第一話 三度目の悪戯
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すでに、二人の結末は見えていた。それでもまだ俺は、大丈夫だと自分に言い聞かせながら、この関係を続けていた。
彼女を気遣い、大切にしながらもすれ違ってしまったこの数ヶ月。
『もう、私達…終わりにしよ?』
放課後、二人の関係が始まったこの二年三組の教室に、呼び出された時から予感はしていた。そして今、俺は彼女に別れを告げられていた。
『なんでそれを選んだのか。理由は聞いていいか?』
その理由も分かっている。が、俺はそれでも彼女を信じたかった。
『私、聞いたの……影で私の悪口を言ったり、私を笑ってるって』
俺は目を瞑り、黙ってそれを聞いていた。
『あと、私が佑樹くんと別れるように色々と手を回していたとか…それと…』
その言葉の後に続く事については、多少疑っているのか語尾が弱々しかった。
『浮気してるって…証拠もあるの』
そう言いながら彼女は、足元に置いた鞄を見る。
『あなたを信じたかったし、こんなこと信じたくなかったけど…こんなものまで出てきて…もう、私どうしたら良いか分からないの!』
俺はこの状況を作り出した相手に、悔しさ、憎さを通り越して、ある種の賞賛を与えてしまった。
よくもここまで騙し込んだ、と。
『そうか…分かった』
俺は、もう既に逃げ道が塞がれているのを悟った。
『すまない…こんなことになって』
『っ!』
彼女は、俺の顔に浮かんだ諦めの表情を、どう感じ取ったのだろうか。
そんなことを考える暇もなく、彼女は俺の頬を叩いていた。
『なんで言い訳もしてくれないの…信じてたのにぃ…』
彼女は大きな目に涙を浮かべながら叩いた手を反対の手で握った。手に残る痛みを抱きしめるように。
『ごめん』
言い訳は出来なかった。なぜなら、もうすでに取り返しの付かない所まで来ていたのだから。
そう言うと俺は、彼女の横を通り過ぎ教室を出た。すれ違う時にもう一度、心の中で謝りながら。
教室を出ると彼女の声が聞こえた。声を抑えずに大声で泣く声だ。そんな声を聞き、俺の視界は僅かに歪んだ。
しかし、涙を零すわけにはいかなかった。
何故なら、教室を出たすぐ脇に憎むべき相手が居たからだ。
『今までご苦労さん』
語尾に音符でも付きそうな声でそう言う男こそ、俺を陥れた張本人だ。
『こっから先は俺に任せてよ。元・彼・さん』
瞬間、頭が燃えるように熱くなったが
『おっと、手を出しても良いのかな?また指導室に呼ばれるぜ??』
きつく握った手を振り下ろす事が出来ずに、俺は歯を軋ませた。
『あ、お前の教室ちゃんと片付けておけよ?じゃないとまたクラスメイトに笑われるぜ?』
そう言いながら俺の肩を叩き、今俺が出てきた教室に入っていった。
俺は一度深呼吸をして自分を落ち着かせると、自分の教室に戻るために一歩踏み出した。
俺は教室に戻ると、すぐに雑巾を片手に持ち掃除を始めた。
まずは俺の机にマジックで書かれた落書きを消していく。
―死ね― ―消えろ― ―強姦魔―
―人間のクズ― ―最低―
どれも俺を中傷する内容だ。シンナーを軽くつけた雑巾で拭いていくと次々と消えて行く。一度教師に掃除用のシンナーを借りていた所を見つかり、危うく退学になりかけたこともあった。
『よし…』
『よし。じゃないだろ』
もう放課後になってかなりの時間が経っている。この階には誰も残っていないと思っていたので少し驚いた。
『まだ残ってたのかお前』
『このままでいいのかよ…』
『…どうしようもないさ』
薄く笑う。本当にどうしようもないんだ。すべての噂が嘘だったとしても、そこに偽物の証拠を持って、説得力と真実味をもたせるのがあいつのやり方だった。
そこに俺が何を言っても話は通じない。この数カ月でそれを痛いほど知った。
『でもよ、彼女にちゃんと説明すれば!』
『駄目なんだ。あいつの作った証拠を持って別れ話をしにきたんだ』
そう、彼女は証拠を持っていた。それがなによりも辛かった。あいつの話とその証拠を多少なりとも信じてしまったのだ。
『何とかならないのかよ!くそっ!』
そう言いながら教卓を蹴ると、中から様々なチラシが出てきた。どれも俺を責める文章の書かれた物だ。
『くっ』
