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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
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花咲く貴方へ

作者: 餡子
掲載日:2026/06/18

 こんなに華やかな場所なのに誰もが目の前の絵を素通りをする。きっとここに一枚の絵があることすら気づいていないだろう。

 騒がしい方向を向けば、一人の人物を中心にして人々が集まっていた。その後ろには、瑞々しい筆使いで描かれた風景画が飾られている。きっと、中心にいる人が描いたのだろう。

 だけど、誰もが絵を見ずにその人を見ている。

 僕は、もう一度目の前にある僕が描いた絵を見る。ひっそりと人に隠れながら寄り添いながら咲いていた二輪の花だ。

 後ろを誰かが駆け足で走っていく。その振動でカタカタと微かに額縁が揺れた。

 騒がしいその空間からそっと離れた。


 石炭の匂いが薄らと街を覆っている。

 それはまるで今の僕を笑っているようだ。

 背中を丸めながらとぼとぼとアトリエへ向かう。肩からずり落ちた鞄には、先ほどまでサロンに飾られていた絵が入ってる。

 あまり、大きな絵ではないとは言え重さで肩が痛い。

 落としそうになる鞄越しに箱を撫でる。そして鞄を背負い直すと背中を伸ばし一歩一歩踏み締めた。

 それから時間がかからずにアトリエが見える。

 だけど、アトリエは朝の時とは違った。アトリエに続く道に窓をカーテンで閉められた大きな馬車と今し方降りたであろう執事さんが立っている。

 貴族様と何か約束していたかと一瞬焦るけど思い当たる節はない。なら、あの貴族様は突然の来客なのだろう。

「あ、の僕のアトリエに何か用でしょうか?」

「貴方が、ジュリアンか?」

 頷いた。

「貴方に仕事を頼みたい」

 そう言って、執事は馬車のドアをノックする。中から蛇のようにまとわりつく様な甘い声が聞こえた。

 執事さんが、中の方から返事を聞くとドアを開ける。どうやら乗って欲しいようだ。まるで、洞穴の様な暗闇だ。見通せない先に思わずごくりと唾を飲み込んだ。

 足先が迷う。

 だけど、相手は貴族様だ。僕に断ることなんて出来ない。

 意を決して馬車に乗ると、ばたりと馬車のドアが閉められる。

 薄暗い部屋に女性が一人座っている。背筋を伸ばし、全てを許すような笑みを浮かべたご婦人は、自身の向かいの席を勧める。

 それに従うと僕は緊張した声音で尋ねた。

「それで、ご依頼とは……」

「貴方、この前フィーラス伯爵の御息女の絵を描いたでしょう?」

 その名前なら覚えがある。フィーラス伯爵からのご依頼で所謂お見合い絵を描きあげたことはある。

「あの絵に感動したの。それで、私の義理の弟の肖像画を頼みたいの」

「はぁ……」

 ご婦人は何かの花の香水をつけているのだろう。その花の香りが目に来る。

 ご婦人は少し伏目がちになり、憂うように語り始めた。

「私は心配しているの。騎士として、人々の模範になる義弟で自慢よ。でも、家でも緊張して過ごすなんて大変だわ。ちゃんと気を許せるような家にする為にも結婚は必要でしょう?」

 もの憂う顔は義弟を思う顔のはずなのに、涙でぼやけて見える。

「わかりました。僕の絵で良ければ描かせてください」

「良かったわ」

 婦人はにこりと笑うと一つの封筒を差し出した。

「それを、次の土の日。モリス・ケミラの所に持っていきなさい。隣の街の青い屋根の屋敷よ」

「わかりました」

 そう言って受け取った封筒には鷲をモチーフにした紋章が記された封蝋がついている。これがケミラ家の紋章なのだろう。

「ああ、そうだわ。この話はモリスには秘密にして頂戴。お相手もしらない方がロマンチックでしょう」

 ご婦人がそう言い終わると馬車のドアが開く。

 緊張した足先を動かし、外に出た。馬車は僕が降りるとすぐに走り出した。

 暗くなった空を見上げる。この街の側を走る汽車の煙で空は濁っている。

 そんなわけでご婦人が帰った後、きたる土の日に慌てて準備をすることになった。と言っても、持っていくものは絵が描ける様に木炭とキャンバスとスケッチ帳だけだが。

 土の日の朝、僕は貴重な水を使い身体を軽く拭う。そして僕が持ってる中で一等上質な生成りのシャツを着込んで黒のジャケットを羽織った。

「いってきます」

 誰もいない狭いアトリエのドアの鍵をしっかり閉める。

 丁度、後ろをゴロゴロと馬車が通る音が聞こえた。振り返れば、近所のおじさんが馬車を引いている。

「おじさん! 隣町行くなら乗せてください!」

 おじさんは間延びした声で承諾してくれたので馬車の後ろに乗る。

「ふぅ。ありがとうございます」

 馬車には牧草が沢山あって、座る場所に気をつけた。

「いいってことよ。それより、ジュリ坊。隣町に仕事か?」

「ええ。ある尊き方を描きに」

「はぁー。貴族様相手とは疲れるねぇ。そういや、帰りはどうすんだ?」

 帰りのことまでは考えてなかった。

「取りあえず、歩きで帰るつもりですけど……まぁ、時間によるかなぁ」

「それなら気をつけな。最近ここいらで賊まがいな輩が増えてるって話だ」

 その話に、嫌な想像をしてしまい背中がゾワゾワとする。

「ったく。北の方やら東の方やら色んなとこで領地同士で争ってるって話も聞くし、一体どうなってるんだか」

 おじさんはチラリとチラリと僕の方を見る。

「まぁ、騎士団が見回ってくれてるから大丈夫だろうけどな!」

 おじさんは大笑いをした。

 そのまま、僕がおじさんと世間話をしながら揺られていれば隣の街に着いた。

 おじさんにお礼を述べて、僕は一番大きな屋敷に向かう。

「ここ、だよね」

 街の人から聞いた場所には間違いが無い。

 息を整えるとドアノッカーを鳴らした。

 少しの間、待つとシルバーヘアを一纏めにした執事が現れた。

「どちら様でしょうか」

「画家のジュリアンと申します」

 それを聞くと執事さんはすぅ、と目を細めた。その動きだけで僕ごと周りが凍ったようだ。

「お待ちしておりました。どうぞ、此方へ」

 執事さんの案内に従い付いていく。途中、中庭に面した外廊下を歩いている時は、中庭の美しさに見惚れて迷子になりそうになったけどなんとか辿り着いた。

「モリス様。ジュリアン様をお連れしました」

「通せ」

 背筋が伸びそうな冷たくスッキリした声が扉越しに聞こえた。

 執事さんが扉を開けてくれたので中に入る。

 瞬間、流れる時間が止まった。

 部屋の一番奥にある執務用の豪奢な椅子に腰掛けているのは美丈夫だ。煌めく黒髪。バランスが取れた身体には引き締まった筋肉が付いているのが、服の上からでもわかる。

 そして、何より彼の眼から視線が逸せない。翳りのない白目。すっとした二重。そしてその瞳は新緑の葉の様に力強い生命力を感じる。

 ああ、彼を表現するにはどんな色を使って表現しよう。

「どうかしたか?」

 頭の中で持っている顔料を思い描いていると声を掛けられた。

「す、すみません!」

「まぁ、いい。それより手紙があるだろう。渡しなさい」

 僕は持っていたカバンからご婦人から渡された手紙を渡す。モリス様はそれを受け取るとペーパーナイフで開き、中を読み始めた。

 すると、モリス様の眉間はまた深く皺がよる。そのまま、読み切ると大きくため息を付き、僕を見る。

「ジュリアン。わざわざ来てくれてすまない。肖像画の件、お願いしよう」

「あ、ありがとうございます!」

 僕は嬉しくて、舞い上がった。

 引き受けた仕事だったが、今は僕がモリス様を描きたいんだ。

「ダニー。客室を貸してやれ」

「畏まりました」

 ダニーさんは恭しく挨拶すると僕を客室に案内してくれるらしく歩き出した。

 僕はその後を追う様に部屋を出る。

 その時、ふわりと石鹸のような爽やかな香りを感じた。

 

 2

 しゃっしゃっと木炭がキャンバス地の上を滑る。急いでスケッチを描かせて頂こうと思っていたが、モリス様は優しく心いくまでしていいと言ってくださった。

 うきうきとした浮かれた心模様でその言葉に甘えた。

「ジュリアンと言ったな。君はどんな絵を描くんだ?」

「はい。普段は、花の絵を専門に描かせていただいております」

「花の絵? それが何故、私の絵を?」

 やっぱり、専門外の人に描かれて心配なのかモリス様の眉間に皺がよる。

「普段は描かないのですが、とある尊き方からのご依頼で肖像画を描きまして、その方の肖像画を義姉君がご覧になったらしく」

 僕は苦笑いを浮かべながら、そう答えた。

「なんだ。君は義姉上の元で描いていたのではないか」

「ええ。僕は売れない画家でして」

 苦笑いを浮かべる。

 そこから、何度か描いては消して、描いては消してを繰り返す。しかし、それでもモリス様の目はしっくりこない。

 一旦、動かしていた木炭を止め対象を観察する。スケッチとは言え、モリス様の凛々しい瞳を描かずに帰ることはできない。

 じぃ、とモリス様を見つめる。眉毛の細さ、二重の幅、目の形。どれも一級品だ。この形を欲しがる人間は多いだろう。

「どうかしたか」

「いえ。やはりモリス様の瞳は美しいな、と」

 そう言うと、モリス様の顔が険しくなる。どうやら、何かを考えていると眉間に皺がよるのは癖らしい。

「君の言葉は真っ直ぐだな」

「ありがとうございます」

 そんなこと初めて言われた。少しだけ擽ったい。身体を動かし、座り直した。

「そうだ。肖像画のお礼だ。花が好きなら後で中庭の花を見ていくといい」

「いいんですか……? 嬉しいです!」

 思わず元気に返事をしてしまった。気恥ずかしい思いから苦笑してしまう。

 その時、控えめなノックが聞こえた。

「失礼します」

 ダニーさんが入ってきた。ダニーさんは僕に一礼すると、モリス様の側によっていき、耳元で何かを囁いている。

 モリス様が少し思案する様に顔を動かすと、小声で何かをダニーさんに囁く。それに頷くとダニーさんは足早に部屋を後にした。

「すまない、ジュリアン。仕事が入った。君も一晩ここに泊まるといい」

「え? ど、どう言うことでしょうか?」

 突然、貴族の屋敷に泊まる流れになり僕は戸惑う。

「この側の山で魔獣が現れたらしい。危ないから、泊まっていってくれ」

「ま、魔獣なんているんですか」

 魔獣。その言葉に緊張した空気が膨らむ。魔獣と言えば、悪意で暴走した動物だ。しかし、それはもっと荒んだ国に現れるはずだ。

「ああ。驚いてしまうな。だが安心してくれ。その為の騎士だ」

 モリス様は、安心する声音で言ってくれた。

「そういう訳だ。危険だから今日は泊まっていってくれ」

 横を通り過ぎる。その時に、モリス様からシダーウッドの鋭く尖ったような香りがする。

「中庭は好きな時に見てくれ」

 約束を忘れずに伝えてくださるとモリス様は、部屋を後にした。

 

