幕間 入学試験
その場の雰囲気は、異様なほどに張り詰めたものであった。
布擦れの音一つ聞き逃さないだろう静寂に、瞬き一つ見逃さないだろう視線。
八対のそれらを向けられ、半ば無意識的にごくりと喉を鳴らし……だが少年は、意を決したように口を開いた。
「――氷結塊」
数十秒の詠唱の後でそう呟いた瞬間、突き出した両手の先に、小さな結晶が生じ始める。
みるみる内にそれは大きさを増し、瞬く間に数センチほどの塊と化した。
それはそのまましばし宙空に留まっていたが、少年が息を吐き出したと共に、思い出したかのように落下を始める。
机の上に衝突し、当たり前のように砕け散った。
その光景に、ほうと、感嘆の息が漏れ聞こえ、少年の口元に僅かな笑みが浮かぶ。
会心の出来に、満足気に再度息を吐き出すと、自身へと未だ視線を向け続けている者達へと顔を向ける。
そしてそのまま、頭を下げた。
「以上です」
「ふむ、なるほど……ありがとう。では、これで終了だ。結果は、三日以内には報せることが出来るだろう」
それを吉報の予兆と受け取ったのか、少年ははっきりと笑みを浮かべると、ありがとうございましたと告げ、足早にその場を後にする。
扉が閉められ、響いた音が余韻となってその場に残り……それが消えかけた頃、去っていく少年の背を見詰めていた者の一人から、ふむと呟きが漏れた。
「どう思うかね?」
その言葉に主語は存在していなかったが、それを改めて尋ねるような者はその場にいない。
その者から最も遠くの位置に座っていた男が、おもむろに肩をすくめた。
「惜しいですね。いや、本当に惜しい……例年なら、まず間違いなく合格だったでしょうに」
「そうですね、水からの変化ではなく、直接氷の生成ですからね。しかも、机は濡れていない……きちんと魔力を制御出来ているということです。不作だった一昨年あたりであれば、上位にすら食い込めていたかもしれません」
「うーむ、さすがにそれは、同じ氷を扱う者としての贔屓目が入っているような気もしますが……まあ、私も大筋では同感ですな。少なくとも彼は、十分ここに入るだけの実力があった」
「ふむ……では逆に、今の意見に反対の者はいるかね?」
その言葉に、声が上がることはなかった。
皆が自分と同じ意見だということを確認すると、壮年に差し掛かった男は眉を潜め、唸るようにして頷く。
「うむ……本当に惜しいな。今日何度同じことを思ったかは知れないが」
「純粋に喜んでたのは最初の頃だけでしたねぇ……まさか皆が優秀すぎて悩むことがあるなんて、思いもしませんでしたよ」
まったくだと数人が同意を示しながら、溜息を吐き出す。
嬉しい悲鳴だと言えばその通りなのだが、どうしても勿体無いという思考が先に来てしまうのだ。
何せここは王立魔導学院、その入学試験会場である。
ここで合格を勝ち取ったものは、即ちこれからの魔導士の未来を担う人材であるということを示すに等しい。
それはひいてはこの国の未来のためにもなるということであり、優秀な魔導士ならば幾ら居ても困るということはないのだ。
「まあ優秀な者全てを我が学院で囲い込んでしまうわけにもいきませんし、諦めるしかないでしょう」
「ですな。或いは今の彼も、詠唱時間がもう少し短ければ、考慮に値したでしょうが」
「いや、さすがにそれは無茶を言いすぎでしょう。あの彼じゃあるまいし、早々そんなことが出来る人はいませんよ」
そもそも魔法の詠唱時間というのは、要するに魔法式を読み上げる時間である。
つまるところ、魔法式が簡易になればなるほど詠唱時間も減っていくわけだが……先の彼が見えた魔法式は、この場に居る面々の目から見ても、特別おかしなところはなかった。
それをどうにかしろということは、魔法式を弄れと言うのと同義であり――
「と言いますか、あの彼も、確か入学当時はそれほどのことは出来なかったという話ですし……幾らなんでも、求めすぎでしょう」
「うん? あの彼、というと……ああ、そういえば、君はクリストフ君と同期だったか」
