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(2)



 ノームは絶望した。それが絶望だと知るより先に、彼は、腹の底に、ぽっかりと抜け落ちた、心の穴を埋めるように、泥のようなどす黒さが溜まるのを、実感していた。


 いや、それは些細なことだ。

 そうしたヘドロの感情よりもっと、もっと、身体を巡る、溢れんばかりに駆け巡る、確かな衝動を覚えていたからだ。それは言い換えれば、熱く煮えたぎる血潮のように、沸騰したお湯が身体を巡るように、熱い。これは、なんだ。熱い。怒りでも、悲しみでもない。熱い、それを混ぜて、混ぜて、もっと濃密に、圧縮して、それでもなお足りない、悲嘆の激流。


 熱い。


 やがて、遂に。

 それは噴火する火山のように、

 大地がまるで、激怒するように。

 精霊は、

 生の感情をつよく、叫ぶのだ。


 ――あああああ、

 あああああああああ、

 あ、

「うぁああぁあああわあああアアアアあああああアああああああアアあぁああぁああああああぁぁぁあああああアアぁアあぁああああああああアあああアああアアアアアああああ」


 声はまさに、慟哭。

 響きは大地を抜け、全体に。

 緑に還った森を、怯えさせるほどに、

 そのすべてを、震撼させる。




 耳を塞ぎ、アーデルハイドは顔を歪める。

 他の二人も同じだ。突然、爆音のような衝撃を伴う哭き声が、けたたましく。

 戦場の銅鑼ですら、これほどではない。


(雷が、山を消し去った時と変わらない、なんて感情を……っ)


 やがて、落ち着いた。

 そして、見入る。


「これはっ」




「三年、いや、八年合わせりゃ、十一年ぶりか。随分と待たせたな、ノーム」

「アル様、これは、いったいっ」


 慟哭の最中、説明を求める声に応えて、彼は、


「三年。時を加速させた、そう言ったな。それは魔力の流れを早くしたというだけで、同時に、森全体にもそれは影響している、とも。つまり、森を枯れさせないよう、出来得る限り自然なかたちでの還元を促した、っていうことなんだけど。その結果、植物の成長が見られたり、いくつか、影響は多く見られる」そして「これも、そのひとつだ」


 わかるか? と、前置き、


「シレーヌ。ノームも、お前と同じだ。あの場所で、この森に流れる水と繋がりを持っていたお前と、同じ。あいつは土の精霊として、この森すべてに繋がりを持っている」


 だからこそ紅い森を操れたのだし、操っているからこその、あの、紅い森だったのだ。


「ただ、お前はそれを、切った」


 強引に、その中心であったあのドームから叩き出す事によって、水と触れさせず、強制的にその繋がりを解いたのだ。もちろん、傍を流れる川にでも触れれば、もとのように森を巡る水脈を辿れるだろうが。その流れを、手足とできるだろうけれども。

 しかし、その点においてノームは違った。


「あいつはその性質上、この森との繋がりが切れちゃいないんだ。もちろん、森の外に叩き出してやれるなら、お前と同じように、流れの外に持っては行けるけど、それじゃあ本末転倒もいいところだ。それができないから、苦労してたんだから」結果「あいつもまた、魔力による流れの影響を、もろに受ける形となった」


 つまり、


「例えば、とある商業組合の契約書類に、なんとなし、軽い気持ちでサインを書いたのはいいものの、内容にとんでもなくブラックな物が含まれていて、知らぬうちにまったく関係のない契約を交わされて、いつの間にか、お金を絞られるだけ絞っていかれる、不利な状況に追い込まれてしまった。というような、感じなのでしょうか?」

「ん?」すこし考え「えっと、まあ、なんだろう。確かに、恐らくノームからしてみれば、特に、この森と繋がりを持ったとは、思ってなかっただろうなぁ。なんと言うか、元はと言えば妖精を存続させるために、この土地を使っただけだろうし。魔力も、お前が集めたそれを利用していた、って、だけだから。ああでも、そうやって考えると、むしろ、あいつは今回、魔力を流した裏で、その影響で、自分の中に魔力を取り込んでるからな。それが過剰なのが問題であって、八年間そうできていたように、まともに使えば有利でこそあれ、そんな、悪徳金融に騙されたような不利は被らないんだけど」

「なんと。それはつまり、彼の場合お金を取られるどころか、むしろ、意図せずとも交わしてしまった契約から、転がるように入りすぎて困っちゃう、みたいな、そういう美味しい状況だって言うんですかっ?」

「いやだから、美味しくないし。ってかお前、過去に絶対こっちで何かやらかしたろ」


 セルシウスとの関係も、案外そのあたりの話が関わっているのかもしれない。


「ともあれ、あいつは今、三年分。その魔力が、確かにそのちいさな身体へ流れ込んで来ている、そういう状態だ」


 それがつまり、どういう現象を招くか。


「見ていろ」


 慟哭が収まった。

 そして、僅かな静寂を待って、後。


「精霊が、その身に余る魔力を取り込むと、どうなるか、だ」


 異変は、時を待たずして異形となる。




 哭きやみ、動かなくなったノーム。

 アルザークを含め、三人がその様子を見守る中、

 アルザークを除き、二人が心配に眉を顰める先、

 変化は突如、訪れた。


 水の膨れる音と共に、先ず、ノームの背中が大きく膨れたのだ。餅を膨らますように、その小さな体が、張り裂けんばかりの勢いで。不気味を絵に描いた光景に、アーデルハイドも息を呑む。シレーヌもまた、その口を両手で覆って。