 筋肉が緊張からかちんこちんになりそうだ。客室に運ばれた料理は、黄金色に輝くポトフと白いパンだ。

 どうやら、僕を気遣って身近なメニューにしてくれたのだろう。それでも、こんなに丁寧に作られたメニューは別物に見える。

 透き通ったスープに柔らかなにんじんにじゃがいも。そして、見るからに身が詰まっている腸詰め。

 僕は、食べる前のお祈りをする。

 曇り一つない銀のフォークを腸詰めにさした。すると、腸詰めはフォークに反発した。そのまま、少し力を入れるとぷつんと刺さる音を立てる。

 どきどきしながら、腸詰めを口に含むと肉が弾け、染み込んだスープの味と肉の味が舌の上に広がる。

「お、いしぃ……!」

 行儀悪くぱたぱたと足を動かしてしまった。

 腸詰めを食べ終わると、白いパンに手を伸ばす。触っただけで普段食べている硬いパンとは比べ物にならないほどふかふかで柔らかい。一口大に千切り、口に頬張る。

 ふわりと小麦のいい香りが漂い、口の中で優しく噛めばもちもちとした食感へと変わる。

 飲み込むのが惜しいが飲み込んだ。

 そこからは止まることなく白いパンもポトフも食べてしまった。

 食べ終わって丁度一息ついた頃、客室にノックが鳴る。

 ドアを開けると、ダニーさんがワゴンを押していた。

「食後の紅茶は如何でしょうか」

 部屋に入れるとダニーさんは食器をワゴンに乗せてくれている。

「手伝います」

「いえいえ。ジュリアン様はお客様ですから」

 にこりと笑うその顔には勝てなかった。食事するときに腰掛けていた椅子に座る。

 ダニーさんは慣れた手つきでワゴンに載っていたティーセットを用意し、白いカップには飴色の紅茶が注がれる。

 一言、お礼を言うと紅茶にも口をつける。柔らかい口当たりにほう、と息が抜ける。落ち着いた気持ちでダニーさんを見る。

「ダニーさん、ありがとうございます。ご飯も美味しかったです」

「それは良かったです」

 にこりと笑うダニーさん。でも、朝から雰囲気は変わっていない。

 そのまま、飲み干すとダニーさんはティーセットも下げて客室を後にした。

 残された僕は、脱力してベッドに倒れ込む。

 このベッドも僕が普段寝ているベッドとは比べものにならないぐらいふかふかしている。感触を確かめながら仰向けに寝直した。

 柔らかな石鹸の香りがする。その香りにやっと緊張が緩む。

 貴族様の屋敷だからこそ、緊張するのは当たり前だ。でも、それ以上にこの屋敷の人たちは僕を鋭く観察している。まるで、それは僕を見定めているようだ。

 ごろごろと身体を動かす。そうすれば、この事態から逃げ出せるのではないかと試すが意味はなかった。

 ならば、そっと目を閉じる。そうすれば、心地いい暗闇の中を浮かぶだけだ。

 夢の中の僕は相変わらず絵を描いていた。

 絵を描く変わらない日々。

 幸せな日々。

 ふと、モリス様の緑の瞳を思い出した。

 

 ぱちりと目が開く。見慣れない天井に朝日に照らされていて一瞬驚いた。そこで、昨日はモリス様の屋敷に泊まったことを思い出した。

 身体を起こすと、バキバキと骨が鳴る。慣れないベッドの柔らかさに緊張していたようだ。

 ベッドから立ち上がると窓を眺める。外には、丁度白い光が地平線から浮かんできた。

「いい天気」

 雲もなく、帰るには丁度いい天気だ。そう思うとあの狭いアトリエに帰りたい。朝食をいただく前に帰ろうか。

 少ない荷物を鞄に詰め込むとそれを肩にかける。

 ドアを開けると、屋敷には微かに忙しい雰囲気が漂っている。とりあえず、玄関に向かいながらダニーさんか屋敷の人と会おう。

 そう決めると、ゆっくりとした足取りで歩き始めた。

 歩き続けたが、屋敷の方々に会えない。徹底して影になっているのだ。一流の仕事ぶりに舌を巻きながら中庭に面した外廊下を歩く。

 右を見れば、中庭が広がる。

 白い薔薇が巻き付いたアーチの先には、石のレンガで色ごとに仕切られた多くの薔薇が咲き誇っている。

 相変わらず、ここに咲く花は立派だ。ふらふらとした足取りでアーチを潜り花に近づく。

 ふわりと薔薇の芳醇な香りが鼻に届く。朝露に濡れた赤い薔薇は、恥じらう乙女のようで美しい。

「気に入ったか?」

 突然、声を掛けられどきりと胸が跳ねた。振り返れば、モリス様が立っていた。

「モリス様。お怪我はありませんか?」

 立っているモリス様は見た目では昨日の姿と変わりない。しかし、相手はあの魔獣だ。

「大丈夫だ。魔獣と言ってもそこまで強くない個体だ」

 モリス様は、そう言うとこっちに近づいてきた。その足取りは真っ直ぐで確かに大きな怪我はないようだ。

「この中庭は私も気に入っているんだ」

 そう言って、モリス様は僕の隣に並び薔薇の花弁に触れる。

「分かります。この中庭、愛されてますよね」

 この薔薇は可憐に咲くが育てるのは難しい。ここまで薔薇が咲き誇る庭を維持するにはこまめな世話が必要だ。そんな手間ひまをかけて薔薇を咲かせている。

 モリス様は、ため息を吐いた。

「馬鹿馬鹿しくなってきたな」

 間の抜けた返事をしてしまった。

「義姉上が送ってきた相手だからと警戒していたが、どうやら君は本当に絵を描きにきたらしい」

「そうですよ?」

 画家にそれ以外の意味があるんだろうか。

「すまない。君を義姉上の手下だと思い疑っていた」

 モリス様が腰を曲げて謝る。まさか、貴族様が平民にそんなことをするとは思えず、体が跳ねてしまった。

「あ、謝らないでください! 僕は何も気にしていませんから!」

 意味がわからない謝罪に慌ててモリス様の肩に触れ体勢を起こそうとする。モリス様の大きな身体は力を込めても起き上がらない。

「すまない。また君に迷惑をかけたな」

 謝りながら起き上がったモリス様の眉間に皺が寄っている。

「いえ、大丈夫です。モリス様が気にすることではないですよ」

 にこりと笑う。その笑みで、モリス様の眉間の皺が無くなればいいと思ったがどうやらそうはいかなかった。

「そうはいかない。君を巻き込んだのは我が家だ。それならば、ケミラ家の人間として君に謝罪せねばなるまい」

「いえ、でも、本当に僕は気にしておりませんから」

「しかし、君を疑っていたのは事実だ。その謝罪は受け取ってほしい」

 意固地なモリス様に思わず笑ってしまう。

 急に笑い出した僕に驚いたのかモリス様はきょとんとした顔を僕に向けた。

「いえ、モリス様って真面目な方だなと思いまして」

「そうだろうか?」

「そうですよ。だって、モリス様程のお方なら僕のような平民に謝罪なんて必要ないじゃないですか」

 僕はそう言いながらモリス様から視線を外す。

 謝罪が必要ないのは当たり前だ。平民を貴族様が物のように扱うなんてよくある話だ。

 それこそモリス様の義姉君がそうだ。

 勿論、いい気はしない。それでも、社会の仕組みがそれを許しているんだからそれを飲み込むことが正しい。

 モリス様は眉間に皺を寄せるとまっすぐと僕を見ているのが視界の端から伝わる。

「確かに、貴族は多くの特権を持っている。だが、それは人間を道具のように扱っていいものではない。むしろ逆だ。人を人たらしめるためにあるものだ」

 モリス様を見る。モリス様の緑色の瞳が柔らかい草原のように変わっている。

「だから、私に嫌がらせする為に君を道具のように送ったのは怒っていいんだ。どうせ、選択肢がなかっただろう」

 まっすぐな言葉に、なんと返したらいいだろう。でも、許されるなら真っ直ぐな言葉で返したい。

 モリス様とちゃんと向き合う。

「確かに、突然だったし僕の意思が関係してなくて悲しくて、モリス様と会うまでは困りました。でも、今は僕がモリス様を描きたいんです」

 こんな短い言葉で届くだろうか。

「許されるなら、モリス様の肖像画を描かせてください」

 どきどき、心臓が忙しない。

「それは、嬉しいが……」

 モリス様が少し気恥ずかしそうに頬を掻く。

「私が、君のアトリエに向かうことは出来ないだろうか?」

 突然の申し出に僕は思わずきょとんとしてしまった。

「僕のアトリエに? 確かに、隣街なので遠くは無いですが……」

「昨日試してみて知ったのだが、その、自分の味方しかいないあの場だとすこし……」

 短い髪から露出している耳は少し赤くなっている。

「もしかして、気恥ずかしい、のですか?」

 あんなに真っ直ぐ僕を見ていた視線が泳ぎ、小さく頷いた。

 なんだか、その動きが青年らしくって僕は思わずくすくすと笑う。

「あまり、笑わないでくれ。絵を描いてもらったことなど今まで無かったから慣れていないんだ」

「ふふふ、すみません。確かにそれならアトリエの方が、人が来ませんから落ち着くかもしれません」

 じっとりとした半目で、僕のことを睨め付けるがそれすら楽しい。このモリス様の人柄がこの屋敷の厳しくも温かい雰囲気にしているのだ。

「それならば毎週、太陽の日を私に貸して欲しい。……難しいだろうか?」

「いえ、日がな一日絵を描いているだけなので、大丈夫ですよ」

「よかった。太陽の日は公休日でこちらに帰ってくるから、通いやすい」

 お休みの日を使ってしまうのは申し訳ない気がする。しかし、仕事柄時間が合わせづらいのだろう。

「分かりました。なるべく早く描けるように頑張ります」

 それならば僕が早く描けばいい。意気込みを新たに決め、そう頷いた。

「ありがとう」

 モリス様の目がきゅっと持ち上がり、細くなる。その顔は今まで見た顔の中で一番幼い。

 その後は、モリス様が馬車を出してくれると申し出てくれたが断った。

 土で出来た道を歩く。空は朝から変わらず晴れ渡っている。昨日より持ち上がる足でしっかりと地面を踏みつける。

 色々とあったが、それでもいい経験をした。

 鞄の上から、キャンバスの角を撫でる。その丸い角に触れる感触が心地いい。

 歩みながら、考えるのはモリス様のことばかりだ。どういう構図にするか、どんな色を使うか悩んでは笑顔を浮かべてしまう。

 だって、モリス様の誠実さを伝えるんだ。安心してしまった気持ちをどうキャンバスに載せよう。

 その時、地面に小さな水色の花が咲いているのに気づいた。屈んで見れば、よくよく見かける花だ。だけど、それが今日は少し違う花のように見えて持ち歩いているスケッチ帳を取り出し、スケッチしていく。

 滑らす木炭は、スッとしたいい香りだ。花と木炭の香りが混ざり、消えていった。意識が花とスケッチ帳だけになっていく。手を動かしていくと自分の意識が消えていくような感覚になる。

 意識が絵に溶ける寸前、キャンバスが鞄の中で揺れた。

 