「ええ。自分のことを天才だと勘違いし、その鼻っ柱をへし折られた一人です。しかもそんな彼でさえ、主席ではなかったというんですから……世界は広いということと、自分の程度というものをよくよく理解させられましたよ」
「まあ、彼女は彼女で規格外だったからな……もっともあっちの規格外っぷりは最初からだったが」
「ああ、聞いたことがありますね。確か、入学試験で試験会場をふっ飛ばしたんでしたっけ?」
「それも、私達には掠り傷一つ付けず、だ。ただ魔法の威力が大きいだけではなく、その制御も十分可能だと知らしめたわけさ。まあ後から聞いたら、何となくそうした方がいいと思ったから、などと答えられたわけだがね……」
「試験事項に特記項目が存在するようになったのは、それ以来でしたか……そういえば、彼女と言えば――」
「おっと、楽しく話をするのは結構ですが、そろそろ次の受験者が来ます。気を引き締め直すよう、お願いしますね」
その声が発された瞬間、各所で交わされていた話がピタリと止まった。
話をしていた者達が小さく頭を下げ、再び部屋に張り詰めた空気が戻る。
その光景に、声を発した人物は満足そうに頷くと、扉の方へと視線を向け……見計らったかのように、ノックの音が響いた。
「どうぞ」
「……失礼します」
そうして現れたのは、一人の少年であった。
先ほどの彼と比べ、さらに幼さの残る外見をしているが、魔導士には些細なことだ。
誰も彼もがその姿を侮ることなく、見定めるような視線を送る。
しかしそんな中にあって少年は特にそれを気にする素振りも見せず、平然と椅子のところにまで歩いてくると、頭を下げた後で座った。
まあ、その程度のことは、魔導士であれば驚くようなことでもなく――
「えっと……自己紹介とかは、必要ないんですよね?」
「ああ。何処の誰ということが分かってしまうと、余計な偏見を抱いてしまう可能性があるし、魔導学院に入るのに最も重要なのは、魔法の腕前だけだからね。だから余計なことは必要なく、ただそれだけを見せてくれればいい」
「分かりました。それで、見せる魔法はどんなのでもいいんですよね?」
「うむ、それはその通りなのだが……それが攻撃魔法である場合は、ここではない場所で見せてもらうことになっている。まあただの念のためなのだがね……」
「念のため……? それって……ああ、いや、そういう……」
そこで少年が、何かを諦めたかのように溜息を漏らした。
それはどういう意味なのか、僅かに訝しむように少年を見るものはいたが、この場はそういうことを問う場ではない。
気にはなれども問うことはなく、少年もすぐに表情を引き締め直すと、再度頷いた。
「分かりました。まあ、攻撃魔法を使うつもりはないので、大丈夫です」
「ふむ、そうか。では、何の魔法を使うつもりかね?」
「そうですね……ああ、ではちょうどいいので、氷の魔法にしようと思います」
「……ちょうどいい?」
その言葉に、数人が再度訝しむような視線を向けたが、それも当然だろう。
別に周囲には氷に関係するようなものなどないし、そもそも水すらもない。
もしも関係するものがあるとすれば、それは氷系の魔法を得意とする者がいるということぐらいだが……まさかそれをちょうどいいなどとは言わないだろう。
誰かの得意とする魔法を披露されたところで、それが評価に繋がることはないのだから、何の意味もないことだ。
或いは、他に有り得るとしたら直前に使われた魔法ぐらいだろうが……それこそまさかだろう。
確かに、直前にどんな魔法を使われたのかを知る方法はある。
魔法式というものは、魔法を使用した後も詠唱時間に応じてしばらくはその場に残るからだ。
だがあくまで残るというだけであり、それは物凄い速度で劣化していく。
今の時点で既に九割ほどは原型を留めておらず、そこからどんな魔法であったのかを読み解くのは、ほぼ不可能なのだ。
それこそ、彼の魔法式の天才と呼ばれた魔導士であっても、それは不可能なことであっただろうし……しかしそれだけであれば、まだ数人が驚くだけで済んだかもしれない。