それを見てさらに顔を歪ませる。そんな表情を友達にさせるのが申し訳なかった。
『悪い、黒板消すの手伝ってくれないか?』
しかし、気を紛らせる為に選んだ手段も、友人の顔を歪ませることになる。
『これがクラスメイトのすることかよ…っ!』
そこにも俺を中傷する為の文字が色鮮やかなチョークで書かれていた。
『悪いな、手伝わせて』
『いいからっ!こんなの早く消して帰ろうぜ!』
二人がかりで掃除をしたのでいつもより早く済んだ。
昇降口で靴を履き替えていると
『俺、あんな奴と絶対くっつけさせないからな』
そんな声が下足入れの反対側から聞こえてきた。
『ああ』
『それに、俺が二人の間に立ってやる』
『二人がいつか和解出来るように、ずっと二人の親友でいる』
その言葉に俺は黙って頷いた。口を開けば今にも嗚咽が漏れそうだった。
(いつかきっと)
俺はその時を夢に描いた。
◇
夢を見た。それはとても懐かしくて悲しい夢だった。眼を擦ると少し湿り気を感じるほどに。
何が夢で、何処までが夢なのかは分からないが、俺はまた見知らぬようで、見知った天井を見つめている。
「また…なのか…」
目覚まし時計を探す。枕元にはない。つぃと視線をベッド横の窓に向けると、そこには斜めに立てかけられた目覚まし時計があった。
どうやらまた過去に戻っているようだ。
時刻を見ると以前より少し早い六時五十分頃。一度経験しているせいか、少し落ち着いていおり目立った混乱は無く、ただ困惑だけが色濃く残った。
「とりあえず今度はいつ頃に戻ったんだ?」
季節は夏頃だろうと軽く予想できる。何故なら着ている服や、ハンガーに掛かっている制服が夏物だからだ。気温も朝にしては少し
蒸す感じがする。
日付を確認するために携帯電話を開くと、メールが何件か溜っていた。一番新しいメールはついさっき届いたようだ。差出人は幸宏だ。内容は簡単に朝の挨拶や、放課後遊びに行かないかなどの誘いだ。一件何の変哲もないが俺は少し違和感を覚えた。しかし、その違和感が何だったのか分からないまま朝の支度を開始した。
季節はまた二年の夏だった。前と同じく合唱コンの少し前。
「前回のようなみっともない真似は絶対にしない」
そう決意しながらYシャツの袖に腕を通した。
学校の最寄駅に着くと、周りは一面学生だらけだった。うちの学校の生徒も居れば、近くの私立高校の生徒もいる。うちの学校は公立で規則も割りと緩い方なので、髪型や色なんかが自由だ。今は夏服なのでYシャツ姿が多いが、冬になればブレザーを着ることになる。
今日は割りと早い時間に着いたので、徒歩で学校に向かうことにした。学校へ向かいながらメールのチェックなどをして、当時の自分を少しでも自然に出せるように心掛けながら。
途中何度か知り合いに声を掛けられたが、無難に対応できただろう。
学校に着き、教室に辿り着いた頃には、時間も丁度いい具合になっていた。
「おっはよー」
「おはよう」
教室のあちらこちらから挨拶の声が聞こえる。
「よう、おはよう智之」
「おはよう」
いつからそこに居たのか、幸宏が声を掛けてきた。どうやら今回の幸宏は、俺の馴染み深い幸宏のようだ。前回は何かおかしかったのだが、あれも俺の行動のせいだったのかもしれない。
「で、今日の放課後カラオケ行くか?」
「まだ始まっても居ないのに放課後の話かよ。気が早いな」
「放課後の楽しみを作っておかないと、学校なんてやってられるかよ」
完全に勉強を諦めた人間の言うことだ。周りの男子も数人頷いているのは見なかったことにしよう。運動系ばかりなのもこの際なかった事に。
「まぁ特に予定ないから別にいいけどな」
「良いなら良いってもっと簡潔に言えないかなー智之は。いちいち回りくどいんだから」
「そんな事言っていいのか?予定入れるぞ?」
「またまたー。智之を誘う奇特な奴が俺の他にいるわけ無いだろ?」
事実だが幸宏に言われると癇に障る。目立つ髪色をした頭を掴み力を入れた。
「いだだだだだだ!ギブッギブッ!」
幸宏にそんな事をして遊んでいると。
「みんなおはよーう」
黒板側のドアから元気よく女子が入ってきた。その声に教室のあちらこちらから返事が生まれた。
「おはよー」
「おはよう夕紀」
「おはよう大西さん」
「今日も可愛いねー夕紀は」
そんな中でも俺はあまり注目せずに最低限の挨拶をして幸宏と騒いでいた。
