ある王女の最愛
ある魔術師の後悔、ある騎士の憤慨、ある養父の告解、の続きです。
前三作を読んでいただいた方が分かりやすい仕様です。
わたくしは、最後に夢を見たいのです。
それさえあれば、きっと幸福に生きていけるから。
わたくしの母は敗戦国からの献上品でした。
良く言えば、和睦の為に側妃としてお父様との婚姻を結んだのですが、あの母の様子を思えば、そう表現する方が正しい事でしょう。
わたくしは、母の笑った顔を見た事がありません。いつも母は、わたくしを哀しみと憎しみをない交ぜにしたような、複雑なお顔で見詰め、無言で目を逸らすのでした。
幼心に、母のそんな様子を仕方のないものだ、と諦めていたのでしょう。わたくしは母に何も求めませんでした。ただ、その御心を揺らしてしまう事を恐れ、共にあるときはひどく緊張していた事を覚えています。
そんな母とわたくしは、王宮内で孤立しておりました。
母の出身国は、かつてこの国と長きに渡る戦争をし、多くの命を奪い、土地を焼きました。この国の人々にとって、蛮国の出身であるわたくし達母娘の存在は、けして歓迎されるものではありませんでした。
幸いにして、お父様やお兄様方はわたくし達の立場に同情的で、その為に表立って非難する方はいません。けれど、そうした他人から向けられる負の感情は、どんなに幼くとも肌で理解してしまえるものなのです。
普段はお父様がご用意して下さった心優しい乳母や侍女に囲まれ、平和な空間を享受できますが、大勢の人々の前に立たねばならないとき、わたくしは改めて自身の立場を自覚するのです。この国にとって、わたくし達は異物でした。
わたくしは、幼いながらその空気に恐怖し、堪らずその場から逃げだす事が何度もありました。
その逃げ込んだ先で、わたくしは出逢ったのです。
わたくしは、あるとき安全な逃げ場所を見付けました。王宮の片隅にある、小さな子どもでなければ通れない隙間を抜けた先の木の根元に蹲って泣くのが、いつしか癖になっておりました。
そこに現われたのが、彼でした。気付けば壁を潜り抜け、わたくしが気付かぬ間にそばまで来ていた彼は、蹲るわたくしの手を強く引きました。
『こんな人気のない所にいては危険ですよ、お嬢さん』
わたくしより五つほど年上に見える、十歳ほどの男の子は大人びた口調で言いました。突然現われた彼にわたくしが目を見開いてびっくりしていれば、彼はどうして泣いているのですか、と問いかけました。わたくしが黙って俯けば、彼は困ったように眉を寄せ、すぐに人を呼びます、と小さく告げたのです。
それがわたくしと、彼――――エドガー・ラドクリフとの出逢いでした。
二度目にエドガーと出逢ったのは、それから更に二年後の事でした。
母の葬儀の日でした。長年、心を病んでいた母はついにその肉体も限界を迎え、天に召されたのでした。
眠るように一生を終えた母と向き合い、わたくしは衝動的に逃げ出したのです。
わたくしはずっと、母を恐れていました。わたくしの些細な挙動で母の憎しみや悲しみに火を点けてしまうのではないか、と幼心に理解しておりました。だから、母から距離を取られても、けして母の関心を得られずとも、不満を口にする事はありませんでした。
そんな愚かなわたくしは、このとき初めて理解したのです。わたくしは、無意識に願っておりました。祈っておりました。いつの日か、母がわたくしに振りむいて下さると。母がわたくしに笑いかけて下さる日が来るかもしれない、と。
もう何をしてもそんな日が訪れる事は無くなった日、私はようやくそれを理解したのです。
亡き母を求めて初めて泣きました。幼いながらに、いいえ、幼いからこそ、それは絶望と呼ぶに相応しいものでした。
そんな風に、あの木の根元で泣いていた所、彼が、来てくれたのです。随分と大きくなったエドガーは窮屈そうにこちら側に腕だけを伸ばし、その手から花を出しました。
わたくしは、魔術師という存在を知りませんでした。母の祖国では、魔術は悪しき物とされる嫌悪の対象だったので、わたくしのそばにもその存在を寄せ付ける事を、母が嫌ったのです。
だから、無知な私は驚いて思わずこう呟いたのです。
『………てじな?』
彼は、そのとき初めて、苦笑のような表情を浮かべたのでした。
それ以来、わたくしは生来人見知りである事を思えば、エドガーによく懐きました。
何も無い所から出るお花が珍しく、彼の姿を見付ければそれをねだるようになりました。また、不思議な事に、わたくしが泣いていると、決まって彼が一番に見付けてくれるのです。溺れるほどの花に、二人して埋もれてしまったときは、思わず涙も引っ込んで笑ってしまいました。
そんなエドガーが理不尽に晒されている所を目撃したのは、わたくしが十二歳、彼が十七歳のときの事でした。