今年の受験生は皆優秀な者ばかりであるため、そんな者も中にはいるだろうと、そう納得していた可能性はある。
だが。
「――氷結塊」
「――なっ」
瞬間、その場の全員が――少年から最も離れた位置に座っている学院長でさえもが、明確に驚きを浮かべた。
それはそれほどの、魔法や魔法式について詳しく知るものであればあるほど、有り得ないと強く思うことであり――
「ふぅ……以上です」
氷の砕け散った音がその場に響いた直後、少年は息を吐き出すと共にそう言ったが、その時点でさえ半数以上は衝撃から立ち直れていなかった。
学院長でさえ、反応することは出来た、というだけに過ぎず――
「…………ふむ。なるほど……ありがとう。では、これで試験は終了だ。結果は、今日中に報せる故、しばし待って欲しい」
「分かりました。ありがとうございました」
そうして頭を下げ、去っていく少年のことを、誰もがジッと見つめながら見送った。
やがてその姿が扉の向こうに消え……誰からともなく、溜息が吐き出される。
「……どう思うかね?」
それは、一つ前の彼の時に発された言葉と同じであったが、その意味がまったく異なることなどは、改めて言うまでもないことであった。
互いに互いの顔を眺めると、苦笑のような、諦めのような笑みをそれぞれが浮かべ――
「まったく……本当に今年は、どうなっているんでしょうね。今年の主席は彼女だろうと、全会一致で予想されていましたが……再度決を取る必要はありますか?」
「まあ、ないでしょうな。と、言いますか……私はそれなりに魔法に対する自負がありましたが、正直なところ、今の彼に勝てる気がまるでしません」
「私も同感ですから、悲観する必要はないでしょう。それに、そう思うのも当然ではあります」
「うむ……まさかあれほどのものを見せられようとはな……」
そう言いつつ、学院長は先ほどの光景を思い出し、唸る。
見事な……それこそ、自身ですらも再現出来ないような、見事な魔法であった。
もっとも、少年が起こした現象そのものは単純である。
始めます、と口にした直後に両手を眼前に突き出し、瞬時に数十センチの氷塊を作り出してみせた。
言葉にしてしまえばそれだけの……それこそ、魔法のことをよく知らないものならば疑問にも思わないだろうことだ。
しかし魔法や魔法式について詳しく知るものであればあるほど、有り得ないと強く思うことであり……馬鹿な、と誰も叫ばなかったことを、学院長は密かに称賛したほどであった。
何せ少年が見せた魔法には、少なくとも極度に優れた技術が三つは使われていたからである。
「再構築に、詠唱短縮……いや、あれは既に詠唱破棄か、それと効果の拡張。どれか一つでも出来れば、その年の主席は間違いないだろうに……」
「えっ? 他の二つは分かりますが、再構築、ですか……?」
「ああ、あれは少々分かりづらかったですからな。ですが彼は確かに、消えつつある魔法式をそのまま流用していた。再構築もしていたと考えるのが妥当でしょう」
「うわっ、本当ですか……でも、あの時それに気付かなくてよかったかもしれません。気付いてたら、叫んでたかもしれませんから」
「なら幸いだったと言うべきですかな。我らは立場上だけではありますが、彼らを教え導く存在です。その我らが試験として行なわれた魔法で驚いていたのでは、格好が付きませんからな」
再構築に気付いていなかったのは一人だけではなかったのか、その言葉に数人が、少し気まずそうに頷いた。
だが学院長がそれに言及しなかったのは、あれは気付かなかったのも仕方ないからだ。
そもそも再構築などいうものは滅多に使われないものである上、あそこまで完璧に流用したのは学院長と言えど見たことがなかった。
確かに魔法式が残っているということは、それを流用することも可能だということである。
故にその技術は再構築と呼ばれ、しかし通常その一割も使えればいい方なのだ。
何せ改めて言うまでもない事だが、魔法式というものは基本意味が分からないものである。