 3

 次の太陽の日。モリス様は約束通り、僕のアトリエにやってきてくれた。

 ここまで歩いて疲れているだろう。朝買った果物をモリス様に出す。

「すまない。気を使わさせてしまったな」

「いえいえ。僕も食べたかったので」

 そう言って、葡萄に良く似たシュガナの実を食べる。少し暑くなってきたこの季節にはもってこいの瑞々しさと爽やかさだ。

「美味いな」

 そういうモリス様の表情は柔らかい。

「お好きなんですか?」

「ああ。好物だ。小さい頃は食べ過ぎて腹を壊したこともある」

 貴族様らしからぬ過去の話だ。まるでどこにでも居るような幼少期の思い出を聴いてしまった。

 麻で出来たタオルで果汁で汚れた指先を拭う。

 モリス様にも、差し出した。

 モリス様が指を拭うのを確認してから、イーゼルの前に立ってもらう。イーゼルの上には既にキャンバスが置かれている。

 途中で終わって乾かしておいた。今日からは本格的に色を塗っていく。

 油絵用の油が入った瓶を開けると独特の香りがアトリエ内に広がる。

 そのまま、絵の具を取り出し、絵の具を油で溶かしていく。

 モリス様を一度見る。背景は統一感が出るようにカーキ系統の色にすることにした。そうなると、と考えてから茶色を塗る。

 こうして色を混ぜることで色が複雑になり、絵に深みが出る。

 そうやって、脳内で何色を使うか決めて、別の色を塗っていく。

 何度か塗っていくけど、ある所で手が止まってしまった。

「どうかしたか?」

 動かなくなった僕に気づいたらしい。キャンバスからモリス様に視線をあげる。

「いえ。モリス様の目に合う青色が無いなと」

「青色? 俺の目は緑だが?」

「上から色を重ねた時に緑になるよう塗りたいのですが、今手元にある色だと違いすぎて」

 手元にある青色では明る過ぎたり、逆に暗過ぎてしまう。

「今日は、下地だけ塗るだけになりますが、次回からは必要になってしまうので」

 僕は苦笑した。

「ふむ。それならばこちらで用意しよう。どんな濃さなんだ?」

 僕は少し悩んだ。しかし、丁度いい色合いと言えば、前にミステの花で手作りした青色が合っている。丁度、開花の時期だ。採りに行ってもいいかもしれない。

「いえ、手作りしてみようかなと思います。丁度、ミステの花が開花時期ですし」

「ミステの花か。そうなると、ここから北の山か」

「ああ。あそこも素敵ですけど、実は西の山に穴場があるんです」

 北の山は確かに咲き誇っているが、特徴的な誘われるような甘い香りも弱く、色も弱い。だけど、ここから西にある山は日光か土なのか、ミステの花に良い影響を及ばしているらしく、香りも強く、色も濃い。

 西の山と聞いてモリス様の眉間に皺がよる。視線の先にあるモリス様の瞳はいつもと違い遠くを見ている。

「その採取、私も行ってもいいだろうか?」

 突然の申し出に驚いてしまう。そんな僕の様子に気付いたのかモリス様は続ける。

「ここ最近、西の方で魔獣の出現が相次いでいた時期があったんでな。念のために用心棒として連れて行ってほしい」

 魔獣。という言葉にざわり、と体の毛が逆立ちそうだ。モリス様の屋敷でも聞いた単語。その言葉の意味は。

「あ、あの。魔獣が増えてるって……。この国になにか危険が……?」

 人の負の感情で獣が魔獣になる。だから、国が荒れ始めると、人々の負の感情が増え、魔獣も必然的に増える。

「……確かに、不吉な前触れではある。ただ、人々を守るために騎士はいる」

 モリス様の言葉に安心、してしまった。

「では、お願いします。一緒に行けたら楽しいですし」

 にこりと笑う。

 安心したはずなのに心は騒つく。

 

 約束は次の太陽の日になった。

 採取した花を保存する為の瓶や、スケッチブックと木炭をいつもの鞄に詰め込むと待ち合わせのこの街の駅前でぼーっと立つ。

 まだ夜明け前の暗い駅舎を街灯が照らしている。

 夜明け前で、眠気から小さく欠伸をすると、誰かが近寄る足音が聞こえた。足音の方を向けば、街に住む若者だ。

 相手も僕に気付いたらしく会釈してくれた。会釈を返すとそのまま若者が横を素通りする。

 ふと、足元を見れば野花が一輪ポツンと咲いていた。

「すまない。待たせたか?」

 声がする方を見れば、夜空より暗い髪をしたモリス様がいた。

「いえ、今来たところです」

 モリス様の柔らかい声になんだかほっとする。

 モリス様はいつもの貴族様然な服では無く、平民のような動きやすい服装に腰に剣を差している。

「では、行きましょうか。あ、朝ごはん食べましたか?」

「いや、汽車内で買おうかと思って食べていないんだ」

「それなら、後で買いましょうか」

 駅舎に入ると、人がちらほらといる。誰もが、汽車のことばかり気にしていて僕たちを見ない。

「新鮮だ」

 モリス様を見れば、楽しそうな顔で真っ直ぐ前を見つめている。

 何処にでもあるありふれた駅舎の光景だが、貴族様には新鮮なのかもしれない。

 丁度、タイミング良く汽車が石炭の色がついた黒い煙を吐き出してやって来た。すぐできた列に並ぶ。少ししたらすぐに乗れた。

 荷物を上の棚に置くと、木製の長椅子に向かい合うように腰掛ける。モリス様はソワソワとしながら、腰掛けていた。

 先ほどから、浮かれている様子のモリス様。

「……もしかして、汽車初めてなんですか?」

 モリス様の目が泳ぐ。

「初めてでは、ないんだ。ただ、こう並んで乗るのが新鮮で……」

 その言葉で納得した。

「成程。確かに貴族様だと個室ですからね」

「ああ。だが、こうやって並んで話しながら旅ができるのはいいな」

「ダニーさんは一緒じゃなかったんですか?」

「執事とは別だ。それに、ダニーの前ではしっかりしないといけないからな」

 薄く笑いながらモリス様はそう言う。それは、迷子になったみたいに心細い。

「ジュリアン、どれにする?」

 モリス様は先程の笑みから一転し、明るい笑顔を浮かべている。どうやら、販売員を見かけ、窓を開け呼び止めたらしい。

 慌てて、販売員の持っているカゴを見ればライ麦パンを使ったサンドイッチが何種類かある。

「それなら、ハムとレタスのを」

「なら、私も同じのを一つとそのシュガナとクリームチーズのを一つ」

 モリス様が支払ってくれて、販売員から商品を受け取る。

 受け取ったサンドイッチは思ったより量が多く。これだけでお腹いっぱいになりそうだ。

「どうした?」

「量が多いなぁと思いまして」

 そう言うとモリス様の目が開く。

「こ、これでか」

「ええ」

「屋敷の時にはもう少し食べていなかったか?」

「食べてましたね。お陰で次の日のお昼まで食べずに済んだので食費が浮きました」

 そう言うとモリス様は苦虫を噛み潰したような顔をする。

「ジュリアン。もう少し食べれるようになりなさい。倒れるぞ」

「そうですか? 倒れたことないので大丈夫ですよ」

 サンドイッチの包みを広げると口に頬張る。

 ライ麦パンの硬さに負けないように喰らい付き、そのまま具材ごと噛みちぎる。瑞々しいレタスとハムの塩気がライ麦パンに合っており、美味しい。

 モリス様は少しじっとりとした目で僕を見ていたが、諦めてサンドイッチを食べ始めた。

 走り出した汽車の窓からちかちかと視界に光が差し込む。どうやら、夜が明けたらしい。

「綺麗」

 流れていく景色の中、視界の一番奥にある地平線から太陽が登っていく。白い丸は全てを許すかのように登る。

「ああ、綺麗だな」

 二人して、そうやって朝日を眺める。

「こうやって、朝を無事に迎えられると無性に泣きたくなるんだ」

「今日はどうですか?」

「今日は楽しくって泣きそうだ」

 そう言いながら笑うモリス様は普通の青年のようだ。

 そこから僕たちはぽつぽつ、と誰にも聞かれないように小声で話し合った。

 

 気づけば、昼前にようやく目的の山の麓町に辿り着いた。首都から離れたところにあるこの山に来るのは時間がかかる。

 時々、身体を動かしていたとはいえ身体は固まっている。背伸びをすれば背中から伸びる音が聞こえる。

 モリス様もストレッチを済ませると二人で駅舎を後にする。

 何度か来ているがこの街は、それなりに盛んで、活気溢れている。

 少し歩くだけで、色とりどりの看板が僕たちを歓迎する。鮮やかな色をしたフルーツ達を横目に通り過ぎれば、鱗を光に反射させ、キラキラと輝く鮮魚達が現れる。

 街の人々も客を呼び込もうと大きな声で人々を呼んでいる。

 僕たちは少しだけ買い物をすると、町を抜けて目的の山を登り始めた。僕より山道に慣れているモリス様が先導してくれるから、一人で登る時のように考えなくて済む。

 木々の合間の細い道を登っていくと、上から木漏れ日が溢れる。目の前のモリス様にも木漏れ日がかかっているのがなんだか面白い。

 くすくすと笑っているとモリス様が振り返る。

「どうした。楽しそうだ」

「木漏れ日が、雨のようだと」

「それなら、君もずぶ濡れだ」

「本当ですね」

 モリス様も笑う。少しの間、二人して笑い合いあった。

 一頻り笑いあうと、歩き出す。柔らかい空気が僕たちの間を通る。

 少し進むと川の間を木の板一枚だけ掛けられた場所があった。モリス様は、持ち前の運動能力で落ちること無く、川を渡り切った。

 打って変わって僕はゆっくりゆっくりと渡る。落ちたりして鞄が濡れたら一大事だ。今までのスケッチが消えてしまう。

 落ちないようにしっかりと歩いていると、モリス様の剣ダコだらけの大きな手が僕の目の前に現れた。その手に自分の手を重ねるとぐっと引っ張られる。

 そのおかげで、落ちることもなく川を渡り切れた。

「ありがとうございます」

 モリス様が、一つ、二つ返事をするとするりと手が離れていく。広くなった道幅に沿ってモリス様の隣に並んで歩き出した。

 

