、紛うことなく魔法でなければ出来ないものであり――だが。
「……へ?」
そんな間の抜けた声をアランが漏らしたのは、それを見たからではなかった。
アランの視線が向いているのは、その水の塊の真下。
それと母の掌の間、その空間に浮かび上がっている、魔法陣としか言いようがない文様と……その周辺を取り囲んでいる、二重の意味で何処かで見た覚えのある、文字の塊であった。
しかし母はそんなアランの驚きを、別の意味で解釈したらしい。
まあ状況を考えれば、そっちで考える方が当然なのだが――
「ふふ、そんなに驚くようなことだった? こんなのは基礎の基礎だから、もっと幾らでも凄い魔法があるのよー?」
「あ、うん、確かに魔法にも驚いたっていうか感動はしたんだけど……えっと、その下に浮かび上がってるそれは?」
「下……? ああ、魔法陣と魔法式のこと? ふふ、早速これに注目するなんて、やるわねー」
「魔法陣と……魔法式?」
どうやら魔法陣のようなものはそのまま魔法陣と呼ばれており……おそらくは文字の塊のようなものが、魔法式と呼ばれているものなのだろう。
後者は聞き覚えのないものであったが、それでもすんなりと受け入れることが出来たのは、それがどんなものであるのかが、何故かはっきりと視えていたためか。
「えーと……それがないと、魔法は使えないの?」
「そうねー。というよりも、これを作り出すことで魔法が起こる、というのかしら。魔法を使うということは、これを作る、ということでもあるから。ああでも、魔法式の方はこれ小さく見えるけど、実際にはそんなことないのよー? 本当はびっしりと、沢山の文字が書かれてるんだから」
それは見えているから分かるというか……むしろ、書かれすぎではないだろうか?
何せアランの目には、それが軽く数十万字ほどはあるように見えているのだ。
それと、気になることが一つ。
「……母さん、僕それ見た覚えがあるんだけど」
「え、何処で? もしかして、街で誰かが使っていたのを見た、とかかしらー?」
「ううん、そうじゃなくて……一年前、寝込んでた時に」
「ああ……あの時ね。確かに、あの時は熱が凄かったから、回復魔法を使っていたんだけど……そう、眠ってたと思ってたけど、起きてたのねー」
どうやらアレは熱で頭がやられた結果の幻視ではなく、実際に浮かんでいたものであったらしい。
あの……誰が書いたんだこのクソコードとでも言いたくなるような、アレは。
しかも今目の前にあるそれと似たものもまた、同様であった。
そう、数十万字はあるだろうそれもまた、とてつもないほどのクソコードだったのである。
言いたいことは、山ほどあった。
なんで魔法を使うための魔法陣がプログラムのコードにしか見えないんだとか、色々。
だがそんなことよりも……そのコードの無駄だらけの処理の方が無性に気になったのは、或いは職業病だったのかもしれない。
もうなんていうか、あまりにクソ過ぎて直したくて仕方がなかったのだ。
「それって母さんが作ったってことは、弄れるんだよね?」
「それって、魔法式のこと? まあ、そうねー、やろうと思えば出来るけど……でも、やらないわよー?」
「え、なんで?」
「なんでって……そうねー、これからは、そういうのもちゃんと教えていかないといけないわよねえ。いい? 確かによく分からないから、色々と試してみたくなる気持ちは分かるわ。というよりも、大体の魔導士が通る道ねー。結局よく分からないままで、挫折するのもだけど。でもそれは、もう少し先の話。そうねー……ちょっと語弊があるけど、魔法を覚えるというのは、これをそっくりそのまま覚えて、再現できるようになる、ということなのよ」
それは衝撃の言葉であった。
そっくり覚えて再現する、ということは別にいい。
イメージとしては大雑把というかそんな感じなのだが、まあしっかりとした法則性があった方が使いやすくはあるだろう。
しかし、よく分からないとはどういうことなのか。
いや、別によく分からないものを使っているということそのものはどうでもいいのだが――
「えっと……母さんは、それがどういうもので、どういうことが書いてあるのか、分からないの?」
「そうねー……ちょっと恥ずかしいんだけど、そういうことなの。ただ、言い訳をするわけじゃないんだけど、これは母さんだけじゃなくて、皆なのよ? 今も沢山研究してる人たちはいるんだけど、よく分かってないままなの。それでも色々頑張って、新しい魔法を作ったりもしているんだけど……大体の場合は、わからないけど、こんな魔法を使いたいと思うと勝手に出来るっていう感じかしらねー」
どうやらやっぱり大雑把なところもあるらしい。