流用すればそれだけ魔法式を構築する手間が省けるが、どれが使えるかなど、分かる時の方が少ない。
だからこそ、再構築というのは技術的には存在しているが、滅多に見れるものでなく……まるで最初からそうであるかの如く、消えつつある魔法式からそのまま続きを付け足すなど、聞いたことすらなかった。
「まあ、いいものが見れたと、そう思っておくのがいいだろう。もっともそれは、他の二つに関してもそうだが」
「そうですね……まさかあのレベルのものを、詠唱破棄するなんて……」
「効果の拡張の方も見事でしたな。まるで違和感がなく、最初からああいった魔法だったと言われたら信じてしまいそうなほどでした」
詠唱破棄とは、つまるところ魔法式の無駄を極限にまでそぎ落とした結果起こる、発動の言霊を用いるだけでの魔法使用である。
先に述べたように、詠唱とは魔法式を読み上げる時間であるため、それを短く出来れば極論ほぼ詠唱せずとも魔法が使えるようになるのだが……勿論それは、ただの極論だ。
基礎魔法であるならばまだしも、氷の生成という魔法であったことを考えれば、有り得ないと言ってしまっても過言ではないことであった。
さらに効果の拡張とは、そのまま魔法の効果を高めることである。
今回であれば、本来は数センチの氷塊を作るところを、数十センチとすることだ。
勿論これも理論上であれば可能なことではあるが、大抵の場合それは何処か無理が生じ、違和感が出るか、或いは最悪暴発するものである。
だがそれをまるで当たり前のように感じさせるということは、どれだけ完璧に行なわれたのかということであり、これもまた普通では有り得ないようなことであった。
まあ何にせよ、その三つから分かることは、今の彼が非常に魔法式に精通しているということであり――
「非常に優秀な魔導士である、と」
「異論はありません」
「まあもしかしたら、あの魔法だけを徹底的に磨き上げていたのかもしれませんけどね。だからこその、ちょうどいい、だったのかもしれませんし」
「だとしても、優秀であることに違いはないでしょう。そもそもあの魔法が使える時点で、優秀なことに代わりはないのです」
「ふむ……では、そろそろ決を採るとしようか。今の彼を合格とすることに、異議のある者は挙手を」
誰からも手が上がることはなく、ただ視線だけが向けられた。
それに学院長は満足気に頷くと、早速とばかりに手元に筆を走らせる。
しかしそうなると他の者達は手持ち無沙汰になってしまい、自然と雑談が交わされ始めた。
「それにしても、あそこまで優秀となると……もしかしたら、今の彼が彼女の子供だったのでしょうか?」
「ああ、そういえば、そんな話も聞きましたね。……正直なところ、未だに彼女に子供がいる、ということに戸惑いを隠せないのですが」
「はは、それは彼女の当時を知っていれば、皆同じことを思うでしょうな。ちなみに私としては、今の彼は違うのではないかと思っています。彼女とは優秀さの方向が違う気がしますし」
「ふむ、確かに彼女がどういった魔法を得意としたのかを考えれば……やはり、彼女ですかな? あれは見事な攻撃魔法でしたが」
「確かに彼女の魔法はあの娘を連想させましたけど、私が聞いた話では、あの娘の子供は息子だという話ですよ?」
「む、となると、やはり今の彼が?」
「いえいえ、或いは――」
「むしろそれでしたら――」
その会話を聞くでもなしに耳にしていた学院長は、そこでふと腕を止めると、その口元に小さく笑みを刻んだ。
今年は優秀者が集まりすぎるという、例年にはない事態に見舞われたが……この調子ならば大丈夫そうだと、そう思ったからである。
まあ正直なところ、今年も色々と問題はありそうではあるが……それでも、今年も学院が始まるのが楽しみだと、そんなことを思いながら、学院長はその腕の動きを再開させるのであった。
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