 はぁはぁ、と荒れた息が漏れ出る。まだ、中盤に差し掛かったぐらいなのに息が上がる。ちらりと隣に並んでいるモリス様を見れば余裕がありそうだ。

「大丈夫か?」

 視線が合う。少し恥ずかしい。

「すみません。少し休憩したいです」

「そうしよう」

 少し開けた場所に辿り着いた。大きい岩に腰を掛けると麓の町で買っておいた水筒に口をつける。温い水が喉を通り過ぎる。

 火照った身体には丁度いい冷たさだ。

「美味しい……」

「それは良かった。スピードは大丈夫だろうか?」

「大丈夫ですよ」

 そこで会話は途切れた。何気なしに空を見上げる。登り始めて二時間程経って、今は昼を過ぎた頃だろう。そう思うとくぅとお腹がなる。

「そろそろ、昼にしよう」

 そう言って、モリス様は背負っていた鞄から水筒と同じく麓の町で買った食材たちを取り出した。

 小さめのパンに切り込みを入れるとそこにチーズやらハムを挟んでいく。

 僕も、汽車で買ったサンドイッチの残りを取り出し祈りを捧げてから食べていく。

「ほら」

 そう言うとモリス様は切り分けた厚めのハムを僕の前に差し出す。

「ハム、ありますし……」

「だめだ。もう少し食べなさい」

 汽車の時とは違い、モリス様は引かない。諦めて、差し出されたハムに齧り付いた。厚めのハムで口いっぱいになる。

 もぐもぐと飲み込む。その後も、何度かハムを渡されながら、食べかけのサンドイッチを食べ終わった。

 水を飲んで一息つく。

 空には、鳥が飛んでおり鳴き声を発している。

 視線を下げて、今いる広場を見た。

 背の高い草の間に小さな野草が咲いている。

 木炭とスケッチブックを取り出す。

「少し、スケッチしても?」

「かまわない。……描いている所を見てもいいか?」

「構いませんよ」

 二人並んで、野花の前に屈む。そのまま、木炭で描き始めた。

 目の前にある花を観察する。可愛らしい丸い花弁を四枚描き、仕上げていく。

 描き上げるとふぅ、と息を吐き出す。

「凄いな。魔法のようにするすると描き上がっていくのが面白かった」

「ありがとうございます」

 ふわふわ揺れる花弁が可愛くって野花に触れる。少し力を入れたら花弁は千切れてしまいそうだ。

「この花の名前の由来を知っているか」

「由来までは……」

「この花は、元々妖精だったらしい。働き者の良い子だったらしいが、一人ぼっちだった」

 モリス様は花を見つめつつ、そう語る。

「ある時、神たちが眠ってしまい、妖精たちは楽をしだした。でもこの花だけは眠っている神たちの世話をやめることはなかった。神が目覚めた時、一輪の花になっていたそうだ。目覚めた神を喜ばせるためにその身を花にしたんだ」

 声が、柔い。

「そのことを知った神はこの花の種を世界にばら撒いた。この子の友達が出来て喜んでくれるようにとこの花の種を増やしたんだ」

「……酷い話です」

「そうだろうか?」

 モリス様の方を向いて、服を引っ張る。モリス様と目を合わせた。

「酷いです。だって、誰もこの子が生きてる間は見向きもしなかったのに死んでから美談のように持ち上げて」

「そうか。私は、妖精の気持ちが分かってしまうけどな」

 そう言うモリス様はどこか遠くを見ている。

「さて、スケッチも終わったことだ。行こうか」

「はい」

 立ち上がる時に少しだけ骨が軋んだ。

 何となく、そこから口が重くなかなか開かなかった。さっきまでの和やかな雰囲気が気まずいものへと変わった。

 鳥の鳴き声しか聞こえない山道を歩いていると、モリス様の動きが止まる。

「どうしました?」

「ここを見てくれ」

 指が示した方を見ると心臓が跳ねる。とある木の幹に大きな爪痕が残っている。

「熊だろうな」

「この季節、となると発情期のオスでしょうか」

「かもしれない。鈴を着けておこう」

 モリス様が鞄から、紐がついた鈴を差し出してくれた。それを受け取ると腰紐につける。

 歩くたびにリーン、と甲高い音が響く。

 鈴の音を響かせながら、目的の山奥まで歩いていく。段々、森の緑が濃くなっていき、樹木特有の爽やかな香りも強くなってきた。

 木陰で涼しくなってきた山道を進んでいくと急に視界が開けた。

 目の前には、海のように濃い青色の花の蕾が開けた場所いっぱいに咲いている。まだ咲くには時間が掛かるが、開花寸前の蕾が一杯に咲いているのは圧巻だ。

 モリス様も同じ気持ちらしく、息を漏らすだけで微動だにしない。

 どれぐらいの間、二人で並んで花畑を眺めていただろうか。モリス様が持っていた懐中時計を開いて、時間を確認する。

「開花までに間に合ったな」

「ええ。開花、実際に見るのは初めてです」

「私もだ」

 少しずつ、時間が流れていく。開花の三時に近づく度、緊張感が増していく。

 そして、開花の時間がやってきた。

 風で波のように揺れていた花たちが動きを止めた。木々に覆われた薄暗い闇に溶けていた花弁が少しずつ光だす。

 ぽぉ、と優しい光が花全体を包み、花弁が開く。

 暖かい水色の光に包まれたミステの花が一つ、二つと増えていき、最後は花畑全体が光に包まれた。

 時間通りに開花していく様に、吐息が漏れる。

 隣にいるモリス様をちらりと見上げれば、モリス様の緑の瞳がキラキラと輝いている。

 その光は、太陽に負けないぐらい輝いていた。

 光が落ち着き、あたりが元の薄暗さに戻った頃僕たちは本来の目的を思い出した。スコップを使い、いくつかのミステの花を根っこから掘り出すと、土を払い瓶に詰めていく。

 何束か二人で頂くと瓶を鞄にしまった。

「これを乾燥させるのか?」

「はい。乾燥させて粉末にして膠と混ぜます」

「作り方は普通なんだな」

「そうですね。ミステの花はそこまで難しくないです」

「ジュリアンはよく絵の具を作るのか?」

「趣味程度ですが」

 そう話して帰ろうとした時、ぞわりと背中に嫌な寒気が走る。キョロキョロと辺りを見渡すと、モリス様が僕の前に一歩出て、守るように立つ。

 モリス様の目が鋭くなる。剣のような瞳が見る方向を、見る。

 それは、木々の間にいた。赤い光が、暗い木々の間でも強く光っていた。鋭い爪をした黒い手がぬう、と現れ一歩前に出てくる。

 黒いもやに包まれたモリス様よりはるかに大きな身体。毛むくじゃらの顔から覗く瞳は赤く、黒い瞳と違う。それはどう見ても熊の魔獣が立っていた。

 腰から力が抜けてしまう。尻の下に潰されたミステの花の感触がする。

 モリス様は、慣れているのか腰につけた鞘から剣を取り出すと力強く走り出した。

 きぃん、と魔獣の爪を剣で弾いた。そのまま、叩き付けるように横一線に剣を振るう。

 モリス様と魔獣が戦う姿を眺めながら、呆然とする。

 きっと、モリス様が助けてくれるはずだ。だって彼は騎士なのだから。

 魔獣が咆哮を上げながら爪を振るう。爪が、モリス様の腕を掠る。少し掠っただけでぱっくりと裂け、血が吹き出す。

 それでも、モリス様は剣を落とさない。

 代わりに、魔獣の腕を切る。

 大丈夫、モリス様なら倒してくれる。僕は、このままいればいい。

 モリス様の肩が裂かれた。

 血が、此方にも飛んでくる。その赤は死を予感させた。

「あああああああ!」

 僕の喉から叫び声が上がる。叫び声の勢いで立ち上がり、そこいらにあった大きな石を掴み、勢いよく石を魔獣に投げつける。

 石は魔獣の前で落ちたが、僕の叫び声に反応したらしく勢いよくこちらに向かってくる。

 僕の目の前で、大きな爪が振るわれる。来るであろう衝撃に目を閉じた。

 しかし、痛みは一向に来ない。ゆっくりと目を開くと魔獣がうつ伏せに倒れている。背中からどくどく、と血を流して絶命しているのが分かる。

 奥から、モリス様がやって来た。どうやら、傷は深くないようだ。

「モリス様、血が——」

「どうして、危ないことをした!」

 モリス様の怒声に体がビリビリと痺れる。

「隙が出来たから、倒せたが一歩間違えたら死んでたぞ!」

「でも、モリス様が怪我してたから……」

「私は騎士だ! 君のような民を守ることが最優先だ!」

 沸々と怒りが沸いてくる。

「確かに! 危ないことはしました! でも、それならモリス様を見捨てて逃げろと⁉︎」

「ああ、そうだ。私はその覚悟が出来ている」

 覚悟。その強い言葉に、胸が騒つく。汽車での笑顔や、ハムを差し出した顔がちらつく。

「覚悟。覚悟なら僕にもありました。あそこで、モリス様を置いて逃げるのは嫌でした」

 鞄から、清潔そうな布を取り出し裂く。裂いた布でモリス様の腕を止血する。

「だって、逃げ出したら僕は貴方を二度と描けない」

 そう言うとモリス様は眉間に皺を寄せ、重く息を吐き出した。そして、黒い頭を下げた。

「すまない。君には真っ先に礼を述べるべきなのに」

「いえ、僕も無茶をしました。ごめんなさい」

 僕も頭を下げる。そのまま、止血を始めた。

 今更ながら手が震えている。震える手で、モリス様の肩にも布を巻いていく。

「ありがとう。助かった」

 モリス様の言葉が柔らかいものになった。その響きだけで今まで耐えていた涙が溢れてくる。

「怖かったな」

「はい」

 鼻水でぐずぐずになった声で返事をする。

 泣き止むまで、モリス様は何も言わなかった。

 なんとか落ち着いた頃に、モリス様が歩き出した。しゃん、と伸ばした背中を見ていると先ほどの魔獣の前に膝をついて、祈り始めた。

 僕もそれに倣い、魔獣の前に向かう。

 先ほどまで、黒々としていた魔獣は茶色の普通の熊の姿に戻っている。膝をつき祈りを捧げる。

 少しの間、祈りを捧げると立ち上がる。

「帰りましょうか」

 モリス様の方を向き、手を差し伸べた。モリス様が手を取る。

 僕たちは並んだ。

「そうだな。暗くなるだろうから足元には気をつけなさい」

「はい。モリス様も何か調子が変わったら言ってくださいね」

 

 4

 ミステの花を摘みに行ってから、それなりの時間が経った。気づけば、初夏を超えて夏真っ盛りを迎えている。

 暑いアトリエ内で僕は乾燥させたミステの花を粉末にしている。ゴリゴリと乳棒でミステの花を砕きながら考えるのはモリス様のことだ。

 モリス様の怪我は幸い其処まで深くなかった。

 それでも腕が動けば痛いはずだからと肖像画は治るまで待ってもらおうと提案した。しかし、モリス様は怪我など気にしていないように約束通り太陽の日にアトリエに訪れては肖像画を描くついでにおしゃべりを楽しんでいる。