だが誰も理解が出来ない、という言葉にはアランは首を傾げるしかなかった。
だって、アランには理解出来ているのだ。
これが単純にそう見えるだけの可能性はあるが……どう見ても見慣れたものにしか見えない。
まあ文字数が多いため、さすがにすぐに流れを理解しろと言われても無理だろうが……逆に言うならば、時間さえあれば理解出来るはずだ。
と、そこまで考えたところで、ふと思い直す。
そうだ、アランがそれを理解出来るのは、それを知っているから……プログラミング言語の知識があるからだ。
しかしそんなアランも、当然最初からそれが理解出来たわけではない。
勉強したことで、初めて理解出来るようになったわけであり……では、資料も何もない状態で、まったく見知らぬプログラミング言語を解読しろと言われたら、どうだろうか。
そんなことは無理である。
しかも今の状況は、それがプログラミング言語であることすら分かっていない状況なのだ。
そうして考えていけば、この世界の魔導士がそれを理解出来ないのも、無理ない話かもしれなかった。
「……ちなみに、弄っちゃ駄目っていうのは、何が書いてあるか、分からないから?」
「そうねー。だって、弄ったら何が起こっちゃうか分からないのよ?」
それは確かに、その通りだ。
しかし。
何度見てもそれは、酷いコードであった。
仕事で見ていたら、間違いなくぶん投げていただろう。
だが、何よりも……実はアランは、魔法に憧れがあった。
そして今まさに目の前では、それが使われており……しかしそれを成り立たせているのが、そのクソコードだというのだ。
我慢できるわけがなかった。
故に。
気が付けば、アランはそれに向かって手を伸ばしていた。
「……え?」
やったことは、単純だ。
実に数千行に及ぶ、実質的に何の処理もしていない無駄そのものの関数からなる、一連の処理。
内部で最終的に計算された数値がまったく使われていないため、まったくの無意味と化しているそれを、呼び出している部分のみを消した。
それだけである。
計算された数値は返されているものの、そこ以外で使われている形跡はないため、それによる影響は実行速度の高速化のみのはずだ。
要するに、いいことのみのはずであり――結果。
一瞬にして水球が数倍の大きさに膨れ上がり、次の瞬間弾け飛んだ。
「……あ」
文字通りに頭から水を被せられたアランは、しかしそこでようやく我に返った。
色々なことが一度に起こったため、つい反射的に動いてしまったが――
「……アラン」
声にびくりと身体を震わせたのは、当然この後の展開を予想したからであった。
間違いなく怒られる。
否、怒られないわけがない。
やるなと言われたことを速攻でやり、実際こんなことをやらかしてしまったのだ。
言い訳のしようもなく――
「凄いじゃないの!」
「……へ?」
が、予想していたものは飛んでこなかった。
飛んできたのは拳ではなく、母の身体であり、思い切り抱きしめられていたのだ。
しかもそれは、どうも皮肉であったり、そういうのではなさそうだった。
「か、母さん……?」
「やっぱり、私とあの人との子ねー! こんなことが出来るなんて、さすがだわ!」
「えっと……怒らないの?」
「怒る? どうして?」
「いや、だって……弄るなって言われた矢先にこれだし……」
「まあ、そうねー……そのこと自体は後でちょっとお話しする必要があるけど、でもこうなってしまったのは私のせいだし」
「え?」
どうも話を聞くところによれば、水球が破裂してしまったのは、母が制御を誤ったからだという。
急激に消費魔力が少なくなった結果、いつもと同じ魔力を使ったら何故か水球がいつもの何倍にも膨れ上がってしまい、制御不能になってしまったのだとか。
だが結局それは、自分の責任な気もしたが――
「だってアランは、でたらめに弄ったんじゃなくて、意味があると思ったからやったんでしょう?」
「え? う、うん、それはそうだけど……」
「じゃあやっぱり、凄いことよ! みんながやろうと思って、でも出来なかったことを、アランは一目見ただけで出来ちゃったんだから!」
私達の息子は天才よー! とか叫んでるのはどう考えても親馬鹿だし、一目見ただけで出来たのはアランにしてみれば当然のことでしかないのだが……それを説明するわけにもいかないだろう。
大体上手く説明できる自信もない。
まあとりあえず、今回のことはさすがにちょっと軽率すぎたと、反省するとして……。
母親に抱きしめられたまま、その場をくるくると回されている現状をどうしたものかと、そんなことを思いながら、アランは溜息を吐き出すのであった。