その頃には、わたくしも魔術師という存在がどうあるものか、理解しておりました。その中でも、エドガーが優れた魔術師である事を知っていました。
彼が、その才故に理不尽に否定される姿を偶然見つけてしまったとき、わたくしは自分でも信じられないような行動力を発揮し、エドガーを否定する者達を拒絶したのです。
そんなわたくしに、エドガーは終始困惑した様子でした。わたくしが泣き始めても、その理由さえ分かっていない様子でした。
『実の両親も常々私を恐ろしい、気持ち悪いと言っておりました。つまり、彼らの言葉は単なる事実なのです。むしろ、そのように感じている私に話しかけるのですから、いやはや、彼らの心の広さには感服致します』
エドガーは本当に分からない、といった様子で、どうにも見当違いな言葉を繰り返しました。それにわたくしは、余計に涙が止まらなくなってしまったのです。
エドガーが可哀想でした。彼らの言葉のその残酷さすら理解できないほど当然だと感じるその心が、ましてやそれを両親に向けられていたという事実が、堪らなく哀しかったのです。
わたくしにとって、エドガーはただただ優しいばかりの人でした。遠目に見れば、その無表情は冷たく見える事でしょう。けれど、わたくしは知っています。不意に頬を緩める一瞬の表情は、誰よりも温かく優しいのだと。
泣きやまないわたくしに困り果てたエドガーは、わたくしの頭に魔術で取り出した花冠を載せました。薄紅の花の可愛い花冠でした。
『どうか、これで泣きやんで下さい。私は、貴女に泣かれてしまうとどうすれば良いのか分からなくなってしまうのです』
その、心からわたくしを案じるような、少しだけ寂しげな顔を見たとき、わたくしは初めて知りました。狂おしいほどに、抱きしめたい衝動を。
わたくしは、この人が、エドガーが、好き。
この哀しい人が、寂しい人が、けれど誰より優しい不器用な魔術師が、こんなにも愛おしい。抱きしめて温もりを伝え、愛していると叫びたい。
生まれて初めての恋でした。叶うはずの無い、恋をしたのです。
わたくしは恋を知り、世界が薔薇色に輝くように思えました。同時に、心が擦り切れてしまいそうな想いを知りました。
しばらくして、エドガーは国境線などの危険な地域や、時には戦場の最前線に向かう事が多くなりました。
わたくしは、戦場に向かう彼に対し、気が気ではありませんでした。エドガーは、とにかく自身に対する関心が薄く、大怪我を負っても平然とした顔をしているのです。
自室のバルコニーの下を彼が通りかかるのを待ち、その背を見送り、怪我がない限りは同じようにバルコニーから彼の無事を確認しておりました。不思議と、エドガーはその度にわたくしに気付き、一礼してくれるのです。
しかし、さすがに全身を包帯に巻かれ、足を引きずりながら帰還した際には、思わずその場まで駆け付けてしまいました。泣きながらどうしたのかと問うわたくしに『少々失敗をしてしまいました』と、恥ずかしげに口にしたときは卒倒してしまいそうになったものです。
もう少し自分を大事にして下さい、とどんなにわたくしが訴えても、エドガーは不思議そうに首を傾げるばかりでした。
そして、ついに恐れていた日がやって来ました。
お父様より、わたくしの結婚について示唆されました。お相手や詳しい事情は後日に、という事でしたが、遠からず嫁ぐ事が決まったのです。
わたしくは、エドガーに恋をしておりました。けれど、同時にそれが叶わないものであるとも理解しておりました。わたくしは、王族です。この国の為に、見も知らぬ方へ嫁ぐ事は、最早決定事項です。
それに嫌だと、駄々をこねる勇気もわたくしにはありません。その駄々をこねたとき、処罰されるのはわたくしではなく、エドガーなのでしょう。わたくしには、この恋心を胸に秘める他ないのです。
だから、わたくしは行動を起こしました。この恋を永遠に諦める為に、せめて思い出が欲しいと願ったのです。
わたくしは、自らが散らかしてしまった室内で、焦燥を滲ませるエドガーを何も分からないふりをして見詰めていました。彼は今、その優しさからわたくしの願いを叶えてしまった事で、わたくしへの憐憫とお父様への忠誠の狭間で揺れているのでしょう。
けれど、きっとその悩みはすぐに解消されます。
わたくしが彼の隠れ家に連れられて、三日が経ちました。悶々と頭を抱え続けるエドガーの懸念に反し、王宮ではさして騒ぎになっていない事でしょう。わたくしが残した置手紙を、姿を消した朝には侍女が見付けてくれているはずだからです。
『婚礼の前にこの世界をじっくりと見てみたいのです。護衛にエドガー・ラドクリフをつけましたのでご安心下さいませ。三日もすれば戻ります』
