(6)
ひらりと、尻尾の先をかすめる後ろ。塊過ぎて一本の腕のようになっていた彼岸が、その手のひらが、道を行き過ぎて反対の木々へと激突した。激突といっても、あちらは幻のようなものだ。物理的な衝撃音とは違い、魔力が波のしぶきのように裂ける気配と、妖精たちの、まるで波乗りを楽しむような甲高い笑い声が、後ろで響くばかり。
間も無く、明るく見えた周囲は、空は、赤黒さを色濃くして。
それが、魔力の密度が上げられたモノなのだと理解するより先に、
ルインは再び、走る。
走りながら、考える。
(このまま妖精さんたちを連れてたら、術の中央にたどり着いても、発動させてる暇なんてない、ですよね……)
すでにいつでも、陣を発動させる準備はできているけれど、魔力を流すのにも、ルインの魔法で補助をしたとして、始動に数秒は掛かる。それまでにあの手に捕まれば、それでおしまい、失敗だ。
となれば、
「あ、あのっ、セルシウスさんッ」
ルインの魔法では対処できない。
物理攻撃は当然意味がない。
だから、
「貴方のほうで、あれ、後ろの妖精さんたち、どうにかできませんかッ?」
聞いてみる。
声は、ホンの少しだけ悩ましい間を空けて、
『うーん、それは、私ならあの程度。追い払うことは簡単だけれど』
簡単なんだ。
「じゃ、じゃあお願いしますよっ。ってか、今すぐにでもやってくださいよッ?」
『でもね、ルインちゃん』そうしたいのは山々だけれどとばかりに『貴方も解っているでしょう? 私の魔法は、その魔力はいま、そのすべてをアルくんからの供給で賄っているのよ。この後のことを考えると、下手には手を出せないわ』
できることなら、彼への負担は極力避けたい、とした感じ。
でも、
「じゃあ、どうしたらいいんですかっ」
どちらも何もできない。では、手の打ちようがない。
そうこうしている間にも、やがて彼女達は橋を渡る。
橋を渡って、森へと曲がっていく。
間も無く、術の中心へとたどり着くだろう。
けれど、
後ろだ。
(まだ、ついて来てますもんね)
妖精達は追いかけてきている。
追いかけてきて――あれ?
「え」追いかけてきて、いない?
振り返って、その事実を確認して。
不思議になって、訳がわからなくなって、ルインは走るのをやめた。
一度足を止めて、振り返った。
いまこの瞬間を狙われたら、ひとたまりもないだろうなぁ、とか考えながらも。実はフェイクで、追いかけるのをやめたと見せかけて、先回りされてました。なんて展開を、予想しながらも。わあっ、って。出てくるのでは、と、考えながらも。
振り返る。
何も起こらない。
何も、追ってきていない。
何故か。
「あ、あの、セルシウスさん?」
『いえ、ごめんなさい、ルインちゃん。私もちょっと、見当がつかないわ』
どうやら、声が何かをしたわけではないらしい。
となれば、彼が。アルザークが何かしら手を打ってくれていたのだろうか。彼だってこの状況は見越していたはずだ。その時のため、何かしら布石を用意してくれていたのだろうか。そういう節、あったかなぁ。とか、考え終わる前に、
『ルインちゃん』
声に、急かされる。
「あ、はいッ」
考えるのは後回しだ。
それより、今がまさにチャンスなのだ。
妖精達の追撃が、どういう理屈か、止まっているこの隙に。
いよいよ、ルインは術の中心点へと、向かい走る。
そして、来た。
遂に、その場所だ。
そこは、ルイン達が術を敷いた、四点の中央になるべく場所。ただし、当然ながら何か特別な様相を呈しているわけではなく、意味深な、木や岩があったりするでもなく、そこは、他となんら変わらぬ、赤い森の一角だ。ただの、森の中だ。
あくまで、欲しかったのは中心点。魔術陣自体は完成させてあるから、あとはそれを操る為、身を中央に置く必要があったのだ。足早に、セルシウスの指示から細かい立ち位置を決め、止まる。
間に合った。
空を見上げれば、丁度、今が南天だ。
周りを見ても、妖精の姿はない。
あるのはただ、八年前から変わらぬ、紅い森ばかり。
嗚呼、遂にこの場所を、この、確かな奇跡が生んだ紅の世界を、壊すのだ。
そのことに幾ばくかの想いを馳せながらも、しかし、キリリと視線は前を向き。
やろう。
心に覚悟を。
決め、
「行きますよ」
前足を軽く開き、天へ咆哮する前兆の姿勢のように、すこし身をかがめる。そうして目を閉じ、全身を流れる魔力を、感じ。周囲の流れ。広く布いた魔術陣の、そこに流れる魔力を軌跡を、毛先一本一本を震わすように感じ取る。
すると彼女の足元。ルインを中心に、青白い、氷のような冷ややかさのある光が、渦巻いて。輝きは稲妻となりて四方へ走り、眩い結晶のような模様を、陣を浮かび上がらせ。
仕上げだ。
全身に高めた魔力。
それを、咆哮するように一気に解放する。
セルシウスも、術の始動に入った。
そんな時だ。
まさに栓が抜かれようとした、その直前。
蒼を割って、
紅が咲いた。
彼岸が息を呑むより早く、
ルインを、呑み込んだのだ。