「おはよう大西」
「大西さんおっはよー」
「二人もおはよーう」
あまり交流のないはずの俺等二人にもちゃんと返事をしてくれる。そんな所がクラスの人気者になる秘訣なのかもしれない。現に幸宏はずっと大西を見ている。
「挨拶返してもらったぐらいで惚れたのか?」
そう茶化してみても反応がない。
「おい、幸宏?」
「…あ、ああ悪いぼーっとしてた」
本当にどこか気が抜けていたのか、苦笑いを浮かべた後、頭をぶんぶんと振り始めた。
「本当に平気か?」
「大丈夫大丈夫。んじゃまた後でな」
そう言って、幸宏が自分の席に帰って行くと同時に、担任が教室に入ってきた。
午前の授業も終わり、昼もいつも通りに幸宏と購買で済ませた。
「毎回思うけど購買のカツサンドを手に入れてるお前が不思議でならないよ」
「俺は毎朝おばちゃんに予約してるんだよ」
「予約とか何だよそれ!ずるっ!」
別にずるくはない。ただ単に去年毎朝おばちゃんの所に通って交渉していただけだ。
「努力したまえ愚民」
「そんなズルして手に入れたカツサンドより、自力で手に入れたカツサンドのほうが美味いに決まってら!」
そんな会話をしながら幸宏と二人教室を出た。午後一番の授業が体育なのでグラウンドへ向かうためだ。
男子はグラウンドでサッカー、女子は体育館でバレーになっている。
基本的に先生はグラウンドに待機し、男子を監視しているのだが。
「さて、今日も適当にサッカー部を潰しますか」
そう言いながら幸宏は準備運動を始めた。普通、部活をやっている人間と一般の生徒では、部活をやっている人間のほうが上手いのだが、うちのクラスは例外だった。
うちのサッカー部は割りと強豪で過去に県大会出場など実績を残している。その為、敷居は高く、ただ純粋にサッカーが好きな生徒や、サッカー部に入部したは良いがついて行けなかった人間も多い。
うちのクラスにはそんな人間が集まっていた。
体育はニクラス合同なのだが、奇しくも隣のクラスはサッカー部が多く、自分達の実力を試す絶好の機会なのだ。
サッカーでの戦績はほぼ五分五分。多少負け越すこともあるが、勝てないわけではない。
「今日こそ勝ち越すぜ?」
そう言いながらサッカーボールを思いっきりこちらに蹴ってきた。
「おいおい、今からそんなに張り切ってるとバテるぞ」
そう言いながら俺も左足で強めのグラウンダーを返す。
「今日はどうだろうな」
そんな事を思いながら、先生がかける号令に従った。
「智之!センタリング!」
幸宏の声に反応してファーサイドにセンタリングを上げる。
「っしゃナイス!」
幸宏は俺が上げたセンタリングにドンピシャでボレーシュートを決めた。丁寧にワンバウンド付きで。
ハイタッチをしながらセンターラインに戻り始めると周囲の男子が少し顔を引き締めた。
何事かと思うと幸宏が近付いて来て。
「アレだよアレ」
そう言いながら、控えめに斜め上を指差した。そこには二階に作られた体育館があり、その周囲に設けられた通路に女子が何組か出てきていた。きっとバレーの試合をしていない休憩中のグループだろう。
「少しでも女子に良いとこ見せないとな」
「あんまりはしゃぐなよ?みっともない」
女子に見られているなら、相手も今以上にやる気を出してくるだろう。今の点数で一点リードしたが、油断は出来なくなった。
ふと、どんな暇人が居るのか気になり、女子が居る方に目を向けると、そこには大西や木村の姿があった。
「っ!」
そして、なぜか目が合ってしまった。向こうも気が付いたのだろう、ガッツポーズを向けてきた。
(頑張れ。ってところか)
思いがけない大西の応援に、心臓が高鳴った。
視線を戻しながらもう一度周囲を見る。俺も今こいつらみたいな顔しているのか。そんな事を思い、恥ずかしさが生まれた。
「号令!」
前に立った先生の合図で授業が終わった。
結果は三対ニで我がクラスの勝利。そんな中、俺は二点に絡む働きを見せた。
着替えが終わり教室でクラスメイトに肩を叩かれたり、声を掛けられていると、数人の女子が声を掛けてきた。
「ナイスゲームだったね」
「サッカー部に勝ったなんてすごいね」
「よくやった男子」
口々にさっきの試合の感想を言ってくる。男子は終始照れ笑いをして、顔が情けないことになっていた。滅多に誉められることが無いせいでデレられると弱いんだな。勝手にそう結論付けるていると。