 それからの変化は、著しく。一度膨らんだ背中と同じように、手、足、体、首、そして顔もすべて何もかも。ぶくぶくと、泡立つようにノームの形状が変化して、時折「ご、ぉ」と、苦々しい声、声ともつかぬ音、それを零しながら。異様に対し戦慄する二人、ただ冷静に、成り行きを見守る彼に眺められ、


 やがて、それは形となった。


 腕に抱ける大きさでしかなかったノームの身体は、最早、その原型を留めて居らず、

 現れた姿。それを、

 アーデルハイドは、つい、数週間前だ。

 それを、彼女は見ていた。

 すなわち、


「……ドラ、ゴン?」


 ノームは姿を変え、変異し、そこに生まれたのは一匹の竜である。

 それも、並の大きさではない。鰐のように巨大な顎と口をもち、それだけでも、元の姿をとるルインでさえ、一呑みにできてしまうだろう。身体も比例して大きく、翼は退化しており。それはまさに、地竜と呼ばれる竜種。それとまったく特徴を同じにしている。


「竜だとっ。アル、どういう事だ、これはッ」

「落ち着けアイリス。説明はするから」


 目の前。まだ、身体の変化に意識が追いついていないのだろう。

 荒ぐ息を抑えるように、しばし、身を強ばらせるそれを視界の端にして、


「見た目は地竜の一種。だが、これは本来の姿というわけじゃ、ない。いや、きっと、こいつが成人でもすればやがては見ることもできる姿なんだろうけど、一先ずな。詳しく話せば長い、それはいつか、機会があればしてやるとして、簡潔にまとめると、精霊というのは、ヒトの想像にその存在を強く影響されるものなんだよ」


 氷といえば冷ややかなるも美しい女性の姿、であったり、

 炎と言えば筋骨隆々逞しい男性的な存在、であったり。

 ほか、風や土の存在が妖精に酷似するのも、この辺りが理由になる。


「仕組みはともあれ、そういう存在なんだって、いまは納得してくれ。

 そして、ノームにしたって、土の精霊は本来その見た目は小人に近い。大人になってもドワーフ族程度の大きさになるだけで、大きな違いというのは見られない。けどな、精霊だって妖精と同じだ。現象か結晶体かの違いはあるけど、精霊も、言ってしまえば魔力の塊でしかないんだ。つまり、その姿を変えようと思えば、難しいことじゃない」


 現にシレーヌなどは、水の精霊としての特性を活かし、それに溶け込んでいた。


「土の精霊も、不要必要は別の話として、そういう、戦闘に適した状態に変身できる、ということだ」ただし「今回はそれが、過剰な魔力によって強制的に引き起こされているっていう、形だな」


 地竜の姿になったのは、偶然だ。

 土にまつわるものであれば、なんでもよくて、もしかすればワームのような姿になったかもしれない、ルイン達のように獣じみた存在に変異したかもしれない。そこはなんでもいいのだ。問題なのは、その姿になったということは、今、ノームは確かに、身体に魔力を蓄えすぎている、という事実が重要なのだから。




 三人の前に姿を見せた、地竜、ノーム。

 彼に流れ込んだ魔力が、無理矢理にその姿を変異させたものだ。

 身体を駆け巡る魔力の流れ。どろりとした、溶岩のように熱を持ったそれが、血管を内側から撫でるように、削るように奔るのを感じる。痛い。熱い。それが何故か。

 朦朧とする意識の中。

 はっきりとしない感情の内に、

 ノームはただ、それだけを思っていて、


「――……ド、コ――」


 土の崩れに、欠ける土塊の音にすら消え入るような、ちいさな音。

 溢れるままのそれを、もう、一粒。


「……ドこ……――、み、ンナ……」


 どこに、行ったの?

 やがて一度、それは泣き叫ぶように。

 巨大な口をもたげ、天に向かい啼く。

 かの口はそのまま、張り裂けるように百八十度開ききれば、途端、身体が朽ちるように崩れていき、まるで開いた口に押されるようにその形を潰せば、ぐずぐずと、煮立つ泡のような音をあげて地面へと溶けた。同時に、地震を起こす。




 ふらつく足元に力を入れ、ハッとして、アーデルハイドは聞いた。


「おい、アルっ。あいつ、ヤバイんじゃないのかっ」


 どう見ても尋常ではない。

 それは、竜に変異している時点でだいぶ危ないのだろうけど。

 地面に溶け込んだそれを、もしかすればシレーヌの時みたく、そのまま攻撃でもされるのではないだろうかと、警戒するも、何も起こらず。地鳴りは次第に遠のき、ようやく、落ち着いた頃。


 立ち上がって、滝の傍でアルザークは森を見つめていた。

 緑の大地に視線を落とし、言うのだ、


「わかってる、アイリス。オレがやったことだ、あいつに今、なにが起きているのか。きっと、オレは誰よりそれを、理解している」


 目を細めれば、見えるわけではないけれど、わかる。

 振動は移動している。目指す場所は、恐らく――、


「アル、どうするつもりだ」


 隣に、アーデルハイドが立つ。

 同じ事を聞きたいのだろう、後ろではシレーヌが耳を澄ませて。

 遠く、

 緑の大地に目を向けたまま、

 彼は確かな口調で、言い放った。


「もちろん、決まってる。

 あいつの八年間に、

 あいつらのこれからに、

 オレが、決着をつけてくるよ」




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