(2)
シレーヌは思った。
これでは、ダメだと。
落胆した。
所詮これは、小娘でしかない。
失望した。
この新参は、
「貴方は何も、解ってはいないのですね、アルザークっ」
言葉に、辺りの空気が震えた。
「ええ、あの方が選ばれた者です、そこに、少しの期待を持った私が、愚かだったのでしょう。なんという無知、なんという傲慢、その態度、悪しき氷の者のそれですわ。ならばもとより、相容れぬ、そうなのでしょうね、アルザーク」
「御託はいいよ。ただ、お前も、お前のやる事を譲る気は、ないだろう?」
「当然ですっ。何のために、何を思いっ、この八年、この永きを、このような場所で過ごしたと思っているのです。貴方の言うとおり、私は、この森を霊穴に変える事を厭いません。例えその結果招くものがあったとして、私には、もとよりやるべきがあるのですから」
「だろうな」
「残念です、アルザーク。貴方であれば、もし、そこまで気付けるのであれば、きっと、解ってくれると」助けて、くれると「信じておりましたものを――。ええ、嘆くことは、やめましょう。ただ、叶わぬのなら、向かい来ると言うのなら」
精霊は、確かな戦闘の構えを取り、
「抗いましょう、氷の者よ」
状況は、どうやら確立したらしい。
水の精霊はもはや、こちらの言葉に耳を貸すことはしないだろう。
けれど、
「いいんだな、アル」
確認する。までもなく、
天を覆う緑から、零れる光を仰いで、後、
「アイリス。もう後戻りはできない。解っているな」
「ふっ、誰に言っている、もとより私は、お前を信じてやまない女だ。たとえ、今日の私が危険日だったとして、お前が安全日だというのなら、ああ、そうだったな。じゃぁいいか。くらいには思えるほどに、お前を愛しているのだぞ?」
「病み過ぎだろう」
「病みつきだからな」
「軽く怖いんだけど」
「まったく、素直じゃないなぁ。ま、そこがいいのだが」
とにかく、
「あとは、任せておけ」
純白の姫騎士は、一歩、前に踏み出す。
湖に花が咲いた。
それは美しくも力強い。
純白の衣装を着飾る騎士は、それがまるで、貴族の煌びやかす宝石であるかのように、その身に、白銀の鎧を纏う。両腰には、やはり白の鞘に納められた、一対の刀剣を携えて。
一歩、水面を震わせ、
一歩、澄んだ空気を揺らし、
一歩、アーデルハイドは前を見た。
空気が戦慄くのを感じる。
それはつまり、目の前、水の精霊が怒りに震えているということだろう。アルザークは、この一帯が水の魔力で満ちていると、そう言っていた。実感して、なるほどと、笑う。
前に出て、アーデルハイドは深呼吸をした。深く、天を仰ぎ、瞼を閉じて。
この、戦闘の前の静けさが、好きだ。
激動を予感させる静寂が、たまらない。
だから、まずは、自分のなかからすべての音、光、感覚。何もかもを排除するように。ただ、周りの空気を堪能する。やがて、目を見開けば、そこに――藍。
見ては、
ちいさく笑みを浮かべ、
アーデルハイドは構えを取った。さて、
「まずは、貴方から、ということでしょうか?」
「そうだな。私も、精霊を相手する機会など滅多にないからな。貴重な経験だ。できれば、その胸を借りて、お手合わせ願いたい」
「よいでしょう。どちらからでも構いませんわ。来なさい、人の子よ。私が名はシレーヌ。水を司る精霊です。その畏れを知らぬというのなら、貴方の不敬を、教えましょう」
では、と、応え。
「私の名は、アーデルハイド・フォン・シュタウフェンベルク。そちらの言う、不出来で、不遜な、怖いもの知らずの、人の子だ」
右手を左の柄へ、
左手を軽く引いて、
「推して、参る――ッ」
言葉と共に、
激突は生じた。
初動は静かに。アーデルハイドに蹴られた湖面は、しかし、一つの波紋に揺れるばかりで。風はなく、光に揺らぎもない。ただ、音もなく、水面には大きな輪が生じた。
それが広がりきるより先に、
右手に剣を抜いたアーデルハイドの姿が、精霊の正面に来ていた。
一瞬。いや、それよりも速い。
次の瞬きより先に、シレーヌは咄嗟に右手を前にかざす。すると、正面に生まれるのは水のヴェール。淡く、薄く、しかし下手な障壁よりもなお強固な、水の壁。青のカーテンと白の刃が激突し、火花のように飛沫が弾ける。