 あの事件から、モリス様はよく喋って、よく笑うようになった。僕も、今の時間は楽しい。だからこそ、安静にしてほしい気持ちが強くなる。

 どうしたものかと悩んでいると、ゴンゴン、と荒々しくノックをされる。

「今行きます」

 扉を開けると、執事さんが立っていた。その顔には覚えがある。モリス様の義姉君に仕えている方だ。

 執事さんが、一歩下がって道を譲る。その先には、紋章を外した例の馬車が止まっている。

 馬車にある小さな窓から覗く洞のような暗闇も変わっていない。その暗闇は何でも食べ尽くしてしまいそうだ。

 足が竦む。

 ふと、モリス様の緑の瞳が思い浮かぶ。

 一歩、踏み出す。ざりざりとした地面を逆の足で踏んで一歩、進む。

 扉の前でノックする。小さな音だけど、中にいる人には聞こえたらしく扉が開いた。そのまま、乗り込んだ。

 馬車の中は相変わらず、薄暗い。微かに漏れている光で義姉君の向かいに腰をかける。

「ごめんなさいね。突然」

「いいえ」

 石のように硬い声を出してしまった。

 相手は気にしていないようだ。

「それで、進みはどうなっているの?」

 今の状況は、普通だ。遅れてもなく、早く終わる見通しもない。

「まずまず、といった所です」

「目処は?」

 香水の香りが、鼻にツン、とくる。

「後、一ヶ月程かと」

 初めて、義姉君が動いた。根がしっかりとした樹木だと思ってしまうほど、義姉君は身動きもしてなかったことに気づいた。

 義姉君が、扇子で口を覆う。

「少しかかり過ぎではなくて?」

 にこりと笑うその顔は仮面のようだ。

「いいえ」

「あら、そう? あちらのお嬢さんの予定だってあるの。私たちは貴方みたいに暇じゃないの」

 義姉君の目が、きゅっと三日月のように持ち上がる。その笑みは、居心地が悪くなる笑みだ。

「もう一度聞くわね。あと何日で出来るの?」

 蛇に睨まれているような感覚に体が震える。

「絵の具が乾く時間も含め、一ヶ月が妥当です」

 ぎゅっと膝の上で手を強く握る。

「それでも、あの方の色を表現するには足りないです。瞳に注目しやすいですが髪の色も紺に見えたり黒に見えたり、複雑です。その分、色の重ねが必要です」

 しっかりと正面を見て、義姉君の目を見る。義姉君の目は、温度がなく何を考えているのかわからない。

「これは、貴女様からの依頼です。本来なら、貴女様に従うべきだとは思います。でも、僕にもちっぽけですが、プライドがあります」

 初めて、義姉君の顔が歪む。だけどそれも一瞬だった。

「そのちっぽけなプライドのために私に待てと?」

「はい」

「面白いことを言うのね」

 心臓が痛い。でも、思ったより清々しい気持ちだ。

「いいですわね。平民は」

 ぼそりとそう言うと扇子を下げ、手に重ねる。

 先ほどまでのと温度を感じない目とは違い、疲れたような瞳で笑う。

「そのちっぽけなプライドに任せますわ」

「ありがとうございます」

 お礼を述べるとばたりと、大きな音を立てて馬車の扉が開く。急に差し込んだ明るい日差しに目が眩む。

 落ち着いてくると、執事さんが立っていた。

 どうやら、話は終わりらしい。

「それじゃあ、ジュリアンさん。一ヶ月後に」

 その言葉を背に馬車を降りた。

 馬車は、土煙を舞わせながら駆け出していった。残された僕は、ヘナヘナと腰が抜けていく。

 初めて、自分のプライドを口にした。それは今まで口にするには、刺々しくっていつも喉奥で引っかかっていたのだ。それが今日はすんなりと口から出せた。

 地面についている、手の側で何かが触れる。その方向を見れば、小さな黄色い花がさわさわと揺れている。地面からしっかりと根が生えているその花は凛々しい。

「頑張ろう」

 あと一ヶ月と宣言したのは自分だ。いい絵を作るにはいくら時間があっても足りない。

 身体を起こして立ち上がった。

 服についた土を払うと、アトリエに帰る。

 アトリエは、薄暗く少しひんやりとしていた。その冷たさが興奮をいくらか落ち着かせてくれる。

 水道に向かい水を小さなコップに注ぐと、先ほどまでいた外にまた出る。コップを片手に、地面に屈む。そして、先ほど見つけた黄色い花の辺りに水を撒く。

 地面にかけた水は、ぐんぐんと花の根っこが吸うだろう。黄色い花びらについた水滴がキラキラと日差しを反射させている。

 

 次の太陽の日、約束通りモリス様はアトリエに訪れた。少しだけ疲れた様子のモリス様を心配しつつ、いつもの定位置になっているイーゼルの前に案内した。

 絵の具を塗り重ねる。下地の色を透かして乗せた色が複雑な色に変化する。そうやって、慣れた手つきで色を塗っているが、頭は目の前にいるモリス様のことを考える。

 今日のモリス様は妙だ。

 何時もなら、絵に関する疑問や取り留めのない会話等を振ってくる。

 しかし、今日は会話が弾まない。

 持っていた筆を置く。

「どうかしたのか?」

 どうやら、僕の異変に気づいたらしい。僕は立ち上がるとモリス様に微笑む。

「今日はここまでにしましょう。あ! そうだ、良いもの貰ったんです」

 椅子に座るように進めると僕は立ち上がり、スケッチした紙の束で溢れている棚に近寄る。僕のような平民には貴重なもので、大事に食べようと思っていたのだ。

「この前のお祭りで、聖火院の皆さんが作っていたのです」

 僕は皿にお菓子を並べる。長方形の焼き菓子が早く食べてと言っているようだ。

「ふふ、蜂蜜がたっぷり入ったヴィデーヌです」

 ことり、とテーブルに置いた菓子をモリス様は見やる。

「美味そうだな。……知っているか。この菓子は近頃、貴族の間だとフィナンシェだと呼ばれているんだ」

 モリス様は目を伏せて菓子を見つめる。

 金塊。確かに形は想像上の金塊に似ている。きっと、貴族にしてみればこれで満足している平民は笑い草なのだろう。

「でも、名前が違っても味に変わりはありませんよ?」

 僕はヴィデーヌを食べる。ふわふわしっとりな生地は少し噛むだけでほろり、と生地が崩れる。貴重なバターと蜂蜜をたっぷりと使われた生地は甘く、疲れが解れていく。

「それもそうだな」

 モリス様はふっと力が抜けたように笑うと、ヴィデーヌを手にする。そのまま、小さく噛む。

「うまいな」

「はい」

 モリス様は元気になったようだ。良かった。

「すまないな。気を遣わせた」

 なんて返そうかと考えているとモリス様が続ける。

「少し、義姉上のことで嫌なことがあってな。鍛錬も我慢しているからか胸の蟠りが取れなくって少し塞ぎ込んでいた」

 義姉上。その言葉にどきり、と心臓が跳ねる。

「この前、義姉上が訪ねてきただろう?」

「はい……」

 まさか、モリス様に触れられるとは思っておらず、申し訳ない気持ちになった。貴族の、しかも、義理の姉君に歯向かったのだ。モリス様としてもいい気持ちではないのかもしれない。

 モリス様は僕の強張った顔に気づいたのかニヤリと笑う。

「私としては、すかっとしたのだ」

 間抜けな声が出てしまった。

「義姉上に喧嘩を売ったのだろう?」

「喧嘩というか。……僕にも画家としてのプライドはありますし」

 モゴモゴと口の中で言葉を転がしながら、反論する。

「ふふ、それが嬉しいのだ。だから、私からも義姉上に頼んでおいた。これで後一ヶ月半程は確実だろう」

 半月も伸びたことに嬉しくなる。

「それだけあれば満足する絵は出来そうか?」

「はい!」

「良かった。私もジュリアンが満足する絵が見たいからな」

 そんな言葉は、初めて言われた。じわじわと顔が熱くるなるのが分かる。

 誰も、僕が満足することなど気にしたことなどなかったから。

「ありがとうございます」

 上手く笑えただろうか。嬉しい気持ちが伝わって欲しい。

 モリス様を見ると微笑んでいる。

「でも、義姉君に何か言われたのでは?」

 嬉しかった気持ちがしょぼくれる。

「あー…、少しばかり八つ当たりをだな」

「八つ当たりってそんな……」

「いや、いつものことだ。ただ、少しばかり心に重りとして残ってしまってな」

 先ほどの微笑みと違って苦笑いの様な笑い方だ。

「あの、モリス様さえ良ければ、モリス様のことを聞かせてください」

 思い返せばいつだってそうだ。モリス様は自分のことを話さず、僕のことばかりだ。

 もし、今モリス様が吐き出して楽になれるなら力になりたい。

「あまり、楽しくない話だぞ?」

「いいんです。モリス様のことを知りたいんです」

 そう言うとモリス様は考えるように視線を辺りに回す。悩んでいる様だ。

 モリス様が切り出すまでは静かにいる。

 どれぐらいの時が経っただろうか、モリス様は、意を決したように僕の顔を真っ直ぐ見つめる。

「長い話をさせてくれ」

「はい」

 モリス様は、恐る恐る口を開き始めた。

「私はケミラ家の次男だ。だが、小さい頃から、兄に何かあった時のスペアとして育てられてきた。兄は病弱だったからな。それを私は当たり前だと思っていた」

 モリス様はそのまま続ける。

「幼い頃から色んなことを学んだ。一を聞けば、五も十も疑問が浮かび質問責めしては先生を困らせていたなぁ」

「その頃から、好奇心旺盛だったんですね」

「そうだな。だが、そのうち兄は健康になり、当主の教育も問題なくできるようになってきた。そうしたら、私の意味は無くなった。なので、次に父に渡された役目は騎士として国の役に立つことだった」

 モリス様は役割を服のように次々と変えていく。

「私は役目をこなせば良かったから楽だった。貴族らしく、騎士らしく振る舞うだけで良かった。そうして私が騎士になった頃、兄の元に見合いが舞い込んできたのは」

 モリス様の眉間に皺がよる。

「肖像画を見て一目惚れした兄は、誰にも渡したくないとすぐに会ってその日に結婚した」

 その言葉に僕も眉間に皺を寄せてしまう。

「義姉上は、何故か私を目の敵にしててな。何かにつけて私に嫌がらせしてくるのだ」

 その言葉に初めて出会った時の冷たさを思い出す。

「だから、あの時……」

「ああ。義姉上の使いと聞いていたからな」

 それを言われて納得した。あの時のモリス様は確かに警戒していた。

「君を巻き込んで絵を描くように頼んだのだって、早く婿に出して兄を抑える役割を無くしたいのだろう」

 はっとする。そうだ、肖像画の依頼の入り口はそこだ。今は理由は違えど、加担しているようで胸がつきん、と痛くなる。

「大丈夫だ。今は君が描きたくて描いているのが分かっている」

 モリス様は柔らかな笑顔を浮かべている。

「だから、会いたくは無かったんだが義姉上が最近、あまり宜しくない噂がある者と会ったと聞いてな。何をしに行ったのか聞きに行ったら、君が反抗したと愚痴られたんだ。それを聞いた時は嬉しくって大笑いしたものさ」

