第三話 四度目の笑顔
◇
三年になると合唱コンの話し合いもスムーズになる。
一、二年の時に指揮や伴奏をしたことがある人、パートリーダー経験者や音楽の成績がいい生徒。そんな役割分担がすぐに出来て、話し合いを円滑に進める。
しかし、俺はここで動かなければならない。
本来なら三年になった俺は、クラスでも当たり障りなく、波風立てないように自分を押し殺して日々を凌いでいるはずだ。
今思えば本当に受け身で、他人に自分の評価を任せきりにしていた。自分から何かを変えようとしないで、ただ現状を受け入れ大人になった振りをして。
本当は悔しいはずなのに。
「それじゃあ今年の合唱コンのパート分けはこれで終わりだな」
HRも半ばを過ぎ、待ちに待ったパートリーダーの選出。俺は信任投票じみた話し合いに石を投げる事にした。
「テノールパートリーダー立候補します」
その日の放課後、俺は幸宏を呼び出した。用事は勿論、俺の決意を伝える為だ。
幸宏も俺の噂や陰口を聞いているのか、最近はあまり機嫌が良くなさそうだった。流石に、まだ誰が噂を流したかまでは、知らないようだったが。
「よう智之。放課後、男二人残って何するつもりだー?」
何かニヤニヤと笑いを浮かべながら、近付いて来る幸宏に危険を感じた。主に貞操的な意味で。
「そんな警戒することないだろが」
そう言いながら、横にあった自動販売機でレモンティーを買う幸宏。同時に缶コーヒーを買うあたり何か良い事でもあったようだ。
「久しぶりに智之からお誘いがあったからな。最近なんだか距離というか壁というか…」
そう言えば、噂などが広まり始めてから、なるべく一人で居るようにしていた為、幸宏ともあまり遊びに行ったりしていなかった。
「悪い悪い。色々と考え事があってな」
「まあいいわ。んで、俺に話ってなんだ?」
俺は幸宏に事情を説明する。
俺の周りに起こっている出来事、噂の種類やら夕紀にまで被害が及びそうなこと。
そして、俺の意思。
「そうか…」
話を聞きながら飲み干した、レモンティーの完を潰しつつ、そう呟いた。
そこには明らかな嫌悪感があった。
「無理にとは言わない。が、俺を信じてくれるなら手を貸してくれ」
頭を下げる。幸宏には一番辛い事を頼もうとしている。
俺は、幸宏が夕紀の事を好きだと知っているのだから。それでも、それを申し訳ないと思いつつ頼むしか無い。
それなのに、俺と夕紀の間に立ってもらおうとしている。昔、幸宏が自分から言い出してくれたことを、今度は俺が、俺の我儘で幸宏に押し付けようとしている。
頭を下げている時間の沈黙が俺には辛かった。
しかし、
「バッカだなー…」
幸宏が急にしゃがみ、頭を下げている俺の視界に入ってきた。そして、
「そんな事、頭下げなくても手伝うに決まってるだろ親友」
そう、笑顔を浮かべながら応えてくれた。
◇
合唱コンのパートリーダーは結局元から言われていたクラスメイトに決まっていた。勿論、俺もそんなに急に事が上手くいくとは、微塵も思っていない。
だが、何もしないで夕紀を諦める訳にはいかない。その為に、俺は少しずつ周りの印象を変えていくしか無い。
そう、例えどんなに周りとぶつかり合おうとも。
「藤田、お前もう少し遠慮しろよな」
パート練習の時間、俺はパートリーダーである眼の前のクラスメイトに、そう言われた。
「遠慮?」
「お前が張り切れば張り切るだけみんな萎えるんだよ」
「そうか」
「そうか、じゃねえよ。自分の立場分かってんのか?」
これで分からないようなら、その人は相当鈍感だろう。ひしひしと伝わってくる嫌悪感。
きっと同じ場所で練習するのさえ本当はいやなんだろう。中には、噂に興味がないのか、普通に接してくれるクラスメイトも居るが、こういう時は大人しい。
「悪いけど、だからって手を抜く気にはなれないな」
「そうかよ」
そう言ってパートリーダーは教室から出ていく。それに続いて、数人の男子も教室から出ていった。彼らは俺に視線を向けると、それぞれ嫌悪、侮蔑、嘲笑、嫉妬、憐憫、様々な顔を見せた。
