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(3)



 そして姫は天を往く。

 見えるのは遥か下に広がる湖面と、愛する嫁の見上げる姿。

 そして無粋な、


「これでは柱というより、魔物かなにかの触手だな」


 精霊の戸惑いを表すように、迷い、宙をなぞる水の柱を見て、


「さて、反撃だ」


 アーデルハイドは、両の剣を左右に放る。無造作に、

 しかし次には左手を前に、


「舞い開け、エーデルワイスッ」


 剣の名を叫ぶ。

 すると、幾つも。それは白の花が乱れ咲くように、空中に幾つもの魔術陣が現れる。リフレクション。それに触れ、剣は加速をもって宙を駆ける。姫の持つエーデルワイスは、それ自体に魔力の宿された、つまり聖剣だ。竜を断つと言われる剣が、一対の白き剣、エーデルワイスは、咲き誇る陣に惹かれるように、天を抜けた。


 水の柱が破砕する。


 リフレクションにより反射され、咲き乱れる魔術陣に触れては、指向性を得て、加速する白の刃が、幾重もの斬撃となりてすべてを斬り開く。

 その天上、姫の動きはそれで終わらない。

 エーデルワイスを舞わせながら、その先で、アーデルハイドは天に詠う。


「眩くは聖天、天恵の光。かの者に加護を、煌めきを」その右腕に、輝きが「集え、掲げ、轟く声は輝き満ちて」やがて十字を経て、剣へと昇華し「我が頂に捧ぐ、花となれ――ッ」振りかぶる。

「光の中に、咲け――《栄光の証‐グロォーリアァアア‐》ッ!」


 姫騎士の咆哮と共に、

 白き光の大剣が、湖へと突き立てられた。




 雨が降り注いでいた。

 湖を切り裂き、やはり音もなく、身軽なままにアーデルハイドは湖面に降り立つ。すこし息を整える。見れば、大樹の陰では妖精たちも驚きに口をあけ、アルザークでさえ、目の前の光景に顔をひきつらせている。

 可愛いな、と思う。

 でも、


(嗚呼、やってしまった)


 行いに、彼女は苦笑した。

 それは決して、勝者の余裕からではない。

 現状を、理解している者の、後悔だった。


「アイリスッ」


 アルザークが湖面に踏み出そうとする。

 感じて、それを、


「待て、アル」


 制した。

 それから、


「すまない」


 凛然を保ち、震えない声で、

 振り返った。


「負けちゃった、かも」




 え――? と。

 一瞬、彼女の言った言葉の意味が、アルザークにさえ理解できなかった。あれだけ圧倒し、余裕を見せ、絶対的だったのに。


(負け、た?)


 馬鹿なと思った。

 しかし、彼女が振り返った。

 その表情は変わらない、アーデルハイドらしい、可憐な笑みだ。けれどどこか、その表情が、降り注ぐ雨のせいか、どこか、泣いて、見えて。頬が、確かに濡れて、


 ――雨。


 アルザークはハッとした。

 しかし、


「アイリスッ!」


 叫べば、もう、

 彼女に声は届かない。

 それより先に、彼女の姿が消えていたのだ。




 アーデルハイドは、全身を圧迫する力のようなものを感じていた。身体中を締め付ける青の力は、つまり、水だった。まとわりつく夏の風のように、重く、のしかかる水のなかで、彼女は理解している。

 つまり、


『ようこそ、お姫様』


 湖の中へと、引きずり込まれたのだ。

 やらかした。

 すべてはやはり、あの、雨だ。


 もともと、アーデルハイドはこれを危惧していた。彼女が湖面に溶け込んだ時から、最悪の事態として、水中へ曳かれる事を警戒した。水の精霊を相手するのだ、それは当然のことで。だからこそ、水の柱からは逃げ、さばき、空中へと身を逃す。それなのに、


(雨、か……)


 原因は、やはりこちらの一撃だろう。

 決まると思ったのだ。力の差もあるし、いける。

 確信をもって、湖面を切り裂き、精霊へと届かせるはずだった一撃。

 けれど寸でのところで、うまくかわされた。驚いたと言えば、ちょっと、自信過剰か。

 いや、それでもどうやら避けきる事は、出来なかったらしい。その証拠に、


『なかなか、やってくれますわね』


 正面。水の中で対峙するシレーヌの姿。

 その節々が周りの水に溶けているが、しかし、


『この場でなければ、間違いなく危ない一撃でした』


 その左肩から深く、身体が裂けているのが見える。ただ、致命傷ではない。場所も相手に有利なのだから、遅からず、完治するだろう程度のものだ。


『うまく、こちらの攻撃をかわしていましたが、トドメと放った一撃が災いしましたね。おかげで、こちらは貴方より高い位置から雨を――つまりは、この湖の水を降らせ、貴方を、捕らえる事ができましたわ。