「あまり、くりかえさないでください」

「すまない。……取るに足らない存在だと思っていたら手を噛まれたんだから、面白く無かったんだろうな。そしたら、泣きそうな顔で叫んでな」

 モリス様の笑みが薄くなる。

「『誰もあなたなんて必要ないの! 皆、お利口な人形が欲しいだけ!』と言われてな。納得してしまったんだ」

 そんなことない。そう口にするのは容易い。そのまま、口から出せば良いはずだ。なのに、僕の口は、膠がくっついたように開かない。

「すまない。泣かせる気はなかったんだ」

 僕に触れようと手を伸ばす。モリス様の人差し指が僕の目尻に触れる。どうやら、涙が溜まっていたようだ。

 モリス様は優しく触れる。いつだってモリス様は優しい。けど、その優しさが彼自身を潰している。

 その大きな手に重ねるように指先で触れる。

「モリス様、好きなものは? 夢は?」

「夢、か」

「何でも良いんです。美味しいものいっぱい食べたいとか有名になりたいとか」

 今、ここにいるのは「貴方」だ。

「……小さい頃は、教師になりたかったな」

「教師。知識が豊富なモリス様にあってます」

 あの山で野花について教えてくれた横顔が思い浮かぶ。

「ありがとう。でも、そうだった。あの頃は、色々知っている教師がかっこよかった」

「モリス先生だったら生徒の目線で教えてくれるかも」

「そうだな。私の先生もそうだった。知識を詰め込むだけではなくって考えることも教えてくれた」

「じゃあ、そういう先生を目指しましょう。どこかの街でやんちゃな生徒に囲まれているんです」

「教えるのに手を焼きそうだ」

 いつかどこかであったかも知れない道を夢想しては笑い合った。

 頬に添えられた手が離れていく。

 モリス様の顔は晴々としている。

「ありがとう。呼吸がしやすくなった」

「いえいえ、何もしていないですよ」

「ジュリアンの小さい頃の夢は?」

 突拍子もない返しに驚く。

「私ばかり語るのはフェアじゃないだろう」

 少し気恥ずかしそうなモリス様になんとも言えない気持ちが湧いた。

「そうは言っても面白くないですよ?」

「いいんだ。君のことが知りたい」

 その言葉にどきり、としたが素直に言うには少し恥ずかしく、照れ隠しで少し唇を尖らせた。

「幼少期から画家になりたかったんです。花を何時間も見て、その花を紙の上で再現するのが好きだったんです」

「ははは。今のジュリアンそのままだ」

「そうですね。昔から変わりません」

 それから、互いに一つずつ質問しては答えていくことを繰り返していった。

 モリス様のことを一つ知っていく度に彼が近く感じていく。そうやって遊んでいると気づけば、太陽は沈みかけてアトリエの中がオレンジ色に染まっている。

「もう、そんな時間か」

「いつもよりあっという間でした」

 モリス様はいつも通りのようで良かった。安心した気持ちになっているとモリス様が立ち上がり帰る準備をし始めた。

 僕も、その間に広げっぱなしにしていた絵の具を片付ける。

 少しだけそうやって互いに片付けや準備を済ませると、向き合う。

「来週はこれそうだ。また頼む」

「はい。こちらこそ宜しくお願いします。あ、でも無理しちゃだめですよ」

「ああ。なるべくしないようにしよう」

 そう言葉を交わすと、玄関までモリス様を見送る。二人分の足音が狭いアトリエに響く。

 扉を開けると綺麗なオレンジ色が道に広がっている。

「それじゃあ、気をつけて」

「ああ」

 モリス様が一歩、二歩と歩き出して止まった。そのまま、くるりと体をこちらに向けるといつかみた迷子の子供のような顔をしている。

「その、また今日みたいに話してもいいだろうか?」

 答えなんて決まっている。

「勿論。とても楽しかったですし」

 その一言で、モリス様は嬉しそうに笑った。

「ありがとう」

 そう言うとモリス様は体の位置を変え、道を進んでいく。その背中はしゃんと伸びている。

 モリス様が見えなくなるまで、外で見送ると僕はアトリエに戻った。

 先ほどまで座っていた椅子に腰掛けると、正面を向く。もうモリス様は帰ったのに、残り香のシダーウッドが薫ってまだモリス様がいるようだ。

 今日、モリス様の色んな面を知った。だけど、あの人のことを知れたのと同時に僕自身もモリス様に貴族としての役割を押し付けていたことに胸が痛んだ。

 でも、もうモリス様を貴族のモリス様として見れない。

 もう、僕の中ではモリス様は「モリス様」だ。

 触れられた頬に甘い熱がまだ残っていた。

 

 5

「すまない。当分、太陽の日に来れなくなりそうだ」

 締切まであと半分ほどになった頃、モリス様からそう申し出された。でも、さほど驚かなかった。

「やはり……魔獣の件ですか?」

 最近、この街でも微かに囁かれている魔獣増加の噂。それだけ増えているなら騎士なら大忙しにもなるだろう。

「やはり、聞いていたか」

「はい。……それのせいか、街も元気が無くって」

 この街は、観光地ほど盛えて居ないが、それでも人はいた。家を出て歩けば、黄色の小麦畑に囲まれた道で誰かとすれ違えた。

 だけど。、最近では黄色かった小麦は枯れ、人々が住めない土地へとなり始めていた。街の人々も段々ともっと盛えている城下の方へと引っ越してしまっている。

 それだけではない。強盗や物乞いも増えてきている。塞いでいた穴から水が溢れる様に少しずつこの国の空気が澱んでいる。

 僕が苦笑いを浮かべると、モリス様も同じように困ったような顔で笑っている。

「それは、寂しいな」

「ええ。美味しいパン屋さんも閉まっちゃいました。なんでも、隣の国に逃げるそうで」

 そこまで言ってハッとする。こういうのは言わないほうが良かったのでは。

「まぁ、ここまで治安が変わってしまったら逃げたくもなるだろうな」

 どうやら、気にしすぎだったようだ。僕はほっと一安心した。

「ですね」

「君は?」

 質問の意図が分からず、上擦った声で返事をしてしまった。

「君は引っ越さないのか?」

 色んな疑問が、脳で浮かんでは消える。勿論、これ以上治安が悪くなるなら考えなくてはいけないだろう。

 でも——。

「僕はこの街が好きです。なので、ここにいます」

 生まれ育ったこの街が好きだ。だから、ここにいたい。それに、ここは変わらないはずだから。

「そうか」

 モリス様は何度か口を開いては閉じ、その一言だけを告げた。

 なんとなく、それからお互い口を開けずに閉じてしまった。

 無心で手を動かしたからか、なんとか完成まで後もう一歩まで近づけられた。

 帰り際、モリス様が肖像画を眺めている。

「すごいな。後、目を入れたら完成じゃないか?」

「そうですね。まだまだ塗り込まないといけない箇所とかあるのですが、もう少しで完成です」

「そうか、そうしたらこの時間も終わりだな」

 ちくちく、と針で胸を刺されたような痛みが走る。そうだ、忘れかけていたがモリス様とはこの肖像画が完成したら今みたいに気軽に会えなくなるんだ。

「そう、ですね」

 僕は、口の端を持ち上げて笑った。

 

 ふわりと吹く風がまつ毛を揺らす感覚がする。僕はアトリエで目を覚ました。あの後、肖像画を進めようと思ったが気乗りせず、只管紙に描きたい構図のアイデアを書き残していた。

 地べたに座りながら、肖像画を見る。

 肖像画を眺めていると、至らない部分が見えてきた。気分が乗らないが、締切もある。何より完成した絵をモリス様に見せたい。

 一つため息を吐き出すと勢いをつけて立ち上がる。そのまま、体をがむしゃらに動かすと体が軽くなった。

 そのまま、しまった絵の具や筆など道具を取り出すとイーゼルの前にある椅子に腰掛ける。

 描きかけの肖像画を見つつ、昨日のモリス様を思い浮かべる。少し髪の艶を足そうか。うーん、うーんと唸りながら考えていると色んな工程を試したくなる。それは新しいことにチャレンジしたいと言うより、工程を増やしたくなってきた。

 きっとその気持ちは、もっと良い絵にしたいという気持ちが先走っているのだろう。

 先ほど考えた通り、髪の光に水色を足す。

 ふわり、とそばに置いてた木炭の香りがする。その香りはモリス様が纏っているシダーウッドの香りに似ている。

『ほう。確かに綺麗だ』

 その香りのせいか耳の奥から心地いい声が聞こえる。その言葉はいつかの時に描きかけの肖像画を見た時に言われた言葉だ。

『何故、水色を?』

 モリス様は、そういう疑問をすぐに口にしてくれる。だから僕も真っ直ぐ僕が知っている知識や技術で答えていた。その時の疑問も髪の艶に水色を使ったことだ。

 なんと答えたか。その時のことを思い出そうと動かしていた手を止めた。

 確か、モリス様の黒髪を太陽の光に透かしたらそんな色だからと答えた気がする。その答えを聞いてモリス様が満足そうに頷くともう一度モデルに戻った。

 その時も今みたいに、僕は思わず笑ってしまった。だって、その時のモリス様の顔が子供のように満足げだったから。

 少し心が軽くなった。筆をもう一度動かしていく。

 ペタペタと、筆を動かして色を重ねていく。

 そこで足りない色を見つけ、絵の具を箱の中から取り出す。ふと、手にしたその色はモリス様が好きだと言っていた色だった。

 この色は手作りで、虫を使ったと言った時のモリス様の絶句した表情は面白かった。その後、少し挙動不審になっていたのも笑ってしまった。どうやら、虫が苦手らしかった。そこから幼少期に虫取りの経験の話をしたりして、楽しかった。

 モリス様がまさか虫が苦手だなんて思わず可愛いと思ってしまったのは内緒だ。

 心がふわり、と浮く。

 微笑みながら手にした色を、箱の中に戻すと目当ての色を探し出した。その色を、パレットに出すと塗っていく。

 何かが足りない。

 一度、立ち上がりキャンバス全体を見る。そうすると、違和感に気づいた。その場所を修正しようと席に座ろうとして足を止める。

 いつもは、イーゼルの向こう側にモリス様は立っている。モリス様は目が合うといつも笑っている。その笑顔を見ると、僕も笑顔になれる。

 何故だろう。僕にとってモリス様はなんだろう。そもそも、僕ら二人の関係性は何だ。

 ふと動きを止め、考える。何となくそれが引っかかった。

 傍目からみたらただの、貴族と平民。僕だって最初はそう思っていた。だって苦手な貴族だ。僕みたいな平民の首なんて相手の機嫌一つで決まる。

 でも、モリス様のおかげでモリス様みたいな貴族がいることも知って、苦手意識は減った。

 最初は背中ばかり見ていた。隣に立つのは恐れ多かったからだ。それが、山の一件でその考えも変わった。心の中にあった怯えがモリス様の前では必要無くって自然に隣に並べた。

 モリス様の人間らしいところを知ったからかもしれない。モリス様も血を流す人間だった。

 いや、それよりずっと後に本当に理解したのかも。

 モリス様は人から役割を押し付けられてきて、それを重責だと思わない精神の構造をしてしまった為、今でも色んな役割を押し付けられている。

 その、重責は人一人を簡単に潰してしまう。僕だったらすぐに投げ捨ててしまうだろう。だけどモリス様はそれを人生の長さ分背負っているんだ。

 そこまで考えて、頭を振る。思考が遠くの方へと行ってしまった。僕は目の前の現実に戻って席に座り、気になった箇所を修正する。

 ペタペタ。絵筆を無心で動かしていった。

 残す箇所は瞳だけだった。今日塗って乾かせば次に会うときまでには完成するだろう。

 ふと、今ごろ魔獣と戦っているかもしれないモリス様のことを考える。

 山の事件の時には爪が掠っただけで結構な出血をしていた。あの魔獣のように大きな個体は居るのだろうか。そもそも、怪我は良くなったのだろうか。

 考え出すと、不安のせいか心臓がどくんどくん、と早鐘を打つ。全身に表現し難い緊張が走る。

 心を落ち着かせるために筆をとり、ミステの花から作った絵の具で筆先を染める。そのまま、瞳に色を載せようとするが、手が止まる。

 このまま、塗って良いのだろうかと考えあぐね。手が動かない。

 ぽたりと、絵の具が床に垂れた。

 僕はこの瞳を塗れない。だって、この瞳に色を塗って仕舞えば僕はもう、必要ない。

 モリス様に会えないんだ。

 僕は、筆を持っていた腕をゆっくりと下す。まるで糸が切られた操り人形のように力を無くして全身が丸くなる。

 次第に乾いた笑いが込み上げてきた。椅子ごと横に倒れる。勢いよく倒れたからか、少しだけ体が痛んだ。でも、それすら気にならない。

 ぼーっと床を見ると、開いた窓から風が吹く。その風と遊ぶようにふわりふわりと黄色い花びらが舞って僕の目の前に落ちてきた。

 そうか花が咲いたんだ。

 なんて切なくって、なんて身の程知らずなのだろう。

 気恥ずかしさで顔が赤くなる。

 身悶えながら体を起こすとイーゼルに飾ってあるモリス様の肖像画が視界に入る。その絵に触れようとするが、先ほどまで塗っていた為触れることができない。

 触れたら、絵の具が崩れて色が混ざり汚くなる。それはまるで現実のようだった。どこかで気づかないように無視していたのに、気づいてしまった。僕は、この絵を完成させたくない。