要約すればこのような内容です。戻れば、わたくしは強く叱られるでしょうが、王女であるわたくしがわがままを通したのだ、と言えばエドガーはそれほど罰を受ける事もないでしょう。
それをエドガーに伝えないのは、少し意地が悪いのかもしれません。
けれど―――――嬉しかったから。わたくしが何を言うよりも早く、黙ってわたくしをあのお城から連れだしてくれた事が、堪らなく嬉しかったのです。まるで、本物の恋人同士のように。
だから、わたくしは優しい彼に甘え、まるでエドガーに本当に愛されているから連れだされたかのように、その幸せに浸りました。彼を旦那様と呼んで、それに相応しいお嫁さんになりたいの、と叶いもしない夢をまるで現実のように。
それで、良かったのです。たった三日。三日間だけ、彼のお嫁さんになれた、という幸福な夢が見られれば、わたくしは残りの生涯を幸福に過ごせる事でしょう。その思い出さえあれば、わたくしは誰に嫁ぐ事も出来るはずです。
「エドガー、ありがとうございました」
わたくしは立ち上がり、彼はこちらを振り返りました。世界は夕暮れ時を迎え、夢の時間の終わりを告げるのです。
「わたくしの我儘に付き合わせてごめんなさい。誰よりも忠誠心の強い貴方に、とても辛い事を強いたと思います。………もう、良いのです」
「良い、とは…」
エドガーは、戸惑いがちに聞き返しました。いつも通りの無表情の中で、瞳だけが混乱に揺れているのが分かります。
「お城に戻りますわ。もう、満足だから。けれど、これはわがままだけど、どうか忘れないで下さい」
わたくしは、床に散乱する瓦礫となってしまったもの達を避けながらこちらへ近づくエドガーを見詰め、泣いてしまわないように気を付けました。優しい彼は、わたくしが泣いてしまうと、とても気に病んでしまうから。
「わたくしはエドガーが、好きです。それは忘れないで下さい」
どうかせめて、彼に覚えていて欲しい、と迷惑を承知で願いました。そうすれば、この報われない恋心も、きっと救われるのです。
エドガーは目を大きく見開きました。それから、混乱する心そのままにぐるぐると目を動かし、中途半端な位置で手足を固まらせました。しばらくそのまま彼が落ち着くのを待っていると、彼は何故だかとても驚いた顔でわたくしをじっと見つめたのです。
「クローディア様は、わたくしを想ってくださっているのですか?」
「はい、エドガーが好きなのです」
「けれど、別の男の元に嫁がれるのですか?」
「わたくしは、王族ですから……………きゃっ」
努めて平然と応えたのですが、当然雷鳴が怒号のように大地を揺らし、思わず短い悲鳴が漏れました。先程まで晴れていた空が、気付けば真っ暗になっています。
「びっくりしましたわ、エドガー………エドガー?」
驚きから脈打つ胸を押さえて振り返れば、彼は何故かその場にうずくまっていました。口元を押さえ、挙動不審に周囲を見回し地に伏せる姿は、尋常ならざる様子です。わたくしも慌てて座り込み、エドガーの様子を窺いました。そんなに、彼も驚いてしまったのでしょうか?
「だ、大丈夫ですか?」
「大変です。どうすれば良いのでしょうか…」
エドガーはこれまで聞いた事の無い、頼りない声で呟きました。何かに恐れるような、弱々しい声でした。心配したわたくしがもう一度彼の名を呼ぼうとしたとき、腕を強く引かれ、倒れこむように彼の胸に顔をぶつけました。
「貴女が他の男に嫁ぐ事を考えると、頭の中で嵐が渦巻く。黒いものがふつふつと湧き出てしまう。大変な事に気付いてしまいました」
ぎゅうと力が籠って、わたくしはようやくエドガーに抱き締められているのだと気付きました。
「エドガー・ラドクリフは身の程知らずにも、クローディア様を愛してしまったようです」
わたくしは、一瞬息が止まってしまった事でしょう。
叶えてはいけない恋をしました。期待も願いも、許されない恋でした。
けれど、でも、だって。もしも彼も同じ気持ちだと、そう言ってくれるのなら。
もう少しだけ、幸せな恋を夢見ても良いのでしょうか。
読んでいただきありがとうございました。
いくらでも続きが書ける雰囲気ですが、一応、これで一段落です。
ちなみに、王女の置手紙はうっかり昼頃まで見つからず、少々騒ぎになりました。
個人的な一押しは、クローディアによるエドガーの恋は盲目補正です。奴は、ただの、コミュ障です。
書き上げた感想としては、可愛い女の子は難しいなぁ、と思いました。あと、書きながら設定も決めていったので、矛盾がありそうで怖いです。
それでは、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。