 そう睨まないでください。貴方の反射術式をかいくぐり、まして、その人並み外れた動きを捉えるなんて、こちらも、なかなかに苦労させられたのですから』


 すくなくとも、正攻法では防げただろう。

 しかし、天を取り、絶対的な立場からの必殺を放った。その直後だからこそ、それも、弾ける瀑布に紛らせ降らせた、雨だったからこそ、捕らえられたのだ。その雨はすでに、シレーヌの身体の一部だ。後は、つまりは、彼女を濡らす無数の水滴は、ちいさな精霊の手に他ならず、この水中へと引きずり込むのは容易となった。


 さて、


『形勢、逆転ですわ』


 解っている。

 水中ではどうあがいても、人間に分が悪い。

 まして相手は精霊だ。

 この勝負、


『私の、勝ちですわね』


 言葉と共に、容赦なく攻撃が来た。




 湖の上からその情景を眺める事しか、アルザークにはできなかった。

 水面下。

 深く沈んだ水の中には、アーデルハイドがいて、正面には精霊がおり。そして、攻撃が始まった。それはただの、一方的な嬲り殺しでしかない。水の中で満足に動けないアーデルハイドに対し、精霊は、まさに魚だ。この水中こそが、彼女の絶対的な領域。あの場において、水そのものである精霊を超えられるものなど、相反属性である風の精霊か、弱点となる雷の精霊か、そのくらいだ。


 しかしアーデルハイドは人間だ。

 いくら竜を殺せるとはいえ、術式の用意も満足ではない、水中である。

 おそらくシレーヌの攻撃によるものだろう。水流にただ身を揺らすアーデルハイドと、その都度彼女が零す、血のような気泡を見て、彼はその拳に力を込めた。


 このままではいけない。

 助けなければ。

 だけど、


(オレがこのタイミングで、魔法を使ったら――)すべてが、無意味だ。


 なんのためにアーデルハイドを巻き込んだのか。

 なんのためにシレーヌを焚き付けたのか。

 なんのためにルインが、いま、走っているのか。

 それらがすべて、

 意味を無くしてしまう。


 そうなっては――、

 いけないことを解っているから、アルザークは強く、気持ちを抑えるように拳を握った。彼にはただ、見守る事しかできないのだ。けれど、


「お願いだ、アイリス」情けないのは承知だ「ここは、お前しかいないんだ」女々しい事は、自覚がある。でも「オレは、お前の事を――」


 ぐっと、水中を睨む。

 動きがある。

 もはや抵抗の意思すら見せなくなったアーデルハイドへ、

 最後の一撃を見舞う。そういう動きだ。

 まるでその合図だというように、一度、精霊がこちらを見た気がした。

 だから、


「アイリス――ッ」


 叫ぶ。

 でも、

 届くはずがない。

 水面を震わすこともない。

 それでも、


 ――信じてくれ。


 思い出す。

 そう、願うのなら。

 馬鹿な事、

 そう、思いながらも、


「くっ」言え「この……!」云え「もうッ!」恥じらいなんて、


 かなぐり捨てろッ!


「あ――――――ッ」




 もう、幾らかだろう。水中に引きずり込んだ彼女を、シレーヌは容赦なく攻撃し、責め続けた。ぶつけるのは水流だ。ただし、その穿ちは岩を砕き、波をも潰す圧縮された水の砲弾。鉄塊にすら勝る水の礫を、何度も、彼女の身体へと叩き込む。

 ちいさな身体は、溺れる者さながらに水中で揺れた。


 最初は堪えていた様子も、やがて、口から吐かれる泡の数が、その大きさが増すにつれて、それがまさしく、魂を抜いていくかのように、溺れる彼女は、ただの人形のように、動かなくなる。ついには、閉じる意味もなくなった口が、開き、青に赤を滲ませた。

 目が虚ろになっているのが見える。

 すでに身体は、水に侵された。

 ならばもう、


『最期ですね』


 シレーヌは笑った。

 そして、勝ち誇る様子で上を見る。

 水面。湖の上から、彼、アルザークがこちらを見ていた。

 睨む顔が、まあ、可愛らしい事。

 焦らずとも、すぐにでも相手をしよう。

 次にでも、彼女と同じように、溺れさせてあげる。

 そう思い、


『ヒトの子。なかなか、愉しいひと時でしたわ』


 動かないそれへ、笑いかけ、


『では、私のかいなの中にて、永久に、おやすみなさい』


 告げて、

 シレーヌは水流を放つ。

 蒼に溶けて、

 それは、

 確かに白を、貫いた。




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