(2)
見えた影に、一歩。慄き兵士らは身を引かせた。
無意識のうちに槍を構え、
その向こうに見える姿がある。
紅い森から、燃える炎のような光景、その先から、現れたのは一つの蒼。
フードを目深にして顔を隠し、揺れる闇のようにふらりと、しかし、隙もなく見せるその姿。ただ立つだけのそれに、兵士は異様なまでの、恐怖を感じていた。過去、街ひとつが消し飛び、総じて、数千の兵が彼によって殺められている。その事実が、彼らに恐怖を突き立てる。
緊張に身を固める兵士達。
それを前にして、わずかに、逡巡を見せた奴、アルザークは、
しかし一歩、確かに踏み出した。
辺りの空気すべてが、震えた気がした。
そしておもむろに、もう一歩。
彼がこちらに踏込み、ついに、柵の前へと身を近づけた時だ。
我先に、罪人へと向かう者が居た。
姫騎士、アーデルハイド・フォン・シュタウフェンベルクである。
誰もが「あ」と息を呑んだ。
見て、ヨハンもまた目を見開いた。
(姫……ッ!)
思う言葉は、声になる暇もない。
奴、アルザーク・A・レヴァンティスの威容は、見て、感じられぬほどではない。その隙のなさ、油断もなく、しかし余裕を持つ姿勢。場馴れしているのだろうし、なによりそれは、強者である証拠だ。熟練であるヨハンですら、彼だからこそ、それを前に迂闊な真似などできるはずもない。ヴォルムスも同様で、兵士らと共に前に居ながら、どう斬り込むかを悩むほどであった。
だというのに、
姫。
アーデルハイドは駆けた。
驚く兵士らを背に、まっすぐ。
罪人へと飛びかかる。
いけない、
誰もがそう思った。
姫の強さは知っている。九の頃には竜を殺し、十にもなれば戦場で勝ち抜いた。その偉業は人界のすべてが知るところで、その実力に疑いようはない。けれど、
(相手は、やつですぞッ!)
ヨハンは身を乗り出す。
ヴォルムスも前で、舌打ちと共に動く。
彼女の実力であれば、噂のアルザーク、それと拮抗することもできるだろう。確かに、その姫が前に出て、彼と一騎打ちをするのが、本当の意味での得策なのだろう、けれど。
「それをさせては、兵の名折れぞッ!」
四千人が、頷いた。
「ふざけんなよ、ビビってんじゃねぇぞ俺ッ!」「女のケツは愛でるもんだ、追いかけるもんじゃねぇ!」「お子様の姫様に、守られてちゃぁさッ」「俺達、居る意味なくなんだろうがッ」「何が罪人だ、可愛いは正義だろ!」「チラッと見えたけど、やっぱ生の方が、手配書より可愛くね?」「え、マジ?」「ツンドラ美少女キター!」「いよっしゃぁああッ!」
各々、気を高めて攻勢に出る兵士達。
しかしその前で、
「アルザァァークッ!」
姫が叫ぶ。
そして、
皆の前で、
吶喊する野郎共の前で、
それは起きた。
姫、アーデルハイドは両手を広げ、跳んだ。
それから、驚くように表情を見せた罪人へ、
彼女は、
力いっぱいに、抱きついたのだ。
その横顔は、少女のそれだった。
あれ? と後ろの連中が思う中、
「あ……」と声をあげ、あっけなく、あの、罪人が押し倒される。
後ろで声が、気合がしぼんでいき、
そんな様子など知らぬとばかりに、姫。
罪人に抱きついたそれは、
押し倒す形で、身体を起こし、
言った。
「アル……」
とろけるような、甘い声。
潤んだ瞳で、次の瞬間には、罪人の胸に頬を寄せて、
「逢いたかった」
背後。
兵士らが武器を落とす音が、感情のオノマトペ。
罪人、アルザーク・A・レヴァンティス。その罪状とは近年稀にみる極悪っぷりで、八年前のニヴル消失に続け、逃亡中の彼は幾人ものオフィールの兵を殺し、各地を転々としながら、今なお、軍の目を欺き野にはびこる。
そんな彼と、
姫の出会いは数週間前になる。