「それなら藤田だぜ?」
なんの話題になったのか俺の名前が出てきた。
「ほら、左サイドに居たのって藤田だよな?」
「ああ」
何の事かと思えばポジションの話だった。左で蹴れる人数が少ない為、自然と左サイドに置かれていただけなのだが、女子からすれば左で蹴れることが尚更珍しかったようだ。
「藤田君って運動出来たんだね」
「藤田は割りと足速いし、良い球上げてくれるよ」
遠慮のない評価に苦笑いをしているとフォローが入った。
「智之はサッカーだけ得意なんだよ。サッカーだけ」
幸宏が言っている事は事実で、他の球技はあまり得意ではない。特にバスケットボールなどは苦手な部類だ。よく突き指もする。
「幸宏も一点決めたし十分活躍してるだろ」
フォローに感謝したわけじゃないが、一応幸宏の名前も出してやる。
「でも藤田くんは見た目とのギャップが凄かったね」
そう言ったのは女子の中でも少し背の低い、栗色の髪を腰まで伸ばした女子だった。
「大西…」
「はい、大西です!」
俺が思わず零した言葉を聞き取り、律儀に返事をするので周りは笑っていた。
「夕紀、あんた割と酷い事言ったって自覚ある??」
大西の横からスッと出てきたのは木村だ。
「酷い事??」
首を傾け横に現れた木村に顔を向けている。何人かは木村の言った意味が分かっているのか、俺に同情の目を向けてくる。
「夕紀は今藤田が見た目暗そうで、全く運動が出来ないオタクっぽいって言ったのよ」
きっとみんなが思っただろう。“誰もそこまで言ってない”と。そして木村の顔は悪魔だったと。
「そんな事思ってないからね?ね??」
しかし、大西はそれに気付かず大慌てで弁解してきた。
「ああ、別に気にしてない」
「本当に?全然そんな事思ってないからね??」
「分かったから落ち着け」
俺がそう言うと周囲は俺を冷めた目で見てきた。
「なんだよ」
「いやー?別に誰もお前が冷めてるなーなんて思ってないぜー?」
「そうそう、別に冷たいやつだなーとか、やっぱ暗いなーなんてなー?」
そう言いながら男子が散っていった。俺は誰に文句を言えば良いのか分からないので、取り敢えず幸宏は確保し、その場を離れようとした。
「本当に怒ってない?」
そういう大西に俺は幸宏の頭を掴みながら。
「大西には何も問題はない。木村、あんまり大西で遊ぶなよ?見てて可哀想になる」
そう言って今度こそ、その場を離れた。
◇
そんな三度目のファーストコンタクトから数日後、学内合唱コンクールのパートリーダー決めの日がやってきた。
「分かったわよ!あたしもやるからそんな目で見ないで!」
例の如く大西が立候補をし、木村を道連れにしていた。が、たった今木村が大西の泣き落としに屈した所だ。
「それじゃああとは男子だけれども。誰か立候補はいないか?女子に負けているぞ」
どこに勝ち負けを持ってきているんだ。と心の中で突っ込みを入れるが、俺は手を挙げない。
(今回はなるべく自分からは動かずに、流れに任せる)
先日のように、予期せぬ偶然にでもない限り俺は動かないことにしていた。
これは前回のような急激な変化を抑え、大西の周囲に極力影響を与えないようにだ。
そうこう考えている内に男子の立候補者が出たようだ。前回同様、一人目は玉置和也。パーマのかかった髪型で顔は優しげ、印象は悪くない男だ。だが、裏の顔を知っている俺からすればその笑顔もひどく作り物めいた印象を受ける。
そして、玉置が立候補するとほぼ同時に幸宏も立候補した。
「俺やります。やらせて下さい!」
普段から騒がしいことが大好きな、この似非優男は、何故か真面目な顔で立候補していた。
「じゃあ、パート的に僕がバスやるから、そっちはテノールよろしくね?」
「言われるまでもないね」
そう言って幸宏は何故か俺を見てきた。
「幸宏?」
「智之、手伝ってくれるよな?」
「は?」
俺は何を言われているのか分からなかったが。
「一人だとちょっと不安なんで、智之をサブリーダーってことにしていいですか!?」
「はっ!?」
木村に続き、俺も奇声をあげてしまった。斜め後ろから手が伸びてきて肩を叩かれた。
「ドンマイ」
木村がいい笑顔を浮かべながら、叩いた手とは反対側の手で親指を上げてきた。
「…馬鹿な」
自分が動かなくても周囲は動くわけで