 だってこの絵は見合いの為のものなんだから。

「嫌だ」

 体をそのまま脱力させる。

 机から離れたのにシダーウッドの香りがする。まるで、目を逸らすなと叱責されてているようだ。

「無理ですよ、モリス様。僕は貴方のように真っ直ぐ自分の感情と向き合えない」

 じわりと涙が滲む。

 誰かのものになる姿を見たくないだなんて、なんてわがままだろうか。

 肖像画の依頼など受けなければ良かった。モリス様が嫌な人だったら良かった。

 そうすれば、自分の醜さに向き合わなくて良かったのに。いくつもの現実と違えば良かったもしもが浮かんでは涙と共に流れていく。

 そうやって過去をいくつものもしもで否定しているとモリス様の顔が浮かぶ。

 汽車に乗った時のわくわくした顔。

 少し疲れたような顔。

 僕の言葉に笑った顔。

 あの時、モリス様はこの絵が完成することを望んでいた。

 望んでくれる人がいるなら描きたい。

 この絵は自信がない僕が持つプライドだ。それすら捨ててしまったら誰が僕の絵を見てくれるんだ。

 画家のプライドを持ってこの絵を完成させる。

 涙を乱暴に拭うと落としてしまった筆を拾う。そして、倒れた椅子を起こして、座り直す。パレットに二人で採ったミステの花の水色を塗る。黄色で下塗りしているキャンバスの上で理想の緑色になった。

 それはモリス様の瞳のように力強い。

 キャンバスを見れば、モリス様が立っているようだ。

 頭の中ではいくつもの後悔が浮かんでくる。でもそれを一つずつどんなに否定しても、僕はこの出会いを嬉しく思ってしまっている。

「完成、しちゃった」

 目の前が滲む。まだ、涙は止まらない。でも、どこか清々しい気持ちでもある。

 この絵を見たご令嬢はどんな反応をするんだろうか。きっとかっこよくって、一目惚れしちゃうんだ。かっこいいからね。

 モリス様は実際に会ったらどんな反応するんだろう。ぎこちなく話始めるのかな。それとも僕と会った時のように固い態度なのだろうか。

 そのうち、僕と喋ってる時みたいにワクワクした顔や笑顔を見せるんだ。

 でも、僕はそのことを知ることは一生ない。絵が完成した今、もうモリス様と僕の関係は終わるから。

 モリス様の笑顔も、優しさも僕のものだけにはならない。

 だから、今日ぐらいはいっぱい泣こう。そして、また今度会う時に笑顔で終わらせよう。


 6

 あれから、いっぱい泣いた。そして疲れて気づけば寝てしまった。起きたら、また少し涙がこぼれた。

 そうやって僕が水の塊だと分かるまで泣いたらやっとスッキリした。

 気づけば、太陽の日だ。

 騒がしい心臓の音を抑えながら、モリス様を待つ。しかし、昼を過ぎてもモリス様は現れなかった。

 

 それから、次の約束の日も過ぎ、気づけば締切はもう目の前だ。その間、モリス様は一度も訪ねてこなかった。

 しかしそれも納得だ。この一月の間、国は良くなるどころかどんどん悪い方向へと向かっていっている。

 街の人から聞いた話だがじわじわと端の街から治安が悪くなっていったらしく、もう国境では魔獣を恐れ人が居なくなっているらしい。そして気づけば城下に近いこの町でも魔獣が沢山、見かけられている。

 もう何人も引っ越すのを見送った。それも仕方ない。こんな危険な街に居続けることは出来ない。活気は収まり嫌な静けさが町全体を覆っていた。

 僕は、変わらず絵を描いている。モリス様の肖像画は乾いていつでも渡せる。その際に笑顔で渡せるように笑顔の練習もしている。

 そういえば、魔獣が街中で現れた事件の時に、遠目だけどモリス様を見かけた。忙しいからか、髪の艶が少しだけ燻んでいた。でも、相変わらず瞳は力強く前を見据えていた。その瞳を見たら、何も言えなくって背中を向けて逃げ出していた。

 覚悟を決めているつもりでも、実際は決まってなかったらしい。

 はぁ、と大きな溜息をつくと、スープに刻んだにんじんの葉を入れる。その葉は萎れているがスープに入れたら問題ないだろう。

 少し煮込むと、スープを器に注ぎ、別の器に小さなパンを乗せる。魔獣の影響が食事にも及び始めている。

 それでも何とか食べれることに感謝しながら、食事の挨拶を済ませた。スープに口をつける。色んな野菜の風味がスープに溶けていて美味しい。

 前より小さい黒パンを千切ってスープに漬けると、いつもより良く噛む。

 腹が膨れて、満腹感に息を吐き出すと皿をささっと洗って干す。

 もう夜だが、まだ眠気は来ない。それならば、と自宅を飛び出して隣のアトリエに向かった。

 蝋燭の微かな光でアトリエ内を照らすと、いつもの定位置に腰を下ろす。風景画でも描こうかと前にスケッチした絵をキャンバスに写していく。

 木炭の馴染みのある匂いがアトリエ内に広がり始めた。

 それから無心で描いていく。

 ある程度、下書きを終えた頃微かにドアがノックされる音が聞こえた。こんな夜更けに訪ねてくる人など僕の周りに思い浮かばず、最悪の想像をしてしまう。

「すまない、私だ。モリスだ」

 その声にどきり、と心臓が跳ねる。久々のモリス様の声に心臓が高鳴るのを抑えられない。

「モリス様ですか」

「ああ、そうだ」

 パタパタと駆け足でドアに向かう。

 ぎぃ、と古びた木の音を立てながらドアを開けると、街中で見かけた時と変わらないモリス様が立っていた。

「夜分遅くにすまない。本来なら朝に訪ねるべきなんだが、火急の用が出来たためにこんな時間に……」

「火急の用、ですか?」

「ああ、出来れば今すぐに荷物を纏めて欲しい」

 背筋に冷たいものが這う。今更、義姉君の気が変わったのだろうか。それで、重たい罪に問われたのか。そう考えていると、モリス様は真剣な面持ちのままそれを否定した。

「義姉上から何か言われたわけではないんだ。今、この国ではクーデターが起きようとしている」

 現実はそれよりももっと重たいものだった。モリス様が心痛な面持ちで視線を泳がせる。そして、覚悟が決まったように重々しく口を開いた。

「ここ最近、このあたりにも魔獣が現れるようになったが、国境ではもっと前から出現していた。しかし、国の対策は後手に回り魔獣を制圧できていない」

 噂では聞いていた。

「その間どうして居たかと言えば、領ごとの判断で対策は任されていた。結果、魔獣対策の為という口実で税金を重くしていたりした」

「そんな……」

「私たちは、無関心すぎた。その怒りは、とうとうこの国にクーデターという形で返ってきた」

 言葉が出ない。ついこの前まで幸せだったのに。でも、それも誰かの苦しみの上にできていた。それを忘れていたんだ。

 モリス様は少しだけ声音を柔らかくする。

「だから、君にはここから逃げ出してほしい」

 優しく諭すような言い方。その言葉に今までこのアトリエで過ごした思い出や街の記憶が思い出される。残りたい。

「わかりました。纏めてきます」

 でも、僕の口から出たのは別の言葉だった。とりあえず、このアトリエにある必要なものを纏めようと画材置き場に向かう。

 絵の具を取り出しているとふと、手が止まる。

「あの、モリス様」

「どうした?」

「モリス様も勿論、逃げますよね」

 声が震える。

 モリス様が、困ったように笑った。

「怖くないんですか? 死ぬかもしれないんですよ」

「元より、死ぬ覚悟は出来ている。それに、少しだが逃げずに残ってくれた奴らもいるしな」

「だったら、僕も残ります」

「ダメだ。君は逃げなさい」

 頭が熱いスープのようにグツグツと煮立つ。

「何故ですか。ここに居るのは僕の勝手です」

「平民の避難は騎士の仕事だ。避難するように手配するのだって私の仕事だ」

「なら、他の人の所に行ってください。僕は残ります」

「そうは行かないだろう。君が逃げてくれなければ……意味がない」

「何ですか、意味って。騎士としてですか? そうやってまた役割に従って何も考えないで楽をするんですか」

「そうは言っていない」

 モリス様の眉間に皺がより険しい顔になる。霞む視界でもそれが見えた。

「少し落ち着きなさい。何故、そんなに頑なななんだ。今日の君は変だぞ」

 その言葉に耐えていた涙が溢れ始める。

「当たり前じゃないですか。簡単に命を捨てようとしている人に怒ってるんですから」

 ポロポロと涙が頬を伝うのが分かる。頭もぐちゃぐちゃで言っている事もあやふやだ。でも、話さなくちゃ。

「モリス様が死ぬのが嫌なんです。しかも、その理由が騎士が国のために死ぬという美談の役割の為。そんなのあんまりじゃないですか」

 鼻が詰まる。ヒグヒグと子供のように泣きじゃくってしまった。

「なら、汽車に乗ってはしゃいでたモリス様は? 教師になりたかったモリス様はどうなるんですか? それすら、役割の為なら捨てるんですか」

 それでも、モリス様に向かって大声で叫ぶ。

「それなら、そんな役割捨ててしまえ!」

 悲しかった。役割の為なら自分の命すら捨ててしまうこの人の性が。キッと睨みながらモリス様を見れば、平行の眉を八の字に下げ、迷子の子の様に微笑んでいる。

「君はそういう子だったな」

 モリス様は嬉しそうな声を出す。

「私は役割をこなせれば良かったんだよ。それが楽でみんなから褒められるから。……でも、君と会ってそれが変わってしまった」

 モリス様が、僕の涙を拭う。

「騎士としての役割を初めて自分の為に使った。本来ならもう少し後に知ることを君に知らせてしまった。本来なら懲戒ものだぞ」

 モリス様が、僕の背中に優しく手を回して、抱き寄せる。モリス様がつけているシダーウッドが強く香る。

「それでも、君に伝えたかった。ジュリアンに生きて欲しいから」

「なら、僕の気持ちも分かってください」

「難しいなぁ」

「何でですか。モリス様なら生き残れます」

「無茶を言うな」

 モリス様の心臓の音が聞こえるようだ。ドクンドクンと力強く働いている。

「なぁ、ジュリアン。君だけだったんだよ。『私』を求めてくれたのは。だから、私は君を——」

 その先を言わせないように唇を重ねる。どこも美しいモリス様の唇は案外かさついていて、人間らしいところをまた一つ見つけた。

「駄目です。まだ聞きません」

「……何故?」

「だって、言ったらモリス様は満足するじゃゃないですか。だから、駄目です」

「もう会えないかもしれないんだぞ?」

「駄目です。言いたいなら、生きると約束してください」

「君はこんなに頑固だったのか」

「頑固になったんです。貴方のせいです」

 貴方に会わなかったらきっと、こんなにも泣きじゃくることも譲れないものがあることをしることもなかった。

 モリス様の顔を見る。煌めく黒髪に、黄金比のバランスのパーツ。何より新緑のように力強い緑の瞳を忘れないように脳に焼き付ける。

「絶対忘れませんから。生きてまた会うんです」

「……頑張るよ」

 やっとしてくれた肯定に僕は鼻水を垂らしながら微笑んだ。袖口で涙やら色んなものを拭うとモリス様から離れて、必要なものを詰め始める。

 色んな鞄に荷物を詰め終わるまで僕たちは黙っていた。色んな会話を思い出してまた泣きそうになる。バレないように涙を拭うとモリス様の方を向く。

「じゃあ、迎えにきてくださいね」

「ああ。会いにいくよ」

 お互いに笑顔を浮かべる。

 モリス様の横を通り抜けて外に出た。

 