ただ真っ直ぐ正面から突き立てられる刃を受けて、シレーヌは思う。
(なんという、人外の一撃ですっ)
とても人の業ではない。座るこちらも、しかし、受けるだけであれば万全に近い状態を持っている。なにより、この場所だ。この湖の中央部、つまり、神殿にみたてた結界の中心だ。この場所はもとより、自分が過ごしやすいように、つまり、精霊が魔力を扱うにおいて都合よく配置されているのだ。周囲の魔力を得ることも可能で、圧倒的に有利であるにも関わらず、目の前の白はそれを歯牙にもかけない。ただ、常人では得られぬ速度をもって、その重みを乗せて、まっすぐ、貫きに来ただけだ。
それだけの動きで、ヴェールに弾かれることもなく、拮抗してくる。
――なるほど。
思い、シレーヌは青のカーテンを波打たせた。
揺らぎに白の刃が弾かれると見るや、花がその身を風に乗せるように、軽く、アーデルハイドが後ろへと飛ぶ。先ほどまでが嘘のように、その挙動は柔らかい。
見て、なおシレーヌは、戦慄した。
「なるほど、これが、人々が噂する姫騎士、竜殺し、アーデルハイド・フォン・シュタウフェンベルクなのですね」
言えば、
少し誇らしげに、
「なんだ、精霊にまで知られているとはな。嬉しいかぎりだ」
「ふふ、この辺りを、軍が通過したことは、過去、一度や二度ではないでしょう? そのたびに、兵士らの囁きから、よく、貴方の武勇を耳にしていましたので。なるほど、その価値は確かにありましょう」
「連中め、また何を噂していたことやら」
「お聞かせいたしましょうか?」
「願えるなら」
「では、貴方が倒れた、その慰みにでも」
聞かせましょう、と、今度は水の精霊がその姿を消した。否、溶かしたのだ。大樹の根元に座っていたシレーヌは、言葉と共に、足元から水となり崩れるようにして、その身を溶かす。
この、一面に広がる湖へと。
「アイリスっ」
「さがっていろ、アル。できれば、岸にあがっていてくれるか? ちょっと、派手になりそうだ」視線だけ振り返り「気持ちは嬉しいが、心配するな。私は、お前より強いのだから。私は、姫であり、しかしお前の騎士だ」だから「信じてくれ」
「アイリス……」
「わかったら『愛してる』で、お願い」
「可愛く言ってるだけ、余裕だな、お前」
背後、取り敢えずアルザークが下がった気配がある。
これで、彼を巻き込む心配はない。
向こうもそのつもりまではないだろうが、
見れば、ふたりの妖精と土の精霊も、大樹の側を離れていない。あの辺りは、つまり安全なのだろう。ならばこれで、
「存分だ。来いッ」
応えるように、水が、震える。
水の中で、シレーヌは湖面に立つ相手を見た。
アーデルハイド・フォン・シュタウフェンベルク。
精霊は各属性の始祖や、現役の者をのぞいて、現界側の事情に深い興味を持たない。関わりがないから、隣の家の事情を認知しないのと似たような感覚だ。けれど、そんな彼女でも知っている。
アーデルハイド・フォン・シュタウフェンベルク。
面白い人間だと思う。本来であれば、もう少し、個人の興味を持って相対したかった。けれど、この場だ。ここを譲っては、すべてが文字通りの水泡と帰し、これまでの八年がすべて、無意味になる。アルザークは、つまりそうすると、宣言してきたのだ。
愚かだ。
だからこそ、
「全力をもって、潰させていただきますわ」
見据える。
片手に剣を持った姫が「来いッ」と言う。
ならば、遠慮なく。
水につられるように、空気が揺れるのが解る。
構えたまま、次第にその規模を大きくさせる、まるで、湖そのものが怯えるかのような振動に、アーデルハイドは注意深く辺りを睨んだ。持ち手を替え、左手に剣を、右手はもう一振りを納めた、右の鞘へ。そして、
――来るっ。
それは、吹きあがるように生まれたのは、幾つもの水の柱だった。
湖面の足場を突き破るようにして、それは現れた。十二から成るのは円柱の囲いで、天を貫くようにそびえる水が、アーデルハイドを中心に立つ。そして、十二本はその頭を傾げるようにこちらへと向ければ、瞬間、次々と矢を放つがごとく、伸びた。