彼女は悲鳴すら許されることなく、
成す術もなく。
華の中へと、消えた。
「消え、た……?」
ルインが、消された。
いや、それは有り得ない。彼女は魔狼。人狼ではなく、狼としての純血種。その存在は魔狼一頭一国等と呼ばれ、ただの一匹が国一つに匹敵する価値を持つ。アーデルハイドを万の兵を超える強さと評したが、彼女もまた、そうした伝説級の存在なのだ。
それが、消された。
(いや、有り得ない)
彼女は確かに、戦闘技術があるわけではない。むしろからきしだ。野生の本能で戦えても、実力をフルで活かすほど戦い慣れはしていない。けれど、そのためも思って、彼女にはセルシウスを預けているのだ。セルシウスに、ルインを任せているのだ。
ならば、
ルインが消されるはずは、ない。
けれど、
「約束の時間」「とっくに過ぎてるよね」
その通り。
もう、彼女達の方も事を完遂していても、おかしくない。
それが成されれば、森の魔力は流れ。目の前の悪夢は確かに、消え去っているはずだ。
けれど、
「わたし達は、まだ消えていない」「それが何よりの、証拠」
いや、
「有り得ない」
口にしても、
それは自信ではなく。ただ、そう信じ込みたいだけなのだと、わかる。
有り得ない。
繰り返すそれを、妖精達はどう思うのか。
「あーあ、でも、危なかった。あっちも、ちょっと王手かけられてたから」「一歩間違えれば、こっちがやられていた」「でも、そっかぁ。向こうはあーちゃんの状況、感じられてたけど、あーちゃん側はそれができないんだね」「不感症だったかー」「ごめんね、あーちゃん」「お別れの言葉、言えなかったね」「でも、安心して」「すぐ、後を追いかけさせてあげられるから」「安心して」「優しくしてあげる」「ふふ」「うふふふ」
ただ悪戯に、笑うばかり。
それに、
確かに彼は、余裕を失ったのだろう。
いつの間にか、膝が折れて地面が近い。
俯く視線の先、彼岸を毟るよう手に力が入る。
奥歯を噛み締めるように絞り出した声は、確かに、低く。
「……すこし、黙ってくれないか」
「ん?」「なーに?」
「ちょっと、黙っていろ、と、言ったんだ」
逆巻く感情を露わに。
彼は、静かに目を伏せる。
そうしたところで、彼からあちらを覗くことが、できるわけではない。セルシウスと繋がりを持っていても、それはたんなる一方通行。こちら側が一方的に、彼女に搾取されるだけの繋がりとしか、言えない。けど、
(おい、セルシウス)
ならば、聞こえているはずだ。
彼女には、感じられるはずだ。
(応えてくれ、セルシウスっ)
言葉は届かない。しかし、もしこちらの状況を感じられているのなら、彼の思いが、繋がるのだとしたら。なんでもいい、魔法を使って欲しい。そうすれば魔力を使われる側のアルザークにも、確かな感覚としてそれが伝わる。腕から血を抜かれた時に似た、脱力感が訪れる。だから、なんでもいいのだ。何かしらの反応が欲しい。それだけで、大丈夫だと、確信し、安心できるというのに。
「諦めが悪いなぁ」「現実は強敵だよねぇ」くすくす「理想郷にすら」「死神は存在する」「ネバーランドにだって」「別れも終わりも、あるんだよ」「そんなこと言ってたのは、誰だったかな?」「まさに特大ブーメラン、ってやつ?」
妖精は嗤う。
その声を遮るように、
その音を叩き割るように、
拳を握り、地面に叩きつける。
でも、
何もない。
何も感じない。
ただ、右手の反動だけが、ジリリ。
アーデルハイドは、地を殴りつける彼の肩に、手を置いた。
それはなにも慰めの為ではない。
むしろ、自分の為。感情を表す彼と違い、静かに、確かに、腹の底から沸き立つこの想いを、衝動を、抑える事がしたくて置かれた手であった。
ハッとした様子で顔をあげるアルザーク。
その様子に「ああ、驚かせてしまったな」と、
「すまない、アル。あ、言っておくけど、セクハラ目的じゃあないからな? もちろん、お前を責めてやりたいわけでも、まして、慰めてやれるわけでもない。むしろ、私の方こそ、すこし、頭に血が登りそうだったからなぁ。なんだろう、こうしてお前に触れていると、安心するというか、ひんやり気持ちいいというか。うん。落ち着くな」
「ヒトを冷却材みたいに言うなよな」
「まあいいじゃないか」これくらいで済んで、と、意味深に言って。
「とりあえず、そうだなぁ。アル。聞くが、どうする」と言うのも「お前は、ルインちゃんを、信じているんだろう?」答えるまでもない「なら、選択だ。真実はどうあれ、彼女の方に何かあったのは、違いない。現に、あちらから何もリアクションは来ないのだ。となれば、もしかすれば、彼女はいま、お前の助けを待っているかもしれない」
それは、かつてのシレーヌのように。
襲われたのは間違いない。だが、まだ生きていて、その上で動けない状態で、森の中、彼女はアルザークの助けを、待っているかもしれないのだ。だから、
「選べ、アル。
ルインちゃんを助けに行くか、否か」