 7

 何処へ行こうか決まってはいないけど、なるべく遠くへ向かう方がいいのかもしれない。

 取りあえずで一番早い汽車にした。切符を確認すれば、どうやら西の方へと向かうらしい。夏の頃にミステの花を摘んだ山の辺りも通る。

 そこで降りることにした。

 ガタゴトガタゴトと揺られていると、いつの間にか少し寝てしまっていた。気づけば、朝日が登り始めている。

 生まれ変わった朝日は前見た時と変わらずだった。

 外を眺めているといつの間にか、辿り着いていた。大荷物を抱え、汽車を降りる。

 さて、どうしようかと悩んで直ぐに答えを出した。取りあえず、宿で当分は過ごそう。

 宿屋が集まっている区域へと向かう。

 街を歩いていると前に来た時より活気がない。色とりどりの看板も、原色のような鮮やかなフルーツもキラキラ輝く鮮魚も何処かに行ってしまった。

 その時漸くこの国を覆う暗闇をしっかりと見た。

 唇を一文字に固く結び、街を歩く。

 僕と同じような考えが多いのか、宿屋は多くが満室で、唯一空いていたのは隅の方にある寂れた宿屋だ。

 部屋に入ると、微かに埃っぽい。壁も薄いのか隣の客人の怒声も聞こえる。

「よいしょ」

 取りあえず、持っていた荷物を下ろすと中から絵の具と白いキャンバスを取り出す。もう描くものは決まっている。

 本当はあの肖像画も持ってきたかったけど、置いてきた。新しく描きたいからちょうど良かったかもしれない。

 モリス様が生きると言ってくれたんだから、僕も頑張らないと。これから、争いで絵なんて気にすることなんて出来ない人が増える。それでも、僕はモリス様を描き続ける。

 ああ、そうだ。それなら、僕が描く絵にモリス様を描こう。風景画なら、僕がいる場所も伝わりやすい。

 何より、僕があの人を忘れないように。

 そうと決まれば、先ずはこの部屋から描いてみよう。僕は、真っ白のキャンバスに筆を滑らせた。

 

 この街で暮らして早くも五年が経つ。その間に色んなことがあった。

 クーデターはその後、すぐに起きた。争いは、あっという間に国中に広がり、色んなものを壊し、略奪し、すぐに鎮圧された。

 どちらというとその後の方が大変。今もまだ街は完全に復興していない。僕も、手伝いで瓦礫を撤去したりしていた。

 でも、その甲斐あってか街の人たちにも信頼されて、あのミステの花の山の側に家を貰った。今でもその山の側で絵を描いている。

 あの別れた日から一度もモリス様の話は聞いていない。死んでいるのかも定かではない。それでも、僕はあの約束を信じてモリス様の絵を描いている。

 春らしい柔らかい木漏れ日を浴びながらそんなことを考えて筆を動かす。

 誰かが土を踏み締める音が聞こえる。春になったから山菜でも取りに来たのかもしれない。

「すまない。画家のジュリアンだろうか」

 その声に涙が溢れる。音の方を振り返りたいのに、体が震えて上手く歩けない。ゆっくりといつもの倍の時間を掛けて振り返る。

 そこには杖をついた一人の青年が立っていた。煌めく黒髪に、片方だけ力強い緑の瞳が覗いている。

「数年前に肖像画を描いてもらったんだが、この通り片目を失ってな。描き直して欲しいんだ」

 そう言ってモリス様は微笑んでいる。

 僕は駆け寄って、モリス様に抱きついた。モリス様は僕のことを抱えきれず、二人して地面に倒れ込んだ。

 ボロボロと涙が溢れる。モリス様と出会って知ったけど僕はどうも泣き虫みたいだ。

「待たせてすまない」

 そう謝って抱きしめてくる。そんなことないと否定したいのに言葉が出ず、ぶんぶんと首を横に振るだけだ。

「あの後、色々あってな。クーデター側の中枢に義姉上や兄上がいて、二人は処刑された。その上で、家も爵位剥奪だ」

 さらりとあの義姉君が亡くなったことを告げられてどきりとする。

「俺も、この通り片目を失い、足に後遺症が残ってしまってな。貴族の俺は綺麗さっぱりと何もかも無くしてしまった。でも、生きている」

 こくこくと頷く。

「なぁ、ジュリアン。こんな何もないただのモリスでも……言ってもいいだろうか」

「勿論です。貴方がいいんです」

 顔を上げて、モリス様を見る。その顔は嬉しそうだ。

「ジュリアン、俺は君が好きだよ」

「僕も、貴方を愛しています」

 

 8

 ふぅ、と一息ついた。少しばかり長いお話に疲れたが少し下にあるきらきら輝く瞳に僕は少しの満足感と多くのこそばゆさを抱く。

 何も言わなかった少女達のうちの一人がほう、と酔いしれたような息を吐いた。

「素敵よ、素敵すぎるわ! 先生とジュリアンさんの恋物語!」

 それがきっかけになったのか一人がそう声を大にして言い出すと皆は一斉におしゃべりを始めた。

「み、皆、落ち着いて」

 学校が終わったとはいえ、こんなに騒がしいのは他の先生方の迷惑になってしまう。僕が慌てて、皆を落ち着かせようとするが逆効果らしく、皆が興奮して話しかけてくる。

 意味も無く手で制してみるが、意味がない。どうしようかと考えていると後ろから大きな笑い声が聞こえてきた。

 その声に安心感や恥ずかしさやらが込み上げてくる。

「……モリス先生」

 後ろを振り返るといまだに笑っているモリス様——今はモリス先生だ。——が立っていた。

「すまない。そんな拗ねないでくれ」

「あ、モリス先生だー!」

 周りにいた子供達もモリス様に気づいたらしく、モリス様の元へと駆け寄っていく。

「皆残って、どうしたんだ? もう暗くなるぞ」

 モリス様は、飴色の杖を持っている手とは逆の手で子供達の丸い頭を撫でている。

「モリス先生がくるまで、ジュリアンさんを守っていたのー」

「お礼に素敵な二人の恋物語を聞いていたの!」

 素敵だと言われると少しだけ気恥ずかしい。それはモリス様も同じなのか、白い眦が少しだけ赤くなる。

「そ、そうか。何だか恥ずかしいな」

「あ、先生も照れてるー」

「そりゃあ、先生だって恥ずかしいよ」

「からかったらだめだよ」

 子供達がわいわいと元気にはしゃいでいる。

 モリス様が軽く咳払いをすると、子供達に聞かせるように腰に手を当てた。

「ジュリアンを守ってくれてありがとう。お陰で一緒に帰れる。さぁ、君たちもお家に帰ろう。親御さんが心配する」

「はーい。モリス先生、ジュリアンさん。さよーならー」

 子供達は、僕たちに背を向けるときゃあきゃあ、はしゃぎながら駆け出して行った。

「僕たちも帰りましょうか」

「そうだな」

 モリス様の失った片目側に立ち、手を繋ぐ。ふわり、とモリス様から香りが漂う。それは、インクと微かなチョークの香りだった。

 

 空にオレンジ色と紺色が混ざり合う頃、街は、黄色の灯で照らされていて、夜なのに心があったかくなる。

「皆、可愛かったですね」

「そうだな。だけど、授業中も騒いでしまって困る」

 そう言いながら笑うモリス様は何処か幸せそうだ。

「ふふ。モリス様、先生っぽいです。最初はあんなに怯えていたのに」

 初めて、教壇に立つ日、モリス様は怯えていた。「この顔だから怯えさせてしまったらどうすれば良い」と悩んで家の中をウロウロと歩き回っていた。

「モリス様?」

 少し前のことを思い返しているとモリス様の足が止まったことに気づく。傷跡が痛むのだろうかと見上げれば、モリス様は少し困ったような顔で僕を見ていた。

「癖は抜けないな」

 その一言で分かった。

「モリス、さん」

「どうした? ジュリアン」

 敬称が違うだけでどうしてこんなにもモリスさんを近くに感じるんだろう。その距離に慣れなくって呼ぶときにまだ心臓が騒ぐ。

「モリスさん」

 もう一度呼ぶ。どうかこの心臓の騒がしさが伝わればいいと祈りを込めて。モリスさんの視線は僕を見ている。何かを覚悟しているその新緑の様な強い瞳が、僕を見つめている。

「なぁ、ジュリアン。今度、兄上と義姉上の墓参りに行かないか」

「墓参りですか? ですが……」

「ああ、兄上達は貴族の墓には入れない。だけど、共同墓地には埋葬されているはずだ」

 僕は、繋いでる手を強く握った。

「最近、思う様になったんだ。何者でもないモリスとしてこの街で暮らして、君の隣で寝る様になって初めて、あの人達も俺と同じだったんじゃないかって」

「同じ……?」

「そうだ。義姉上も役割に縛られていたのかもしれない。平民だって貴族からしたら物だが、貴族はより上の貴族からは物としか見られてない」

 モリス様の声は小さいのにはっきりと聞こえる。

「気づけないだけで案外そういうものなのかもな。だから抜け出したかったんだろう」

「でも、あの人達はやり方を間違えました」

 僕は思わず視線を下げてしまった。

「ああ。だから、気づけなかった謝罪と俺は自分で選ぶ誓いをしたいんだ」

 モリスさんの大きな手が僕の顎を掬う。下がった視線が合う。

「俺は生涯、ジュリアンの隣にいる役割を選ぶ」

 プロポーズの様な言葉に恥ずかしさと少しの苛立ちを覚えた。僕は少し背伸びをして、モリスさんの唇に触れた。

「役割じゃないです。愛しているからいて欲しいんです」

 モリスさんは少しきょとんとしてから、泣きそうな顔で笑った。

「そうだな。愛しているからいるんだ」

 僕たちは、もう一度見つめ合うと唇を重ねた。

 お酒の匂いや、肉を焼く音。楽しく話す声がこの街に溢れてる。

 今日も明日も、僕らはここで生きていく。

 隣に並んで手を繋いで、同じ速度で。

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