かの、竜退治の日。その事件の場に、彼は居合わせたのだとか。
公式の記録にはない事実だ。
もちろんそれは、彼というイレギュラーを出すことで情報を混乱させないためと、アーデルハイドの武勇をより、鮮明に人界へと伝えるための、公的事情があった。かと言って、姫の直下である自分たちにくらいは、その事実を知らせて欲しかったとは、ヨハンの不満である。
そんな文句を受けて、
その日のことを、姫は事も無げに話してくれた。
つまり、
「つまりだ爺、違うんだよ。確かに、罪人、こいつの、過去の経歴か。私も知らないわけじゃないし、あの日、確かに私自身、こいつを捕えようとした。命を奪おうともした。けれど、な。私は、こいつに救われたのだ。あの日、傷ついた私を、アルは支え、一晩を共にし、同じ苦難を乗り越え、その手を取り合い勝利を掴んだのだ! その感動はいまなお私を震わせ、あの感情は、常に私をときめかせる。つまり、だ。
あの日からこいつは私の嫁だ。愛でてなにが悪い」
その結論はどうかと思う。アルザークも。
しかし、
話を聞いてはヨハン。その顔に、いっそうの皺を増やし、
「姫、冗談ではすまされませぬぞ?」
「誰が運命の日に誤魔化しを含ますか。ピュアだ、健全だ、潔白なほどに事実だ」
「悪戯心であれば、ほどほどにしてもらえると助かるのですが」
「猫の戯れだと思えば、可愛いだろう?」
「あいにく、私は犬派でして」
「わんわん?」ポーズ付き。
「姫――ッ」
「そう怒るな。どっちにしろ、真面目だ」
「しかし、こやつは罪人で……」
「けれど私の恩人だ。そして恋仲だ。この事実は、絶対に覆らない」
恋仲。は、戯れと流しても、
しかし『恩人』。これが事実となれば、
それが、もし公にでもなれば、
(一国の姫が、界を跨ぐ咎人に、恩を着せられるなど……ッ)
場末の娼婦にも劣る、恥の厚着。
裸の王様の、なんと気高い事か。
ヨハンはただ、頭を抱えた。
アルザークは二人のやりとりを、静かに見守った。
場所は、魔術で造られた小屋の中。
兵士らのテントと違い、王族である姫のために用意された室内は、ベッドが一つ。その隣に椅子と机があり、姫はそこに腰を掛けている。挟んで立つのが、三勇士と呼ばれる姫直属の騎士、後ろの魔術師ヨハン・パリサナと、千の槍者ヴォルムス・コンラート。他、武装した十二名が壁際に立ち、囲まれるようにして、アルザークは座らされていた。
床に膝をつき、手は、背の後ろで拘束されている。
そんな彼の姿を見て、
「すまないな、アル。ところで、確認するようで悪いが、ルインちゃんはどうした? 一緒じゃないのか?」
「今は理由があって、別行動中だ。それがどうした?」
「いや、大したことじゃないのだが」と、姫は両手を前に。何かを揉むようなジェスチャーをして「もふもふしたい」
「可愛く言っても居ないものは居ないから」
というか、
こいつらいつの間にそんなに仲良くなっていたんだろう。
女の友情はよくわからないな、と思い。
あらため、
「となれば、尚の事惜しかったなぁ。いや、本当はお前と二人っきり、一晩じっくりねっとりぬんめり話し合いしたいところだが、無粋者ばかりでなぁ。どうにも、皆、女同士の二人っきりが許せないらしい。花も愛でぬとは、まったく、情緒のない連中だ」
「気にするな」あと「男女だ」
「あっはっは、アルは本当に冗談を好む!」
それ以上は彼も、何も言わなかった。
ただし周りの、
「女、だよな……」「こんなに可愛い子が女の子なわけ、……なんだって?」「お前らの目は節穴か? 女だろ」「どこが男だよ」「ああ? 確かめるぞコラァ」「馬鹿、やめとけ」「そうだ、んな危ないことさせるかよ。俺に任せろ」「やらせねぇよ? そういうお鉢は下っ端の俺に任せとけよ」「俺の方が雑魚だ」「いいや、俺の方が雑魚だね」「年功序列ってんなら俺が下だ」「馬鹿野郎、そういう命がけは、俺みたいなおっさんの仕事だ」