合わせてアーデルハイドが踊る。
軽いステップで後ろへと一本を避ければ、続けて二本目三本目が飛来する。息継ぎにあわせ、左手の剣で左右に断ち切る。まだ来る。幾つもの柱が、避けては降り注ぎ、時に横殴りに、彼女を追い、それをかわし舞い続けた。白の斬撃が軌跡を残し、光を生んで、飛沫の中で彼女は踊る。
やがて、背後からの一撃が来た。迫るそれへ、今度は前方へと宙返ってかわした。しかし、着地を狙って。その足元を受け止めるように、新たな水の柱が生まれた。下から突き上げるように、高く、彼女の身体は打ち上げられて。宙へと、花が舞いあがった。
息を呑む。
間もなく、もはや数えるのも馬鹿らしい量となった水の柱が、彼女を襲う。
空中だ。
ヒトの身ではどうにもできない。
そう見えた。が、
アーデルハイドは笑みを浮かべた。
「この程度では、まだ、届かんさッ」
もう一振り。ついに、姫騎士その両手に剣を取る。
二振り一対の、白の剣だ。それが、再び宙で、水を相手に踊る。
下からの水に対し、振り下ろすように右の一撃を。叩き込めば、彼女はその反動を利用し、飛翔する。追いかける水の柱を、その首を叩くように左を横一閃。同時に身体を弾き、続けた刃で攻撃をいなし、あとは同様に、水を斬っては勢いを得て飛び続ける。両の剣で水を掻き、それはまるで、流水のなかで泳ぐ人魚のように。
アルザークですら、唖然とする。
下、深く湖に潜むシレーヌも、
『化け物ではありませんか、こんなのッ』
水中にて、溶ける声で叫ぶ。
必死に水の柱を操るも、どれも、彼女の身に掠りすらしない。
『ならば』
シレーヌは柱に、もう一つの操作を加えた。
次の瞬間、今まで宙を飛び、水と共に舞っていたアーデルハイドに異変が起きた。
変わらず、目の前の水流を叩っ斬る。その反動にて、回避、および迎撃の姿勢を作ろうとした。けれど、
「――ッ」
軽く息を呑む。
いや、
(剣が、呑まれる――、逆流かっ)
その通りだ。
これまで、打ち出したままに、水流を押し寄せるように柱を放っていたシレーヌが、逆に、同じように柱を迫らせながらも、その水の流れを引き込む動きへと変えさせた。見た目にこそ変わらないが、
『水を弾き得ていた反動が、なくなるのです』ならば『もう、泳げませんわね!』
言葉の通りに、目に見えてアーデルハイドの勢いが落ちる。呑まれそうになった剣はどうにか横に振り抜き逃げたが、反動を得ることができなかったその身体が、水流に引かれたのもあり、下へと落ち始めた。そこを、同じように流れを変えた水の柱が、穿ちに迫る。
次こそは、そう狙うも。
まだ甘いと、姫の表情が告げていた。
瞬間、
今度こそ、なんの兆候も利用もなく、彼女の身体が、
天を、跳ぶ。
水の柱は目標を失い、それぞれがぶつかり合い四散した。
なにが起きた。
いや、シレーヌは見る。
それは彼女の足元だ。
そこに、白の光で描かれた、ある模様が見えた。円形を基本に幾つかの幾何学模様を合わせ、術式発動の古語をまじえたそれは、すなわち魔術陣。彼女の扱うそれは、本来であれば防御に使われるであろう光の壁。つまり、
『反射魔術‐リフレクション‐。それを足場に、その身を飛ばしたというのですかっ?』
何度目の驚愕だろう。
リフレクション。それは、本来であれば対魔術用の基礎術式だ。しかし、アーデルハイドほどの実力者となれば、その密度、練られる魔力の厚みが違う。そして、それだけでは人間の身体を弾くには足りないだろうが、それを可能にするのは、
『足元、自分に向けて展開した防護陣に向けて、魔力を放っているのですね』
魔力を放つ。そんなもの、物理的に見ては大したものではない。火の気のないガスのようなものだ。けれど、リフレクションは魔術――すなわち魔力に反発効果をもたらす。そうして得た反力を、見事に、自分の動きへと反映させているのだ。
理屈は通る。
しかしそれをできるのは、
『術式を即時展開させる技術、精密さ。並外れた魔力、そして、反動を制御するだけの身体能力をもって、はじめて成せる動き』見事です。と、言い切れなかったのは、悔しさだ。