「さて、やる気がない奴らは帰ったことだし、俺らは練習するか」
怖い女子に睨まれないように。そう付け足すと、教室に残った数人は苦笑をしながら頷いてくれた。
全員が全員、俺を嫌っているわけじゃなかった。それさえも、昔は見えていなかった事だった。そう思いながら、俺は小さな一歩を少し重ねていく。
◇
そうして、数人の練習が続いたある日。
「男子のパート纏まり悪いわよ」
「わ、悪い」
女子との練習でそれは起こった。地道に練習していた人間と、練習をしなかった人間が上手く噛みあう訳はない。
それについてテノールのリーダーは女子にダメ出しをされていた。
「半分ぐらいのテノールは女子とちゃんと合わせられるのに、なんでテノール全体じゃ合わないのよ」
テノールリーダーは困ったような表情をしていた。まさか、練習をボイコットしていた、などとは言えないのだろう。しかし、
「テノールの練習はその合わせられるっていう半分ぐらいしか居なかったぜ?」
バスのパートリーダーがそう言った事で、困り顔が青くならざるを得なかった。
「それに、テノールの練習仕切ってたのコイツだし」
そう言いながら俺を指差す。バスのリーダーも言いたくは無いけれども。と言った表情なのは無理からぬ事だ。
きっとこのリーダーも、俺について色々噂を聞いているせいで、出来れば関わりたくないと考えているはずだ。
「それ本当なの?」
「ああ、この間テノールと合わせる時そうだった」
女子との練習をする前に、男子2パートで何度か合わせたいなんて、真面目にパートリーダーやっていれば誰でも思い付く。
「どういうこと?」
少しドスの利いた声でそう尋ねられたテノールシーダーは、気の毒なほど顔が青ざめていた。その時俺は
(ああ、この子理恵に似てるわ)
などと、間抜けなことを考えていた。
結局、合唱コンのことを考え、テノールパートリーダーには俺が…などという都合の良いことは起きず。今更パートリーダーを変えると混乱を生みかねないので、テノールパートリーダーは厳重注意を言い渡されただけで終わった。
勿論、その後は渋々といった様子で、ちゃんと俺も含め練習を再開した。
しかし、俺と練習していたクラスメイトと自分達の完成度があまりに違う事を感じ取ったのか、気が付けばそんな溝も感じなくなっていた。
◇
「――――…」
数時間しかない、体育館を使った練習の日をたった今終えようとしていた。
指揮者が手を軽く握ると、伸びていた声がピタリと止まる。
広い体育館では、教室で出している声以上に張らなければならないので、その確認をしていた。
「すごく良いんじゃないか?」
体育館の入り口に立っていた担任がそう言うと、各パートリーダーはホッとひと安心したようだ。
「それでは、次のクラスが控えているので、教室に戻って下さい」
ステージの下には、合唱コンを仕切る委員と、生徒会の面々が居る。
声をかけてきたのはその中に居ると少し背の低さが目立つ夕紀だった。
「了解。それじゃあ戻るぞ野郎ども」
俺がそう言うと、そこかしこから「調子にのるな」「誰が仕切ってんだ」などと、笑いながら言う声が飛んでくる。
クラスの男子限定でだが、それぐらいの冗談を飛ばせるほど関係は改善されて来ていた。
元々半数は、噂などには無関心だったり、知らなかったりという感じだったのが良かったのだと思う。
「ふふっ」
クラスの男子に捕まっていると、そんな微かな笑い声が聞こえた。
忘れもしない、聞き間違えたりもしない。それは夕紀の笑い声だった。
夕紀を見ると口に手を当て、クスクスと笑っていた。ここ最近、ずっと夕紀が笑っている姿など見たことがない。ずっと眉尻を下げた辛そうな顔ばかりだった。
決して大きな笑い声ではない。ただ微かな笑い声が漏れただけ。きっと周りの人間にはなんの感慨も無いだろう。それほど小さな笑顔。
でも俺はそんな笑い声が聞けることがとても誇らしく思える。そのせいか、らしくもなく視界が滲むほどに俺も笑った。
動き続けるにはそれだけの原動力がある