「お前ら、一応聞こえているからな?」
取り敢えず睨んで黙らせておく。
さて、
「それで、咎人よ」
悩ませる顔を上げ、重い声で、ヨハンが告ぐ。
「何をしに、ここに来た」
問えば、
「言わなかったか?」彼は言う「さっき、捕まえられた時も言ったはずだ。オレは、スヴァルトアールの姫、アーデルハイド・フォン・シュタウフェンベルクに、話があって来たんだ」
まっすぐな言葉だ。
それがなお、アーデルハイドの心を踊らせた。
頬を上気させ、にやける顔を隠せぬまま、
「あ、アル?」
「ん?」
ああ何その素の返し可愛いなもうッ「ね、もう一回」
「オレは、アーデルハイド・フォン・シュタウフェンベルクに、逢いに来たんだ」
あはぁっ! と、姫は蕩けた。
もうこれだけで、遠征の価値があったとさえ思う。
「なあ、爺」
「なんです、姫」
「きゅんきゅんする」
「――」岩石のように顔が硬くなる。
「いや、オレを睨まれても、お前らの姫だろう」
罪人の言う事は正論だ。
ゆえに腹立たしい。
何も言えないヨハンの、その隣で姫は、取り敢えず姿勢を直しながら、
「まったく、爺は頑固でいけないなぁ。ただの本音だろう」
「なおさら、余計に性質が悪いですぞっ」
「そう言ってくれるな、爺。私も一人の女なのだ。乙女だぞ。女の子。まだ成人の儀もしていない、ピチピチなんだからな。それが、数少ない機会。そう、いつもは押し殺してもやっぱり抑えきれないトキメキの具現、すなわち思春期! その満喫チャンスを目の前にしているのだ。ほら、よく言うだろう? 故人曰く、命短し恋せよ乙女、だ。愛する嫁との語らいを楽しむくらいの事はさせてくれ。言うがいちゃつかせろ」
凛とした態度で、水を得たように生き生きと。
ヨハンもすっかり、悩みの種が尽きないというものだ。
そんな彼を慮って、というわけではないのだろうが。ここに来て、やりたい放題やって言いたい放題を言って、ようやくの咳払い。気持ちを一新。さて、
「さて、これ以上、部下の気を揉ませても仕方ないからな。すこし、真面目にいくか」
「それで、アル。お前も、軍から逃げていたんだろう。それが、こうなるのを承知で私に逢いに来た。話があるというのは、どういう事だ?」
本来であれば、こんなこと聞くまでもない。大好きなアルザークの頼みだ、二つ返事でついて行っても構わない。恩もある。けれどヨハンが「それを認めては、姫、お分かりですね?」つまりは立場だ。姫という、立場。少なくとも「それを忘れて、アルには自分を、好いてはもらえぬだろうな」と、アーデルハイド自身も理解がある。あの日出逢ったアルザークは、いま目の前に居る美少女は、つまり、そういうやつだから。
だから、
「本来であれば、奴は、その場で首を討ってもなんら問題のない咎人です。しかし、それを成さぬのは、偏に姫の慈悲であり、懐の広さゆえと言うわけですな。だからこそ、奴に弁を振るう許しを与え、それを元にして、すべては姫自身のご決断が、その処遇へと繋がります」が「なればこそ、軽はずみな事はなされぬよう、くれぐれもお気を付けを。その言動が、すべて、各国への影響を及ぼし、果ては、我が国の立場をも左右することを自覚なさりますよう。して、姫が奴をどう思うかに関わらず、客観として、この場をご判断ください。奴に機会を与えるも、潰すも、これは、姫自身の、ひいては国の命運をも分ける決断となるでしょうからな」
それだけの重大性を、思いに改めさせられて。
だからこそ姫として、アーデルハイドは問うた。




